こう、なんだかモヤモヤっとする、モヤモヤモヤ。このあいだ(2012年8月21日 新宿・紀伊國屋ホール)聴いた柳家喬太郎師匠による古典落語『仏馬(ほとけうま)』の下げ(サゲ)のことである。
ひとまず、その【あらすじ】から↓
とある農村、坊主の弁長と小坊主の西念のふたりが檀家回りをしてお布施を集めている。ふるまい酒ですっかりいい気分の弁長に対し、西念は檀家からの貰い物をすべて持たされてすっかりヘトヘトである。
土手にさしかかると、一頭のおとなしそうな黒い馬が木につながれて休んでいる姿が目に入る。これはいいと、弁長は勝手に西念の荷物をぜんぶその馬に背負わせると、自分は酔いをさましてから戻るのでお前は馬と一緒に寺に戻れと西念を帰してしまう。
酔っぱらいの弁長は、土手から滑り落ちないようさっきまで馬がつながれていた木に腰紐で自分の体を結わえると、うつらうつら居眠りをはじめる。そこに戻ってきたのが馬の持ち主のお百姓さん。自分の馬が、どうしたわけか坊さんに化けてしまったのだから驚かないはずがない。弁長は弁長で、放蕩のため仏罰が当たり畜生道に落ちていたのだが、修業の甲斐あってふたたび人間に戻れたなどとその場しのぎのウソをついてごまかす。
半信半疑ながらも、百姓はそんな弁長を家に連れ帰り酒でもてなす。またしても酔っぱらってしまった弁長は朝になってようやく寺に戻っていった。寺に戻った弁長に、住職は西念が連れ帰った馬を市で売って金に換えてくるよう言いつける。しばらくして、馬がいなくなってしまい不便な百姓は市へと馬を買いに出かける。すると見覚えのある一頭の馬が……。
「こりゃあ弁長さん、弁長さんだろ? また仏罰に当たったか?」と馬の耳元にささやく。くすぐったい馬は大きく「ちがうちがう」とかぶりを振ると、お百姓さん「とぼけたって無駄だ。その、左耳の付け根の差し毛がなによりの証拠」。
この噺、じつはとても珍しい噺で、喬太郎師を除いて高座にかけているのは弟弟子の喬之進さんくらいだそうである(参照☞柳家喬太郎『落語こてんパン』ポプラ社)。それもそのはず、二ツ目時代に速記本でこの噺と出会った喬太郎師が苦労して自分のネタに仕上げてきたのがこの『仏馬』なのだ。たしかに落語家がこぞって高座にかけたがるような確実に笑いのとれる滑稽噺とはいえないものの、弁長さんならずとも居眠りしたくなるような村はずれの土手の長閑さ、朴訥で信心深い田舎のお百姓さん、なんとなく憎めない高田純次的テキトーさの「弁長さん」と、のんびりゆるゆる頬の緩むような佳品だと思う。
ところが、、、問題はその「下げ」のわかりにくさである(【あらすじ】下線部分参照)。なんだろうか、いったい、これは? 馬の耳元の差し毛(白っぽい毛)をみてお百姓さんはそれが「弁長さんの生まれ変わり」と確信するわけだが、噺の最中にそんな「下げ」にもってゆくための仕込みもないし、そもそもだいたい坊さんに毛…… ということじたいおかしくはないですかっ? そのせいか、弟弟子の喬之進さんなどは「弁長さんだろ? ごまかしたって駄目だ、酒臭いもの」という独自の「下げ」を採用しているらしい。とはいえ、これにしても馬が酒臭いだなんていまひとつ理屈に合わないような気もする。それでも、あえてこの「下げ」を使いつづけている喬太郎師には、それ相応の喬太郎師なりの強いこだわりがあるにちがいない。
そう思って、早速ネットで調べたり、喬太郎師の著書の解説を立ち読みしたり、東大落語会編『増補版 落語事典』などというものものしいタイトルの本にあたったりしたのだが「下げ」にかんする注釈はいっこうに見当たらない。ああ、モヤモヤモヤモヤ……。
ならば、と自分なりにこの「下げ」について推理してみることにした。まずは「差し毛(の馬)」について、仏教的なエピソードなどあるか調べてみようと思ったのだった。すると、まず遭遇したのがWebディクショナリー。
鹿糟毛(しかかすげ)
