場所の記憶から建築を考える――パリを拠点に活躍する建築家、田根剛さんが国内外で手がけるプロジェクトは、いずれもその場に堆積する歴史や人の行為、思いを見つめ、そこでしか生まれない建築を模索するものです。その彼が敬愛するデザイナーとして、倉俣史朗の名を挙げます。
1991年に56歳で急逝した倉俣は、いまなお伝説的なデザイナーとして世界的に評価される人物です。自らのデザインを「幕間劇(長い劇の合間に行われる本編と関係のない小喜劇)」と表現し、夢のように儚くも美しい世界を空間やプロダクトデザインに持ち込みました。しかしそのデザインは一見すると田根さんの建築から遠く離れた存在のようにも思えます。なぜ田根さんは倉俣に魅了されるのでしょうか。
田根さんが倉俣を知ったのはスウェーデンに留学していた学生時代のこと。海外で建築を学びながら、日本の建築やデザインを外から見ていた時期でもありました。椅子をつくる授業のために図書館でリサーチをするなかで見つけたのが、1996年に原美術館で行われた「倉俣史朗の世界」展の図録、そして倉俣を特集するデザイン誌『AXIS』だったといいます。「実を言うと、デザインよりも先に倉俣さんの語る言葉に惚れ込んだんです」と、田根さんは振り返ります。
意識下に沈殿している記憶、印象の強かった文学、音楽・映画・いろいろのもの、あるいは言語の断片、映画のワンシーン、いろんなものが、何かを中心に惑星のようにぐるぐるといつも頭の中で廻っていますね。チョットした匂いが急に時間を越えて数十年前の記憶を瞬間的に引出したり、誰でもあることだと思いますけど……。その惑星のスピードが何かを感じた時、急にスピードを上げ瞬間的に形になっていくような気がします。ただ、それを無意識でやっている時の方がいいようです。というのは、へたに意識操作すると面白くないですね。
『WAVY』(ヤマギワエイチアンドエフ)14号(1989年7月号)より
私の発想法としてふたつある。その一つは、ゼロからの発想であり、そのものに纏わりついている諸々のものを取り除き、ゼロから見直すことである。もう一つは逆に何故?という単純な疑問からとらえること。凡そその二つを基点としてスタートするが、これは私の知識の低さを補い、しかも猜疑心によってあらためてそのものの持つ本質的な意味を理解する助力になり、偏見の矯正にもなる。
『ジャパンインテリア』(インテリア出版)1973年6月号・新宿タカノの記事より
アイデアをためて使おうとするとダメですね。1回ごとに全部出し切っちゃわないと、自分をリフレッシュできない。今度これ、いつか使おうと、とっておくと腐っちゃう。
『ドリブ』(青人社)1986年8月号・赤瀬川原平との対談より
これらは田根さんが選んだ倉俣の言葉です。
「情報が溢れかえり、言葉が溢れる時代において、倉俣さんの言葉は僕にとって他にはない多くの示唆を与えてくれます。仮に同じ言葉であっても、それを発する人によって意味は大きく異なるもの。倉俣さんが語った言葉は他の誰でもない倉俣さんが語るから意味がある。そこには魔法がかかっているんです」
田根さんはその言葉がこれまで時に指針となり、支えになり、叱咤となってきたと言います。
「実は家具や空間はあまりに斬新でこれまで目にしたことのないもので、すぐには自分の中に届きませんでした。けれど言葉はこれまで接してきた建築家の言葉と違う温度をもち、すっと自分のなかに入ってきました。言葉を理解することで、やがて倉俣デザインへの理解も深まっていったのです」
とはいえ、それでも代表作『ミス・ブランチ』(1988)には大きな衝撃を受けたと振り返ります。座面や背面のアクリルに封入されたバラの造花が、宙を舞うような椅子。わずか56脚のみが制作され、いまも国内外で高い評価を得る名作です。
