特養への道5-やっと入ったのに

やっと、入ったリハビリ病院。さすがにリハビリの専門病院だけあって、まずは、車椅子に座る練習から。
次に自分でベットの上に起き上がり車椅子に移る練習。また、体調が悪い場合以外は寝る時間までほとんど車椅子に座ったままの状態で理学療法や言語のリハビリなどいろいろとメニューはあったみたいです。
座るだけでも背筋・腹筋の練習になっているのでずいぶんしっかりと座っていられるようになりました。ほんの1ヶ月前までベットにもたれてご飯を食べていたのが嘘みたいです。

なので、この時本人がもっと頑張る気力があればずいぶん回復したであろうに、高次機能障害で本人の頭がはっきりしない(自分の考えを回りに伝えられない。言葉がでてこない。記憶がすぐあちこちに飛んでしまう)ので、先生に入院して3日目でさじを投げられてしまいました。とはいっても家に連れて帰れない事情は同じなので3ヶ月以内に老人保健施設(老健)を見つけなければならなくなってしまいました。

やっと、病院がみつかったのに、すぐ次の老健を探す。の繰り返し 
老健も長期入所は建前は3ヶ月なのでこの先どうしたらいいか目の前真っ暗でした。

前に市役所でもらった一覧表から3件ほど絞り申し込み書を提出して順番待ち。
中には病院では高次機能障害と痴呆は違いますと説明されていたのに本人に面接もしないまま”うちは痴呆棟がないのでお受けできません。”といわれた時の家族のショックは言い表せないものがあります。

実際に3ヶ月で老健をかわらなければならないのなら2~3年ですべての一覧表のリストの老健を回ることになります。
断られた老健もあればもっと期間が短くなります。この時の”ど~しよ~”は精神的にかなりきつかったです。

捨てる神ありゃ、拾う神ありで、1件の老健から入所OKをもらい、3ヵ月後、老健へ移動することになります。

病院は治療するところでしたが、老健は自宅へ早く戻れるよう生活に慣れさせる為のお手伝いをしてくれるところです。実際には自宅で介護されている方の負担を軽くするために一時的に入所させて家族の負担を軽くする目的の方が多いと思いましたが・・・


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いろいろ、見学にも行きましたが入所されている方の中には本当にお元気そうなお年寄りもいて、介護度1~5、とイチガイにはいえないなぁと思いました。預かる方にとっては手のかからないお年寄りを預かった方が楽ですもんね。
中には本当にお金のことしか考えていないのかと思う施設もありました。
実際に見学して職員の態度や仕事ぶり、老人への接し方などを確認をした方が安心して預けられます。

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特養への道4-リハビリ病院へはいるまで

リハビリ病院は一般病院とは違い。可能性が少しでもあり、本人や家族のやる気があるかどうかの意思確認など、入るには少しハードルが高い病院でした。本当はリハビリは始めるのが早ければ早いほどいいらしく、発病してから3ヶ月近くたつ父はギリギリで入院させてもらえることになりました。(この時、脳のレントゲンをもって私が代理で面接に行き現在の症状や家族の希望などを話してきました。)

その頃は家族もまだあきらめきれなかったので、自分でトイレに行くことができ、もう少しはっきり話せるようになることを望んでいました。この時、リハビリ病院で年齢的には介護保険が優先だが右半身麻痺なので身障者の認定を受ければ介護保険で使えないが身障者で受けることのできるサービスがあるのでなるべく早く申請しなさいということを聞き、今度は市役所の身障者関係の窓口へ話を聞きに行ってきました。
脳の障害の場合3ヶ月の経過期間があるが主事医の判断で診断書がもらえるので診断書を添えて申し込みして欲しいとのこと。

今度は市民病院で今聞いたことを主事医の先生に話して了解をいただきました。
(もともと、心筋梗塞での入院だったので、この時の主事医の先生は心臓外科の先生)
今書いてもらわないとリハビリ病院は当市にはないので3ヶ月たつのを待つと1ヵ月後診断書の為だけに1時間以上かけて市民病院まで診察に来なければならないのです。

ところが、脳外科の先生は診断書は書けないというのです。なぜなら、”前例がないから。”