馬の毛色の種類で、鹿毛馬に白い差し毛が入ったものをこう呼ぶらしい。ぼくはそのむかし、競馬にハマり競走馬の一口会員だったこともあるので馬の毛色については詳しい!? 褐色の毛色をもつ馬は「鹿毛(かげ)」、より黒ければ「黒鹿毛(くろかげ)」、さらにもっと黒いものを「青鹿毛(あおかげ)」と呼ぶ。「鹿糟毛」という呼び名ははじめて耳にしたが、
白い差し毛の入った鹿毛馬
であることはすぐに想像がつく。お百姓さんはみずからの馬を「クロ」と呼んでいたので、ただの「鹿毛」よりは黒っぽい「黒鹿毛」に差し毛の入ったものだったのではないだろうか。さらに面白いことに、アイウエオ順のWEBディクショナリーの「しかかすげ」の上をふと見やると、こんな言葉をみつけたのだった。
四箇格言(しかかくげん)
へぇ~、「しかかすげ」と「しかかくげん」ってコトバの響き、ちょっとというか、けっこう似てるよね? ね!(五十音順に並んでいるのだから似ていて当然だが) と思いつつ説明を読んでみる。
日蓮が、他宗が仏の道から外れているとして折伏(しゃくぶく)するために唱えた、「念仏無間(むけん)・禅天魔・真言亡国・律国賊」の4句
とのこと。なんたる偶然! 「馬」の前に「お坊さん」!! そして日蓮宗といえば、頻繁に落語に登場する宗派でもある。おそらく落語が盛んに作られた江戸末期~明治時代当時、「南無阿弥陀仏」の浄土宗、浄土真宗と並んで庶民に浸透していたのがこの「南無妙法蓮華経」の日蓮宗だったのだろう。たとえば、おっちょこちょいを直したい男が願掛けに向かうのは「お祖師様」こと杉並の妙法寺だし(『堀之内』)、お題目に引っ掛けて「お材木で助かった!」とダジャレで下げたかと思えば(『おせつ徳三郎 下』)、甲州出身の豆腐屋が嫁を連れてお参りにゆくのは日蓮宗の総本山、身延山久遠寺である(『甲府ぃ』)。ほかにもたくさんある。だから、まあ、これといった証拠はないとはいえ、この噺に登場するのが日蓮宗のお坊さんだったとしてもとりたてて不思議ではないだろう。
ならば弁長さんと西念さんは、村じゅうの檀家を回っては「四箇格言」を述べ、お題目のありがたさを説いて回っていたのではなかろうか。もちろん村人の多くも日蓮宗の熱心な信徒だったろう。(かなり無理な展開になってきましたが、どうか置いてかれませんように!)
もういちど、噺のラスト、下げにいたる箇所を確認してみる。
お百姓さんは、市で自分が飼っていた「クロ」に瓜二つの馬をみつける。
お百姓さんは、それをふたたび馬にされてしまった哀れな「弁長さん」だと信じている。
お百姓さんは、馬に「弁長さん」と呼びかける。実際にはただの「クロ」である。
馬(「クロ」)はくすぐったいので首を振るが、
お百姓さんは、「弁長さん」がとぼけて否定しているのだと疑う。
そして下げのひとこと「とぼけたって無駄だ。その、左耳の付け根の差し毛がなによりの証拠」となる。
ここからいよいよ無理無理な推理に突入!! 作者も時代も不明ながら、この『仏馬』がつくられたころは
1)現代よりも、庶民の間に日蓮宗の教えが浸透し身近な時代であった
2)現代よりも、ウマという動物が家畜として身近な時代であった
と仮定してみる。当然、落語を聴く庶民のなかにも「四箇格言」という単語や「鹿糟毛」という単語は(程度の差こそあれ)耳になじみがあったのではないだろうか? ならば、「お材木(お題目)で助かった!」なんてダジャレ同様、『仏馬』を聴いたかつての庶民たちもまた「しかかすげ」に「しかかくげん」を、「しかかくげん」に「しかかすげ」を連想できたんじゃなかろうか? などと思ったりするわけである。つまりこれは、
「しかかすげ」の馬「クロ」に、「しかかくげん」を説いて回る「弁長さん」の姿を引っ掛けることで「下げ」としている
と理解できる(キッパリ)。そう考えれば、時代の移り変わりとともにこの『仏馬』という噺が演じられてゆかなくなったこともまた、理解できる。だって現代は、馬なんて牧場か競馬場にでも出かけないかぎり出会えない疎遠な存在だし、一部の限られた信徒の方を除いては日蓮の教えもまたなじみの薄いものである。これじゃあ、まったく「下げ」なんて理解できるはずもないじゃないか。
