2011-02-23(Wed)
引越ししました
こんにちは、まだ新しい記事は書いてないけれど引越ししました。
新しい場所で又書いていこうと思っています。
引越し先の住所は、まだ記事を書いてないので後ほど・・・。
ここは過去ログとしてそのまま残しておきます。
代筆Lei
新しい場所で又書いていこうと思っています。
引越し先の住所は、まだ記事を書いてないので後ほど・・・。
ここは過去ログとしてそのまま残しておきます。
代筆Lei
養護施設は子どもの地獄。過去の記憶がないあたしは、なぜかそう思ってる。
2009年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」結果発表
日本新聞協会広告委員会が今年度「絆(きずな)」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」に1061人の方から1465作品のご応募をいただきありがとうございました。本コンテストは、若いクリエーターの方々に、新聞広告の可能性を広げるような独創的で斬新な作品を作ってほしいとの趣旨で実施しています。クリエーターの副田高行氏、児島令子氏、佐藤可士和氏、服部一成氏、前田知巳氏と鈴置修一郎(広告委員会委員長)、今井秀和、増谷寛(同副委員長)の審査委員8人による厳正な審査を経て、このたび入賞作品を決定いたしました。入賞作品は当協会ウェブサイト内の新聞広告データアーカイブ(http://www.pressnet.or.jp/adarc/)でもご覧いただけるほか、日本新聞博物館(横浜市中区)で11月から展示しています。
事務局長 福田雅章(児童養護施設 養徳園 園長)
我が国の社会的養護の始まりはいつであろうか。孤児や棄児の保護育成事業は、聖徳太子の時代にその起源を見ることができるが、以降長い間、「慈悲、慈愛、慈善」「博愛」「徳義」といった言葉に特徴づけられるものであった。つまり、宗教的なバックボーンをもつ人々やいわゆる篤志家といわれる人たちがこれを担ってきたのである。
今日のように子どもの保護育成が国や地方公共団体の責務として行われるようになったのは、昭和22年に児童福祉法が制定されてからである。当時の社会的問題といえば12~13万人といわれた戦災孤児をどうするかということであったが、国の責務として彼らを収容保護したのである。今日の児童養護施設の始まりである。
巷にあふれた子どもたちをとりあえず保護することを目的にしていたから、器の大きな施設が次々と設立される。中には定員が200名を超える施設も。栃木県でも大きなものは150名定員であった。状況は、大きな災害があったときとりあえず学校の体育館や地域の公民館に身をよせるが、それと同じように押しあいせしあいしながらの生活であった。こうした生活は当時の状況からすればしかたのないことであったが、我が国の不幸は、戦災孤児がいなくなっても、高度経済成長で国全体が豊かになっても、相も変わらず大きな器の施設で押しあいせしあいしながらの生活が続いたことである。
アメリカでは100年も前に、「家庭は文明の最高の創造物である。故に緊急止むを得ない事情のない限り児童を家庭から切り離してはならない」という家庭尊重の原則が宣言され、保護を必要とする子ども達は養子縁組、または里親委託されるようになっていった。イギリスも同様に、施設はあるにはあるが、定員6名程度のグループホームである。つまり、欧米では、集団の中では子どもは育たないということが定説になっているのである。
我が国では、バブル期、児童養護施設に入所する子どもが減り、もう戦後の役割は終えたといわれた。この状況がもう少し続いていたら、児童養護施設は淘汰されるとともに里親中心へと変革していったかもしれない。しかしながら児童虐待というパンドラの箱が開いてしまった。巷には被虐待児があふれている。都市部では施設が足らないという。かくいう私の施設も一昨年、定員を40名から50名に増やした。戦後の「収容保護」はいまだに続いているのである。
社会的養護の枠組みは変わっていないが、要保護児童の特性は変わった。親や家を失った子どもには「衣食住そして教育」を保障すれば事足りたが、親や家を失ったわけではない被虐待児には「大人との関係性の回復」を保障しなければ、彼らの社会的自立は困難なのだ。「収容保護」施設にそれが保障できるのであろうか。
こうして「収容保護」施設で「大人との関係性の回復」を成し得なかった子どもたちが、それを求めて「星の家」にやってくるのである。
自身が生まれた年に、母親が創立。気づけば、周囲には何十人もの“兄弟姉妹”がいた。その環境にあって、幼い頃から多くの矛盾を抱えてきたのは当然のこと。しかし、それ以上に、みな兄弟なのだと身をもって教えてくれた両親を、心から誇りに感じている。