日にちが空いてしまいましたが、7月に入って、ようやく諸々の手続きもすべて終わり、本当に日常が戻ってきて、その流れになんとか戻れたかなぁという所で、もう一度自分の心と向き合う決意が出来たのでPCの前に座りました。
前日の日記
あれから3週間。
まだ3週間。
もう3週間。
なんだかあまりに毎日が非日常すぎて長いのか短いのかよくわかりません。
でも、さみしさは夜になるとやっぱり増します。
今でも夜、私が1階の居間で録画番組を見てると、ぼさぼさの髪をして、ねむけまなこでトイレに下りてきて
「何しとん?」って聞いてきそうで、切ない。
仕事の帰り道、その時間、丁度母はご近所の方とウォーキングをしてて、よくそれに遭遇した。
「おかえり」
そう言ってすれ違い様、いつも笑顔で頷きながら手を振ってくれた。
その姿が今でも鮮明に浮かぶ。
帰り道、ふとその事を思い出すと切ない。
あぁ。
もう母はいないんだ。
そう実感する淋しさ。
だから日中はあまり考えないように。
出来るだけ「無」になるようにと心がけた。
いつまでも泣いてばかりでは周りにも心配かけるし、ダメだし、何より母が喜ばないと思って、前向きにと考えた。
泣かない日を作る。
それが母がいなくなって最初に立てた目標。
6月20日火曜日
義姉を待って病院へ向かう。
10時ごろ病院へ。
でもまだ実感がない。
病室は既に個人部屋に移動させられていた。
家族との最期のお別れの時間というやつだ。
昨夜、熱があがり、今はまだ38度熱があるという事で、脇に氷を当て冷やしているという事だったのだが・・・握った母の手はすごく冷たかった。
なんで?
熱あるんでしょ?
看護師さんによると、もうすでに心臓が全身に血液を送るだけの力がないという事だった。
足も冷たい。
呼吸もいびきをかいているのかという位、大きく荒れたものだったが、それも楽に呼吸するための防衛みたいなもので、逆にこの方が呼吸しやすいのだそう。
「母さん」
何度も声をかけ、冷たい手を握ってさすって、少しでもあっためようとした。
涙が止まらない。
兄も駆けつけ、病室で遊ぶ甥っ子は、電車が通るのがよく見えるその場所を気に入ったよう。
暗い空気の中、「ばあやん寝てる」と、状況がわからなくて、それでも元気に遊ぶ甥っ子の姿に大人たちは癒された。
10時すぎ、先生に呼ばれ、別室で現在の状況説明が行われた。
とりあえず親近者に電話をかけて状態説明。
その時、母のウォーキング友達が見舞いに来てくださった。
最後の最後。
でも、間に合ってよかった。
11時ごろ、ふと目を開けた母。
丁度枕元にいた私は慌てて「母さん」と叫んで皆に目を開けたと知らせた。
でも、もう声もだす力もない母。
それでも涙を堪えるくしゃくしゃのなんとも言えない表情を浮かべ、母はまっすぐ私らを見て、目で言ってた。
「ありがとう」って。
その表情が、目に焼き付いて離れない。
母の精一杯の思い。
自己満足かもしれない。
でも、母と最期にこんな時間が持てた事。
本当に感謝した。
数分後、また目を閉じてしまった母。
呼吸が穏やかになっていた。
かろうじて喉元が動くので、息をしてるんだなと感じられた。
そして、11時58分
本当に眠るように、穏やかに母は逝きました---------。
ここ最近ずっと眠っていても痛みのせいでしかめっ面をしてて、眉間にしわを寄せて横になってる母の姿しか見てなかった私は、久しぶりに「あ~すっきりした」と言わんばかりの穏やかな母の表情に、本当に眠れたんだなと、悲しい反面、よかったね、ようやく痛みから解放されてと思う気持ちでいっぱいになった。
涙が止まらなかった。
でも、現実を受け止めるのもつらかったからか、電話して母の死を知らせまくった。
母がもういない。
本当に眠っているだけのような穏やかな顔。
今にも起きてきそうなその顔は、誰に聞いてもキレイな生前と同じ顔だと言ってくれた。
私もそう思った。
見栄っ張りな母らしい。
最後まで弱い所は見せないあの人らしい姿だった。
次に訪れるのは、葬儀の諸々。