などと長々と書き連ねてきたわけですが、実はなんの根拠もないすべて屁理屈にすぎません。ごめんなさい。速記本の「下げ」が、たとえば「この鹿糟毛がなによりの証拠」となっていればかなり確度は上がりますけどね。このままでは、あまりにまどろっこしすぎます(笑)。
正直言うと、この下げの本当の意味を知っている通りすがりのご親切などなたかが、「いやいや、キミ、それは全然ちがうよ、真相はね、~だよ」と教えて下さることを期待しつつ書いた、これはいわば「釣り」の記事であります。最後までおつきあいいただいた方には、ホント申し訳ありません!! というわけで、これを機に『仏馬』の「サゲ」の正しい意味がわかり、このモヤモヤが雲散霧消してくれますように……。
【追記】
とことん考えたら、じつはこれはすごーく単純な「下げ」なんじゃないか? ということに気がついた。三段論法で説明すればこういうことになる。
・「左耳の付け根に差し毛のある馬」は、「クロ」(お百姓さんの馬)である
・「クロ」は、仏罰に当たった「弁長さん」が姿を変えたものである
∴ 「左耳の付け根に差し毛のある馬」は、「弁長さん」である
この三段論法は、お百姓さんが「弁長さんは仏罰にあたって馬に姿を変えた」と信じている限りにおいて成立する。つまりお百姓さんは、市でみかけた馬がまちがいなくかつての自分の愛馬「クロ」であることさえ確認できれば、すなわちそれが同時に「弁長さん」であることも確信できるのだ。
どんなにとぼけたって無駄だよ。ほら、左耳の付け根に差し毛がある。ってことは、お前はまちがいなく「クロ」、つまり(「クロ」に姿を変えた)「弁長さん」だ!!
ああ、なんて単純なんだ。たぶん噺の中途に、「クロ」には左耳の付け根に差し毛があるという仕込みがあればもっとすんなり分かるのだろう。ただ、そこまで説明的にならずとも、「下げ」の部分でお百姓さんが
「あっ、間違いねぇ、お前さんは弁長さんだな? なんとなれば、「クロ」とおんなじ左耳の付け根に差し毛がある」
とでもやや大げさに叫べば、べつだん仕込みなどしなくても気持ちよく下がるんじゃないかとシロウトは思うわけなのだけど、さて、いかがでしょ?
ひとまず、その【あらすじ】から↓
とある農村、坊主の弁長と小坊主の西念のふたりが檀家回りをしてお布施を集めている。ふるまい酒ですっかりいい気分の弁長に対し、西念は檀家からの貰い物をすべて持たされてすっかりヘトヘトである。
土手にさしかかると、一頭のおとなしそうな黒い馬が木につながれて休んでいる姿が目に入る。これはいいと、弁長は勝手に西念の荷物をぜんぶその馬に背負わせると、自分は酔いをさましてから戻るのでお前は馬と一緒に寺に戻れと西念を帰してしまう。
酔っぱらいの弁長は、土手から滑り落ちないようさっきまで馬がつながれていた木に腰紐で自分の体を結わえると、うつらうつら居眠りをはじめる。そこに戻ってきたのが馬の持ち主のお百姓さん。自分の馬が、どうしたわけか坊さんに化けてしまったのだから驚かないはずがない。弁長は弁長で、放蕩のため仏罰が当たり畜生道に落ちていたのだが、修業の甲斐あってふたたび人間に戻れたなどとその場しのぎのウソをついてごまかす。
半信半疑ながらも、百姓はそんな弁長を家に連れ帰り酒でもてなす。またしても酔っぱらってしまった弁長は朝になってようやく寺に戻っていった。寺に戻った弁長に、住職は西念が連れ帰った馬を市で売って金に換えてくるよう言いつける。しばらくして、馬がいなくなってしまい不便な百姓は市へと馬を買いに出かける。すると見覚えのある一頭の馬が……。
「こりゃあ弁長さん、弁長さんだろ? また仏罰に当たったか?」と馬の耳元にささやく。くすぐったい馬は大きく「ちがうちがう」とかぶりを振ると、お百姓さん「とぼけたって無駄だ。その、左耳の付け根の差し毛がなによりの証拠」。
