2007-06-23(Sat)
養護施設には被虐待児しかいないかのよう…
Leiちゃんが紹介してくれたこの記事→を読んで、養護施設には、「家庭で虐待された子ども」しかいないんだなぁ… と思ったの。
少なくとも、「臨床心理学」の専門家の関心は、
家庭で虐待を受けて、養護施設に保護された子どもが心理的ケアを受けられないこと
なんだと思った。
昔は、孤児院と呼ばれて、親に捨てられた子どもたちの生活する場所であった養護施設は、いまでは、被虐待児と家庭虐待を表現する虞犯少年(少女)の生活する場所になり、要養護児は少数派となった観がする。
以前、あたしたち施設全部育ちが、「親が育てない子を里親家庭で育てて欲しい」と主張したとき、家庭虐待で施設に入ってきた施設短期利用者が噛みついてきた。虐待された家庭を整理しきれず、虐待親への気持ちも混乱している彼(女)らは、養護施設で「救われた」と思いたいがために、そして、施設で、小さい子相手に虐待家庭を再現した後ろめたさかをごまかすために、養護施設を肯定しようとしていたの。
でも、その方たちのメインテーマは「家庭虐待」であり、虐待した親との関係だから、いずれ消えていった。小さい子を殴り、レイプし、支配することで取り戻したパワー感覚を武器に、親との対決、停戦、和解に向かっていったと思うの…
家庭虐待の子にも支配され、さらに取り残された要養護児たちは、気がついたら、施設を出て、家庭を知らないことを今更ながらに知って、この社会に一人たたずんでいる。
この臨床心理学の研究者の目にも、親から捨てられた子は入らず、家庭虐待から施設に入った子にしか向かっていない。
家庭虐待の子の愛着障害は、混乱した愛着、ゆがんだ愛情表現、支配・被支配の関係性、整理できない複雑な情が絡んでいる。捨てられて愛着なく育った子とは、問題の存在が違う。
でも、反応性愛着障害というキーワードが正しく理解されていないから、虐待家庭の「間違った愛着」の問題にすり替えられていく。
「ゆがんでいてもある」ことと、「そもそも存在しない」ことと、その違いを正しく理解できる研究者が少ないと思う。
虐待を受けた子と捨てられた子とでは、そもそも抱える課題が違うのだから、回復の手法も違う。Wolfさんの言葉が今になって心に響く。
愛着がなければ始まらない
そう、要養護児が養護施設で受けた様々な暴力、性暴力、情緒的暴力を癒すにも、愛着ある相手がいなければ、癒すことができない。
虐待を含め、PTSDの治療は、愛着ある相手がいてこそ、取りかかることができるのだと思う。一人で向き合うには厳しい過去を、心に思う人がいることで乗り越えられる。人は、心に思う人がいてこそ、この過酷な人生を生き延びることができると思うの。でなければ、いつか力尽きると思うの…
あたしは、Leiちゃん、Wolfさんという Soul Mate を見つけたから、生きることへの希望が持てたの。一人でも生きていけると思っていたけど、誰もいないということは、いつ死んでもいいということでもあると気づいたの。「いつ死んでもいい」とつぶやきながら生きていたし…
人は 一人でも 生きていける
でも、
人は 一人で生きては いけないんだ
The person can live alone.
but,
The person must not choose to live alone.
とのSoulMateのShout(魂の叫び)を胸にしまいながら、あたしは生きているの。