ラベル 絵本 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 絵本 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022年6月17日金曜日

絵本「愛タクシー」



ある日、一通のメールが届いた。


ある方の文章がとても素敵で、それを絵本にしたい。

ついてはその絵本の絵を、私に描いてもらえないかというお手紙だった。


彼女は主婦の方でした。

よく聞くと、気に入った文章があると、それを自ら書き起こし、自分で製本にして、

その文章を書かれた方にお渡しするという、稀有な方なのでした。


だがちょうどNYの仕事が立て続けに入っていたこともあり、

その旨も伝え、お断りしようと思っていた。


ところが、ある時散歩していたら、

不意にその絵本のイメージが頭に浮かんだ。


「ああ。こうすればできるかもしれない。。。。

え?やるの?やれってこと。。。?」




それはしゅんすけさんというひとりのカウンセラーの方のお話。


彼の中で目覚めた瞬間を

タクシードライバーという比喩を使った可愛いお話にしていた。


私に依頼してきた彼女は、

とてもその物語に惚れ込んで、どうにかして絵本にしたいと思っていたのだった。


お話は感情というものを細かく描いていた。


感情を絵にする。

それは形のないものを形にするという挑戦でもあった。

でも私の絵はその彼のお話に乗せて作れるかもしれない。


タクシードライバーの人物は描かないでおこう。

タクシーそのものが彼の肉体だ。。。


川沿いの遊歩道を歩きながら、私の中で覚悟ができ始めていた。


頼んでくれた彼女も、断られていると思っていた私の返事にびっくりしていたご様子。


こうしてNYの仕事、日本の仕事、次々に入ってくる仕事の忙しいさなか、

同時に絵本の制作も進み、三ヶ月後には一冊の絵本になっていた。



「愛タクシー」


かわいいそのタイトルそのままのイメージを表紙につけた。


中は白い空間をできるだけとって、

その空間に何かを感じて欲しいとレイアウトした。


制作、レイアウト、版下、校正、印刷製本発注。

自分でここまでできるんだ。

時代は変わったね。

自費出版も夢じゃないかな?(笑)



彼女がいなかったら、こんな挑戦は私にはできなかった。


イラスト料から製本料まで、すべて彼女一人が出してくれた。

私のわがままも聞いてくれ、彼女の舞台で、好きなように私は踊らせてもらった。


彼女のその勇気と大胆な挑戦に敬意を評したい。


ほんとうにありがとう。









2021年11月11日木曜日

大好きな本屋さん


 

高校時代、八日に一度の楽しみがあった。

亡くなった父に申し訳ないが、八日に一度とは、父の当直の日のことだ。


その日だけは母と二人で高知の食の通り、大橋通りに出かけて行って、好きなものを好きなだけ食べて帰ってくるのだ。


母の仕事帰りに合わせていつも待ち合わせするのは、大橋通りから一歩脇に入った雑居ビルの地下にある本屋さん。私はその本屋さんが大好きだった。


地下へと続く階段を降りていくと、そこは一気に木の世界。天井まである高い本棚たちがそびえ立ち、さながら本棚の森に入ったかのようだ。天井以外すべてが落ち着いた同じ木の色でできていて、歩くとキシキシと音がする。塗りたてのワックスの匂いの奥から、小さなカフェから漂うコーヒーのいい香りがした。コーヒーの香りとワックスの融合が、ひときわ心を落ち着かせる。

