ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年2月15日月曜日

「ほっとけ」という御神託



もう少しで仕事が終わるから、終わったら友人を誘って、知り合いの梅林作業の手伝いに行こうと思った。


しかしいざ仕事が終わってみると、急に具合が悪くなる。立ってられない。こんな調子じゃ手伝いにも行けないし、午後から来ると言ってくれた友人にも悪い。どうしようかと迷ったが、何もせずになりゆきに任せることにする。


なりゆきに任せる。

一見無責任。だがしかしこれは叡智だ。


今まで自分でなんとかしなければいけないと一人奮闘してきた。しかし自分でなんとかしようとすればするほどドツボにはまる。さらにそれを埋めようと頑張ると底なし沼に。。。


これはいかがなものかと思い巡らしていたら、ある叡智がやってきた。

それは「ほっとけ」という神のご神託であった。

(ホトケは、この「ほっとけ」からきているのか?)




クラクラするからこたつでゴロゴロする。お日さんに当たりながら考える。

私は自分の罪悪感を大量放出させていた。


1手伝わなければいけないのに、手伝えない。

2人を誘ったのに、自分は働けない。

3そもそも仕事が終わったのに、なんで具合が悪くなる???


自我とともに考えれば、「あんたは死罪!」と言われる。

しかしここでもう一人の教師に聞く。

聖霊さん、私と一緒に考えてください。


。。。


ん?まてよ。

そもそも知り合いのところに手伝いに行かなければいけないという義務はない。

仕事が終わったんだもの、一人ゴロゴロこたつで寝てて何が悪い?

具合が悪けりゃ、寝てりゃあいいじゃあないか。

誘った友人にも連絡来てから考えればいいじゃないか。


なんだなんだ。何を問題にしてたんだ?

急に気楽になって、ゴロゴロすること2時間。退屈になって起き上がる。

ヒマだ。私、どおしたい?


体が勝手に支度をしていた。具合が悪かったことなんか忘れてる。

友人の作業道具も用意して現地に向かった。

誰もいない。手伝うつもりだった梅の枝も綺麗に整理されていた。




南向きの斜面でぼーっとする。

東からの風が冷たいが、お日様の心地よさがそれを忘れさせてくれる。

まだ1分咲きの梅の花の香りがほんのり漂ってくる。


線路を挟んだ向こう側に天神様の祠が見える。

菅原道真が読んだ句が思い出される。

「まさに、東風ふかば、匂いおこせよ梅の花。。。やな。

ちょと意味はちゃうか。あはは」




私は常に自分の落ち度を気にしていた。

絵を制作しているときは、何か問題はないか、悪い作品になっているのではないか、クライアントが求めるものは網羅できているか、、、。

仕事を終えやっとそのプレッシャーから解放されると、今度は別の落ち度を探している。


落ち度。罪。

罪を見つけては罪悪感と未来への恐れでオロオロして対処する。

しかし恐れの中での問題解決はドツボにハマる。これが私を長年苦しめてきた。


自我は罪をささやく。

「お前は悪いことをした。お前は罪人だ。この罪からは逃れられない。罰を受けて許しを乞え」


だがもう一人の教師に聞くと、

「あなたは無辜で神の子だ。神の子に罪はないし、罪は存在しない。」と必ず言う。


その言葉が真実だと頭ではわかっているが、ずっと自我の教えに耳を傾けてきた私は、油断しているとつい習慣で罪を探してしまう。

今朝もそうやって自我に耳を傾けていたのだ。

そこには何の喜びもない。何の解放も解決もない。ドツボと底なし沼があるだけだ。



梅の花の香りの中で大きく深呼吸し、


「ここに罪はあるか?」

と、自分に問う。


「ない」


自我とともにいるときには感じられない開放感があった。




突然ケータイが鳴る。

友人からかと思えば、ダンナからだった。

「今スタバ。なんか買っていくか?」

「カプチーノのトール!」


すぐ近くに別の友人が、山をスケッチをしているのに気がつき合流。

まもなく旦那がスタバからカプチーノを持ってやってくる。

すると出かけていた知り合いも帰ってきた。


夕日が山に沈むまで、微かな梅の花の匂いに包まれて、想定外の楽しい時間を過ごした。






絵:「梅の木とつた」








2020年10月31日土曜日

過去をサンドイッチにして

 