この噺、じつはとても珍しい噺で、喬太郎師を除いて高座にかけているのは弟弟子の喬之進さんくらいだそうである(参照☞柳家喬太郎『落語こてんパン』ポプラ社)。それもそのはず、二ツ目時代に速記本でこの噺と出会った喬太郎師が苦労して自分のネタに仕上げてきたのがこの『仏馬』なのだ。たしかに落語家がこぞって高座にかけたがるような確実に笑いのとれる滑稽噺とはいえないものの、弁長さんならずとも居眠りしたくなるような村はずれの土手の長閑さ、朴訥で信心深い田舎のお百姓さん、なんとなく憎めない高田純次的テキトーさの「弁長さん」と、のんびりゆるゆる頬の緩むような佳品だと思う。
ところが、、、問題はその「下げ」のわかりにくさである(【あらすじ】下線部分参照)。なんだろうか、いったい、これは? 馬の耳元の差し毛(白っぽい毛)をみてお百姓さんはそれが「弁長さんの生まれ変わり」と確信するわけだが、噺の最中にそんな「下げ」にもってゆくための仕込みもないし、そもそもだいたい坊さんに毛…… ということじたいおかしくはないですかっ? そのせいか、弟弟子の喬之進さんなどは「弁長さんだろ? ごまかしたって駄目だ、酒臭いもの」という独自の「下げ」を採用しているらしい。とはいえ、これにしても馬が酒臭いだなんていまひとつ理屈に合わないような気もする。それでも、あえてこの「下げ」を使いつづけている喬太郎師には、それ相応の喬太郎師なりの強いこだわりがあるにちがいない。
そう思って、早速ネットで調べたり、喬太郎師の著書の解説を立ち読みしたり、東大落語会編『増補版 落語事典』などというものものしいタイトルの本にあたったりしたのだが「下げ」にかんする注釈はいっこうに見当たらない。ああ、モヤモヤモヤモヤ……。
ならば、と自分なりにこの「下げ」について推理してみることにした。まずは「差し毛(の馬)」について、仏教的なエピソードなどあるか調べてみようと思ったのだった。すると、まず遭遇したのがWebディクショナリー。
鹿糟毛(しかかすげ)
馬の毛色の種類で、鹿毛馬に白い差し毛が入ったものをこう呼ぶらしい。ぼくはそのむかし、競馬にハマり競走馬の一口会員だったこともあるので馬の毛色については詳しい!? 褐色の毛色をもつ馬は「鹿毛(かげ)」、より黒ければ「黒鹿毛(くろかげ)」、さらにもっと黒いものを「青鹿毛(あおかげ)」と呼ぶ。「鹿糟毛」という呼び名ははじめて耳にしたが、
白い差し毛の入った鹿毛馬
であることはすぐに想像がつく。お百姓さんはみずからの馬を「クロ」と呼んでいたので、ただの「鹿毛」よりは黒っぽい「黒鹿毛」に差し毛の入ったものだったのではないだろうか。さらに面白いことに、アイウエオ順のWEBディクショナリーの「しかかすげ」の上をふと見やると、こんな言葉をみつけたのだった。
四箇格言(しかかくげん)
へぇ~、「しかかすげ」と「しかかくげん」ってコトバの響き、ちょっとというか、けっこう似てるよね? ね!(五十音順に並んでいるのだから似ていて当然だが) と思いつつ説明を読んでみる。
日蓮が、他宗が仏の道から外れているとして折伏(しゃくぶく)するために唱えた、「念仏無間(むけん)・禅天魔・真言亡国・律国賊」の4句
とのこと。なんたる偶然! 「馬」の前に「お坊さん」!! そして日蓮宗といえば、頻繁に落語に登場する宗派でもある。おそらく落語が盛んに作られた江戸末期~明治時代当時、「南無阿弥陀仏」の浄土宗、浄土真宗と並んで庶民に浸透していたのがこの「南無妙法蓮華経」の日蓮宗だったのだろう。たとえば、おっちょこちょいを直したい男が願掛けに向かうのは「お祖師様」こと杉並の妙法寺だし(『堀之内』)、お題目に引っ掛けて「お材木で助かった!」とダジャレで下げたかと思えば(『おせつ徳三郎 下』)、甲州出身の豆腐屋が嫁を連れてお参りにゆくのは日蓮宗の総本山、身延山久遠寺である(『甲府ぃ』)。ほかにもたくさんある。だから、まあ、これといった証拠はないとはいえ、この噺に登場するのが日蓮宗のお坊さんだったとしてもとりたてて不思議ではないだろう。
ならば弁長さんと西念さんは、村じゅうの檀家を回っては「四箇格言」を述べ、お題目のありがたさを説いて回っていたのではなかろうか。もちろん村人の多くも日蓮宗の熱心な信徒だったろう。(かなり無理な展開になってきましたが、どうか置いてかれませんように!)
