富岡多恵子エッセイのこんな部分:──犬の死

彼女の詩、小説。かつて、読んだという記憶がない。関心に入っていなかったというところだと思う。でも、記憶にないというだけのことで、例えば対談のようなもの、なにかの雑誌で読んだりしたことはあったのかもしれない。若い頃から知っているのであるから。                                          なにがきっかけだったんだろう? そうそう、図書館で借りた「表現の風景」という本。そのタイトルに関心を覚え、中を開いて面白そう、という印象抱いて。その一冊を終えてから、彼女の筑摩書房の彼女の全集の中から、エッセイの一冊を。彼女の世界に関心、興味を覚えたということ。なんで昔、彼女の書いたものに興味を向けることを全くしなかったのか、と改めて思えたほど。彼女の関心の向き。感性。その展開の仕方。なかなか良いではないか。そのようなことを感じ、思いつつ、ひとつ、またひとつ。それは、能力、才能あっての彼女のさまざまな成果。やっぱり並の人、並の女性とは異なる処にいるひと、というイメージはやはり、抱きつつ。あくまでも文学的才能の部分に対してということになるんだろうけれども、ともかくこのエッセイ本の中の、1992年、彼女56才の時の「犬の死──友人への手紙」。あれこれと読んだ中で、自身はこのエッセイの最後の部分に、最も感じるところがあったのかな。それは知性をもって見つめられたあれこれに触れたものではない、彼女の奥底から理屈なくあふれでてきた思いを感じさせる、本当のなにかだからではないかと個人的には。                                             17年間共に暮らした夫妻の愛犬、土丸(つちまる─ユニークな名前ですね)が亡くなる。命あるもの、いずれはその時を迎えなければならないとはいえ、失くした者にとっては辛い体験。このエッセイは、それから半年が過ぎたこととして、書かれています。そして、その最後の部分。

「犬が死んでからは、規則的に散歩しなくなりましたが、それでも夕方歩きたくなるとひとりで出かけます。近くの林や道はたいてい犬と歩いたところですから、ふいとナミダがあふれて、泣きながらあるきつづけていることがあります。」                             

生きている日々のこととして、とても分かり易く入り込んでくる思いを感じるのである。こうした部分がエッセイの中で、こちらにはとりわけ印象に残るものとなりました。

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カポーティ「冷血」の途中で通り魔殺人

図書館から予約して借りたT・カポーティの「冷血」。1972年新潮社発行のもの。もう書棚には置かれていない状態にあったとはいえ、もう、ボロボロ。背表紙は半ばはずれ、持つ時に手で支えないと本が手の中で落ち着かないというような具合。借りる時にカウンターで、「普通こういうものは、コーティングしてしっかりさせるものでしよう?」と柔らかく言ったら、応対した女性。曖昧な笑みだけ。そういう応対しかできない立場のようで、こちらもあとは言えず。こういう黄ばんでヨレヨレになった本を、あんまり人前ではひろげたくないところだが、読むためにはそうもいかない。                                                                                                                                                                          

昔からカポーティは、読もうとしたことがない。初期の「遠い部屋・遠い声」を読みかけた記憶があるけれども、その程度のところだったようである。なにかひとつだけでも読もうかと、思ったのが今回のきっかけ。「ティファニーで朝食を」あたりで、良かったのである。ところが図書館にはなさそう。検索結果、借りられそうなのがあってもタイトルを見て、気がひかれない。長いのは避けたかったのだけれども結局、貸出可能状態のものから、「冷血」にしようか、と。長いけれども、まあいいか、と。ちょっと前に某ブログで、これを勧めていた者がいたのである。面白い、興味深い、是非みなさん、読んでください、とちょっと熱っぽいふうに。かつて非常に評判になった本だから、こちらも内容はおおよそ察しがついていたんだけれども。

苦手な長編。すぐに読み終えることができて、それなりの感想を自身のうちでまとめられるタイプのもの、となると短編。それがこちらの好むところなのだが、ともかく、我慢の必要な長さの「冷血」。カポーティのイメージ、さして良い印象はない。長いのとつき合いたいわけではないが、ひとつくらいは彼のものをということでの今回である。この本があれほどに人気になったのは何故なんだろう? 読みながらそちらの方に思いが向く。ペリー、ディック二人の男による、四人の一家殺人。現実に起きた事件。それを作家が本腰を入れて取材に取材を重ねて、仕上げていった小説。読者が抱いた関心、分からなくはない。かつてそれが評判になっていた頃、自身がその小説に抱いたイメージ。見てみたいというのは、あったように思う。そして、現在の自身。犯罪を巡るものに気持を移入できるものがあるかどうか。そこのところに行く。この本に入り込んでいけるかどうかは、ということはあるのだった。

実際の事件に取材したノンフィクション、というよりは立派に小説作品。さすがカポーティ、と思わせる内容になっているんでしょう。綿密に描かれている。各人を巡ること。この事件に関わる人それぞれについて。だが、どうもこの二人の犯罪者に関心が持てない。なにを考え、感じ、行動をし、生き、どこに辿りついたのか、知りたくもない人間のことのように思えてくる。だが読み始めたものは、最後までいきたいという思いあって、犯罪者、犯罪に対する反感のようなものを覚えつつも、読み進める。某ブログでこの本を勧めていた者などからは遙かにかけ離れた、関心の向け方、抱き方になっていたこと明白。

そんなふうに読んでいる時、秋葉原で通り魔殺人。そうして、犯罪者についてあれこれ、言われ始める。強い関心が向けられる。その人間について。その犯罪者を生んだ背景について、諸々。やっぱりこちらは、これも知りたくもないタイプの男、人間と見ている気配。                                                  だからといって、それだけで終わるものでもないんだな。本のことにしてもね・・・・・・・・・。

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