〜 ハリセンボンのおびれ 〜

生活と愉しみ そして回想・朽木鴻次郎

2024.12.18 大阪インテックスでの特別講演—「コンプライアンス遵守風土作り」

本講演は終了いたしました。

この冬、大阪インテックスで開催されるのDX総合EXPO2024冬大阪にて、特別講演を行います。テーマは「コンプライアンス遵守風土作り」。

この秋の東京ビックサイトに引き続き、今回は大阪インテックスでの特別講演です。

        

任天堂で過ごした14年間、コンプライアンスの構築に取り組み、その中で学んだのは、社員の心構えとトップの姿勢が企業の文化を形作るということ。

特に「お互いを尊重し合う」姿勢が、コンプライアンス違反防止の礎となりました。さらに、「笑顔」をテーマにしたCSR活動など、任天堂ならではの企業風土づくりの経験も共有します。

講演では、これらの具体的な経験と教訓を深掘りし、どのようにコンプライアンスを実践に繋げるかについてお話しします。

会場は大阪インテックス、講演日時は2024年12月18日 11:00-11:40です。
ぜひご参加ください!

詳しくは主催者のウェブサイトをご覧ください。

www.bizcrew.jp

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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DE&Iと「自分らしく」の残酷さ

日本で多様性が叫ばれはじめたのが、今世紀の初め頃(2000年:日経連による「ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会発足。)。東京お台場の商業施設が「ダイバーシティ」の名前で開業したのが2012年。タレントのミッツ・マングローブさんが不動産開発のCMで「ダイバーシティ...!」と囁きかけたのが2018年(三菱地所テレビCM)。東京2020(2021年)ではダイバーシティ&インクルージョンが一つのテーマでもありました。自分とは違う人、自分とは違う価値観宗教文化を持った人。ひとそれぞれ。外見も文化も宗教も母国語も価値観も違う多様な人たちがいるということ。自分と他人とは異なること。それが「ダイバーシティ」多様性。では「エクイティ」とは?「インクルージョン」とは? ぼく自身、企業研修でこのテーマを語ることも多いです。

自分と異なる人たち(ダイバーシティ)を排斥や差別をせずに(エクイティ)共に働くこと(インクルージョン)、それがDE&Iだと説明しています。
でもそれだけ、言葉の解説で終わっていいのかな?

もうすこし現実をみてみます。

 

       

最近、「無理ゲー社会」など一連の橘玲氏の著作を読み、多様性や「自分らしさ」に関する現代社会の課題について改めて考えています。ぼく自身、企業研修講師としてダイバーシティ、エクイティ、アンドインクルージョン(Diversity, Equity, and Inclusion)を取り扱っていますが、その理念はいささか多くの矛盾や困難を内包しているかを改めて実感します。
「自分らしく生きる」という価値観は、一見すると解放的で素晴らしいものに思えます。個々人の個性を尊重し、自由な選択を奨励する社会。しかし、これが必ずしもすべての人に幸福をもたらすわけではありません。その裏には、自由な選択がもたらす責任という厳しい現実が横たわっています。
 「自分らしく生きた結果、成功しなかったらどうなるのか?」という問いに対し、「自分らしさ」がもたらした責任はすべて個人に帰属します。収入が得られない、社会的な地位を築けない、パートナーが見つからない――こうした結果はすべて「能力不足」として解釈され、多様性の尊重がかえって残酷な現実を突きつけることになるのです。この構造は、適応できる「才能のある人」にとってはユートピアである一方、そうでない人々には厳しいディストピアを生み出します。
では、「自分らしさ」を捨てて、学校や会社、組織や世間のルールに従い、自分を殺して共同体に忠実に生きる道はどうでしょうか。それが救いとなるのでしょうか?橘氏の議論や現実の例を見ても、それは必ずしも「ユートピア」にはなりません。ルールに従ったとしても、結果が伴わなければ「努力不足」として評価され、やはり責任は個人に帰される。さらには「自由すら奪われた」という閉塞感が加わり、より深い絶望を生む可能性すらあります。
結局、「自由」も「従属」も、それぞれの形で個人に過酷な負担を強いるものであり、どちらかが万能の解決策とはなり得ません。多様性や個性の尊重がもたらす光と影、そしてルールに縛られることの苦しみ――これらは社会の構造そのものが抱える矛盾です。
ここに示される現実的な視点は、多様性を単純に称賛する考え方に警鐘を鳴らしています。自由を尊ぶことで他者を突き放す冷たさ、ルールに従うことで自分を失う苦しみ――どちらも地獄に通じる道となり得ます。
 
■DE&Iが浮き彫りにしてしまう矛盾と現実
DE&Iに関しても同様の矛盾が見られます。特に「E:エクイティ(Equity)」という言葉について考えると、これが持つ理念と現実との間に横たわる問題が見えてきます。日本では「エクイティ」という概念は平等性と公平性を併せ持つものとして解釈されることが多くですが、エクイティとは衡平(この場合は旧字体の「衡」の字)であり、機会の均等性ではなく、むしろ結果としての均等性を重視すること意味します。コモンローで不公平な結果となることを是正するのがエクイティロー(衡平法)、だったかな?
具体的には、エクイティは社会的弱者や女性を引き上げ、社会的強者と同数のポジションを与えることを目指します。結果としての数の均等性。これは理念としては素晴らしいもの?かもですが、実際には社会的な軋轢を生むことも少なくありません。アメリカでのアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)はその象徴です。この政策により、多くの社会的弱者がチャンスを得ましたが、その一方で「逆差別」という声や、多様性の追求が実力主義を損なうとの批判も根強くあります。言い方が悪いですが、優遇されて得た資格(医師など)に対する不信感も拭いきれないようです。
さらに、東南アジアでのブミプトラ政策などを見ても、こうした措置は一部の社会集団に利益をもたらす一方で、他の集団との間に不満や対立を引き起こしています(これは批判ではなく、政策の結果としての現実に触れています。ブミプトラ政策には一定の理由と効果、ある意味「正義」もあるとは思うのです。)。一見平穏に見える多文化共生多様性の社会ですが、ほんのちょっとのきっかけで、民族間の暴動にまで発展しかねないのです。DE&Iを追求する中で、それがかえって社会的な矛盾を露呈し、個々のグループ間に新たな対立を生む結果につながりかねません。
最近、DE&Iや多様性の理念を放棄する大企業(ウォールマートなど)がニュースになりました。その理由はもう少し調べなければいけないとは思っています。
ただ、DE&Iの理念が抱えるジレンマは無視できないものです。
そんなに簡単じゃねーぞ、と。
DE&Iの追求が、それを享受できる人には恩恵をもたらしますが、適応できない人や、それによって相対的に機会を奪われた人々には新たな不満や不安を生み出します。
あらら、それってなんでもそうか。恩恵を受ける人には素晴らしく、そうでない人には地獄である。あたりまえだは西洋せんべい。
DE&Iを含む現代の多様性尊重の理念は、一見すると社会の進歩に見えるものの、その根底には解決されるべき矛盾や軋轢が残されています。橘氏の指摘する「自分らしさ」の問題と合わせて考えると...
兎角にこの世は生きにくいものです。

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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AIとの幕末以降の歴史議論(おまけで空想も少し)・帝国主義的でなかった日本

 

幕末、吉田松陰のアジア観を教えてください。

 

吉田松陰(1830-1859)は幕末期の思想家であり、彼のアジア観は彼の政治思想や行動に大きく影響を与えました。松陰は幕府の閉鎖的な鎖国政策に反発し、日本が国際社会の中で強い地位を確立するためには、積極的な外交と開国が必要だと考えていました。その中で彼のアジア観も具体的な主張として形作られています。

 

●吉田松陰のアジア観の特徴

 

アジア諸国の情勢理解と危機感
松陰は、当時のアジア諸国(特に中国や朝鮮)の状況を日本の未来への警鐘と見ていました。彼は中国(清)がアヘン戦争や列強の侵略によって屈辱的な状況に追い込まれていることを注視し、「日本も同じ運命を辿る可能性がある」との危機感を抱きました。また、朝鮮についても、弱体化する中で外国勢力の影響を受ける可能性を危惧していました。

 

征韓論の萌芽的思想
松陰の思想の中には、朝鮮を日本の影響下に置くべきだという「征韓論」の萌芽が見られます。これは、単に軍事的侵略を意味するのではなく、日本がアジアのリーダーシップを取り、朝鮮を近代化の手本として導くべきだとする意識に基づいています。

 

アジア連携の視点と限界
松陰は、日本が欧米列強に対抗するためには、アジア諸国と連携する必要があると考えましたが、同時に「自国の強化」が優先事項であると認識していました。彼の思想には、アジアを対等なパートナーとして見るよりも、日本が中心となって主導権を握るべきだという側面がありました。

 

「草莽崛起」の延長としてのアジア観
松陰の有名な思想「草莽崛起」(草の根の人々が立ち上がるべきだ)という考え方は、内政だけでなく外交にも通じています。彼は、日本がアジア諸国に対して指導的役割を果たすことで、新しい国際秩序を築くべきだと信じていました。

 

●松陰のアジア観の背景

松陰は、西洋列強の侵略に対するアジアの脆弱さを痛感し、その解決策として日本がリーダーとなることを求めました。しかし、これは当時の「攘夷」思想(外国勢力を排除すべきだ)と一線を画するものであり、単なる排外主義ではありませんでした。松陰は、欧米列強から学びつつ、それを日本やアジアの文脈で活用するという現実的かつ先進的な視点を持っていました。

 

●結論

吉田松陰のアジア観は、幕末の日本における国際関係の捉え方を象徴するものであり、アジアを日本の影響下に置くべきという側面と、日本自体の近代化と国力の強化が最優先であるという実利的な側面が混在していました。彼の思想は後の明治時代の日本の外交政策や帝国主義的動きに影響を与えたともいえますが、彼自身の意図は純粋に日本とアジア全体の自立を目指したものでした。

 

当時の日本の思想家のアジア観はどうでしたか?松蔭の思想と比較しつつ教えてください。

 

幕末期の日本の思想家たちのアジア観は、吉田松陰のように日本の国際的な立場やアジア諸国との関係を真剣に考察したものが多く見られましたが、その視点や目的は思想家によって異なりました。松陰のアジア観を軸にしながら、他の思想家との比較を以下に示します。

 

●吉田松陰のアジア観

 

特徴: 松陰は、日本がアジアの中でリーダーシップを発揮し、西洋列強に対抗するための中心的な役割を果たすべきだと考えました。その背景には、中国(清)や朝鮮の弱体化、西洋列強による侵略の現状に対する危機感がありました。

 

方法論: 日本がまず自国を強化し、その後アジア諸国を近代化へ導くべきだという「日本中心主義」的視点が見られます。

 

目的: アジアの自立と団結を目指す一方で、日本の国益を優先し、国際社会での地位を確立することが目標でした。

 

●佐久間象山

 

特徴: 象山は「東洋道徳、西洋芸術」という言葉で表されるように、西洋技術を導入しつつ、アジア的な倫理や文化を守るべきだと主張しました。

アジア観: 象山は、アジア諸国を日本と同じ文化圏として捉えつつも、清や朝鮮の現状に悲観的で、日本が積極的に西洋から学ぶべきだと考えていました。松陰のようにアジアのリーダーシップを語るよりも、実用的な近代化が優先されました。

 

比較: 松陰がアジアの団結を意識するのに対し、象山は日本が独自に近代化を進めることで結果的にアジアを牽引できると考えた点が対象的です。

 

●福沢諭吉

 

特徴: 福沢諭吉は「脱亜論」で知られ、日本がアジアから距離を置き、西洋列強と肩を並べるべきだと主張しました。

 

アジア観: 諭吉は、中国や朝鮮を「怠惰で進歩のない国」として見なし、これらの国々と協力するよりも日本が西洋的な価値観を採用する方が重要だと考えました。

 

比較: 松陰がアジア諸国の近代化を支援し、日本がリーダーとなることを目指したのに対し、福沢はアジアを見限り、西洋化を優先する姿勢を取りました。つまり「アジア」という劣等生のクラスにとどまるのではなく、「西欧」という優等生のクラスに日本は編入すべきであると考えたのです。

 

●横井小楠

 

特徴: 横井小楠は、アジアの平和と繁栄のために、日本が中心となって国際的な調和を目指すべきだと考えました。

 

アジア観: 松陰と同様に、アジアの弱体化を憂い、日本が西洋の知識を取り入れてアジアをリードすべきだと主張しました。しかし、彼は平和的な共存と調和に重点を置いていました。

 

比較: 松陰の思想がある種の「征韓論」や軍事的側面を含むのに対し、小楠は平和と調和を重視し、より穏健なアプローチを取ったといえます。

 

●総括

 

松陰のアジア観は、危機感から出発し、アジアを近代化に導くための積極的なリーダーシップを提唱するものでした。他の思想家と比べると、彼はアジアの弱体化を憂いながらも日本中心のアプローチを取っており、横井小楠のような調和重視や、福沢諭吉のような「脱亜論」とは一線を画します。

松陰のアジア観は、日本の国際的な役割を見据えた先進的なものでしたが、当時の状況では一部の側面が急進的と捉えられることもありました。その思想は幕末の動乱と明治以降の近代国家建設に大きな影響を与えています。

 

アヘン戦争での清国の敗北は大きなインパクトを与えたようですね。長州は四国艦隊にコテンパンにやられました。とはいえ、薩英戦争では、薩摩も一定の被害を英国艦隊に与えていますし、当時の朝鮮(李氏朝鮮)は一度は攘夷に成功していますが? 当時の日本思想家たちの危機感は過剰ではなかったのでしょうか?