もういちど、噺のラスト、下げにいたる箇所を確認してみる。
お百姓さんは、市で自分が飼っていた「クロ」に瓜二つの馬をみつける。
お百姓さんは、それをふたたび馬にされてしまった哀れな「弁長さん」だと信じている。
お百姓さんは、馬に「弁長さん」と呼びかける。実際にはただの「クロ」である。
馬(「クロ」)はくすぐったいので首を振るが、
お百姓さんは、「弁長さん」がとぼけて否定しているのだと疑う。
そして下げのひとこと「とぼけたって無駄だ。その、左耳の付け根の差し毛がなによりの証拠」となる。
ここからいよいよ無理無理な推理に突入!! 作者も時代も不明ながら、この『仏馬』がつくられたころは
1)現代よりも、庶民の間に日蓮宗の教えが浸透し身近な時代であった
2)現代よりも、ウマという動物が家畜として身近な時代であった
と仮定してみる。当然、落語を聴く庶民のなかにも「四箇格言」という単語や「鹿糟毛」という単語は(程度の差こそあれ)耳になじみがあったのではないだろうか? ならば、「お材木(お題目)で助かった!」なんてダジャレ同様、『仏馬』を聴いたかつての庶民たちもまた「しかかすげ」に「しかかくげん」を、「しかかくげん」に「しかかすげ」を連想できたんじゃなかろうか? などと思ったりするわけである。つまりこれは、
「しかかすげ」の馬「クロ」に、「しかかくげん」を説いて回る「弁長さん」の姿を引っ掛けることで「下げ」としている
と理解できる(キッパリ)。そう考えれば、時代の移り変わりとともにこの『仏馬』という噺が演じられてゆかなくなったこともまた、理解できる。だって現代は、馬なんて牧場か競馬場にでも出かけないかぎり出会えない疎遠な存在だし、一部の限られた信徒の方を除いては日蓮の教えもまたなじみの薄いものである。これじゃあ、まったく「下げ」なんて理解できるはずもないじゃないか。
などと長々と書き連ねてきたわけですが、実はなんの根拠もないすべて屁理屈にすぎません。ごめんなさい。速記本の「下げ」が、たとえば「この鹿糟毛がなによりの証拠」となっていればかなり確度は上がりますけどね。このままでは、あまりにまどろっこしすぎます(笑)。
正直言うと、この下げの本当の意味を知っている通りすがりのご親切などなたかが、「いやいや、キミ、それは全然ちがうよ、真相はね、~だよ」と教えて下さることを期待しつつ書いた、これはいわば「釣り」の記事であります。最後までおつきあいいただいた方には、ホント申し訳ありません!! というわけで、これを機に『仏馬』の「サゲ」の正しい意味がわかり、このモヤモヤが雲散霧消してくれますように……。
【追記】
とことん考えたら、じつはこれはすごーく単純な「下げ」なんじゃないか? ということに気がついた。三段論法で説明すればこういうことになる。
・「左耳の付け根に差し毛のある馬」は、「クロ」(お百姓さんの馬)である
・「クロ」は、仏罰に当たった「弁長さん」が姿を変えたものである
∴ 「左耳の付け根に差し毛のある馬」は、「弁長さん」である
この三段論法は、お百姓さんが「弁長さんは仏罰にあたって馬に姿を変えた」と信じている限りにおいて成立する。つまりお百姓さんは、市でみかけた馬がまちがいなくかつての自分の愛馬「クロ」であることさえ確認できれば、すなわちそれが同時に「弁長さん」であることも確信できるのだ。
どんなにとぼけたって無駄だよ。ほら、左耳の付け根に差し毛がある。ってことは、お前はまちがいなく「クロ」、つまり(「クロ」に姿を変えた)「弁長さん」だ!!