これでは納得が行きません。脳の血管が詰まっている場所はレントゲンではっきり移っています。すぐに手術をしたにもかかわらず、それを取り除くことはできませんでした。その後のレントゲンで脳が死滅した箇所もはっきりしてきて後遺症として右半身麻痺、言語障害、痴呆と同じような症状はあります。と断言されていたにもかかわらず、前例がないから診断書は3ヶ月たたないとかけないというのです。家族にしてみれば3ヶ月たっても良くならないことは、はっきりしているのに、なんで?という思いが募りました。その脳外科の医師の態度もあまりにも家族に誠意のないものだったので、病院側に話をしても聞いてもらえないならと市長宛にメールを送りました。市のホームページには市長への手紙なるメールアドレスがあったのです。電話なら”たらい回し”にされる可能性があるのでメールにしました。

次の日、すぐに市役所から電話あり市職員立会いのもと病院側に説明させます。とのこと1時間以上話をしましたが説明は同じことの同道巡り。最後には”書けばいいんでしょ”と子供のケンカです。こんなことを平気で言うような医師に診療されていたなんて大ショックでした。結局病院を代わる日に診断書はできていました。

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最初、病院を移る時、家族が自家用車でリハビリ病院へ連れて行く予定でした。
ところが、当日の朝、又本人が軽い発作がおき退院が一週間伸びたのです。移動の途中に発作が起きていたらと思うとぞっとします。結局、一週間後、市民病院が手配した救急車で1時間かかる道をたった15分でそれも、主事医付で移れたんです。なぜ、最初からそういうことをしてくれなかったのかは、言ってもしょうがないので言いませんでしたが・・・
この時の精神的体力的疲労は限界でした。医師に対しての不信感は最高潮!!

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特養への道3-次の場所?

病院は最長3ヶ月までしか入れません。なぜか?

病院は緊急を要する人が入院するところ。”病状が落ち着き緊急を要することがなくなれば後は退院して通院で治しましょう。”ということなのだそうです。でもこれは”建て前”だと私は思っています。父のように65歳以上で老人保健適用者では入院した場合3ヶ月以降、補助金がぐっと少なくなるのだそうです。(これは、聞いた話で本当のところは確認できていませんが・・)

さて、退院した後、どうすれば良いか?

実はウチの場合、介護するものが私1人、(すでに母・弟は亡くなっています。)父の方には親戚はいません。
自宅に連れ帰っても家の構造上2階以上が住居であること。半身麻痺の父(父は体格がよく170cm当時70kg)を狭い階段の上り下りさせるのには無理がある。高次機能障害のため自分の考えを周囲にうまく伝えられることができないので目が離せないのに商売をしているので昼間介護できない。ということを市役所の高齢社会室なるところへ相談しにいきました。家でどうしても介護できないならば老人保健施設に申し込んだら?といわれ長期入所可能な老人保健施設のリストを1枚もらっただけ。申し込みは直接家族が老人保健施設へ申し込みなさいということ。斡旋や紹介は一切ないのです。ここでも、心細い私たちは見捨てられた気持ちでいっぱいでした。

とりあえず、リストから3箇所くらい電話して相談する人もいないことを訴えどうにか話の聞いてくれる老人保健施設へ行きました。そこで、リハビリ専門の病院のことをはじめて知りました。

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探し始めた時は倒れて2ヶ月たった頃です。
この時はまだ、家族としては少しでも回復してくれることを望んでいたので老人保健施設の方にリハビリ病院に道をつけてもらいました。(ここでも、面接してもらえる約束をとりつけてもらっただけで、後は自分たちで動くことになるのです。)

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特養への道2-リハビリはじまる

やっと目が覚めた時、家族はほっとする間もなく、右半身麻痺の現実をつきつけられることになります。

目が覚めた当時は本人も現実を受け入れられるまで時間がかかったと思います。

しゃべりたくてもしゃべれない、寝返りをうちたくても動けない。痛いという感覚はあるみたいですが、ピクリともしない指・腕、足・・・本当に歯がゆかったと思います。

脳梗塞で血管が詰まった先の脳細胞は当然、血液がいかないので脳は死んでしまいます。右半身麻痺を持つ方は往々にして言語障害をも引き起こすらしいです。

右半身麻痺ということはただ、右手右足が動かないということではなく、表情も右半分が動きが悪く、のども右半分麻痺しているので、飲み込むことがうまくできないのです。なので、水分はすぐに気管のほうへ入ってしまってむせてしまい、食事は はじめカロリーメイトのプリン状のものが食事の代わりでした。
それから、徐々にペースト状の離乳食のような食事になり、普通食へと替わっていきました。普通食になる頃にはすでに入院が 2ヶ月以上になっていました。