 

幕末期の日本思想家たちが抱いた危機感については、結果論から見ると過剰に思える部分もありますが、当時の国際情勢や情報の伝達速度、限られた情報量を考慮すれば、彼らの危機感は必ずしも的外れではありません。むしろ、その危機感があったからこそ、日本は迅速に近代化へ舵を切り、列強による植民地化を回避することができたとも言えます。

 

以下に、各事件と当時の日本思想家の反応、危機感が生じた背景、そしてその妥当性について詳しく考察します。

 

●アヘン戦争(1839-1842)の影響

 

清国(中国)がイギリスに大敗を喫し、不平等条約を締結したこの出来事は、日本に大きな衝撃を与えました。

 

思想家の危機感
アヘン戦争の敗北は、清国という広大な国土と人口を誇る「アジアの大国」が西洋列強に敗北する現実を示しました。これにより、松陰や象山をはじめとする日本の思想家たちは、「日本もこのままでは同じ運命を辿る」と強い危機感を抱きました。

 

妥当性
アヘン戦争が示したのは、封建的で近代化が遅れた国家が、西洋列強の科学技術や軍事力に太刀打ちできないという事実です。思想家たちがこれを日本の未来と重ねたのは当然であり、過剰というよりも、現実的な危機感といえます。

 

●薩英戦争(1863)

薩摩藩とイギリス艦隊の戦いでは、薩摩が一定の被害を与えたものの、大きな打撃を受けました。

 

思想家の危機感
この戦争は、薩摩藩が攘夷を掲げながらも西洋の技術力を認識し、後にイギリスと友好的な関係を築く契機となりました。特に、薩摩が学び取った西洋技術の重要性は、日本の近代化に大きく貢献します。

 

妥当性
一定の抵抗ができたとはいえ、薩摩の被害は甚大で、西洋列強に対抗するには科学技術の導入が必要であることを認識させました。この戦いの結果が薩摩の近代化を進め、明治政府の基盤を作る一因となったことから、危機感は適切だったといえます。

 

●四国艦隊下関砲撃事件(1864)

 

長州藩が攘夷を掲げて外国船を攻撃した結果、四国艦隊(英仏蘭米)による報復を受け、壊滅的な打撃を受けました。

 

思想家の危機感
長州藩の壊滅的な敗北は、攘夷(外国排除)の非現実性を浮き彫りにしました。この事件を通じて、攘夷ではなく開国/近代化が必要だという認識が広まりました。

 

妥当性
四国艦隊による圧倒的な火力差を目の当たりにした日本にとって、攘夷論が現実に即していないことは明白でした。この経験が幕府や藩士たちに近代化の必要性を痛感させ、明治維新への道を開いたことを考えれば、危機感はむしろ冷静な対応を促したといえます。

 

●李氏朝鮮の攘夷成功(1866年、ジェネラル-シャーマン号事件など)

朝鮮が西洋勢力(特にアメリカ)に対して一時的な勝利を収めた事例もありました。

 

思想家の危機感
李氏朝鮮が一部の攘夷に成功したことは、日本思想家の間で「あのように抵抗できるのでは」という考えを呼び起こした可能性もあります。しかし、思想家たちはアヘン戦争や薩英戦争を見ており、攘夷の持続可能性には懐疑的だったといえます。

 

妥当性
李氏朝鮮の攘夷成功は短期間のものであり、後に清国や朝鮮も西洋列強に屈服しました。これを見越して日本が近代化を急いだことを考えれば、攘夷成功の影響を過大評価せず、危機感を維持したのは適切でした。

 

●危機感の妥当性についての総括

 

「過剰」ではない理由

日本の思想家たちの危機感は、アジア各国が西洋列強に屈する実例に基づいています。これは単なる恐怖ではなく、現実に対する合理的な反応でした。特に薩英戦争や四国艦隊の砲撃のように、日本自体が外国勢力と接触し、圧倒的な技術差を体験したことで危機感は具体的で現実的なものとなりました。

 

思想家たちの成果

この危機感が、近代化を目指す意識改革を生み、明治維新の成功につながりました。日本がアジアで唯一、西洋列強と肩を並べる独立国家として存続できたのは、この危機感の成果ともいえます。

 

一方で「過剰」ともいえる部分

幕末期の攘夷思想が現実離れしていた側面や、過剰な攘夷運動が無駄な犠牲を生んだことは否定できません。しかし、こうした失敗が近代化の必要性を自覚させるきっかけになったことを考えれば、結果として意義のある危機感だったといえるでしょう。

 

●結論

思想家たちの危機感は、当時の国際的な文脈を踏まえれば妥当であり、日本が明治維新を通じて近代化を成功させる原動力となりました。危機感が過剰に思えるのは、現代から見た結果論的な見方であり、当時の状況においては必然的な反応だったといえます。

 

日本の思想家たちが感じていた危機感についてはわかりました。 もう一つの疑問点です。 多くの思想家が「アジアでのリーダーシップを日本が握るべきである」と考えていたように感じます。どうでしょうか?

 

幕末から明治初期にかけての日本の思想家たちの中で、「アジアでのリーダーシップを日本が握るべきである」という考え方は、多くの思想家に共通する意識として見られました。ただし、その背景や動機、具体的な方法論には違いがありました。このような考え方が台頭した理由と、思想家ごとのアプローチについて整理してみます。

 

●「アジアでのリーダーシップ」を日本が担うべきだと考えた背景

中国(清)の弱体化とアジア秩序の崩壊

アヘン戦争以降、清国は西洋列強による侵略に翻弄されました。これにより、従来「アジアの盟主」と見なされていた清国がその地位を失い、アジアの秩序が揺らいだのです。日本の思想家たちは、清国に代わって新たに秩序を築くリーダーが必要と考え、その役割を日本が果たすべきだと考えました。

 

西洋列強の脅威

アジア各国が西洋列強の植民地化政策に屈する中、日本はアジアで独立を維持する数少ない国家として、西洋に対抗しうる存在と見なされました。日本がアジアを主導することで、列強の支配に対抗しようという意識が芽生えました。

 

日本の「自立」から「他国指導」へのシフト

初期の思想家たちはまず日本の自立を強調しましたが、次第に自立した日本が他のアジア諸国を指導し、近代化を支援するという方向へと発展しました。特に明治維新以降、日本は近代化の成功例としてアジアでリーダーシップを取れる立場に立ったと自負するようになります。

 

●思想家ごとのアジアリーダーシップへの視点

 

吉田松陰

 

視点: 松陰は、日本がまず強くなることで、清国や朝鮮を支援し、近代化を導くべきだと考えました。

 

方法論: 具体的には、朝鮮を支配下に置き、そこを足掛かりとしてアジア全体の発展を図るという「征韓論」の萌芽的思想が見られます。

 

評価: 松陰の思想は、リーダーシップを強調しつつも、日本の国益を優先する現実的な側面を持っています。

 

とはいえ、松蔭が伝馬町で獄死したのは1859年ですので、アヘン戦争後ではありますが、日本の攘夷戦争(薩英戦争など)の前のことです。

 

横井小楠

 

視点: 横井は、日本が西洋の知識を吸収し、アジアの平和と共存を主導すべきと考えました。

方法論: 軍事的支配ではなく、調和と協力を重視し、日本が「道徳的リーダー」としてアジアを導くことを提案しました。

 

評価: 松陰よりも穏健で、平和的リーダーシップを模索したといえます。

 

福沢諭吉

視点: 諭吉は「脱亜論」に代表されるように、アジア諸国を見限り、日本が西洋列強に並ぶ存在となるべきだと考えました。

 

方法論: 彼の思想には、日本が「アジアをリードする」という意識はほとんどなく、むしろアジア諸国との差別化を図ろうとしました。

 

評価: リーダーシップというよりも、西洋列強との対等化を目指したため、他の思想家とは異なるスタンスです。

 

佐久間象山

 

視点: 象山は「日本がアジアの模範となるべき」という意識を持ちながら、実利主義的な視点で日本の自立を重視しました。

 

方法論: 日本がまず強くなり、その後アジアの近代化を牽引するという構想がありました。

 

評価: 松陰に近い視点ですが、攘夷論に固執せず、現実的な近代化を優先しました。

 

●リーダーシップ論の実現とその限界

 

幕末の思想家たちが描いた「アジアでのリーダーシップ」は、明治政府の政策に影響を与えました。例えば、清国や朝鮮に対する日本の外交や軍事政策(征韓論や日清戦争など)は、松陰らの影響を色濃く受けています。一方で、そのリーダーシップの在り方には以下のような限界もありました。

 

リーダーシップの自己中心性

日本がアジア諸国を指導するという構想には、しばしば「日本中心主義」が含まれ、対等なパートナーシップではなく支配的な態度が見え隠れしました。この姿勢は後の植民地政策や日韓併合につながり、アジア諸国との摩擦を生む原因となりました。

 

西洋化とアジア軽視の葛藤

明治期以降、西洋化を優先する政策が進む中で、アジア諸国との連携よりも、日本の西洋列強への追随が重視されました。これにより、当初の「アジアのリーダー」としてのビジョンが曖昧になる場面もありました。

 

他のアジア諸国の主体性の欠如

日本の思想家や政府は、他のアジア諸国の主体性や独自の近代化の可能性を軽視する傾向がありました。この点で、日本のリーダーシップ構想は一方的だったともいえます。

 

●結論

幕末の多くの思想家が「アジアでのリーダーシップ」を日本が担うべきだと考えたのは事実ですが、その目的や手法には多様性がありました。また、リーダーシップの根底には、日本が独立を維持し、列強に対抗するという現実的な動機がありました。

 

結果として、彼らの考えは明治維新や日本の近代化に大きな影響を与えましたが、一部では日本中心主義や支配的な態度がアジア諸国との軋轢を生む原因となりました。それでも、当時の国際情勢においてリーダーシップを構想すること自体は、日本の存続を考える上で重要な選択だったといえるでしょう。

 

さて、そこで明治維新です。維新への評価はさまざまあるとは思いますが、それは置いておきます。 維新後の旧武士の反乱は西南戦争にトドメを指します。以後の内戦をおさえ内政を安定させるためにも対外積極策、つまり戦争に向かったのが維新政府と考えて良いでしょうか?