夜明け前、サンドイッチ作っている夢を見た。

いちごのサンドイッチと、ベーコンのサンドイッチ。

どちらも具沢山で、口に入らないぐらい高くそびえてる。。。


という夢を見ながら、あるインスピレーションが来ていた。


私の人生に現れてくる登場人物は、ぜんぶ私が作ったものだと。

両親の性格、くせ、趣味嗜好から職業に至るまで、全て私が設定したものだと。そしてこの私さえ、この肉体から性格に至るまで設定していると。


知識では知っている。

けれどもそれを直接言われると、びびった。


じゃあじゃあ、母のあの病気も?あの環境も!?すべて私が!?


。。。そのようだ。


がーん。。。。





でも心のどこかがそれを受け入れていた。

心のどこかがそれを聞いてホッとしていた。



私の中で、それを罪と見なくなっていたからなのかもしれない。

いやむしろ、罪と見なくなったから、それが教えられたのかもしれない。


あれほど自分に罪を見て罪悪感の塊だった私が、だんだん自分に罪を見なくなっていっている。


だから全てを設定したと言われても、それを罪とは感じていない。

たとえ母の病気を私が設定したとしても、それは実在しないのかもしれないと思う。


確かに高知に戻って母を見るなら、そこに見るだろう。

だけどそれはそう見えるだけだ。




見えるものは事実だと思ってきた。

だけどそれは事実とは言い切れないとも思い始めている。


もう一つのものがある。

そちらが真実だとしたら。


目に見えるものは、私が設定したもの。

この肉体を持って、この肉体で見ることをしているもの。

単にこの肉体の目が掴んでいるものだけを信じていただけなのだ。




もう一つのもの。

それは肉眼では見えない。

自我の私が作り上げた肉体から見えるものほど不確かなものはない。

それはありもしないものを見ているだけなのだから。


例えば、冷蔵庫に入れっぱなしのオリーブがカビだらけだった。

なぜか笑って観れる。

今まではそれを罪に感じていた。


この違いが一体なんなのかわからない。

でも見えるものを信じる必要はないと思えるのは、


今の私に見える限界ではそれは光として映るもう一つのものが、

どんどんリアルに感じ始めているからなのかもしれない。




私の設定すべては過去だ。

過去という具材を山のように積み上げてパンに挟み、

マヨネーズをいっぱいかけて、

ガブッと食べてしまおう。


『過去を赦し、それを手放しなさい。それは確かに過ぎ去っているからである』

                      by奇跡講座テキスト26章V.14.1


私はこの設定をぜんぶ赦そう。



もちろんその感覚は行きつ戻りつすることだろう。

罪も見てしまうだろうし、罪悪感もまた感じることだろう。

それもまた赦そう。どこまでも。




イラスト/「健康と生活」表紙イラスト/フラダンス


2020年10月2日金曜日

神様の絵の依頼を受ける

 


今、依頼を受けて神様の絵を描いている。


一時期、別の世界にいる空想の存在を描き続けていたことがある。

天狗、龍神など、私がイメージする神の世界だ。


彼らはとても静かで、私の心の中にサーっと入ってくる。

彼らは言葉を発しない。沈黙したまま、私の中に住んでいる存在。



依頼された神は、木花佐久夜毘売( コノハナサクヤヒメ)。

瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に求愛されたこの上なく美しい女神。

美しいだけでなく、強い意志を持って自身の運命を切り開く。


依頼主のイメージが神のイメージと重なってくる。

この神が彼女の中に入って、世界を輝かせてくれることを願う。


制作中、この位置にはこれを配置し、

ここにはこれが必要、これはここにおいてはならない、、。

なぜだか知らないが、そういう決まり事が次々に浮かんでくる。


突然胸の奥に強烈な熱い想いを感じ、私は泣いていた。


遠い昔、宗教的な絵を仕事にしていた時期もあったのかもしれない。

そんな思いがよぎった。




今の私は、神を外に見ない。

私にとっての神は形を持たない。


それはここにある、あそこにあるというものではなく、すべてだ。

あまりにも大きすぎて、あまりにも強烈な光を放ちすぎて、

私たちには捉えることができない。

今の私たちの力では、それを見た瞬間、気が狂ってしまうだろう。


だからこそ、遠い昔から私たちはその捉えきれないものを、

私たちが感じられる範囲の小さな形に置き換えて、

祭り、大事にしてきたのかもしれない。



神を感じられるものは唯一、喜びによって。


胸の奥がジーンとする、暖かくなる、

そして大いなる静けさと平安の中に、神を認識する。

今の私にとって、それが最大の神からの贈り物だ。



女神の絵には、彼女の胸に大きな光を添えた。

この光が全てに満ちていきますように。




絵:「ドラゴン」


2020年9月26日土曜日

小人がいる世界

 


