わたしがしたかったこと 映画「アデル、ブルーは熱い色」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー
個人的お気に入り度:6/10
一言感想:苦しく、切なく、美しく、官能的で長〜いラブストーリー
あらすじ
高校生のアデル(アデル・エグザルコプロス)は、すれ違っただけの青い髪のエマ(レア・セドゥ)に魅了されていた。
バーで再び出会った2人はことばを交わし、情熱的に愛し合うようになる。
アデルは教師になることを目標とし、エマは大学で美術を学び画家になることを決心していた。
だが、2人の関係は思いもよらぬところから崩れはじめる・・・
グラフィック・ノベルを原作としたフランス映画です。
ジュリー・マロ 2376円 powered by yasuikamo |
ジャンルとしては恋愛映画となるのですが、そんじょそこらにあるようなラブストーリーとは一線を画す内容になっています。
まず、本作には一切のナレーションや"説明"がありません。
それどころかBGMすらありません。
主人公たちの境遇や関係性は、端々の台詞や画により判断するしかありません。
語られる哲学的な思想は、主人公たちのその後の行動を暗喩していたりします。
観客にある程度の"読む"能力が要求される、極めて文学的な作品であると言えるでしょう。
本作はレズビアン同士の恋愛について描かれた映画です。
彼女たちの苦悩は甘いものではありません。単純に「女の子が好き」だからといって、簡単にカミングアウトしたり、自分の想いに正直になることはできないのです。
主人公のアデルは、どう見ても青い髪のエマに一目惚れしているのですが、アデル自身は頑に「違う」「レズビアンじゃない」と否定しています。
それはなぜなのかを考えてみると、より本作の奥深さに気づけるでしょう。
ラブシーンも過激かつ独特です。
”はじめて"のエッチシーンは7分間続くという濃密さで、エロティックさよりも先に「これほどまでに人は愛し合えるのか!」と思える情熱を感じるものでした。
R18+指定は当然、覚悟の上で観た方がよいでしょう。
画作りも独特です。
映画の8〜9割くらいは登場人物の顔のアップです。
画面一杯に登場人物の泣き顔や笑い顔が大写しになるので、その"顔"のみの演技に圧倒されることでしょう。
また、上映時間は約3時間(2時間59分)です。
"間"を長く取り、会話も省略せずにじっくり描いています。
もともと撮影されていたのは800時間もあり、そこから編集してこの時間というのですから驚きを隠せません。
そんなわけで本作は驚くほどに万人向けじゃありません。
わかりやすい説明は一切なく、
哲学的な思想がクローズアップされ、
ストレート(異性愛者)の人が感じることのない同性愛者の苦悩を描き(苦悩自体は普遍的なものもあります)、
性描写は過激で、
ほとんどで登場人物の顔のアップばかりを見せられ、
音楽もなくて
それが3時間続くのですから・・・
予告編を観て「スピルバーグが絶賛しているんだ!」「オシャレな恋愛映画を観たいなあ〜」と予備知識がないままで期待している方には、「ちょっと待って、本当にいいの?」と言いたいです。
しかし、本作は深読みをすればするほど面白い映画です。
はじめのほうにあるアデルと同級生の男の子のどうでもよさそうな会話の中には、様々な暗喩がみられます。
恋人のエマが画家を目指し、主人公のアデルが教師を目指すという一見"普通"のことにも、いくつかの皮肉が見えます。
一見あっけらかんとしているようなエマが抱えている想いを想像すると、とても苦しいものがあります。
アデルはどういう想いで、"その行動"をしたのか、考えてみるのもよいでしょう。
役者の演技の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがあります。
監督は、わざわざ主人公の名前を「アデル」に変え、主演のアデル・エグザルコプロスがキャラクターに没入できるようにしたそうです。
その甲斐あってか、もはや彼女の演技は演技には見えず、実在のアデルという人物がそこにいるかのようなリアリティがありました。
幸せで単純なラブストーリーを期待する人には全く向きませんし、デートムービーとしてもおすすめすることがためらわれる内容です。
この作品の特徴を知り、ことばや画の端々から「登場人物の想いを読み取ってやろう」と意気込んでから映画を観ると、より楽しむことができるでしょう。
また、サルトルの実存主義について知っておくと作品を飲み込みやすいでしょう。