ああ、なんて単純なんだ。たぶん噺の中途に、「クロ」には左耳の付け根に差し毛があるという仕込みがあればもっとすんなり分かるのだろう。ただ、そこまで説明的にならずとも、「下げ」の部分でお百姓さんが
「あっ、間違いねぇ、お前さんは弁長さんだな? なんとなれば、「クロ」とおんなじ左耳の付け根に差し毛がある」
とでもやや大げさに叫べば、べつだん仕込みなどしなくても気持ちよく下がるんじゃないかとシロウトは思うわけなのだけど、さて、いかがでしょ?
この記事へのコメント
柳家喬太郎師匠が、正月にご自分がMCをされている番組で「仏馬」をかけており、下げがいまいちよくわからなかったので、検索したところこちらに辿り着きました。
とても面白かったのにあまり高座にかかるような話ではないというのでビックリしました。
追記の見解、なるほど!と納得致しました。でも昔の事、「四箇格言」のような皆知っていて笑える何かがあったのかもしれないですね!
とても面白かったのにあまり高座にかかるような話ではないというのでビックリしました。
追記の見解、なるほど!と納得致しました。でも昔の事、「四箇格言」のような皆知っていて笑える何かがあったのかもしれないですね!
2013/02/14(木) 09:24 | URL | 通りすがり #-[ 編集]
> 通りすがりさん
コメントありがとうございます。
この記事については、我ながらさすがに考えすぎだな…と思うわけですが(苦笑)、おなじようにサゲに「?」と感じてこうしてコメントをいただけたりもするわけですから、削除せず置いておいてよかったと思っている次第です(笑)。まあ、個人的には、こんな具合にゴチャゴチャ理屈をこねてみるのもまた落語を聴く楽しみのひとつなわけですが…。そういう意味でも、未知の噺で頭を悩ませてくれる喬太郎師にはいつも楽しませていただいてます。
コメントありがとうございます。
この記事については、我ながらさすがに考えすぎだな…と思うわけですが(苦笑)、おなじようにサゲに「?」と感じてこうしてコメントをいただけたりもするわけですから、削除せず置いておいてよかったと思っている次第です(笑)。まあ、個人的には、こんな具合にゴチャゴチャ理屈をこねてみるのもまた落語を聴く楽しみのひとつなわけですが…。そういう意味でも、未知の噺で頭を悩ませてくれる喬太郎師にはいつも楽しませていただいてます。
2013/02/14(木) 13:42 | URL | moi店主 #TBfX3eTo[ 編集]
落語にでてくるのは 日蓮の宗派だけかなぁ?ちゃんばら映画~丹下左膳~。
日蓮 で プログ検索中です。
日蓮正宗と 日蓮宗 かなり 違うのかなぁ
法華経を 解いたのは 誰なんだろう?
日蓮の攻撃と迫害 因果~教化~
大乗 小乗 ~
日蓮は 迫害に あったのかなぁ 辻説法したのかなぁ
日蓮の宗教の人は 日蓮を 目指すのかなぁ。
日蓮 で プログ検索中です。
日蓮正宗と 日蓮宗 かなり 違うのかなぁ
法華経を 解いたのは 誰なんだろう?
日蓮の攻撃と迫害 因果~教化~
大乗 小乗 ~
日蓮は 迫害に あったのかなぁ 辻説法したのかなぁ
日蓮の宗教の人は 日蓮を 目指すのかなぁ。
2013/03/10(日) 12:13 | URL | 村石太星人 #FcN2WzEY[ 編集]
>村石太星人さん
知るかぎり、落語に登場するのは「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」が圧倒的に多いですね。江戸後期から明治初期にかけて庶民に浸透していたのは、おもにお題目と念仏を唱える二宗派だったのでしょうか?