「これは椅子なのか……。これまでに見たことのないものとの出合いに心がざわめきました。当時はこのミス・ブランチをどう判断することもできずにいましたが、それを超えて椅子の概念が変わった。頭の理解よりも先にイメージに心を掴まれたのです」
その時に受けた衝撃を、田根さんはローマの神殿「パンテオン」での体験に重ねます。
「パンテオンでは、ドームの天窓から雲につながり、宇宙につながっていくような感覚を得ました。建築に宿る力を強く意識する体験だったんです。この間久しぶりにパンテオンに行ったのですが、あらためて訪れても変わらず長くそこに佇みました。最初と変わらぬ衝撃を受け、なお驚きを与えられた。見るほどに発見があり、すぐにはわからない、これまで見たことのないものに出会う、毎回が新しい驚き。それがパンテオンとミス・ブランチに共通する魅力です」
やがて大学を卒業した田根さんは、自身で初めての仕事としてダンスカンパニー〈Noism〉の第1回公演『SHIKAKU』(2004)の舞台をデザインします。この公演後、たまたま出会ったのが倉俣にまつわるオブジェでした。
「青山を歩いていた時、〈イッセイ ミヤケ〉のショップで倉俣史朗へのオマージュとして『ミス・ブランチ』のバラを封入したアクリルのオブジェを見つけたんです。それに目を奪われ、無理を言ってショップスタッフに店頭在庫をすべて出してもらい、バラの配置バランスを確認して、ようやくひとつ倉俣コレクションを手に入れてしまったんです。自身の最初のデザイン・フィーを使ったその再会が、あらためて倉俣さんを強く意識するきっかけとなりました。少し勝手な思い込みもあるのですが、僕は人生の転機を迎えるタイミングでなぜか倉俣作品に出会うようになったんです。
田根さんが次に倉俣作品と出合うのは2016年のこと。バルト3国の最北にあるエストニアに「エストニア国立博物館」が開館した年です。2006年、まだ26歳だった田根さんは友人らと参加した同博物館の国際コンペティションで勝利します。それから10年。旧ソビエト連邦の占領下で軍用地として使われていた土地に生まれた建築は、歴史に翻弄された国のこれまでとこれからを刻みはじめたのです。
これが完成してから間もない頃、田根さんはパリのギャラリーで倉俣作品のひとつ「KYOTO」(1983)に出会います。1980年代にイタリアで活躍したデザイン集団・メンフィスのためにデザインされたテーブルは、倉俣にとっても転機となる作品のひとつ。それまでモノトーンの作品が多かった倉俣ですが、このテーブルでは色とりどりのガラス片をちりばめた人工大理石「スターピース」を使います。
「KTOTOは作品集などでも見ていたので知っていたのですが、特に魅かれている作品ではなかったのです。でも実際にモノに出会った瞬間に、すぐにその普通ではない魅力にほれ込んでしまいました。色とりどりの透明なガラスの破片が美しく人工大理石の中にテラッゾのように埋め込まれている。アイデアの斬新さとイタリアの職人技のその両方に、驚きました」
この美しいオリジナル素材は、その後も倉俣の家具や空間で使われていきます。
シルバーのリングにもたれかかったステッキが浮くように見えるアンブレラスタンド『F.1.86』など、いくつかの作品は現在も製造が続くものの、現在も新たに購入できる倉俣作品は限られています。しかし世界中に熱心なコレクターは多く、若い世代にも着実にファンが増えています。その1人である田根さんは、デザインに秘められた「詩」に魅力を感じると言います。