幸いうちには頼りになる兄がいてくれたから助かった。
父は高齢で、今まで母の事しか見てこなかったから忘れていたのだが、実は今年の2月に一度意識を失って病院に運ばれているのだ。
幸い何もなかったのだが、母の一件があるから、誰にいつ何があってもおかしくはない。
母という存在を失くしたのは父も同じ。
今まで口喧嘩しながらも、何十年と一緒に暮らしてきた伴侶を亡くしたんだから、その心中は子供の私でも計り知れないものがある。
ほとんど葬儀関係を仕切ってくれた兄。
私は家に帰っているものを用意し、必要なものを集めに走り回っただけ。
忙しさが逆に落ち込む気持ちを紛らわせてくれた。
葬儀というのは、ずっと遠いものだった。
でも、初めて母の死をきっかけに色んな思いと体験をさせてもらった。
6月21日
水揚げの義
朝から酷い雨が降っていた。
母の旅立ちの衣装は、名取にまでなった日本舞踊の着物を着せてあげた。
お化粧を施され、棺に入れられた姿は、本当に生前と同じ姿で、今にも起き上がってきそうだった。
本当に穏やかで、微笑んでるように見えるその死顔。
だからこそ泣けた。
もっと何かできなかったか。
そう考えると色々思い出される事ばかりで、後悔が押し寄せた。
今年に入ってやたら「おいしいもの食べに行こうや」と声をかけてくれていた母。
一緒に旅行行こうとか。
何が食べたいのか?
そう尋ねると別にと返され、いつもそこで終わった話。
あの時、最後にこんなの食べられなくなると分かっていたら、おなか一杯好きなものを、おいしいものを食べさせてあげておけばよかった。
一緒に旅行も行っておけばよかった。
家の事を何一つ手伝わなかった私は、母の料理は食べるだけで、作り方すら習わなかった。
料理好きだった母が最後に作ってくれたのは、甥っ子のためにと5月11日に作ってくれた麻婆豆腐だった。
まさかあれが最後になるなんて、思わなかった。
結婚もせず、浪費して、私はずっと好きなことを好きなだけさせてもらっていた。
孫を見せてあげられなかった。
怒らせてばかりだった。
問題児だった私。
ごめんなさい。
後悔ばかりが押し寄せる。
6月22日木曜
通夜。
前日の雨が嘘のような晴れ。
親戚も集まる。
先週来たばかりの皆の顔。
本当に会いたい人に会って、ちゃんと挨拶して逝った母は凄いなと思った。
現職民生委員だった母。
地域社会への貢献度もすごかったんだと改めて思わされた。
交友関係も含め、ほとんど病気療養している事すら知らせてなかった中、なんと通夜に150人もの方が駆けつけてくださったのだ!!
これには私たち家族も、会館の方も驚かれていた。
会場は家族葬と言っていたけど、とてもそれでは入りきらないと、部屋を大きくしてもらったにもかかわらず、椅子を廊下に出して対応する位の人で溢れた。
これが母の人柄なんだろう。
常に人のためにと動いて、動いて、本当に5月のGWまでフルで働いていた結果がここに見えた気がした。
次から次へ挨拶に訪れる方が溢れ、知った顔を見つけると、皆さん涙を浮かべて「知らなかったわ」とお悔やみの声をかけてくださった。
つい先日甥っ子と一緒にベビーカーで歩いてる所お見かけしたのに・・・という声が多数あがり、本当に1か月で逝ってしまったことを実感させられた。
6月23日金曜。
葬儀にも100人近い方が集まって下さり、本当に感謝しかなかった。
会社勤めをしていたわけでもない、ただの主婦がこんなたくさんの方に見送られて逝ける。
母はやっぱりすごい人だったんだと、改めて偉大な人だったと思わされた。
喪主の挨拶で、父が皆さんへ挨拶をする際、一瞬声を詰まらせた。
今まで涙を見せなかった父が初めて流した涙だった。
今朝、母と一緒に育ててきたバラの花が今にも咲きそうだったと。
葬儀の翌日、その薔薇は綺麗に咲き誇っていた。
母が咲かせたんだろう。
父は父なりに母を思っていたんだと。
感謝の言葉をかける父の姿に、なんか今まで感じた事がないものを感じた瞬間だった。
ありがとう。
蓋が閉じられる瞬間の言葉はそれしかなかった。
火葬場に行って驚かされたのは、骨の形。
ウォーキングを欠かさなかった母の足の骨は原型をきっちり残してて、本当に健康な人だったんだと思わされた。
でも、こんな丈夫だったのに、病気には適わなかった。
そして、母の事をきっかけに明らかに変わった家族の関係。
とりたてて仲が良いとか悪いとかそういうのではなかったけれど、皆家を出てからはそんなに深い会話もしなかった兄弟。
でも、今回の一件で連絡を取り合い、よく話をして、父も自己中心で、今までこちらの云う事に耳を傾けようともしなかったのに、母の携帯をそのまま持ってほしいと言ったらすんなり応じてくれた。
母の死で皆に確実な変化があった。
それだけ、うちにとって母という存在はすごかったのだ。
その変化は私自身も感じた。
価値観の変化。
まさに人生観が変わった。
今まで当たり前だった日常に対し、全部自分が責任を負う事。
遅かりし自立。
今まで掃除も気が向いた時しかしなかったのに、母が綺麗にしていた家を汚すわけにはいかないと、率先して掃除をするようになり、買い物も食べたいものを・・・から必要な日常品すべてを用意しなければならなくなった。
すべてにおいて「母ならこういうだろう、こうするだろう」
怒った声とか聞こえてきそう。
そう考えるとそうしなきゃならないと、自分の生活の指針となるべく母の事を思い出すようになった。
「故人は心の中で生きてる」
その言葉の意味を本当に理解できなかった今まで。
でも、今ならそれがよくわかる。
今出来る事。
今日出来る事は今日するんだ。
明日なんてない。
それを実感させられた母の死。
母はどこまで計算して逝ったのか。
最後までスゴイ人だった。
入院費の精算に行ったら、入院の預かり金からの不足は、なんと157円だった。
これでは駐車料金の方が高いやんと思ったら、テレビカードの精算をしたら600円残ってて、それでお釣りが来た。
「あんたらに迷惑かけへん」
母の言葉が聴こえてきた。
葬儀代もちゃんと用意されており、本当に私たち兄弟には一銭も払わせなかった母。
かっこよすぎた。
母は永遠に私の師匠だ。
まだまだ母の事を考えると涙があふれて止まらないけど、これを書いて、当時の気持ちを忘れたくなくて、書き綴った気持ちは本物だし、大切な思い出だから忘れたくなくて。
もっと早くガンが見つかっていれば。
あの時もっと早く病院に連れて行けば・・・。
思っても仕方ないけど、後10年は生きて欲しかった。
せめて、4か月の猶予は欲しかった。
あまりに急展開だったこの1か月半。
まず、気持ちが追いつかず、淋しくて淋しくて、泣けて眠れない夜もここ最近でもあった。
ずっと一緒にいて。
いるのが当たり前だった日常で。
大きな存在がもういない穴。
でも、ご近所などに挨拶に回ると、たくさんの人に母を忘れる事はないという言葉をいただけた。
介護に1週間だけだけど来てくださった看護師さんに、
「これだけ濃密な1か月を過ごさせてもらえたのは、お母さんからのプレゼントやね」といわれた事が一番うれしかった。
気持ち的には余裕はなかったけれど、今までずっと一緒にいながら甘えるだけ甘えて母をないがしろにしてきた分、出来る事を私なりに一生懸命やった1か月間だったと思うし。
そう言ってもらえたのが救いだった。
生前母にも「これでもあんたには感謝しとるんやで」ともいわれた。
こんなことしかできないけど、という歯がゆい思いだったけど、それでも嬉しかった。
最期にこれだけちゃんと話をして逝けるというのは稀だと言われた。
確かに家を出ていればここまで話をすることはなかっただろうし、何をどうすればいいかもわからなかっただろう。
最後に母と色んな話をしたこと。
たくさんの思い出。
母の姿。
今はまだつらいけど、涙があふれるけど。
忘れない。
一緒にこれからも、私の人生の指針でいてほしい。
大好きなお母さん。
今はゆっくり好きなものを食べて、笑っていてください。
本当に、ありがとう------------