私はそこで夢野久作や久生十蘭の世界に想いを馳せた。


その中でも私を虜にして離さない一角があった。それは絵本のコーナー。そこでは何時間もいられた。

幼い頃母に呼んでもらっていた絵本は、たった一冊の本の記憶しかない。だがこの本屋さんを通して、私は絵本の世界を知った。


高校生になって読み始めた絵本だったが、不思議なことに大きくなっても読める。安野光雅や宇野亜喜良、海外ではユーリーフルヴィッツやアーノルドローベルなど読み漁った。


その後アメリカに渡った時、絵本を出版している出版社に営業してみようと思った。


アメリカでは絵本のことを「children’s picture books」という。

子供の絵本かあ。。。

高校時代から読み始めた絵本だったので、その言葉になんか違和感があった。

絵本は絵本じゃん!picture booksといえば?と。

だけどそれだと写真の本ってことになっちゃう~(笑)。


手当たり次第営業をかけて、ある出版社に声をかけられた。しかしその出版社は、子供のおもちゃから絵本まで、全て可愛らしい世界。いい話ではあったが、いづれ自分が嫌になることは見えていた。かなり気に入られていた様子であったが、丁寧にお断りをした。




子供向けの絵本は山ほどある。だけど大人が読むに堪えうる絵本の方に私は惹かれた。

それはその絵本の中に、広がりを感じさせてくれるからだ。

文字で書かれていない、絵で表されていない、その奥にある何かを。


絵本から目を離すとすぐ見える普段の見慣れた風景が、その絵本の世界を通してみると、突然違う風に見えてくるのだ。私はあの本屋さんでそういう感触を何度も味わった。



この世界はこうなのよと、大人が知ったかぶりを子に教えるための教材としての絵本ではなく、大人もまだ知らないものを、子供と一緒に味わう。


なんだろうね。

これはなんだろうね。

でもステキだね。

一緒に探ろうか。


そう思わせてくれるもの。そんな絵本があってもいい。

いやそれこそが、まだ知らぬ何かを見つけていくきっかけになるのではないだろうか。


母と子がベッドの中で二人共通の世界を味わう。

子はこれから出会う世界に思いを描き、

母は日常から遠く離れた何かに想いを馳せる。


ほんの数分間だけの二人の世界は、大きな光の波紋となって世界に広がっていく。

その波紋に触れた人々は、何かを思い出していくのだ。。。



絵本には世界を変えていく力がある。


久しぶりにあの頃の自分を思い出していた。





絵:「10分あれば書店に行きなさい」/MF新書表紙イラスト


2021年10月29日金曜日

決して壊されることのないもの

 


先日書いた絵本の話に出てきた圏央道環境問題や風力発電問題などについては、

実は私は反対や賛成のどちらの立場もとらない。


たとえそのどちらについたとしても、私には一抹の寂しさを感じる。


実際よそから来た反対派の人々は、いつの間にか消えていった。

噂ではまた別の反対運動に参加していると聞く。


今も世の中ではいろんな問題が溢れている。

問題解決に躍起になるのは、

「この問題さえ解決できれば幸せになれる」

という思いから来ているのではないだろうか。


だけど「その問題」が解決されたように見えても、

また新たな問題が浮上してくる。消えた試しがない。




問題を問題として捉えていけば、その問題はさらに大きく見える。大きくなった問題をさらに取り組めば取り組むほどに手がつけられない状態になり、精魂尽き果てて諦めてしまったあと、ことはなかったかのようになる。

これは問題解決なのだろうか?



それは自我に取り組めば取り組むほど、がんじがらめになって身動き取れなくなるのと似ている。

実は自我にはそれが目的なのだった。

自我/問題に取り組んでくれるほど、自我/問題が存在できる。


だが精魂尽き果てて、取り組めなくなった時、

自我/問題の暴走はなかったかのようになる。



この世にはいろんな選択があるように見える。

Aがダメなら、B。BがダメならC。Cがダメなら。。。

だけどその問題解決のための選択は、

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たずの矛盾だらけ。

問題を抱えた以上、そこに幸せはない。



かつて反対運動が盛んに行われていた場所に大きな絵の看板があった。

それは真っ赤な顔をして怒り狂った大天狗のお腹に開けられた二つのトンネルの絵。

「高尾山を死守する!」と書かれていた。


その看板も撤去され上空に立派な橋がかかり、足元に小さな公園がある。

私はよくその高尾山の土手っ腹にあいた穴を車で通り抜ける。懐に入るような心地よさがある。



「白い丘のモミジ」に出てくる自然界の彼らは、私たち人間の視点を超えている。


一見諦めにも似た彼らの行為は、AかBかと水平に選択するしかない人間の選択枠をこえ、垂直の流れにある。それは戦場を上から眺める視点。


自然がどう壊されていこうと、見えている世界のその奥に真の美しさがあると言うことを、彼らは語らず私たちに教えていた。


それは決して壊されることなどないと。






絵:第38集アンデルセンのメルヘン文庫「白い丘のモミジ」より





2021年10月26日火曜日

「白い丘のモミジ」/第38集アンデルセンのメルヘン文庫

 


去年10月、1本の電話が入った。

「アンデルセンメルヘン大賞の選考委員5人のうちの一人に、つくしさんあなたが選ばれました」


この「選ばれました」という言葉に引っかかって、何か怪しいものの勧誘かと思い、かなり疑った。

しかしよくよく聞いていると、とてもありがたいお話だった。



広島を本店に、全国に店を広げる老舗のパン屋アンデルセン。

そのアンデルセンさんが主催するメルヘン大賞。もう38年になるという。

その第38回目の大賞の選考委員の一人に、ありがたくも選ばれたのだった。


「お話づくりは、どこかパンづくりと似ていると思うのです」

送られてきた過去の受賞作品の本を開いたとき、扉に書かれていたこの言葉に、日頃からパンを作っている私はひきつけられた。


選考委員とは、一般募集された物語の中の一つを選んで、私が作画をつけるというもの。

コロナ禍で打ち合わせも直接主催者の方々にお会いすることはなかったが、粛々と仕事は進んでいった。




1000点近くあった応募作品の中で、選考委員長の立原えりか先生が選んだ候補作品のうち、5作品を私は渡された。その中である物語が私を惹きつけた。


それは環境問題を題材にしたおよそメルヘンとは縁がないかのようなお話。

風力発電開発に伴う人々の心の動揺と、それを取り巻く自然界に住んでいる動植物たちの目線。人間の私利私欲に翻弄される生き物たちの、悲しくも深い慈愛に満ちた美しいお話だった。


風力発電開発の話は、私がNYからこの町に移り住んだ時に持ち上がっていた圏央道環境問題と重なった。役所と住人の話し合いが設けられた分校は、その頃この町にあった東京都最後の分校のよう。読めば読むほどよく似た状況に、私はこの話を選ぶことになっていたのではないかと思わせるほど驚いた。




この物語には主人公がいなかった。しかしその中心にいるのは一本のモミジ。その存在がそこに住む生き物たちの心を支えていた。私はこの自然界からの視点で描いた。


圏央道建設が決まって、着々と進んでいた工事。

山が切り崩され、滝や沢の水の流れが分断される。

トンネル工事の途中で崩れ落ちる岩盤。

賛成派と反対派に真っ二つに分かれた、そこに住む人々の葛藤。

今こうしてパソコンを叩いているその後ろに見える圏央道の橋。

開通するまでにいろんなことがあった。


人々はその都度驚き、オロオロし、策を練る。自然は黙して何も語らない。彼らの中で一体何が起こっていたのかは人間の耳には聞こえない。

しかしこの物語は、あの時ここ高尾山に起こっていたであろう自然界の言葉を話しているようにも思えた。



私たち人間は進化の頂点にいるようなふりをしているが、実は地球のウイルスのようなものだ。私たちがいなければ、この地球は全く美しい自然のまま。

そんな幼い子供のような人間を、自然は厳かな目で見つめ、受け入れていく。

自然はなんて暖かい心を私たちに差し出してくれているのだろう。



彼の中に何が入って、この物語を書かせたのだろう。

この物語に出会わせてくれた作者近藤栄一さんに感謝します。

そしてこの素晴らしいチャンスを与えてくれたアンデルセンの方々に御礼申し上げます。


「白い丘のモミジ」

もしご興味のある方は、ぜひ読んでみてください。