FLOWERS -Le volume sur automn- (秋篇) その1(シナリオレビュー)
一年越しの2016年5月枠、FLOWERS・秋篇をプレイ。
今作では、八代譲葉が主人公、小御門ネリネがメインヒロイン。
サブヒロインとして、沙沙貴姉妹が充てられている。
今作では、この「FLOWERS」という作品に対するシナリオライターの哲学が明らかになっている。
春篇での、蘇芳を脅して恋人にする立花。
あるいは秋篇での、譲葉を口説き落とす機会を逃さなかった林檎、林檎に代償行為を求めてしまった譲葉。
ヒロインは清く正しく描かれるのが大概のギャルゲーなのだが、この作品においてはなぜか違うのだ。
たしかに、人は過ちを犯す生き物だ。
けれど、なぜヒロインにそんなに大きな過ちを犯させるのか?
それを端的に言い表したのが、譲葉のこの台詞。
おそらく、これがこのゲームのテーマの一つだ。
ヒロインたちは、皆少しずつの欠点を持ち合わせている。
そして、その欠けた部分を埋めようと、少しずつ利己的な行動を取ってしまう。
今回、その人間臭さがもっとも顕れていたのが、幼少期のネリネだ。
ネリネの「罪」は、友情を試し、信仰を強要したこと。
ネリネは謝罪はしたけれど、そもそもそれを罪だと思っていない譲葉は謝罪を受け入れなかったし、だからネリネに罪を償う機会も与えられなかった。
いずれのルートでもそのまま物語がエンディングを迎えてしまうことに、納得できていない諸兄姉もいるかもしれない。
(罪を犯したのなら罰を受けなければならないはずなのに、なぜ?)
しかし、幼い頃のネリネの行為を「罪」だと思う心こそが、ライオンの言う「臆病さ」そのものなのだ。
---
夏篇ではグリム童話を下敷きにしていたが、秋篇で扱われていたのはオズの魔法使い。
譲葉は自分を「心のないブリキ」に、ネリネを「臆病ライオン」に喩えていた。
オズの魔法使いで、ライオンは「自分が臆病なことを知っている限り、それは確かな不幸せだ」と言う。
いくらライオンが凶暴な獣だと皆から恐れられていても、自分がどう思っているのか、それこそが真実なのだという。
ネリネも(本当に罪を犯したかはさておき)罪を犯したと思っている限り、幸せにはなれない。
だから譲葉は、臆病な彼女に代わり、勇気を振り絞る。
譲葉が自分をブリキだと言うのは、自分の心を殺し続けてきたから。
ネリネとの、あるいは両親との関係のなかで、「自分の望む自分らしい自分」ではなく「他人が望む八代譲葉らしい自分」になろうとしていたからだ。
けれど、そうやって心を無くそうとしてきた譲葉は、臆病な彼女のため、「自分の望む自分」になることを決意するのだ。
たしかに、幼い頃のネリネにとって譲葉は大勢の友達の一人でしかなく、ちょっと構ったら思った以上に懐いてしまったことが楽しくて、ペット感覚で可愛がっていただけだった。
けれど、譲葉からすればどうだろうか。
転校を繰り返した結果、消極的で内向きな性格になってしまった譲葉。
愛情表現の苦手な両親と、一人の友達もいない学校。
居場所のなかった彼女にとっては、どんな思惑であれ、一緒にいてくれるネリネの存在は計り知れないものだったのだ。
傲慢は七つの大罪にも数えられているけれど、結果的にその行為は譲葉を救っていた。
ならばそれは本当に「罪」なのか?
その答えは、足を挫いて動けなくなった譲葉を迎えに来たネリネの姿にあると、私は思う。
---
一つの事実を異なる側面から見たとき、真実は多様な姿を見せる。
この作品では、動機的にではなく、結果的にその事実がどう作用したのか――そこに結論を求めていた。
たしかに、仮にそれが悪意だったとしても、結果的に彼女が救われていたことこそが真実かもしれない。
私としても、そこに異議を唱えるつもりはまったくない。
……ところで、私は似たようなシチュエーションが用意されたゲームをやったことがある。
そして、そこで出された結論は、まったくの正反対だったような気がするのだ。
いやはや、これはどうしたことなんでしょうかねぇ……?