簡単に言えば、実存主義とは「物事や人間がまず存在していて、その本質ははじめは未決定であり、行動により本質がはっきりしてくる」という考え方。これは作品のテーマにもなっています。
個人的には「やっぱり3時間は長い・・・」と上映時間中はしんどさを感じた事を否定できないのですが、あらためて物語を振り返ると「あそこはああだったなあ」「そこはこういう意味だったのかも」と考える楽しみが生まれました。
これからこの映画を観る方は、鑑賞中に「耐える」のではなく、「考える」ことをおすすめします。
そうすれば、アデルとエマのキャラクターが好きになり、この映画が忘れられないものになるかもしれません。
また、本作にはそこかしこに"青"の色が映っています。
blue skyには「空虚な、具体性のない」
blue filmには「ポルノ映像作品」
blue sexにはズバリ「同性愛」という意味があります。
エマの髪の色に限らず、その青が何を示しているかを考えてみるのも、また一興です。
以下、結末も含めてネタバレです 鑑賞後にご覧ください↓
〜アデルの物事の捉え方〜
アデルは同級生のトマとバスで話し合い、音楽の好みを言っていきますが、「ハードロックだけはだめ、長髪で叫んでいるだけだもの」と言っていました。
これは、アデルが物事を偏向的な見方をしていることを示しています。
レズビアンであることも、他とは違う異端なものであり、よく知らないまま嫌っていたにすぎないのではないでしょうか。
トマが「実は俺がやっているのはハードロックなんだ」と冗談で言ったとき、アデルは「ごめんなさい、あなたのは違うのかしら」と返していました。
アデルがエマと情熱的な恋愛とセックスをしたことも、にわか知識で得た偏見的なものとは"違って"いたのかもしれません。
〜論理的な分析〜
トマは、アデルが気に入っていた本について「苦戦しているよ、古くて長ったらしいのがちょっとね」と否定的でした。
彼は文学の授業で、作品が女性心理を深く描いている事を知り、面白いと感じていました。
しかし、アデルは「私は細かく分析して、作家の人生と結びつけるのは好きじゃないわ」と否定します。
トマは論理的な思考を持ち、分析をして他者の気持ちを考えるタイプだったのでしょう。
付き合っているはずのアデルに避けられていることも、セックスした後に満足できなかったことも、彼には理解ができなかったのかもしれません。
一方、アデルは論理ではなく直感を信じるタイプであったのだと思います。
エマに"一目惚れ"をすることも、それを示しているのではないでしょうか。
アデルは、「あなたも可愛いわ」などと言っていた同級生の女の子に迫りますが、「こういうことになるとは思わなかった」と拒絶をされました。
それも理性的な考えによるものではなく、「相手がそう言ったから、そうなんだろう」という単純な思考による行動なのでしょう。
後にアデルがボブ・マーリーをサルトルと同列に語ることも、彼女の"現実的でない"考えを表しているように思いました。
〜主観的な見かた〜
アデルはエマの事を想いながら自慰行為をすることを、忌み嫌っているようでした。
トマと別れた後に「自分が汚い」と、同級生の男の子の前で泣きはらしています。
同級生にエマがレズっぽいと茶化されたときには、大声で「私はレズビアンじゃない!」と否定をしました。
アデルはレズビアンの行為そのものを「汚い」「醜い」と嫌っていたのでしょう。
しかし、後にアデルとエマが美術館に言ったとき、エマはこう言っていました。
「醜い芸術なんて存在しないわ、醜いと思ったら、それは主観よ」」
アデルとエマの性行為には、(客観的にも観ても)絵画のような美しさがありました。
アデルのように、(たとえ同性愛でなくとも)性欲や性行為に醜さを感じてしまうことは誰にでもあることです。
この映画では、アデルが主観的に醜いと感じていた行為を、客観的に見ても美しい芸術として描いたのです。
ここに作品の優しさを感じます。
〜実存主義〜
アデルは同性愛者が集まるバーに行き、エマと再会します。
偶然入ったことを装うアデルでしたが、エマには「人生に偶然はないわ」とアデルを受け入れました。
エマは後に実存主義について説き、「行動には責任が伴う」「超越的原理により人は決定できるのよ」と話していました。
エマは神や偶然を信じず、自分の行動がその後の運命をつくると考えていたのでしょう。
エマは画家という不安定かつ先の見えない道を選んでいますが、行動も目的もはっきりしています。
映画の最後には絵画展も開き、交友関係も良好のようでした。
〜アデルの目標〜
アデルも教師になるという目標を持っている点では、エマと同様に思えますが・・・本当にそうでしょうか?