「倉俣作品にある詩的な姿は、時代を超えて伝わる力が宿っています。倉俣さんはご自身を詩人とは考えていなかったでしょう。けれど物質を詩に変えてしまう力をもっていたと僕は思うんです。言葉に限らず物質への向き合い方も詩的に感じます。そして完成したプロダクトはいずれも夢や想像を抱く余韻や空白を残している。人工的で硬く冷たいはずの素材に、温かく柔らかな表情、そして情緒を宿らせる。その根底にあるのが倉俣さんの詩の力でしょう。シンプルな形に、辿り着けそうで辿り着けないオリジナリティがあるのは倉俣史朗さんというデザインの変換装置があるからです。倉俣作品は軽いのではなく、この大地から重力が消えてしまったのではないかと思わせる点に魅力があります。その重力の欠如の追求こそ、倉俣さんがもっていたものづくりへの衝動ではないでしょうか。その内なる衝動が作品に触れた人々の心を動かすのだと思います」
その一方、作品と同様に雄弁に倉俣自身を語るのは、倉俣史朗が遺した言葉とスケッチではないかと田根さんは考えます。倉俣の作品集や書籍に残る言葉とスケッチをたびたび読み返すという田根さんは、自身のスケッチと倉俣のスケッチは大きく異なるものだと続けます。
「倉俣さんは具体的なイメージの世界を描かない。物質感よりもスケッチの中にある時間が流れ、そこに物語があります。言葉やスケッチからデザイナーの倉俣史朗ではなく、倉俣史朗その人を感じられるんです。僕自身がスケッチを描くのは自分と向き合うために描いています。描くことで自身の意識にあるものが自分の外側に出てくるんです。同じイメージを何十回となぞるように描き続け、何度も同じスケッチを描くことで考えは厚みを増し、削ぎ落とされました。それに対しそれでもスケッチがものづくりの原点であることに、変わりはありません」
また実際に完成した倉俣作品の多くが、スケッチや言葉と距離があることが面白いと田根さんは言います。倉俣が遺したスケッチ集『STAR PIECE 倉俣史朗のイメージスケッチ』(TOTO出版)やエッセイ集『未現像の風景―記憶・夢・かたち』(住まいの図書館出版局)に綴られるのは、倉俣が夢で見たイメージの絵や言葉。匂いや音などをきっかけに抽出された記憶、夢のなかで現像されたイメージをスケッチに描きとどめていたと残しています。ただし作品そのものは夢のように儚く、そして美しくも、スケッチや言葉にはない強烈な存在感があります。
「いかに技術が発達しようと、ものづくりにスケッチは必要だと思うんです。それはスケッチが誰に頼まれて描くのではなく自ずと自身の手から出てくるものなので。スケッチは自由だからこそ、その人のテーマや向き合うものがそこに現れる。どのタイミングでスケッチが必要かは人によって異なるでしょう。僕は学生時代から旅先でよくスケッチをしていました。落書きのように描かれたものも含め、思考をスケッチに変え、いろいろな時に描かれたスケッチは僕にとって〈記憶の集積〉なのかもしれません」
建築家。1979年東京生まれ。Atelier Tsuyoshi Tane Architectを設立、フランス・パリを拠点に活動。『エストニア国立博物館』の国際設計競技に優勝し10年の歳月をかけて2016年秋に開館。2012年の新国立競技場基本構想国際デザイン競技で『古墳スタジアム』がファイナリストに選ばれ国際的な注目を集めた。 フランス文化庁新進建築家賞(2008)、フランス国外建築賞グランプリ(2016)、ミース・ファン・デル・ローエ欧州賞2017ノミネート、第67回芸術選奨文部科学大臣新人賞など多数受賞 。2012年よりコロンビア大学GSAPPで教鞭をとる。
戦後のレイトモダニズム全盛の時代にあって、感性によるデザインではじめて評価をされたデザイナー。「How High the Moon」、「Miss Blanche」など、エキスパンドメタルやアクリルといった素材を驚くほど詩的な表情に仕立て上げた家具で一世を風靡した。今なお世界的な評価が非常に高く、ニューヨーク近代美術館などで、ミュージアム・ピースとして多くの作品が収蔵されている。東京都出身。
倉俣史朗の家具ラインナップ