ソ連のスパイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:43 UTC 版)
1954年の「ラストボロフ事件」の際、ソビエト連邦代表部二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが亡命先のアメリカのCIAでの証言において、瀬島を含む11人に「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」と証言した(ほかには朝枝繁春、志位正二、種村佐孝、平沢道則などの名前が挙げられた)。 内閣安全保障室長の佐々淳行も、瀬島が伊藤忠の平社員時代からラストボロフ事件に関与しており、その後の中曽根政権時代の東芝機械ココム違反事件に至るまで関与していたと証言している。なおこのラストヴォロフのCIAでの証言はアメリカやイギリスなど西側諸国でも報道され、日本でもこの事件以降、瀬島を「かくれ共産主義者で、ソ連工作員」とみなす論が松本清張 はじめ多数ある。 また「ワールド・インテリジェンス」誌の黒井文太郎は、コードネーム「クラスノフ」はKGB正式エージェントであるが「実名不記載。著名な財界人」として瀬島とは特定していないとしている。 また、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している。國民新聞社の山田惠久によれば、1979年10月にレフチェンコ事件に関する記事によれば、レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコと瀬島が深い仲だと証言している。
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