1ヶ月ちかく寝たきりになるとここまで筋肉が落ちるかと思うほど体力は落ちてしまいます。
背筋・腹筋が落ちるとちゃんと座ることさえできません。はじめは食事を食べるときはベットを起こして倒れないように枕やクッションをつんでもたれながら食べさせました。1ヶ月ほど座る練習をしてやっと車椅子に移れる位に回復しました。

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命を取り留めたのがはっきり とらえられると今度は今後のことが家族に重くのしかかります。
脳の死滅した箇所をレントゲン写真で説明をうけながら、今後悪くなっても良くなることはない現実をつきつけられた時、家族の心配は精神的にもそれまでの看病で体力的にも大ダメージはこの上ありません。
しかし、病状については説明はあっても今後のことを相談しようにも病院はまったくといっていいほど無関心です。
市民病院であったので市から派遣された相談室があって、相談にいったのですが、別に親身になって話を聞いてくれるわけも無く、いろいろと不安と迷いの中で、自分たちで道を探すことになるのです。

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特養までの道1ーある日突然ー

この度、父の特養の入所が決定したのを機にこの2年あまりを振り返りたいと思います。

今まで”介護なんてまだ、先”と思っていた矢先。
それも2002年の元旦の夜に突然その予兆はやってきました。


その日、お昼は滋賀にある”立木観音”へいつもどうり初詣へ。
疲れて帰ってきたので私と娘はさっさと部屋で眠ってしまいました。
主人だけはちょっとおなかがすいたということで父と一緒に晩御飯。

その時、突然、息が吸えないと訴え苦しみだし大騒ぎで救急車を呼び、近くの市民病院へ。
検査の結果「心筋梗塞の発作」ということで、カテーテルでバイパスの手術。その後、順調に回復し無事帰還。

後で「命拾いしたね」なんて笑いながらこれで、一件落着したようにその時は思えたんです。半年後に大変なことになるとは誰も考えてはいませんでした。

半年後、心臓の手術の検査で一週間の検査入院。検査入院なので本人も家族も心配はしていませんでした。
検査の結果も良好ということで退院の当日迎えに行ったのですが、昼食がでるので食べてから帰ると父。
「暑いのでタクシーで帰っておいで」と言い残し仕事があるので先に帰ったのです。

すると、昼すぎ病院からタクシー乗り場で倒れたと電話。
あわてて、病院へ。(まだこの時は貧血くらいにしか思っていませんでした。)


2時間ほどで回復。しかし、経過をみるため再入院することになりました。
(倒れた直後左半身に麻痺)

次の朝、虫の知らせか主人が仕事の前に病院へ見に行くと病院へ行ってくれました。
そこで、大きないびきをかいて寝ている父を発見したのです。
あわてて、看護婦さんをよんで先生をよんで、父の意識は戻らずすぐにCPU検査。
(この時、昨日とは反対の右半身に麻痺あり。)


「脳梗塞」でした。発症後6時間以内に手術しないと手遅れということですぐに手術。


8時の朝ごはんのときは以上はなかったと病院は行ってましたが、主人が到着するまでの9時過ぎの間に脳梗塞を発症。手術の結果は血管に詰まった血栓が大きすぎて取り除くことはできないとのことで断念。
命は取りとめたもののそれから、一ヶ月ちかく昏睡状態が続くこととなるのでした。

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病院側は心臓の検査と脳梗塞の因果関係は認められないと説明してましたが、私たちは今でも心臓の検査にも一因があると思ってます。どぶ掃除と同じように長年血管に蓄積された血栓の細かいものがカテーテルを通すときに脳の血管に移動して血管がつまったと考えています。おりしも、いろんな病院での不祥事がニュースに流れ、この市民病院も裁判沙汰もあり医者への不信感はMAXになっていました。

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