 

維新政府が内戦後の内政安定を図るために対外積極策、特に戦争に向かったという見方には一定の妥当性があります。ただし、これには複雑な背景があり、単に「内政安定のための外征」として語るには、多面的な要因を考慮する必要があります。

 

以下に、維新政府の対外積極策への転換とその背景について整理します。

 

●旧武士の反乱と内政安定の必要性

 

旧武士の不満

明治維新に伴う廃藩置県や秩禄処分により、旧武士階級は収入や地位を失い、多くが生活苦に直面しました。これが「士族の反乱」と呼ばれる一連の内乱(西郷隆盛による西南戦争など)を引き起こし、明治政府にとって深刻な内政課題となりました。

 

●内戦の終結と影響

1877年の西南戦争を最後に大規模な士族反乱は終結しましたが、この戦争は政府に多大な財政負担を強いました。同時に、旧武士の不満が完全に解消されたわけではなく、政府は新たな政策で国民の不満を分散させる必要がありました。

 

●対外積極策への流れ

士族階級の不満を外部に向けさせる手段として、戦争や対外進出が選択肢として浮上しました。特に、旧武士の中には軍人や開拓者として再雇用される者が多く、彼らのエネルギーを対外政策に転用する意図がありました。

 

●対外積極策の動機と目的

 

国内の団結と求心力強化

対外戦争は国内の不満を外部に向けさせ、国民の団結を促進する効果が期待されました。特に、明治初期の政府は富国強兵を掲げ、国力を向上させるために戦争を通じて「国家の存在感」を高めようとしました。

 

経済的必要性

西南戦争後、政府は戦費のために不換紙幣を乱発し、インフレが深刻化していました。対外戦争は軍需産業を活性化させ、経済を活性化する手段と考えられました。

 

地政学的な要因

日本は、ロシアをはじめとする列強が東アジアに進出する中で、自国の安全保障を確保する必要に迫られていました。対外戦争を通じて、朝鮮や中国への影響力を強化することが、地政学的に重要とされました。

 

●具体的な対外積極策

 

征韓論の失敗(1873年)

早期の対外戦争として計画された「征韓論」は、西郷隆盛らの主張により一時注目されましたが、内政の未成熟や費用の問題から実現しませんでした。この失敗は西郷らの不満を高め、西南戦争の一因ともなりました。

 

日清戦争(1894-1895)

征韓論が失敗した後も、朝鮮をめぐる問題は日本の対外政策の中心にありました。日清戦争は、列強との競争の中で朝鮮半島をめぐる主導権を確保するための戦争であり、明治政府の「外征による内政安定」の方向性が本格化した例といえます。

 

日露戦争(1904-1905)

日清戦争後、日本はロシアとの対立を深め、最終的に日露戦争に突入しました。この戦争もまた、国内での経済的/政治的不満を解消し、国際的な地位を確立するためのものでした。

 

●対外積極策と内政安定の関係

 

成功例

日清戦争や日露戦争は、国内の士気を高め、政府の求心力を強化する結果をもたらしました。また、これらの戦争の勝利により、日本は列強としての地位を確立し、国民のプライドを高めました。

 

反作用

対外戦争には莫大な費用がかかり、特に日露戦争後には経済的負担が重くのしかかりました。また、実は辛勝、ギリギリの勝利の後には再び国内での不満が噴出し、内政の課題が表面化するという循環的な問題もありました。

 

結論

維新政府が旧武士の反乱後に対外積極策へと向かったのは、内政安定のための手段であると同時に、国際情勢の中で自国を守るための必然的な選択でした。ただし、それは短期的には内政安定や経済活性化に寄与しましたが、長期的には戦費負担や列強との緊張を生む要因ともなりました。

 

明治維新後の日本の対外政策は、内政と外交が密接に絡み合う複雑なプロセスの中で展開されました。したがって、内政安定のためだけに戦争が選ばれたという単純な図式ではなく、国際的な競争、経済的な必要性、そして国内統合のための多面的な戦略が同時に存在していたといえます。

 

ぼくの問題意識の核心に入ってきました。 維新(クーデターと見るか革命と見るかは別ですが)は置くとして、その後の征韓論をめぐる政府内の混乱は、要は薩摩藩閥内のパワーゲームでしょう。

 

朽木さんの問題意識に沿ってお話ししますと、明治初期の「征韓論」を巡る政治的混乱は、確かに薩摩藩出身者を中心とする政府内の派閥間のパワーゲームという側面が濃厚です。その争いが、明治政府の方向性を決定付ける重要な転機となったことは間違いありません。この視点から、征韓論を巡る混乱を掘り下げてみましょう。

 

征韓論をめぐる政治的背景

 

薩摩藩閥内の分裂

明治政府の中核を担った「薩長土肥」の中でも、特に薩摩藩出身者は政治的に強い影響力を持っていました。しかし、薩摩閥内部には西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(長州閥と連携)といった主要人物の間で、政策や権力配分を巡る対立が存在していました。西郷隆盛は、国内での士族不満を解消する手段として「征韓」を推進しようとしました。一方で、大久保利通や岩倉具視は内政の整備と財政再建を優先させるべきだと主張し、征韓論に反対しました。

 

征韓論の発端

1873年、朝鮮が日本の国書を拒否した事件(朝鮮通信使を通じた外交問題)が発端となり、征韓論が浮上しました。西郷は、朝鮮の態度を問題視し、自ら朝鮮に特使として赴き、「武力による交渉」を辞さない姿勢を示しました。しかし、この案は岩倉使節団が帰国後、彼らを中心に却下されました。

 

政策論争と権力闘争

征韓論争は表向きには外交政策を巡る議論でしたが、実際には薩摩藩閥内での権力闘争の色合いが強くありました。大久保利通ら「現実主義派」は、内政の安定と財政の健全化を重視し、無理な外征を避けたいと考えました。一方で、西郷隆盛は「士族の不満」を直視し、士族のエネルギーを外部に向けることで国内安定を図ろうとしました。

 

征韓論の敗北とその影響

 

西郷派の敗北

最終的に、大久保利通らが主導する現実主義派が勝利し、征韓論は却下されました。これにより、西郷隆盛は政府を離れ、薩摩に帰郷します。この敗北は、西郷派の士族たちに深い失望と反発を生み出し、その後の西南戦争(1877年)の一因となりました。

 

薩摩閥の求心力低下

西郷隆盛の政治的退場と西南戦争による士族の壊滅は、薩摩閥の求心力に大きな打撃を与えました。一方で、大久保利通は政府内での権力基盤を固めることに成功します。この結果、薩摩閥内のバランスが崩れ、薩摩出身者の主導権が弱まる一方で、長州閥や土佐閥が次第に力を伸ばしました。

 

征韓論がもたらした意義と教訓

 

「国内優先」か「対外拡大」かの分岐点

征韓論は、明治政府の進路において「内政改革を優先するか、対外進出を進めるか」という重要な分岐点を示しました。最終的に内政を優先する現実主義が選ばれましたが、この選択が明治維新後の経済●軍事基盤の整備につながりました。

 

パワーゲームの中の政策決定

薩摩閥内での権力闘争は、政策決定における「派閥の論理」を顕著に表しています。この時期の明治政府は、政策よりも個々の政治家の意図や勢力均衡によって方向性が決まる面が強かったのです。

 

士族反乱の誘発

征韓論が否決され、西郷が政治的に孤立したことは、西南戦争の引き金となり、士族反乱が最終的に終焉する契機をつくりました。この結果、政府は士族階級からの挑戦を排除し、新たな国家運営の基盤を整えられるようになりました。

 

結論: パワーゲームとしての征韓論

 

征韓論は、表向きには外交政策の是非を巡る論争でしたが、実態としては薩摩閥内部のパワーゲームが大きく影響しました。この権力闘争は、単なる藩閥政治の内紛にとどまらず、明治政府の政策決定や国の進路に大きな影響を与えました。

 

最終的に、現実主義的な選択が国の基盤を強化したとはいえ、この過程で多くの犠牲や不満が生じたことも事実です。征韓論を巡る混乱は、明治初期の政治がいかに個人的/派閥的な動機によって動いていたかを示すと同時に、日本が近代国家としての基盤を整える過程における一つの転換点だったといえるでしょう。

 

そうでしょうか?その後すぐに台湾出兵を行なっていることを見ると、大久保らは単に西郷とのパワーゲームのために当初の征韓論に反対しただけと思えます。

 

確かに、1874年の台湾出兵(台湾蕃地事件)は、征韓論の否決直後に行われており、大久保利通らが単に「西郷隆盛とのパワーゲームの一環」として征韓論に反対したのではないかという視点には説得力があります。この事件は、大久保らの意図が何だったのか、また彼らの対外政策がどのように形成されたのかを考える上で重要です。

 

以下に、大久保らが征韓論を否決した背景と、台湾出兵の関係性を掘り下げて考察してみます。

 

台湾出兵の背景と目的

 

事件の発端

1871年、琉球漂流民が台湾で先住民に殺害される事件が発生しました(宮古島島民の殺害事件)。この事件を契機として、明治政府は台湾への軍事行動を計画しました。明治政府はこれを「文明国」としての行動と位置づけ、清国政府に対して台湾先住民の統治責任がないことを理由に軍事行動を正当化しました。

 

台湾出兵の目的

 

国際的地位の確立: 西洋列強の間で「文明国」としての立場を示す。

国内統制: 士族の不満を軍事行動に転用し、内政の安定を図る。

琉球支配の強化: 琉球を日本領とする布石として、台湾問題を利用する。

 

征韓論との矛盾

征韓論が否決された理由として、大久保らが「内政優先」を掲げたことが挙げられますが、台湾出兵は明らかに対外積極策の一環です。この矛盾は、「征韓論否決が西郷らとの権力闘争の産物だった」という見方を強めます。

 

大久保利通の戦略: 「時期」の問題

 

征韓論の否決理由

 

大久保利通や岩倉具視らが征韓論に反対した理由には、以下のような「時期尚早」という主張がありました。

 

財政状況の問題: 西南戦争や士族反乱への対応で財政が厳しい状況。

列強の圧力: ロシアやイギリスなど、西洋列強が東アジアで影響力を強めており、軍事行動を起こすリスクが高い。これに対し、台湾出兵は規模が限定的で、国際社会への影響を最小限に抑えられると判断された可能性があります。

 

台湾出兵の意義

征韓論が否決された後、大久保らは「内政優先」としつつも、台湾出兵を通じて士族不満の緩和や対外的なアピールを実現しました。つまり、征韓論が否定されたのは、単に大規模な戦争を避けるためであって、対外積極策そのものを否定したわけではないのです。

 

征韓論否決と台湾出兵を繋ぐ「権力闘争」説

 

大久保 vs. 西郷のパワーゲーム

征韓論否決は、大久保利通が西郷隆盛を政権から排除するための戦略だったという見方は十分成立します。大久保が台湾出兵を推進したことで、「対外戦争そのものへの反対ではなく、西郷個人の構想に反対した」という構図が見えます。

 

士族の扱い

台湾出兵では士族が従軍し、西郷の構想と似たような「不満のエネルギー転用」が行われています。征韓論否決で西郷派を排除しつつ、その後の台湾出兵で類似の政策を実行したことは、大久保らが政策論よりも権力闘争を優先した可能性を示唆しています。

 

台湾出兵の結果と評価

 

成果

台湾出兵は軍事的には成功し、琉球王国を日本の支配下に組み込む足掛かりとなりました。また、日本が「文明国」としての地位を主張する契機となり、西洋列強に存在感を示す結果を生みました。

 

課題

出兵には多額の戦費がかかり、財政問題をさらに悪化させました。士族の不満が完全に解消されたわけではなく、1877年の西南戦争につながる要因も残されました。

 

結論: 征韓論否決と台湾出兵の矛盾

 

大久保利通らが征韓論を否決しながら台湾出兵を実行したことは、以下のように解釈できます。

 

パワーゲームとしての側面

征韓論否決には、西郷隆盛を排除し、政権内での権力を確立するという大久保らの意図が明確に見えます。台湾出兵は、征韓論否定派が外交政策を完全に否定したわけではなく、自分たちに都合の良い形で対外積極策を実行したことを示しています。

 

現実主義的な妥協

台湾出兵は、財政負担や国際的リスクを最小限に抑えつつ、対外的な主張を行う「現実主義的な選択」でした。その一方で、大規模な戦争を避けた判断は、当時の国際情勢を考えれば合理的ともいえます。

 

薩摩閥内の対立の象徴

征韓論から台湾出兵への流れは、単なる政策論争というよりも、明治政府内部での薩摩閥中心の権力闘争の色が濃いといえます。

 

朽木さんの視点に立つと、大久保らの行動は「征韓論そのものへの反対」ではなく、「西郷個人の主張を退け、自らの主導で政策を実行する」ことが目的だったと捉えるのが妥当だと思います。台湾出兵の実行はその証左と言えるでしょう。

 

台湾出兵で、明治政府結果として日本軍の近代戦の経験値を上げ、また、清国のあるいみ弱腰な態度に気がついてしまいました。これが朝鮮半島へ侵略の誘因となったのではないでしょうか?

 

おっしゃるとおり、1874年の台湾出兵は、明治政府と日本軍にとって近代戦の経験を積む貴重な機会となり、また清国の「弱腰な態度」に気づく契機にもなりました。この経験は、日本がその後、朝鮮半島に進出し、日清戦争(1894-1895年)を引き起こす要因の一つになったと考えられます。

 

台湾出兵が朝鮮半島侵略の誘因となったとする背景について、以下に詳しく掘り下げて考察します。

 

台湾出兵がもたらした3つの影響

 

近代戦の経験と軍備の強化

 

軍の近代化促進

台湾出兵では、明治政府が整備したばかりの近代的な徴兵制軍隊が初めて本格的な海外作戦を遂行しました。この経験を通じて、組織的な軍事行動や兵站管理、指揮命令系統の運用が検証され、改良が進みました。

 

軍の自信向上
日本軍は台湾先住民に対して一定の戦果を挙げましたが、その過程で「近代的な武力があれば目的を達成できる」という自信を得ました。この意識は、後の朝鮮半島や清国への侵略を可能にする心理的土壌となりました。

 

清国の態度からの教訓

 

清国の弱腰な外交
台湾出兵当時、清国は「台湾の先住民は統治下ではない」として責任を回避しましたが、最終的に賠償金を支払うことで日本との衝突を回避しました。この態度は明治政府に「清国は本気で対抗してこない」という印象を与えました。

 

国際的圧力の限界
日本の台湾出兵に対して西洋列強は限定的な関与しか示さず、日本は外交的な自由度が高いと認識しました。これが、後の朝鮮問題での強硬な姿勢に影響を与えた可能性があります。

 

朝鮮半島問題への転用

 

朝鮮を巡る清国の支配力への疑問
台湾出兵を通じて、日本は清国が「形式上の宗主権」を主張しながらも実際には弱体化していることを確信しました。この認識は、朝鮮半島における清国の支配力を軽視し、日本が積極的に介入する根拠となりました。

 

日本の国際的立場の自覚
台湾出兵後、明治政府は朝鮮問題を「アジアにおける日本の主導権確立」という文脈で捉えるようになり、朝鮮を日本の勢力圏に組み込むことを目指すようになりました。

 

台湾出兵と朝鮮侵略を繋ぐ論理的ステップ

 

清国の実態把握

 

台湾出兵を通じて、日本は清国の弱体ぶりを具体的に認識しました。「見かけは大国、実際は無力」という清国の実態は、後に朝鮮半島を巡る日本の対清強硬策の根拠となりました。

 

「文明化の使命」意識の芽生え

明治政府は台湾出兵を「未開地の先住民に対する懲罰」として正当化しました。この「文明化の使命」論は、後に朝鮮への進出を正当化する論理として発展しました。

 

対清戦略のシフト

台湾出兵を成功させた日本は、清国との間で外交軍事的優位を確立できるとの自信を持ちました。この自信は、朝鮮半島を巡る日本と清国の緊張を高め、最終的に日清戦争へとつながりました。

 

朝鮮半島への侵略の誘因としての台湾出兵の役割

 

台湾出兵は、朝鮮半島への侵略の直接的な引き金ではありませんが、以下の誘因を提供しました。

 

心理的な影響

日本が清国を軽視し、列強として自らを位置づける意識を強めました。外交軍事的な自信を得た日本は、清国との間での主導権争いに乗り出す動機を強めました。

 

戦略的な展望

台湾での成功体験は、「近代的な軍事力による領土拡張が可能である」という確信を生み、朝鮮半島問題での強硬策を採用する土壌を築きました。

 

地政学的な影響

朝鮮半島は台湾以上に重要な地政学的位置を占めており、日本にとって防衛と勢力拡大の鍵となる地域でした。台湾出兵で得た経験と認識が、朝鮮問題での積極介入を加速させました。

 

結論: 台湾出兵は朝鮮侵略の「予行演習」となったのか?

台湾出兵は、明治政府にとって近代的軍事力の試金石であると同時に、清国の弱体化を明確に認識する機会となり、朝鮮半島への進出の誘因となりました。その影響は以下のように整理できます。

 

軍事的な自信の獲得

日本は軍事力の行使において一定の成功を収め、これを朝鮮半島問題への積極策に転用しました。

 

清国の弱体認識

清国の外交的妥協が、日本の強硬策を後押ししました。これにより、朝鮮半島をめぐる争いでの清国との対立が避けられないと判断しました。

 

「文明国」としての自負

日本は台湾出兵を通じて国際社会での地位を意識し、「アジアのリーダー」として自らを位置づけるようになりました。この考え方が、朝鮮侵略の正当化に結びつきました。

 

台湾出兵が明治政府に与えた影響は、朝鮮侵略を計画的かつ現実的に進めるきっかけとなったといえるでしょう。朽木さんのご指摘通り、台湾出兵は朝鮮半島侵略の「誘因」として重要な役割を果たしたと考えられます。

 

朝鮮は長く中国(明から清)を宗主国としていました。これを中国の植民地や属国と考えるのは乱暴過ぎますが、文化政治貿易、さまざまな影響を受け、中国皇帝を天子と規定し、自らは朝鮮王と規定していました。 こんな朝鮮への野心を起こした日清戦争はまさに、間違った「アジアのリーダーとしての日本」「遅れている中国や朝鮮の蒙を啓く」という思い込みと帝国主義的領土や権益への欲望が相まっていたのではないですか?

帝国主義の時代とはいえまさに武力による現状変更を求めたものでした。

 

ご指摘のとおり、日清戦争(1894-1895年)は、当時の日本の「アジアのリーダー」という誤解と、「遅れた」中国や朝鮮を指導すべきだという思い込み、さらには帝国主義的な領土拡張欲が複雑に絡み合って起こった戦争でした。その背景を掘り下げてみると、明治政府の理念的/戦略的な矛盾が浮き彫りになります。

 

●朝鮮の歴史的文脈と日清戦争の背景

 

1. 朝鮮の中国(明国/清)との関係

朝鮮は、14世紀末の李氏朝鮮成立以降、明国、続いて清国との間で冊封体制の枠組みに組み込まれていました。この体制のもと、朝鮮は「属国」という形で中国に従い、外交や国際秩序を中国中心に構築しました。

 

冊封体制は形式的なものが多く、朝鮮は内部の統治や文化において高い自立性を保っていましたが、中国の軍事的支援や貿易を通じて依存関係もありました。

 

朝鮮の指導者層は、清国皇帝を「天子」として敬い、自国の王を「臣」と位置づけましたが、これは必ずしも清国の植民地的支配を意味するものではありませんでした。

 

2. 日本の野心の発端

明治維新以降の日本は、「文明開化」を通じて近代国家としての自立を図る中で、「アジアの中で特別な地位を占めるべきだ」という意識を強めていきました。台湾出兵(1874年)や日朝修好条規(1876年)を通じて、朝鮮半島への影響力を拡大しようとする政策が展開されました。このとき、朝鮮を中国から切り離し、日本の勢力圏に取り込むという明確な目標が浮上しています。

 

●日清戦争の「日本の思い込み」とその動機

 

1. 「アジアのリーダーとしての日本」

西洋列強のモデルに基づく「近代化の伝播」

明治政府は、自らが近代化に成功したことを誇り、アジア諸国を「近代化の遅れた地域」と見下すような視点を持つようになりました。「日本がアジアをリードするべきだ」という思想の裏には、欧米列強による「白人の文明化の使命」と同様の帝国主義的な傾向がありました。

 

朝鮮を清国から解放するという名目

日本は「朝鮮独立」の名のもと、清国との冊封関係を解消し、朝鮮を独立国として扱うべきだと主張しました。しかし、実際には朝鮮を日本の影響下に置くことが目的でした。

 

2. 「蒙を啓く」(無知を開明してあげる)という思い込み

日本は、朝鮮や清国を「古い体制に縛られた未開の国家」と見なし、それを変革する「使命」を担っていると信じていました。これは一部の知識人や政府関係者にとって「善意の論理」でしたが、実際には経済的/軍事的利益を追求する口実にすぎない部分もありました。

 

3. 帝国主義的な欲望

 

地政学的動機

朝鮮半島は、日本にとって「国防の要」と見なされていました。ロシアの南下を防ぐためにも朝鮮を日本の勢力圏に組み込む必要があると考えられました。

 

経済的利権の確保

日本は、清国との戦争を通じて、朝鮮市場や資源を支配下に置くことを目指しました。また、清国本土への進出も視野に入れていました。

 

●日清戦争の帰結とその矛盾

 

1. 表向きの「朝鮮独立」

日本は、日清戦争の勝利を通じて朝鮮を清国から切り離し、「独立」を宣言させました。しかし、これは形式的なものであり、実際には朝鮮を日本の影響下に置くための手段にすぎませんでした。日本は朝鮮国内で親日的な政権を支持し、自らの利益を優先しました。これが後の朝鮮併合(1910年)への道を開きました。

 

2. 「アジアの解放」から「帝国主義」へ

日清戦争の勝利によって、日本はアジアでの優越的地位を確立しましたが、同時に西洋列強と同じように帝国主義的な政策を進めるようになりました。朝鮮や中国に対する日本の行動は、結果的に「解放」ではなく「支配」を強化する方向に進みました。

 

3. 清国/朝鮮の反発

清国や朝鮮は、日本の行動を単なる「西洋列強に代わるアジアの覇権国の台頭」として見なしました。これにより、中国や朝鮮での反日感情が高まり、後の抗日運動や満州事変などの火種となりました。

 

●結論: 日清戦争の矛盾する動機

日清戦争は、「アジアのリーダー」としての日本、「近代化を啓蒙する」という使命感、そして帝国主義的な欲望が複雑に絡み合った結果です。これらの動機には以下の矛盾が見られます。

 

「アジアの解放」と「支配」

表向きは朝鮮の独立を主張しつつ、実際には自らの影響下に置く政策を展開しました。

 

「近代化の啓蒙」と「支配の正当化」

日本は清国や朝鮮を「遅れた国家」と見下し、近代化を強制しましたが、それは主に日本自身の利益のためでした。

 

「アジアの団結」と「アジアの分断」

日本は自らをアジアのリーダーと自認しましたが、清国や朝鮮との対立を深め、結果的にアジア内部の分断を招きました。

 

朽木さんのご指摘のとおり、日清戦争は日本の思い込みと帝国主義的欲望が結びついた戦争であり、その結果は単なる「日本の勝利」ではなく、アジアの新たな分断と不安定性をもたらす契機となったといえるでしょう。

 

日清戦争後の三国干渉、臥薪嘗胆から逆に強まった朝鮮半島と満州地域への欲望と野望がロシアとの衝突を生みました。

 