彼女は教師を目指す理由を「子どもが好きだから」と語っていますが、それは建前にしか思えないのです。
根拠は以下です
・アデルは実習で子どもたちの相手をしていても全く笑顔を見せない
・アデルの両親は、エマの画家という職業を聞いて「恋人がいるのならいい、そういう職業には支えてくれる夫がいるよなあ」と言っている
・アデルは詩の才能をエマに見込まれており、たびたび「詩人になればいいのに」と言われ、本物の詩人に会ったときにもドギマギしている
アデルは、本心では詩人になりたかったのではないでしょうか。
しかし、両親はアデルにそのような仕事をさせることを許さないのでしょう。
(レズビアンであるアデルは、「支えてくれる夫」とパートナーになることも叶いません)
一方、エマの両親は、エマが画家になることにも、同性愛者である事にも寛容でした。
エマの両親が来客者にふるまうのは高級な牡蠣でしたが、アデルの両親がつくったのは安っぽいなナポリタンです。
後にアデルが「子どもに教えてあげたい、私の両親も教えてくれなかったことを」と言っていたのも、両親がステレオタイプな性格であり、同性愛のことも許してくれなさそうなことを示していたのかもしれません。
アデルは中盤に俳優を生業としている男と出会い、「ニューヨークに行けばいいのに」と言われますが、結局行っていません。
これもアデルが「行動を起さず、建前で言った目標の道を選んでしまった」ことを示しているのでしょう。
映画の最後にアデルがエマの絵画展に行ったとき、彼女はその居場所がないかのように歩いていました。
エマには、多くの有名人が話しかけていたのに・・・
2人の生き方を示す、とても切ないシーンでした。
また、俳優であった男は、アデルと絵画展で再会したときに俳優であることをやめ、不動産販売という現実的な仕事をしていました。
本当にしたい仕事をやるのか、それとも現実的な道を選んだ方がよいのかー
そう問いかけられているような皮肉を感じました。
〜青の意味〜
青の色は、アデルからエマへの情熱(性欲)を表しているのでしょう。
エマは理由もなく、唐突に青い髪を元の色に戻していました。
時を同じくして、アデルは男と不倫をしてしまいます。
アデルのエマへの情熱は冷えきり、不倫を知ったエマは激昂してアデルを追い出しました。
アデルは教師になってしばらくした後、海を泳ぎ、"青"の中で恍惚とした表情を浮かべました。
これもエマへの情熱が戻って来たことを示しているのでしょう。
最後にエマと再会したときと、絵画展に行ったときに、アデルはブルーのドレスを着ていました。
しかし、いくら情熱を持ってしても、エマはもう手の届かない存在になっていたのです。
〜エマの想い〜
エマにはミリアムというパートナーがいましたが、ミリアムには夫がおり、子どもも産んでいました。
彼女は「それが私の家族なの」と、あっけらかんとアデルに話していました。
本心では、エマはアデルと家族をつくりたかったのでしょう。
レズビアンである彼女たちは、もちろん子どもをつくることは叶いません。
エマは家族であると紹介しましたが、それには「諦め」のような哀しさを感じました。
自身が男であれば、子どもができ、愛する人と家族になれるのに、というようなー
また、エマはアデルの名前の意味をあげていくとき、「太陽?」と言ったりもしました。
その後にエマとアデルがキスをするとき、その背後では太陽が燦々と輝いていました。
アデルにとって、エマは情熱を捧げる人物でした。
エマにとっても、アデルはまるで太陽のような希望を与えてくれる存在だったのでしょう。
エマが描いた絵には、「この世界で生きる女性、真ん中にはそれを支える女性」が描かれていました。
支える女性とは、アデルのことにほかならないでしょう。
しかし、すれ違いにより彼女たちは破局し、別々の道を選ぶしかなかったのです。
絵画展をあとにするアデルは、何を想っていたのでしょうか。
エマとの幸せな生活を夢見ていたのかもしれまんし、成功したエマを祝福して諦めもついたのかもしれません。
答えはないのでしょう。
アデルとエマの想いは、観客それぞれが想像をすることなのです。
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