変わったところでは、熱心な真宗の信徒である旦那がキリスト教に熱を上げる倅と対立する、その名も「宗論」なんていう大正期につくられた噺もあります。
知るかぎり、落語に登場するのは「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」が圧倒的に多いですね。江戸後期から明治初期にかけて庶民に浸透していたのは、おもにお題目と念仏を唱える二宗派だったのでしょうか?
変わったところでは、熱心な真宗の信徒である旦那がキリスト教に熱を上げる倅と対立する、その名も「宗論」なんていう大正期につくられた噺もあります。
2013/03/28(木) 13:03 | URL | moi店主 #mLjQvPPA[ 編集]
素晴らしい考察!
落語好きだけど知識の浅い私のような落語ファンにとって、こういう考察を書いて下さる方の存在はとても心強いです!
落語好きだけど知識の浅い私のような落語ファンにとって、こういう考察を書いて下さる方の存在はとても心強いです!
> のんさん
お読みいただきありがとうございます。
ぼくもまだ落語の世界に触れるようになってまだ2年ほどなので、いまだに「え?え?なに?どういうこと?」と戸惑うようなことがしばしばあります。そうして散々理屈をこね回した揚げ句、「なーんだ」というシンプルな答えに行き着くのもいつものこと……。
それでも、こんな風にとっちらかってしまうのも含め落語を楽しんでいるのだなぁと最近は思い、恥を忍んでそのまま拙文を残しているような次第です(笑)。
お読みいただきありがとうございます。
ぼくもまだ落語の世界に触れるようになってまだ2年ほどなので、いまだに「え?え?なに?どういうこと?」と戸惑うようなことがしばしばあります。そうして散々理屈をこね回した揚げ句、「なーんだ」というシンプルな答えに行き着くのもいつものこと……。
それでも、こんな風にとっちらかってしまうのも含め落語を楽しんでいるのだなぁと最近は思い、恥を忍んでそのまま拙文を残しているような次第です(笑)。
2013/12/12(木) 15:15 | URL | moi店主 #RmDxFykk[ 編集]
昨日、夜の新宿末廣亭にて喬太郎師匠が「仏馬」を掛けていらっしゃいました。
暮にTVで「落語でブッダ」を観たときは、気にも止めなかったサゲが、昨夜に限ってなんとも落ちずにモヤモヤしたまま、噺の中の仕掛けを聴き逃したのかと自分の迂闊を悔いてました。
でも、ブログを拝見して、完全に騙されているお人好しのお百姓さんが弁長さんに囁いた言葉だと素直に取れば、サゲも理解できると霞に晴れ間が差しました。
ありがとうございました。
暮にTVで「落語でブッダ」を観たときは、気にも止めなかったサゲが、昨夜に限ってなんとも落ちずにモヤモヤしたまま、噺の中の仕掛けを聴き逃したのかと自分の迂闊を悔いてました。
でも、ブログを拝見して、完全に騙されているお人好しのお百姓さんが弁長さんに囁いた言葉だと素直に取れば、サゲも理解できると霞に晴れ間が差しました。
ありがとうございました。
2014/01/15(水) 11:39 | URL | ホール落語まだ4年目 #3fSe.YNE[ 編集]
> ホール落語まだ4年目さん
仏馬…いかにも喬太郎師が好みそうなマニアックな噺ですよね。ふだんはそこまでサゲにこだわるほうではないのですが、この噺を聴いたときはモヤモヤしてつい考えすぎてしまいました(笑)。
じつは、単純なあまりあか抜けない、そこがまたよいというような噺なのでしょうね。
仏馬…いかにも喬太郎師が好みそうなマニアックな噺ですよね。ふだんはそこまでサゲにこだわるほうではないのですが、この噺を聴いたときはモヤモヤしてつい考えすぎてしまいました(笑)。
じつは、単純なあまりあか抜けない、そこがまたよいというような噺なのでしょうね。
2014/01/17(金) 18:25 | URL | moi店主 #mLjQvPPA[ 編集]
この記事のトラックバックURL
http://moicafe.blog61.fc2.com/tb.php/1773-aad1c158
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック