▼Week35-#01:亀田俊和『観応の擾乱:室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書, 2017年)
感想:★★★★☆
読了:2017/08/27
土曜の日経新聞朝刊に歴史学者の平山優氏による書評が載っていた。
本書は、複雑な政治史と内乱を経て形成されていく幕府の政治機構などを、実にわかりやすく描きだした。とりわけ、まず事象に関する定説、通説を置き、その問題点を研究の現状をもとに指摘、さらに史料に基づく亀田氏の考えが対置される叙述は、スリルに満ちており、初学者でも歴史学の醍醐味を十分愉しめることだろう。(記事リンク)
興味を持ってメモ代わりにツイートをしたところ、著者の先生にリツイートいただいたので、早速購入して読んでみた。
この本は面白そう。 / “観応の擾乱 亀田俊和著 室町初期 骨肉の争いを解く :日本経済新聞” https://t.co/O460FQkIQ4 #Nikkei #JPhistory
— Shungo Arai (新井俊悟) (@shungoarai) 2017年8月26日
しばらく、歴史に関連する書籍は、話題の『応仁の乱』も、それこそこの書評を書いた平山氏の『武田氏滅亡』も積読になってしまっているけれど、本書は分量も手頃だったので、読みだしたら週末のうちに読み終えることができた。
「観応の擾乱」は確かに高校レベルの日本史の教科書では太字で記載される固有名詞ではあるけれど、「足利家と重臣 高師直らの内紛」という程度にしか記憶していない。それ以前に、そもそも建武期から室町幕府成立期のあたりの歴史というのは漠然とした印象で、足利尊氏も弟 直義も高師直も、いずれもふわっとしたイメージしかない。それゆえに最近角川選書で出ていた『足利尊氏』という書籍も、書店で目にした時もかなり気になった。
本書の終章で著者がまとめているように、観応の擾乱は「問題は…頻繁に極端に優劣が入れ替わり、内戦が長期化したことなのである。これが“普通の”内乱との決定的な違いである」(p.223)という「実に奇怪な内乱」(p.215)だという。確かに、攻守が頻繁に入れ替わるダイナミックさもあり、飽きずに読み進められる。そして、高師直は通説とは違って無欲だったのではないかと評価する著者は、無欲ゆえに他人に対してもしょっぱい論功行賞に対する不満と、足利家の中の対立による内戦であるという明解な説明をしている。
特に興味深く感じたのは、直義が尊氏・師直に圧勝後、講和に応じて師直を筆頭とする高一族を惨殺することで終わる第一幕と、その五ヶ月後に始まる第二幕との間に「束の間の平和」について書かれた第4章だ。ここにはスタートアップ企業にとっても、何らかの示唆があるかもしれない。
- 再起・逆転のために不可欠なシングルポイントの発見と奪取
- 尊氏は弟 直義に惨敗を喫するが、講和の協議で勝ち取った条件がその後の大逆転を可能にしている。「真因」の発見の重要性。
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観応の擾乱第一幕を通じて、尊氏は自身の敗因を正確に分析したと思われる。恩賞充行が不十分だったからこそ、不満に思う武士たちが直義に味方して敗北したのだ。ならば、自身が将軍として恩賞充行を広範に行えば、離れた武士たちもふたたび戻ってくるに違いない。そう考えた尊氏は、恩賞充行権だけは死守することを目指した。(p.117)
- 戦乱期と安定期、あるいは0→1期と1→10期でのメンバーの適性(得手・不得手)
- 第一幕を終えた「束の間の平和」の時期が訪れると、官僚的機構や仕事が生まれる。そしてそれは、直前まで行われていたような戦乱に必要とされるスキルと異なっているために、論功により得たポストとスキルとがアンマッチする可能性がある。
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しかも彼ら〔引用者注:新たに引付頭人に任じられた武将たち〕の多くは、建武以来の歴戦の武闘派である。擾乱以前から引付頭人や内談頭人を務めていた〔石橋〕和義を除き、引付方の訴訟業務は未経験で不向きの者ばかりであった。直義に引付頭人に任命されることは、ありがた迷惑だったと思われる。(p.123)
- 評価の公平性と公正性のトレードオフ
- 第一幕後、直義の政治機構(鎌倉幕府からの旧来型組織の性質が強い)が強化されたことに反発した足利義詮は、「御前沙汰」という親裁する機関を創る。土地をめぐる争いに対して双方の意見を聞いて判断する点で、直義の司る「理非糾明」は公平であるものの時間と費用を要した。一方で、義詮の志向した形は「一方的裁許」であるものの、評価される側には歓迎されるケースも多かったのかもしれない。
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… 事実上の恩賞方である御前沙汰が所務沙汰をはじめた意義はきわめて大きい。幕府の役割が、訴人・論人双方の主張を聴いて公平な裁定を下す調停者から、政権に貢献した者に対して恩賞として利益を与える主君へと大きく変質したことを暗示するからだ。中世日本の訴訟の性質が、観応の擾乱を境目として画期的に変化しはじめたのである。(p.141)