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多くの人が今の教育ではダメだと思っている。しかし、具体的に何がどう悪いのか、あまりわからず「とにかく変えなくちゃ」と思っているだけではないだろうか。問題はものすごくたくさんあるように思える。小学校で授業が成り立たない、学力は低下している、教員の不祥事が多い、ゆとり教育にしたり見直されたりでガタガタだ、教育にお金がかかりすぎてお金持ちの子供だけが教育を受けられる、少年の事件が多い、一度に考えると、パニックになってしまいそうだ。
◆ パニックに陥るのはやめよう そこで、かんたんな解決策を示されると、そうか、と飛びついてしまう。誰でもあまりにパニックになりすぎると、ユダヤ人が諸悪の根源といわれると、そうかと思ってしまう。前総理大臣などは何の論証もなくいきなり少年事件が多発するのは日教組のせいだ、という。なんだか不安を感じているときにそういわれると日教組=ユダヤ説みたいになってしまって、それが解決策のように思ってしまう。 しかし、冷静に考えればおかしいことなどすぐにわかる。日教組の組織率が年々下がっているのにどうして少年事件が増えるんだ、というようなかんたんなことすら考えられなくなってしまっている。 ◆ 日本の教育はまだ捨てたものではない まず、基本的にいっておくと、日本の教育は今のところ現場の先生方の努力もあって、そう悪くない。学力だって別に世界最低になったというわけではなく、いくつかの国に負けるようになったという程度である。少年事件が増えているといったって、過去に比べればはるかに低い。結局そうやって危機感を演出しようとしているだけであるように思う。 それでも漠然とした不安があるかもしれない。しかし、国家の介入を求めると、いっそう悪くなる、国家は危機感を煽っていっそう社会を悪くしていく、こんな当たり前の歴史的経験すら顧みないで、教員の免許更新制を認めようとするとますます教育は窮屈なものに変わる。映画「V フォー・ヴェンデッタ」に学んでもらいたい。 日本の民衆は経済人も教員も実に優秀だと思う。こういう人たちで経済も教育も何とか持ちこたえている。それをぶちこわそうという人が必死になっているけれども、まだ持ちこたえている。 ◆ 必ず愛国心など、内心に立ち入った統制になる 不適格な教員を排除するだけ、といいながらおそらく間違いなく、日の丸、君が代に反対する教員は「不適格」ということになるだろう。結局人権を主張するというのは、教育現場で許されない、ということである。ファシズムのような教育に変わっていくことになる。教育の不自由は必ず我々のところに跳ね返ってくる。国家的、中央集権的、そしてその時々の政治権力にとって都合のいいことを教える、最近はやりの言葉で言うと、「子供の頭は国家の領土」状態になる。 ◆ 左翼教員排除は当たり前? 教育を国家統制しようと思う人間はこのように主張するが、我々国民の側は、こういう批判を鵜呑みにしないでもう少ししっかり考えなければならない。私は、教員が左翼的なのは当たり前だと思っているしそうでなければならないと思っている。 たとえば先生は、「これは民主的に決めよう」とか「世の中は民主主義であるべきだ」というだろう。これはものすごく左翼的である。民主主義というのは、メンバー一人一人に平等な権限を与えようとする、昔から結構過激な考え方とされてきたからだ。 しかし、先生に限らず、物事を語るときは左翼的でなければならない。民主主義なら民主主義の理想を掲げてやれるところまでやってみて、学校の自治、生徒の自律性を育て、やはり理想に完全に行き着くことはできないから、若干の統制や規律という右翼的な部分もどうしても出てくる。ほとんどの親もそれを望んでいるのではないだろうか。子供に自由と自立を与えることを基本としつつ、かといって無秩序にならないようにある程度最後は締める。 もし先生が初っぱなから、右翼を語り、「結局世の中は弱肉強食だ」「長いものには巻かれろ」「理想も結構だが国際社会の現実はだまし合いだ」などと子供に教えるとしたら、人格下劣な人間としか思えないのではないか。左翼教師というのはある意味で当たり前で、いわば、全員100点を取るように授業しようとしているだけだ。実際には理想が100%実現するわけではなく、自然に「現実」を意識しなければならないことが出てくる。それでも100点を目指します、といってくれる先生でないと困るのだ。 結局、人間は誰しも左翼的であり右翼的でもある。私自身人を信じて、他国を信用してお人好しな理想を掲げつつ、どこかでそれがそんなにうまくいかないことも知っている。どこかでバランスをとっている。そんなこと右翼が「お花畑」という前から分かり切ったことだ。 それでも言葉で目指すのは、左翼的な理想である。民主主義であり、弱者も含めて共生の社会を目指す。正面から右翼的に「他国を見たら敵と思え」というようなことを考える人間というのはどこか病んだ人間であるといえるだろう。 ◆ 現場の民主主義のみが解決をもたらす いつも書いているが、解決は民主主義にしかない。学校に校長がいてもかまわないが実質的な運営は教員が自治的にやる。そこに親も入ってもらう、子供の意見も聞く、公権力の介入なしにそうやって運営していけば、むちゃくちゃになることはない。前にお父さんの会の話をしたが、親がただ文句をつけるのではなく、運営に参加するという観点で学校に関われば、教員の側はそれを受け入れるだけの力量を充分に持っている。これはおそらく簡単にできる。教育内容は飛躍的によくなるだろう。そうなると、教育委員会、文科省はいらない、という自明の事実に国民が気付いてしまう。簡単にスリムな政府が、本当の政治改革ができる素地があることがばれてしまう。だから文科省は絶対にやらせたくない。 彼らがもっともおそれるのは「お上がいなくても民主的に運営できる」と国民が気付き、自信を持ち始めることだ。学校をきっかけにして、国が変わっていく、それをおそれるのだ。だからファシストは最初に学校に必死で介入しようとする。この問題は、教員だけの問題ではない。 右翼、左翼の定義については、新たに整理した。大体去年書いたのと同じだが、去年は右翼も結集すべしという「反小泉ブロガー同盟」のために書いたのでそれに沿ったないようになっているが、除名されている以上、今回はそういう制約から自由になって書いた。3回くらいに分けて書く予定。一回目は右翼と左翼の区別について書いている
by luxemburg
| 2006-05-28 00:05
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