今作では、八代譲葉が主人公、小御門ネリネがメインヒロイン。
サブヒロインとして、沙沙貴姉妹が充てられている。
今作では、この「FLOWERS」という作品に対するシナリオライターの哲学が明らかになっている。
春篇での、蘇芳を脅して恋人にする立花。
あるいは秋篇での、譲葉を口説き落とす機会を逃さなかった林檎、林檎に代償行為を求めてしまった譲葉。
ヒロインは清く正しく描かれるのが大概のギャルゲーなのだが、この作品においてはなぜか違うのだ。
たしかに、人は過ちを犯す生き物だ。
けれど、なぜヒロインにそんなに大きな過ちを犯させるのか?
それを端的に言い表したのが、譲葉のこの台詞。
「人というのは時折、醜い顔を覗かせることがある。そいつがない人間なんていないんだ」
おそらく、これがこのゲームのテーマの一つだ。
ヒロインたちは、皆少しずつの欠点を持ち合わせている。
そして、その欠けた部分を埋めようと、少しずつ利己的な行動を取ってしまう。
今回、その人間臭さがもっとも顕れていたのが、幼少期のネリネだ。
ネリネの「罪」は、友情を試し、信仰を強要したこと。
ネリネは謝罪はしたけれど、そもそもそれを罪だと思っていない譲葉は謝罪を受け入れなかったし、だからネリネに罪を償う機会も与えられなかった。
いずれのルートでもそのまま物語がエンディングを迎えてしまうことに、納得できていない諸兄姉もいるかもしれない。
(罪を犯したのなら罰を受けなければならないはずなのに、なぜ?)
しかし、幼い頃のネリネの行為を「罪」だと思う心こそが、ライオンの言う「臆病さ」そのものなのだ。
---
夏篇ではグリム童話を下敷きにしていたが、秋篇で扱われていたのはオズの魔法使い。
譲葉は自分を「心のないブリキ」に、ネリネを「臆病ライオン」に喩えていた。
オズの魔法使いで、ライオンは「自分が臆病なことを知っている限り、それは確かな不幸せだ」と言う。
いくらライオンが凶暴な獣だと皆から恐れられていても、自分がどう思っているのか、それこそが真実なのだという。
ネリネも(本当に罪を犯したかはさておき)罪を犯したと思っている限り、幸せにはなれない。
小御門ネリネは己が罪を背負っていることを知り、それをひた隠しにしている。
私はそれを卑怯だとは思わない。ただ臆病なのだと思う。
だが、臆病なことの何が悪い?
踏み出せない、勇気がなく口に出せない事なんて誰だってある。
だから私は――
だから譲葉は、臆病な彼女に代わり、勇気を振り絞る。
譲葉が自分をブリキだと言うのは、自分の心を殺し続けてきたから。
ネリネとの、あるいは両親との関係のなかで、「自分の望む自分らしい自分」ではなく「他人が望む八代譲葉らしい自分」になろうとしていたからだ。
けれど、そうやって心を無くそうとしてきた譲葉は、臆病な彼女のため、「自分の望む自分」になることを決意するのだ。
「ネリーにとっての真実と、僕にとっての真実は違う。同じ物でも視ている側にとって真実なんてものは別の顔をみせる」
「君は自分の行ったことを悔いているようだが、僕には救いだった。逃避? 違うね、天啓だよ」
たしかに、幼い頃のネリネにとって譲葉は大勢の友達の一人でしかなく、ちょっと構ったら思った以上に懐いてしまったことが楽しくて、ペット感覚で可愛がっていただけだった。
けれど、譲葉からすればどうだろうか。
転校を繰り返した結果、消極的で内向きな性格になってしまった譲葉。
愛情表現の苦手な両親と、一人の友達もいない学校。
居場所のなかった彼女にとっては、どんな思惑であれ、一緒にいてくれるネリネの存在は計り知れないものだったのだ。
傲慢は七つの大罪にも数えられているけれど、結果的にその行為は譲葉を救っていた。
ならばそれは本当に「罪」なのか?
その答えは、足を挫いて動けなくなった譲葉を迎えに来たネリネの姿にあると、私は思う。
「かかとを三度鳴らしたら、助けに来る。そう約束したでしょう」
---
一つの事実を異なる側面から見たとき、真実は多様な姿を見せる。
この作品では、動機的にではなく、結果的にその事実がどう作用したのか――そこに結論を求めていた。
たしかに、仮にそれが悪意だったとしても、結果的に彼女が救われていたことこそが真実かもしれない。
私としても、そこに異議を唱えるつもりはまったくない。
……ところで、私は似たようなシチュエーションが用意されたゲームをやったことがある。
そして、そこで出された結論は、まったくの正反対だったような気がするのだ。
いやはや、これはどうしたことなんでしょうかねぇ……?
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