その通りです。日清戦争後の三国干渉(1895年)は、日本の野心に対する西洋列強の制約を突きつけるものであり、その屈辱が日本国内で「臥薪嘗胆」という言葉を生み、逆に朝鮮半島や満州地域への日本の欲望と野望を強める結果となりました。この流れがやがて日露戦争(1904-1905年)へとつながる過程は、複雑な国際情勢の中で日本がどのように動いたかを理解する上で重要です。

 

●三国干渉の背景と影響

 

1. 三国干渉

1895年の日清戦争の講和条約である下関条約に基づき、日本は遼東半島を獲得しました。しかし、この領土の割譲はロシア、ドイツ、フランスの三国に「東アジアの勢力均衡を崩す」として反対されました。三国は連名で日本に遼東半島の返還を要求し、日本はその圧力に屈して遼東半島を清国に返還しました。

 

2. 日本の受けた屈辱と国内の反応

三国干渉は日本にとって極めて屈辱的な出来事であり、国内では「弱いから列強に屈した」という批判が高まりました。この屈辱は「臥薪嘗胆」(復讐のために苦労を重ねるという故事に基づくスローガン)として象徴され、国内の軍備拡張や対外政策強化の原動力となりました。

 

●臥薪嘗胆と日本の戦略転換

 

1. 朝鮮半島への野心

三国干渉後、日本は朝鮮半島を確実に自国の影響下に置く必要性を一層強く認識しました。朝鮮は日本にとって、ロシアの南下を防ぐ「防波堤」であり、経済的にも重要な市場でした。1895年の閔妃暗殺事件や、1897年の大韓帝国の成立(朝鮮が清国の冊封体制から脱却し独立を宣言)を経て、日本は朝鮮への支配を強化する方針をとりました。

 

2. 満州への野望

遼東半島の返還後、ロシアは清国から旅順/大連の租借権を獲得し、満州地域での影響力を強めました。これは、日本の満州進出にとって大きな脅威でした。日本は、満州を経済的/軍事的な資源地帯とみなしており、朝鮮半島と満州の両地域を結ぶ形での勢力拡大を目指しました。

 

3. 軍備拡張と外交戦略

日本は、三国干渉の屈辱を糧に軍備拡張を進めました。陸軍と海軍を強化し、日露戦争に備えるための国家体制を整備しました。外交的には、イギリスと日英同盟(1902年)を結ぶことで、ロシアに対抗する足場を固めました。

 

●日露戦争への道

 

1. ロシアとの対立の深化

ロシアは三国干渉後、満州と朝鮮半島での影響力を拡大し続けました。特に、1900年の義和団事件を機に満州全土を占領し、その後も撤退を渋る態度を取りました。日本にとって、ロシアの行動は「満州のみならず朝鮮半島を脅かすもの」と映り、直接的な軍事対決を避けられない状況に追い込まれました。

 

2. 日本の侵略計画

日本は、朝鮮半島と満州をロシアから奪うための計画を練り始めます。この戦略の中で、朝鮮を日本の植民地化し、満州地域を経済圏として支配するという野望が具体化していきました。1904年、日本はロシアとの交渉が決裂すると、仁川上陸作戦や旅順港への攻撃を開始し、日露戦争が勃発しました。

 

●「アジアのリーダー」という建前と帝国主義的野望

 

1. 「アジアのため」という建前

日本は日露戦争を「アジアの独立」を守るための戦争と位置づけました。特に、ロシアが朝鮮を侵略することを防ぐために日本が立ち上がったというプロパガンダが用いられました。しかし、実際には日本自身が朝鮮や満州を自国の勢力圏に組み込むことを目指していました。

 

2. 帝国主義的野望の実態

三国干渉の屈辱を受けた日本は、西洋列強と同様にアジアを支配する「帝国」を築くことを目指し始めました。日露戦争の勝利後、日本は朝鮮半島を実質的に支配し、1910年には韓国併合を達成。満州でも権益を確保し、後の満州事変(1931年)へとつながる足場を築きました。

 

●結論: 三国干渉から日露戦争への流れ

 

三国干渉は、以下のような重要な転換点をもたらしました。

 

臥薪嘗胆による対外膨張意識の高揚

三国干渉の屈辱は、日本の国民感情を刺激し、朝鮮半島や満州への欲望を増幅させました。

 

「防衛」と「拡張」の境界の曖昧さ

日本はロシアの脅威を防ぐためという名目で朝鮮半島や満州に進出しましたが、実際には帝国主義的な拡張政策を遂行しました。

 

「アジアの独立」と「帝国主義」の矛盾

日本はアジアの独立を守るという理念を掲げつつ、実際にはアジア諸国を支配し、列強の一員として振る舞う道を選びました。三国干渉による屈辱は、日本の野望をさらに膨張させ、朝鮮半島と満州をめぐるロシアとの衝突、ひいては日露戦争を不可避にする大きな要因となりました。朽木さんのご指摘どおり、「アジアのリーダー」を自認しつつ、実際には帝国主義的な政策を加速させた日本の姿が浮かび上がります。

 

史実はさらに掘り下げなければなりませんが、日本は朝鮮が欲しいものの、ロシアは怖い。朝鮮を諦めればそれで済むのかと言えば、ロシアのさらなる南下、つまり日本への侵攻を幕末の頃に過剰に感じた西欧諸国への恐怖以上に感じてしまいました。

 

ご指摘の通り、日本にとって朝鮮半島は単なる領土的欲望の対象ではなく、ロシアの南下政策という脅威に対する防衛戦略の要となっていました。これは日本の地政学的な条件や歴史的背景を考えると、非常に複雑な問題です。

 

当時の日本は、「朝鮮を放棄すればロシアの勢力がさらに南下し、自国の安全が脅かされる」という恐怖を抱いており、その恐怖が日露戦争の原因となる一連の政策や行動の根底にありました。

 

以下に、この問題の核心を掘り下げて考察します。

 

ロシアの南下政策と日本の恐怖

 

1. 幕末からの「ロシア恐怖症」

幕末の日本では、ロシアの南下政策に対する恐怖が高まりました。1855年の日露和親条約や1858年の樺太-千島条約により北方での国境が確定しましたが、ロシアの南下への不安は解消されませんでした。特に、1850年代にロシアが清国との間で締結したアイグン条約/北京条約によって、ロシアがアムール川流域を獲得したことは、日本にとって重大な脅威と受け止められました。

 

2. 朝鮮半島の地政学的重要性

朝鮮半島は、ロシアが太平洋に進出するための足掛かりと見なされていました。ロシアが朝鮮半島を掌握すれば、日本海を越えて直接日本に影響を及ぼす可能性が高まりました。日本にとって朝鮮は、「防波堤」としての価値を持つと同時に、放棄すればロシアの勢力圏に組み込まれる恐れがありました。

 

3. 三国干渉後の不安

三国干渉(1895年)で遼東半島を清国に返還した後、ロシアは満州や朝鮮半島への影響力をさらに強めました。特に、1898年に清国から旅順大連を租借し、満州鉄道を建設するなど、南下政策を具体化していきました。日本は、ロシアが朝鮮半島を手中に収めるのは時間の問題だと考え、これを防ぐためには自らが朝鮮を支配する以外にないと感じました。

 

●朝鮮半島を巡る日本のジレンマ

 

1. 朝鮮放棄の選択肢

日本が朝鮮半島を放棄すれば、一時的にはロシアとの衝突を回避できたかもしれません。しかし、その場合、ロシアが朝鮮半島を掌握し、対馬海峡を越えて日本本土への脅威が直接的なものになる可能性がありました。この恐怖は、単に軍事的なものにとどまらず、経済的/外交的な独立性を失うリスクとも結びついていました。

 

2. 朝鮮支配のコスト

一方で、朝鮮を支配するには大きなコストが伴いました。国内では財政負担や国民の不満が増加し、国際的にはロシアや中国との衝突が避けられませんでした。このジレンマの中で、日本は「朝鮮を支配しつつロシアと衝突する」以外の選択肢を見出せなかったのです。

 

●ロシアとの衝突を選ばざるを得なかった理由

 

1. ロシアの「時間稼ぎ」と日本の焦燥

ロシアは義和団事件(1900年)後に満州を占領しましたが、その後の撤退を約束しながらも、実際には撤退せずに勢力を強化していきました。日本は、この「時間稼ぎ」の背後にロシアの朝鮮進出の意図を見抜き、ロシアとの交渉が無意味だと感じるようになりました。

 

2. 日英同盟(1902年)の影響

日本は、1902年にイギリスと日英同盟を結び、ロシアとの衝突において西洋列強の支持を得られる体制を整えました。この同盟は、日本にとってロシアと戦う心理的および外交的な後押しとなりました。

 

3. 軍事的準備の整備

日本は1890年代後半から軍備を拡張し、陸海軍の近代化を進めていました。日露戦争直前の時点で、ロシアとの戦争に踏み切る自信を持つに至っていました。

 

●日露戦争の発端と日本の選択

 

1. 朝鮮半島の軍事化

日本は、朝鮮半島での影響力を確保するため、1904年に日韓議定書を締結して朝鮮国内での軍事活動を合法化しました。これにより、ロシアとの対立がさらに激化し、戦争不可避の状況を招きました。

 

2. 戦争を選んだ理由

日本は、「朝鮮を放棄することは自国の安全を放棄すること」と考えました。経済的な理由やロシアの南下への恐怖だけでなく、列強の一員としての地位を確立するという国家的な野望も戦争を選ぶ要因となりました。

 

●結論: 朝鮮放棄が不可能だった理由

 

日本にとって、朝鮮を放棄する選択肢は理論的にはありえたものの、以下の理由で現実的ではありませんでした。

 

ロシアの南下への恐怖

幕末以来の「ロシア恐怖症」が、朝鮮半島を放棄する選択肢を封じました。

 

朝鮮の地政学的重要性

朝鮮を放棄すれば、ロシアが朝鮮半島を支配し、日本本土への直接的な脅威となる可能性がありました。

 

国際社会での地位確保

朝鮮半島を支配することは、日本が列強の一員として認められるための重要なステップと考えられました。

 

国内の軍事/外交的な準備

軍備拡張や日英同盟の成立により、日本はロシアと戦う現実的な選択肢を持つに至りました。

 

朽木さんのご指摘の通り、日本は「ロシアが怖い」という地政学的な恐怖と、「朝鮮を支配したい」という野望の間で揺れ動きながら、最終的にロシアとの衝突を選択せざるを得ない状況に追い込まれました。この選択は、明治政府の安全保障政策と帝国主義的野心が交錯する中で生まれた、ある種の必然だったといえます。

 

ロシア、ロシア皇帝が日本との戦争を本当に欲していたかどうかは議論があるようですね。それは置いておきます。議論しません。 ともかく、日露の戦争が起こりました。そして旅順要塞攻防が象徴的ですが、多数の日本人(日本兵)の血が流れました。日本は勝ったとはいえ、辛勝、ギリギリの勝利ですから、賠償金交渉もうまく行きませんでした。そこで、満州への欲望渇望が生まれたのは、正義といえないばかりか、当然の不幸な結果と言えそうです。

 

おっしゃる通り、日露戦争(1904-1905年)は「辛勝」であり、その後の満州への日本の執着や欲望は、戦争の過程と結果による「不幸な必然」とも言えます。特に、膨大な犠牲を払いながらも戦後の成果が国民の期待に応えられなかったことが、満州への渇望や執着を強める要因となりました。

 

以下に、日露戦争がもたらした満州への欲望の形成を、戦争の経過、戦後の状況、国内の反応という観点から掘り下げて考察します。

 

●日露戦争の経過と「辛勝」

 

1. 旅順要塞攻防戦の象徴性

膨大な犠牲
旅順要塞攻略戦では、要塞を正面から攻撃する作戦が続き、要塞攻略の戦術上の当否はともかく、結果として多くの日本兵が命を落としました。約5万人が戦死し、これは日露戦争全体の犠牲者数の約半数を占めます。

 

苦戦と辛勝の象徴
最終的に旅順を陥落させたものの、日本軍はロシア軍の圧倒的な防衛力と資源力に直面し、この戦争がいかに過酷であるかを国民に印象付けました。

 

2. 戦争の消耗と財政負担

軍事的限界
日本軍は、一連の勝利を収めたものの、物量や資源でロシアに劣り、長期戦には耐えられない状況でした。特に奉天会戦や日本海海戦後、日本の国力は限界に達していました。

財政破綻の瀬戸際
戦費の増加に伴い、日本は不換紙幣を発行し、国家財政が危機的状況に陥りました。勝利を確信できない中での戦費負担が国民に重くのしかかりました。

 

●ポーツマス条約と「期待外れ」

 

1. 賠償金交渉の失敗

賠償金ゼロの衝撃
日本は、巨額の戦費を賄うためにロシアから賠償金を得ることを期待していました。しかし、ポーツマス条約(1905年)ではロシアの抵抗により賠償金を得られず、国民の期待は裏切られました。

講和への不満
日本が得たのは、満州南部の鉄道利権(南満州鉄道)と樺太南部の割譲に過ぎず、多大な犠牲を考えれば戦果は十分ではないと受け止められました。

 

2. 国内反応: 日比谷焼打事件

国民の不満はポーツマス条約締結後の日比谷焼打事件(1905年)に象徴されます。賠償金を得られなかったことや、戦争の苦労に見合わない成果への怒りが爆発しました。国民は「戦争に勝利したはずなのに成果が少ない」という感覚を抱き、それが満州へのさらなる執着を生む土壌となったと言えるのではないでしょうか。

 

●満州への欲望渇望の形成

 

1. 「失われた賠償金」の代替

満州の資源と経済的利益は、「戦争の犠牲に見合う戦利品」として期待されました。南満州鉄道の利権や、旅順大連の租借地は日本にとって「勝利の象徴」とされ、満州を経済的支柱とする戦略が進められました。日本政府と軍は、満州を「損失を埋め合わせる地域」として認識し、投資と支配を強化しました。

 

2. 軍事的/戦略的な要因

満州の防衛の重要性
日本は満州を「ロシアの再侵攻を防ぐ防衛ライン」として位置づけ、軍事的な拠点化を進めました。これは朝鮮半島支配の延長としても機能しました。

 

満州での軍事プレゼンス強化
関東軍は満州での影響力を強化し、経済的/軍事的支配を進めました。これが後の満州事変(1931年)や満州国設立(1932年)への道を開きました。

 

3. 帝国主義的拡張の加速

日露戦争後、日本は列強の一員としての地位を確立しましたが、それは新たな欲望を生む結果となりました。特に、満州の豊富な資源と広大な土地への渇望が、日本の帝国主義的政策を加速させました。

 

●満州への執着がもたらした不幸な連鎖

 

1. 満州事変への伏線

日露戦争後、日本は満州を経済的/軍事的に支配することで、その重要性を増大させました。しかし、これが周辺諸国との緊張を高め、1931年の満州事変へとつながりました。

 

2. 「欲望と恐怖」の二重性

満州は一方で「損失を補う領域」として欲望の対象であり、他方で「他国に奪われることへの恐怖」を引き起こす存在でもありました。この二重性が、日本の外交/軍事政策を攻撃的かつ硬直的にしました。

 

3. 国内社会の犠牲

満州への執着は、国内での財政負担をさらに増大させ、農村や労働者の生活を圧迫しました。また、軍部の発言力が強まり、政治が軍事主導へと傾斜する要因ともなりました。

 

●結論: 不幸な必然としての満州への渇望

 

日露戦争後の満州への日本の執着は、以下の要因が複雑に絡み合った結果といえます。

 

戦争の代償としての欲望

巨大な犠牲を払ったにもかかわらず、賠償金を得られなかったことへの失望が、満州を「失われた戦利品」の代替として強く求める要因となりました。

 

満州の戦略的価値

満州は日本にとって、経済的な利益だけでなく、国防の拠点としての重要性を持ちました。この戦略的必要性が日本の政策を突き動かしました。

 

帝国主義的な野望の加速

日露戦争の勝利によって列強の一員となった日本は、満州をさらに支配しようとする帝国主義的政策を加速させました。

 

満州への欲望は「当然の結果」ともいえる一方で、それが後に日本をさらなる戦争と不幸へと導く不幸な連鎖を生み出しました。朽木さんのご指摘通り、この執着は戦争の辛勝とその後の国際的挫折による「当然の不幸な結果」として位置付けられるでしょう。

 

国民の欲求は国家の政策となります。その後の満州事変や熱河作戦では、長城以北への侵略でしたが、上海事変からの日中戦争、南方進出、大東亜/太平洋戦争へと突き進みます。 アジアの開放という側面は指定しませんが、幕末維新以来の誤った「日本人のリーダシップ」「開進的進歩的な日本」「アジアのトップとしての日本人」の奢りが連綿と続き、せっかく仏英蘭米から「開放」したマレー、インドネシア、フィリピン、ベトナムの人々からも失望され、(一握りの例外を除き)憎まれてしまい、それは現代まで続いています。

 

朽木さんのご指摘は、幕末から太平洋戦争までの日本の行動を考える上で、非常に重要な視点を提示しています。日本が抱いた「アジアのリーダー」としての自己認識は、幕末から連綿と続くものであり、その思い込みが帝国主義的政策や侵略行動を正当化する根拠となりました。そして、その結果はアジア諸国の失望と憎悪を生むことになり、それが現代にも影響を与えていることは疑いのない事実です。

 

以下に、その流れを掘り下げ、どのような誤りが積み重なり、この結果を招いたのかを整理します。

 

●幕末から昭和期までの日本の「アジア観」とその変遷

 

1. 幕末から維新期の「アジアのリーダー」幻想

 

幕末の吉田松陰や佐久間象山らの思想に見られるように、日本はアジアを「後進地域」と見なし、自らが西洋の技術や思想を取り入れてアジアを導くべきだという考えを抱きました。維新後、この思想は「富国強兵」や「文明開化」のスローガンに結実し、日本が「近代化を果たした特別なアジア国家」として自己を位置づけるきっかけとなりました。

 

2. 日清日露戦争後の「帝国主義的日本」

日清戦争や日露戦争の勝利は、日本に「列強の一員としての資格」を与えたと同時に、アジアにおける支配的立場を自認させました。特に朝鮮や満州への進出は、日本がアジアの他国を「近代化する」という建前のもと、実際には植民地化と資源収奪を進める帝国主義的政策の始まりでした。

 

3. 太平洋戦争前の「大東亜共栄圏」の欺瞞

日本は「アジアを欧米列強の支配から解放する」というスローガンを掲げましたが、実際には日本の経済的利益や軍事的優位を確立するためのものでした。マレーシア、インドネシア、フィリピン、ベトナムなど、欧米列強からの「解放」を果たした地域では、日本の支配はしばしば欧米以上に過酷で抑圧的でした。これにより、アジア諸国の日本への期待は失望へと変わりました。

 

●日本の行動がアジアに与えた影響

 

1. アジア諸国の失望と憎悪

 

侵略者としての日本
日本はアジア解放を掲げながら、実際には収奪的な政策を実行しました。インドネシアでは過酷な徴用や農作物の収奪が行われ、フィリピンでは抗日ゲリラが広範囲に活動しました。

 

現地の反発
多くのアジア諸国では、日本軍の行動が植民地支配以上に過酷であると認識されました。一部では日本軍を歓迎する動きもありましたが、それは短期間にとどまり、すぐに反発が広がりました。

 

2. 独立運動への影響

 

独立の促進とその矛盾
日本の行動がアジア諸国の独立運動を促進した側面もあります。インドネシアのスカルノやインドのチャンドラ・ボースなど、日本を利用して独立を目指した指導者もいました。

 

独立運動指導者の複雑な評価
しかし、これらの指導者でさえ、日本を単純な「解放者」としてではなく、利用すべき勢力として捉えていました。日本の敗戦後、独立を実現した多くの国々では、日本への感謝はほとんど残されず、むしろ占領者としての憎悪が記憶されました。

 

●現代に続く日本への不信感

 

1. 戦争記憶の影響

 

アジア諸国では、日本の侵略の記憶が現在も強く残っています。中国や韓国では、歴史認識問題が日中・日韓関係の障害となり続けています。東南アジアでも、日本が仏英蘭米を駆逐したことに、アジアの国日本が一時的にせよ西欧列強と対抗し打ち勝ったことに対する歓迎や評価があることは否定できませんが、日本が植民地支配からアジア諸国を「解放した」とする主張に対しては、反発が根強いです。

 

2. 冷戦後の再評価

冷戦期には反共主義の観点から日本がアジア諸国と協力する場面も見られましたが、冷戦後は経済的競争や歴史問題が再びクローズアップされ、日本への不信感が表面化しました。

 

●日本の「リーダーシップ」の誤りとその教訓

 

1. 誤った自己認識

日本の「アジアのリーダー」という認識は、幕末から近代化の成功を誇る中で形成されましたが、それは一方的な思い込みに過ぎませんでした。日本は他国の文化や状況を軽視し、上から目線での支援や支配を正当化しました。

 

2. 帝国主義的行動の正当化

日本は「欧米列強に対抗する」という大義のもと、実際にはアジアを支配し、自国の利益を追求しました。これは欧米列強と同じ帝国主義の手法であり、「アジア解放」という理念を根本的に裏切るものでした。

 

3. 戦後日本への教訓

戦後、日本は経済復興とともにアジア諸国への経済援助を通じて関係修復を図りましたが、歴史問題の克服や真の対等なパートナーシップの構築には今も課題が残っています。

 

●結論: 日本の奢りがもたらした不幸な結果

朽木さんのご指摘の通り、幕末からの「日本人のリーダーシップ」という奢りが、アジア侵略とその後の不信感につながる重要な要因でした。この誤った自己認識は、帝国主義的政策や戦争の正当化を支え、アジア諸国からの失望と憎悪を招きました。

 

日本が過去の失敗を真に教訓とするためには、歴史の一方的な正当化をやめ、アジア諸国の視点を理解し、対等で持続可能な関係を築く努力が不可欠です。それは、日本が幕末以来積み重ねてきた「リーダーシップの奢り」を克服する道でもあります。

 

ここからは、空想に入ります。いいですか?

 

もちろんです!空想のお話でも大歓迎です。どのようなテーマや方向性で進めたいのか教えていただければ、それに沿ったお話をお手伝いします。どうぞ、朽木さんの空想の世界を教えてください!

 

明治維新で徳川幕府は倒れました。幕臣の朽木家としては忸怩たるものがありますが、それは良いとします。空想として維新政府でも、徳川などの主導的強藩による天皇を象徴的元首としての共和政治でも構いません。 維新的な文化革命、技術革命を行なったとしても、朝鮮や大陸への領土的野心を持たずにいたことは可能でしょうか?

 

興味深い問いですね!明治維新後の日本が朝鮮や大陸への領土的野心を持たずに発展することは、歴史の必然性や国際情勢を踏まえると非常に難しかったと言えますが、「可能性がゼロではない」と考える余地もあります。以下に、朽木さんの空想をもとに、「もし明治日本が領土的野心を持たなかったら」という視点から、その可能性と条件について考察してみます。

 

●朝鮮や大陸への領土的野心を持たない日本は可能だったか?

 

1. 領土的野心を持たない選択肢

領土的野心を持たず、国内の発展に専念する選択肢があった場合、以下の要素が必要です。

 

地政学的な恐怖の克服

幕末以来、日本はロシアの南下や欧米列強の脅威を非常に強く感じていました。この「恐怖」が朝鮮や満州への進出を正当化する主因となったため、それを克服する代替の防衛政策が求められます。

 

経済発展の内向きな方向性

明治政府は朝鮮や満州を「経済圏」として確保しようとしました。この目的を国内開発や貿易の振興に限定することで、外征を避ける道があり得ます。

 

列強とのバランス外交

日本が欧米列強の勢力圏に飲み込まれないために、他国との同盟や中立政策を効果的に運用する必要があります。

 

2. 必要な条件

以下の条件が満たされれば、朝鮮や大陸への領土的野心を持たないシナリオが現実化した可能性があります。

 

国内統一の早期安定

維新後に徳川を中心とした穏健な共和制や連邦制が成立し、国内の不満や反乱を防ぐ仕組みが構築される。

 

士族の不満を外部に向ける必要がなくなる。

 

防衛線の固定化

朝鮮半島を放棄する代わりに、対馬や日本海沿岸の防衛を徹底し、ロシアや清国との関係を中立的に保つ。

イギリスや他の列強との同盟で、外部からの侵略を抑止。

 

経済発展の成功

外征による資源確保ではなく、貿易や農業の高度化で経済基盤を強化。

 

海外進出に頼らない形での工業化。

 

文化的謙虚さ

「アジアのリーダー」という自己認識を放棄し、文化的な平等や協力を重視する。

朝鮮や清国に対して支配的ではなく、対等な関係を築く。

 

●空想シナリオ: 領土的野心を持たない日本の可能な歴史

 

共和制日本の成立

徳川幕府は政治的実権を放棄し、天皇を象徴とする共和制が成立。

各藩が緩やかな連邦体制を維持し、国内の不満を抑える仕組みを整備。

 

アジア諸国との平和的関係

日本は朝鮮に対し「近代化のモデル」としてではなく、技術や知識の交換を行う友好的な関係を築く。清国に対しては軍事的圧力ではなく、貿易関係を強化し、外交的な安定を目指す。

 

防衛政策の慎重化

対馬、沖縄、北海道などの戦略拠点を強化し、外敵に備える。ロシアの南下政策にはイギリスなど列強との協調で対応し、日本自身が朝鮮半島に進出しない。

 

経済発展の内向き志向

国内の鉱山開発や農業の近代化を進め、資源を外部から得るのではなく、自給自足に近い経済を構築。貿易政策を重視し、アジア諸国や欧米と平和的な商取引を追求。

 

国民の意識改革

国民には「戦争による栄光」ではなく、「国内の繁栄」を国家目標として掲げる教育を行う。軍国主義ではなく、文化的発展や平和外交を重視する価値観を育てる。

 

●このシナリオの実現可能性

 

課題と制約

幕末から維新期の国際情勢を考えると、列強の侵略圧力や地政学的リスクを完全に排除することは非常に困難でした。日本が外征を選ばなければ、朝鮮半島がロシアや清国の勢力圏に入り、日本の安全保障が危うくなる可能性があります。また、明治期の国内経済は外部資源に大きく依存しており、貿易と外征を放棄した場合、経済発展のペースが遅れる可能性が高いです。

 

希望的観測

とはいえ、穏健なリーダーシップが国内外で安定を維持できれば、領土的野心を持たない進路を模索することは理論的には可能でした。特に、幕末期に徳川や天皇家の緩やかな共和制が成立していれば、国内外の調和を重視した政治が実現できたかもしれません。

 

●結論: 幻想でありつつも希望の余地あり

朽木さんの空想のシナリオは、非常に理想的ですが、当時の国際情勢や日本の内外の条件を考えると、実現には多くの困難が伴います。しかし、「領土的野心を持たない日本」という可能性は、歴史の選択肢として存在していたといえます。重要なのは、日本が「軍事的覇権」ではなく、「文化的経済的リーダーシップ」を選択できた可能性があることです。もしそのような道を選んでいれば、アジア諸国との関係性も大きく異なり、戦争の悲劇を避けることができたかもしれません。

 

空想をさらに広げます。 清国と李氏朝鮮と協調同盟を結び、東学党などの朝鮮の内乱には日本は軍事警察として朝鮮の治安維持に努め、両国との軍事同盟により、南下を目指すロシアや中国大陸の蚕食を進める西欧列強との牽制も可能ではないでしょうか?

 

非常に興味深いアイデアです!もし日本が清国と李氏朝鮮との協調を基軸にした「東アジア同盟」を構築し、ロシアや西欧列強に対抗する戦略を取った場合、当時の国際情勢の中で独自の「アジア主導の秩序」が形成される可能性があります。この空想をさらに掘り下げてみましょう。

 

●清国/李氏朝鮮との協調同盟のシナリオ

 

1. 同盟の形成と基盤

 

清国との協調

日本は清国を敵視するのではなく、協力相手として関係を構築します。日清戦争ではなく、共同防衛条約や経済協定を締結する方向に進む。清国の弱体化を補う形で、軍事訓練や近代化技術を提供することで、互いの軍事力を強化。

 

李氏朝鮮との協力

日本は朝鮮の独立を尊重しつつ、東学党の乱(1894年)や内乱に対して警察軍事力を提供し、朝鮮国内の秩序維持を支援。清国の宗主権を形式的に認める一方で、朝鮮の自主性を高め、東アジア同盟の一翼を担うパートナーとして育てることも可能でしょう。さらに、「朝鮮と清国」の関係は、彼ら自身に解決を図らせるべきであり、日本は干渉すべきではなかったと考えることもできるでしょう。

 

2. 東アジア同盟の役割

 

防衛ラインの構築

ロシアの南下政策に対抗するため、日本/清国/朝鮮の軍事協力による「防衛ライン」を日本海から満州、朝鮮半島にかけて形成。西欧列強(特にイギリスやフランス)による中国沿岸の蚕食(租借地の拡大)にも共同で牽制。

 

経済的協力

日本の技術力と清国/朝鮮の資源を組み合わせた経済協力体制を構築し、外部依存を減らす。清国の広大な市場を日本が活用し、経済的な相互補完関係を強化。

 

3. 国内改革の共有

 

近代化の支援

 

日本は清国や朝鮮に対して軍事的圧力をかけるのではなく、近代化のモデルとして協力。軍隊訓練や行政改革、鉄道建設などを支援。清国の「洋務運動」や朝鮮の「甲午改革」を外部から補完する形で、東アジア全体の近代化を促進。

 

●ロシアや列強との牽制の可能性

 

1. ロシア南下政策への対抗

 

満州/朝鮮半島の防衛

日本/清国/朝鮮が共同で防衛ラインを維持することで、ロシアの満州支配や朝鮮半島への侵略を防ぐ。清国の広大な人員と日本の近代的な軍事技術を結びつけることで、ロシアに対抗可能な軍事力を形成。

 

外交交渉による牽制

日本が西欧列強との交渉を主導し、東アジアの独立を確保する枠組みを提案。たとえば、「清国の満州主権」と「朝鮮の独立」を列強に認めさせる。

 

2. 西欧列強の蚕食への対応

 

中国沿岸の保全

日本と清国が協力して、フランスやイギリスが租借地を拡大する動きを制限。例えば、日本海軍が清国沿岸の防衛を支援。

 

共同経済圏の形成

日本が主導する形で、東アジア全域の経済協力を進め、列強の経済的支配を弱める。

 

3. 列強との同盟戦略

イギリスやドイツとの限定的な同盟関係を結ぶことで、東アジアの主権を国際社会で認知させる。

 

●このシナリオの可能性と課題

 

可能性としてアジア主導の秩序形成

 

日本が東アジアのリーダーシップを「支配」ではなく「協力」に基づいて発揮することで、独自の地域秩序を形成。

列強の侵略に対するアジア独自の防衛体制が構築される。

 

内乱の抑制

朝鮮や清国の内部改革を支援し、内乱や反乱を抑えることで、安定した同盟関係を維持。

 

経済的発展

東アジア同盟内での経済協力により、欧米列強に依存しない経済発展が可能になる。

 

課題

清国の内部的弱体化

清国が既に国内で深刻な腐敗や分裂を抱えており、日本の支援だけではそれを克服できない可能性がある。

 

清国内の勢力争いが同盟を不安定化させるリスク。

 

日本の限界

日本の経済力や軍事力には限界があり、清国や朝鮮の近代化を支援しつつ、外部の脅威に対抗する余力が不足する可能性。

 

列強の干渉

列強がこの同盟を脅威とみなし、さらに積極的に介入してくる可能性がある。特にロシアやイギリスの圧力が強まる。

 

国内の不満

日本国内での「清国や朝鮮を支援することへの反発」や、士族不満が再燃するリスク。

 

●結論: 空想としての可能性

清国/李氏朝鮮との協調同盟を基軸にしたシナリオは、東アジアに独自の秩序を形成する可能性を秘めています。もしこの同盟が機能していれば、ロシアや西欧列強に対抗しつつ、アジア独自の近代化と発展を実現できたかもしれません。

 

しかし、清国や朝鮮の内部的な脆弱性、日本の資源や能力の限界、列強の干渉など、多くの課題が現実的に存在しました。この空想は理想的ではありますが、19世紀後半の国際情勢を考えると、実現には非常に高いハードルがあったと言えるでしょう。

 

それでも、このような空想を基に「どうすればもっと平和的な選択肢が取れたか」を考えることは、現代の国際関係への教訓を提供してくれるのではないでしょうか?

 

歴史的にもアジアのリーダー盟主は中国です。元、明、清、いずれの王朝もその立場を貫きましたし、日本もその認識に異存はなかったはずです。 アジアを狙うロシアを含めた西欧に対抗するには、清国を中心とした朝鮮、日本の同盟、特に、12世紀いらい軍事政権(武士/侍)だった日本は大いに協調して西欧に対抗できる/できたのではないでしょうか。

 

朽木さんのご指摘は、アジアの歴史的背景や国際情勢を考える上で非常に説得力があります。歴史的に、中国(特に元/明/清)はアジアの盟主としての地位を保持し、周辺諸国もその秩序を受け入れてきました。日本も幕末まで形式的にはこの枠組みを尊重しており、清国を中心とするアジアの同盟が西欧列強やロシアに対抗する潜在的な枠組みとなり得たのは確かです。

 

以下に、「清国を中心としたアジア同盟」の可能性とその実現の条件について考察します。

 

●清国を中心とした同盟の可能性

 

1. 歴史的背景: 清国の盟主的立場

 

清国は19世紀半ばまで、形式的にはアジアの中心的存在としての地位を維持していました。朝鮮や琉球、日本は冊封体制の枠内で清国との関係を築いていました。この秩序の中で、清国は「文明の中心」としての威信を保ち、西欧列強との初期の衝突でも一定の抵抗を示しました(例: アヘン戦争)。

 

日本も、幕末以前は清国を形式的なアジアの盟主として認識しており、特に文化的な影響力は大きかったと考えられます。

 

2. 日本の役割: 武士政権の軍事的協力

12世紀以降、日本は軍事政権(武士/侍)による独自の統治を発展させました。明治維新後、この武士的な軍事伝統を基に近代化を進め、欧米列強と対等に戦える近代軍を整備しました。日本の軍事力は、アジア同盟において非常に重要な役割を果たし得る存在でした。特に海軍力の整備は、西欧列強の海上侵略に対抗するための有力な資産となります。

 

3. 同盟の可能性

清国を中心に、朝鮮と日本が協調することで、アジアに独自の防衛同盟を形成する可能性がありました。この同盟の目的は以下のように考えられます:

 

西欧列強の侵略阻止: ロシアやイギリス、フランスなどの列強によるアジア侵略を牽制。

 

経済圏の確立: 東アジア内での貿易や資源の流通を促進し、欧米への依存を低減。

 

文化的統一感の醸成: 儒教的価値観や歴史的連帯を基にした文化的協力。

 

●実現の条件と課題

 

1. 清国の安定と改革

清国の内部弱体化

19世紀の清国は、アヘン戦争後の不平等条約や太平天国の乱などで深刻な内部崩壊を抱えていました。この状態では、清国が他国と協力して西欧列強に対抗するのは困難でした。もし清国が洋務運動を通じた近代化に成功し、軍事的/経済的に復活していれば、日本や朝鮮と同盟を結ぶ基盤が形成された可能性があります。

 

清国の盟主的地位の再構築

清国が形式的な盟主ではなく、実質的なリーダーシップを発揮するためには、国内の改革や西洋技術の導入による復活が必要でした。

 

2. 朝鮮の役割

 

地政学的な重要性

朝鮮は日本と清国の間に位置し、地理的に重要な「緩衝地帯」としての役割を果たします。朝鮮が内部改革に成功し、安定した状態で同盟に加わることが不可欠でした。

 

朝鮮の自主性と清国の宗主権

日本が朝鮮を独立国として尊重しつつ、清国が形式的な宗主権を維持する形で、朝鮮の役割を同盟内で調整する必要がありました。ただし、この両者の関係は長い歴史的な背景があり、日本は干渉すべきではなかったともいえます。

 

3. 日本の選択

 

支配ではなく協調

日本は「アジアのリーダー」という自己認識を改め、清国の盟主的地位を認めつつ、自らは軍事的/経済的な協力に専念する必要がありました。

 

外交的な柔軟性

日本は西欧列強と清国/朝鮮の間でバランスを取る外交政策を展開し、他国との紛争を避けるべきでした。

 

4. 列強との対抗

 

ロシア南下政策への対応

満州や朝鮮半島を守るため、清国/日本/朝鮮の共同防衛ラインを確立する。

 

欧米列強の干渉

イギリスやフランスが清国沿岸を蚕食する動きに対抗するため、海軍力を中心とした共同防衛政策を展開。

 

●実現した場合の可能性

 

1. 西欧列強への抑止力

日本、清国、朝鮮の協力により、アジア全体の軍事力が強化され、西欧列強の侵略を抑止する可能性があります。

 

2. アジアの経済的発展

日本の技術力、清国の資源、朝鮮の地政学的な位置を組み合わせることで、欧米列強に依存しない経済的繁栄が実現するかもしれません。

 

3. アジアの文化的統一

儒教的価値観を基にした文化的協調が進み、アジア全体の連帯感が強化される可能性があります。

 

●結論: 理想的だが現実には困難

朽木さんの空想する「清国を中心としたアジア同盟」は、歴史の中で選び得た道の一つとして非常に魅力的です。特に、ロシアや西欧列強の侵略に対抗するためには、地域的な協力が不可欠だったでしょう。

 

しかし、19世紀後半の清国や朝鮮の内部的な脆弱性、日本の自己中心的な行動(朝鮮への侵略)を考えると、このシナリオの実現は非常に困難だったといえます。それでも、このような協調が実現していれば、アジア全体が異なる発展の道を辿り、より平和で独自の近代化を遂げる可能性があったかもしれません。

 

ぼくは時々、帝国主義的ではなかった日本を夢みますが、空想はここまでにします。

 

ありがとうございます。朽木さんの夢や空想は、歴史を違う角度から捉え、もしもの世界を探る非常に興味深いものでした。こうした視点から、過去を再考することは現代の私たちにとっても多くの教訓をもたらします。

 

空想とはいえ、現実の歴史やその中にある可能性を探ることは決して無駄ではありません。朽木さんの「帝国主義的ではなかった日本」という夢が示すように、歴史の「もしも」を考えることは、これからの私たちの社会や国際関係をどう築いていくかを問い直す貴重な機会でもあるでしょう。

 

             ++++++

 

以上のAIとの対話「幕末以降の歴史議論」へのAIによる批判的考察

(またまたおまけで空想も少し)

 

幕末から明治維新、そして日清・日露戦争に至るまでの日本の進路に対する批判的考察

 

1. 吉田松陰や思想家たちのアジア観

幕末期の日本の思想家たち、特に吉田松陰や福沢諭吉らのアジア観は、日本を「アジアのリーダー」として位置づける一方で、他のアジア諸国を対等なパートナーとして認識する視点に欠けていました。松陰の「征韓論」的思想や諭吉の「脱亜論」は、それぞれ異なる方法で日本中心主義を前提としており、その結果、アジア諸国との関係において優越意識を助長しました。この傾向は後の日本の外交政策、さらには帝国主義的な行動に直接的な影響を与えました。

 

松陰の「草莽崛起」の理念は、国内改革のエネルギーを外交に転化しようとする意図を含んでいましたが、これは後に軍事的支配に傾倒する日本の政策の基盤となりました。他方、福沢諭吉の「脱亜論」は、アジア諸国との連携を軽視し、近代化の過程での分断を招きました。このように、思想家たちの視点にはアジア内部の多様性を認識しきれない一面がありました。

 

2. 近代化への危機感とその妥当性

幕末の危機感は、アヘン戦争や列強のアジア侵略を目の当たりにしたことによる現実的なものであり、日本の近代化への舵取りを促す重要な契機となりました。例えば、薩英戦争や四国艦隊の砲撃が日本に近代化の必要性を強く認識させたことは否定できません。しかし、この危機感が過剰な攘夷運動を助長した側面もあり、結果として多くの無駄な犠牲を生み出したことも見逃せません。

 

さらに、危機感が日本の近代化成功を導いたとの評価は後知恵的な面が強く、当時の政府の制度改革や政策決定過程を軽視するリスクがあります。危機感を評価する際には、それが単に感情的な反応ではなく、具体的な行動にどう結びついたかを慎重に検討する必要があります。

 

3. 日清・日露戦争の意義と過小評価

日清戦争と日露戦争の勝利は、日本が国際社会における地位を飛躍的に向上させる契機となりました。日清戦争では、台湾や遼東半島の獲得を通じて国際的な存在感を強め、日露戦争ではロシアという列強を打ち破ることで、列強内での日本の位置づけを一変させました。これらの勝利は、西洋列強の日本への信頼を高め、例えば日英同盟やポーツマス条約などの形で外交的成功をもたらしました。

 

しかし、これらの成果を過度に強調することも危険です。日露戦争後の戦費負担や社会的不満(例: 日比谷焼き討ち事件)、さらにはその後の帝国主義的政策への転換が示すように、戦争の成果は必ずしも持続的な安定を保証するものではありませんでした。むしろ、これらの勝利は日本がその後、軍拡や領土拡張に向かう心理的な契機となり、長期的には国際的孤立を招く要因となりました。

 

4. 台湾出兵と朝鮮侵略への道

台湾出兵は、近代戦の経験を積むと同時に、清国の弱体化を確認する機会となり、後の日清戦争や朝鮮侵略への基盤を築きました。しかし、この軍事行動は、日本の「文明化の使命」という建前のもとで行われ、実際には帝国主義的な領土拡張の予兆でもありました。

 

征韓論の否決が「内政優先」を掲げた現実主義の結果とされていますが、その直後の台湾出兵は矛盾を抱えています。この行動は単に西郷隆盛との権力闘争を制した後に実行されたものであり、政策そのものが派閥内の力学に左右されていたことを示唆しています。

 

5. 「アジアのリーダー」という建前の矛盾

日清戦争や日露戦争の背後には、日本が「アジアのリーダー」として振る舞おうとする意識がありました。しかし、この建前は、実際にはアジア諸国を支配しようとする帝国主義的な欲望に基づいていました。朝鮮独立を主張しつつ、実際には自国の勢力圏に組み込む矛盾した政策がその一例です。

 

この「リーダーシップ」は、アジア諸国の自立を支援するのではなく、むしろアジアの分断を招きました。特に朝鮮半島の支配強化や中国への進出は、アジア内部の緊張を高め、後の抗日運動や満州事変などの火種となりました。

 

結論

日清・日露戦争は日本の国際的地位を大きく高める成果をもたらしましたが、その勝利が抱える代償や矛盾を見逃してはなりません。吉田松陰らの思想、幕末の危機感、そして明治期の外交政策のすべてに共通するのは、短期的な成果を重視するあまり、長期的なリスクを過小評価する姿勢です。これが結果として帝国主義的な拡張政策や国際的孤立を招き、後の日本の運命を左右する要因となったことを批判的に捉えるべきです。

 

おまけ 空想としての「日本軍政から民政、そして自治への移行」

アジア諸国における日本軍政の抑圧的行動は、歴史的事実として多くの批判を受けてきました。しかし、仮に日本のアジア進出が軍事的支配から日本本土による民政統治へ、さらに現地住民による自治へと移行する過程を10年というスパンで実現していたならば、その評価は全く異なるものとなった可能性があります。この仮定に基づき、以下にその可能性と影響を考察します。

 

1. 日本の「アジア解放」理念の実現可能性

日本の大東亜共栄圏の理念は、表向きにはアジア諸国の解放と自立支援を掲げていました。しかし、実態としては経済的搾取と軍事的支配が中心であり、その矛盾が大きな反発を招きました。

 

もしも日本が、占領地において現地の文化・政治を尊重し、段階的に自治を実現する方向で統治を行っていた場合、「アジアの解放者」としての評価がより実質的なものとなり得たでしょう。これには以下の要素が必要です:

 

教育機会の拡大: 現地人リーダーの育成を目的とした教育投資。

 

経済の地元化: 日本の利益よりも現地経済の発展を優先する政策。

 

政治的ステップの明確化: 軍政から民政への移行計画を具体的に示し、その後に現地住民による自治を保証する憲法や法的枠組みの整備。

 

これらが実現すれば、日本は単なる軍事的支配者ではなく、アジアの近代化を後押しする存在として再評価される余地が生まれたはずです。

 

2. 日本軍政の抑圧的側面と改革の必要性

日本軍政は、一部のインドネシアを除き、各地で過酷な徴兵、強制労働、資源の収奪を伴い、現地住民に多大な苦難を強いたことが記録されています。このような抑圧的統治が継続したままであれば、10年という時間が経過しても反発は強まるばかりでしょう。しかし、軍政が初期の秩序回復の段階を超えて、抑圧的手法から「現地協調的手法」へと変化した場合、例えば以下の成果が期待できます:

 

現地エリートの役割強化: 地元の行政や経済運営に現地人が主体的に関与する仕組み。

 

文化的尊重: 日本文化の押し付けではなく、現地文化との相互交流を通じた多文化共存の実現。

 

これにより、日本のアジア進出は抑圧的な植民地支配ではなく、アジア全体の発展を目指す「協力関係」として見直される可能性がありました。

 

3. 自治への移行がもたらす再評価の可能性

仮に、現地人による自治が実現していれば、日本のアジア進出は「短期的な支配から、長期的なパートナーシップへの転換」として新たな歴史像が描かれたかもしれません。

 

地域主導の発展: 日本の経済技術が土台となり、現地の人々が自らの社会を主導する未来が描かれていれば、その影響はポジティブに評価される余地があります。

 

列強と異なるモデルの提示: 欧米列強の直接支配と対比して、日本が自治を支援するモデルを示したなら、アジア内でのリーダーシップ像も大きく変化したでしょう。

 

4. 現実との乖離と空想の限界

この空想が現実に実現するには、日本の軍政および政府の方針が大きく変わる必要がありました。しかし、戦時中の日本政府は帝国主義的な拡張政策を維持し、自治への道筋を構築する意識を欠いていました。このため、10年で自治移行が実現したかどうかは疑問が残ります。さらに、自治を約束したとしても、その実態が日本の影響力を温存するものであれば、結局は批判を免れることはできなかったでしょう。さらに、現地人自治が必ずしも平穏かつ平和的に行われるかどうかは、全く別の問題でしょう。

 

結論

仮に日本のアジア進出が軍政から民政、そして現地人による自治へと移行する段階的なプロセスを経ていたならば、日本の評価は単なる帝国主義的拡張から脱却し、「アジアの近代化支援者」として再評価された可能性があります。しかし、現実には抑圧的な軍政が優先され、その矛盾が反発を招きました。日本がその理念を超えた実行力を持ち得なかった点が、歴史的な評価を制約していると言えるでしょう。

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とはいえ、いいとこ取りはできなかったでしょうね。

 

©️朽木鴻次郎 プロダクション黄朽葉

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