http://phi.med.gunma-u.ac.jp/humeco/dawkins.html「利己的な遺伝子」で一躍有名になったリチャード・ドーキンスの対談記事中での発言。
対談のもう一方を勤めるジャロン・ラニアー(リンク先ではレニエとされているが、こちらの方が日本では一般的表記ではなかろうか。ちなみにバーチャルリアリティの第一人者である)もなかなかいいことを言っている。引用すると、
>私の意見は違います。前にもいいましたが,私は,私たちが道徳の危
>機を経験していると思います。非常にたくさんの人々が,彼らのもっ
>とも根本的な道徳,倫理,精神的感受性への脅威を感じているのです。
>それというのも,彼らは,自分たちが自然の一部だと感じているから
>です。しかし,自然が道徳とは関係がない,ということになったら,
>どうやって彼らは道徳ある存在になれるでしょう?
何ゆえ科学が道徳にとって脅威になると感じられるのか、その理由の一つはこの発言によって明らかになっている。
対談記事を全て読めば(読まなくても自明だという人もいるだろう)判るのだけれども、自然は道徳的でもなんでもない。弱肉強食の世界というのも誇張された自然像だと思うが、道徳的な自然よりはまだマシだろう。それに、もし、自然が道徳的なのだとしたら、何ゆえ人間は社会を作り道徳を定めるのか。自然状態に置いておけばよいではないか。
何故そうならないかといえば、つまり、科学が道徳にとって脅威であると感じている人たちは、二つのファンタジーを見ているからなのではないだろうか。一つは「道徳的な自然」、そしてもう一つは「自然と反する人間」というファンタジーだ。
自然が道徳的であるならば、自然状態に置いておけば道徳は守られるだろう。しかし人間社会において自然状態にしておくことができないのは、人間が自然と反しているからなのである。よって人間は自然から導かれる道徳を心において行動しなければならない。
非常にキリスト教的な考え方で、私にはとても受け入れられないのだけれども、まぁそう考える人もいるだろう。しかしそれはファンタジーであると私は感じるし、キリスト教信者ではない日本人にもファンタジーだと感じられるのではないかと思う。特に日本人は自然と対立するものとして人間を見る傾向が薄いからだ。
ということは、科学と道徳を対立するものとしてみる価値観は、日本人には受け入れられる余地は少ないということになるのだろうか。
この手の問題で楽観的にものを見るのはあまり勧められる態度ではないのだけれども。
ちなみに、このURLを見つけた元のページも、コメント欄を含めて非常に面白いのでお勧め。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1127866706