小さな小人を探すドラマを見ている。


身長15センチくらいの森に住む小さな人。いたら楽しいだろうなあ。


想像してみる。

今そこにある草むらの中にいるのかもしれないし、

あっちの切り株の後ろに隠れていて、不意に現れるかもしれない。


そんな思いでワクワクしたことはないだろうか。

私たちが見たこともない、知らない世界に思いを馳せ、心をほころばせるのだ。


妄想癖のある私には、そんな時間が楽しかった。

今住んでいるこの世界がとても息苦しくて、窮屈で、退屈で、

何か別の場所、別の世界を探し求めていた。



小人を見たことがある人は、あまりいないだろう。

滅多に現れない存在。

だからこそ人はそこにロマンを感じる。


じゃあ、もしこの世に紙袋というものが、滅多に見れないものだとしたら、

紙袋はロマンを感じさせるものになるのかもしれない。

紙袋のある、私たちが知らない別の世界。。。


夢がないって?

もしテーブルの上を、たくさんの小人たちがしょっちゅう跳ね回っていたら、

それにロマンを感じるだろうか。

当たり前すぎて、

「もう、うっとおしいなあ、ちょっとは静かにしてよ!」

ってことになって、ロマンどころか、撃退法まで考え始めちゃうかもしれない。




そのロマンの元になっているものは、小人ではなく、

この世界の窮屈さからきているのではないだろうか。


私たちは滅多にないものをありがたがる傾向がある。

その滅多にないものに、

この世界からの脱出の糸口を無意識に求めているのだ。


私は本当はここの住人ではない、もっと別の世界に住む住人なんじゃないか?と。


その思いが、人を探求の道に進めるのだろう。

この世界がどこかおかしいと思うからこそ、

哲学や宗教が生まれるのだ。


私たちは、本当にこの世界の住人なのかと。



そのドラマのタイトルは「ゴーイングマイホーム」

まさに今の私の心を表していた。



2020年9月18日金曜日

何もしなくても。。。

 



 

喜びは、何かで得られるものだと思ってきた。


美味しいものを食べる喜び、

友達とワイワイやる喜び、

仕事が終わったー!という喜び、

道端に咲いた小さな花を見つけた時の喜び、

面白い映画を見ている時の喜び、

空を見上げた時の喜び、、、。


喜びは、何かをして得られるものだから、常に喜びを探していた。喜べる何かを。

喜ぶことは幸せ。幸せは手に入れるもの。喜びも手に入れるもの。



しかし本当はそうではなかった。

喜びはもともとそこにあるものだった。



それに気がつき始めたのは、ふいに訪れる謎の幸福感からだった。


何もしていないのに、そよそよと胸の奥から溢れてくる喜び。

「え、何?今、私何かした?」

と、慌てて探す。

何かをして得られるものだと、当然のように思っているからだ。


しかしさっきから椅子に座って、パソコンを見ているだけ。

面白い情報が見つかったわけでもない。


パソコンに向かっている時だけじゃない、

部屋を移動している時、

庭に目をやっている時、

そしてただ道を歩いているだけの時にやってきた。

心に何も思い出したわけでもないのに、嬉しさがこみ上げてくる。




なんという感覚と言えばいいのか、

胸のあたりがふわっと暖かくなる。そして自然とニヤケてくる。


山道を歩きながらヘラヘラ笑ってる白髪頭のオババと人が遭遇したら、

それはもう山姥としか見えないだろう。



歩きながら全身が喜びで満たされてくる。

見るもの、聞こえるもの、全部が私を祝福してくれている感じ。


両手を下に広げて、道の脇にボウボウ伸びている草たちに触れながら歩く。

「嬉しい。嬉しい。嬉しい。。。!」

涙まで流れ始める。大声で叫びたくなる。


「みんな、ありがとう!愛してるよ!」




そんなことが起こるたびに、私たちの本性はもともと喜びの塊なんだとわかってきた。

ただただ喜びの存在なのだけど、そこに蓋をされているだけなのだと。



私たちは常に、何かを探して求めている。

それは一番深いところに、「私たちは何かが欠けている」という深い欠乏感から来ている。


欠けているからこそ、それを埋めなければならないと、

無意識に常に何かを探し求めているのだ。



そしてケーキを食べた瞬間、その探すことが一瞬だけ止まる。

仕事を終えた瞬間、その探すことが止まる。


その一瞬の探し求める衝動が消えたスキマに、

本来の喜びの私たちが顔をのぞかせる。


仕事が終わったから喜びがきたわけでも、

ケーキを食べたから喜びがきたわけでもなかったのだ。


探し求める思いが一瞬消えて途切れたから、

本性である喜びが顔を見せただけだったのだ。




私たちは喜び。

喜ぶことが私たちの仕事。


喜べば、そこに神がいる。


肉体を持つ私たちの耳には聞こえない音楽を、

声のしない歌を、

神は歌っている。




2020年9月16日水曜日

今を恐れる

 



ここのところ、ずっと心が穏やかだ。

じーっとして、内側をながめても、心の中に苦しさがない。

ふっと恐れがやってきても、それは自我の策略だと気付いているのでそのままにしておく。

ものの30秒もしないうちに消えていく。



未来を考えなくなった。


還暦近い私にとって、未来は不安だらけのはずだ。

なんの保証もない生き方、なんの保険もない生き方。

頭で考えたなら、未来のために貯蓄して未来のために保険をかけて未来のために、未来のために。。。

そうやって人は人生を終えていくのだろう。

いつかこうなって、未来はこうなって、ハッピーエンドを迎えるはずだと。


そう考えることに意味を見出せなくなった。

そもそもそんな風に未来のためにああやってこうやることが、過去にできただろうかと思い返す。

一瞬そうできたかのように思えたが、あっという間に、また未来が見えない世界に戻った。


そもそも未来ってなんだろう。


私たちは未来のためにばかり心を奪われて、今にいない。

未来は、それが今になった時、心はまた未来に向かっている。

まるで私たちは今にいることを恐れて、いや、嫌っているかのように、今を否定する。

今じゃなく10分後。今日じゃなく明日、1年後、10年後。。。


そうやって行き着く先は、死。

私たちはあたかも死ぬ直前に幸せになることを目指しているかのようだ。




時間は自我が考えついたグッドアイディア。

時間に縛られることによって、私たちは自我の策略にハマる。今じゃないどこかに向かわせる。


心の中で喋っている言葉を聞いてみよう。

不安は未来を心配しているだろう。


ご丁寧に、未来の不安を教えてくれるはずだ。

心はドキッとして、「そうだ。どうすればいいだろう?」とその解決法を考え始める。

そうやってこの世界の道理に取り込まれていく。

私たちはこの世界の「私の人生」の問題解決に夢中だ。



そこから抜け出そう。

どこまでいってもその中で問題解決などできない。

自我は私たちに、ここにずっと止まって欲しいのだ。

問題があるよあるよと、いっぱいささやきかけてくる。

そうやってずっとずっとこの世界に舞い戻ってきた私たち。その輪廻の輪から抜け出そう。



事実は今しか存在しない。

今にとどまることで、この今が広がっていく。

自我は今の事実を教えたがらない。今は怖いものだと言い続ける。

だから過去と未来にばかり目を向けさせようとする。

でも今にしか私たちは、いない。


今に止まるとき、私たちに恐れはない。

でもすぐそれは破られる。「これからのこと」を思い起こさせるものがやってくるからだ。

そのことに気づいていよう。



今にいるとは、そこにいること。

そしてただそこにある感覚の中に止まる。


未来の心配も過去の失敗もそこにはない。

何も考えがないとき、意図せずして喜びが胸の奥から湧いてくる。


それは何かをして得られる喜びではない。

何もせず、何も見なくても、何の根拠もなくあらわれる。

その喜びこそが、私たちの本性。


ほんの小さな喜びでいい。

それをそっと大事に持っておこう。