細川之持
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文明18年(1486年)[1] |
死没 | 永正9年(1512年)1月[2]または天文2年2月23日(1533年3月18日)[1] |
幕府 | 室町幕府 阿波守護 |
氏族 | 細川阿波守護家 |
父母 | 父:細川義春 |
兄弟 | 之持、澄元、細川政賢室 |
子 | 氏之、久米義広室 |
細川 之持(ほそかわ ゆきもち)は、戦国時代の武将。阿波国守護。細川阿波守護家8代当主。
生涯
[編集]文明18年(1486年)、細川之勝(のち義春)の長男として誕生[注 1]。父・之勝は備中国守護・細川勝久の養子となっていたが、長享2年(1488年)に兄(之持の伯父)・政之が亡くなったのに伴って急遽実家に戻り阿波守護を継承(同時に義春に改名)していた。しかし、義春も明応6年(1497年)に早世したため、祖父の細川成之より後見を受けて家督を相続し、阿波守護となる。元服して之持と名乗る(「之」は祖父・成之より、「持」は大伯父・持常より1字を取ったものであろう)。
もっとも当時は成之がまだ健在であったために先に義春が讃州家とは別に継承していた備中守護を先に継承して、弟の澄元が細川政元の養子になるのが決まった後に阿波守護の継承が決まったとする説もある。ただし、成之が実際の政務を取り仕切り続け、後述のように成之の死から数か月で之持も没するため守護としての実質はほとんどなかったとみられている[4]。
隠居していた祖父の後見の下に、之持は中央の争乱に関わった。また、澄元が擁立していた11代将軍・足利義澄の子・義維を阿波平島荘に匿って養育している。
一方で、澄元の対立相手であった細川高国は自派の守護として、従弟の細川国豊(細川春倶の子)を備中国に送り込んだことから備中守護としての影響力を失っていくことになる[5]。
前年9月12日に死んだ祖父の成之の後を追うように、永正9年(1512年)1月に死去。ただし、天文2年(1533年)2月に死去したとする説もある[注 2]。後を子の氏之が継いだ。
之持までの阿波細川家3代がいずれも早世し、大黒柱だった成之も死んだことで、阿波細川氏は急速に衰退していくことになった。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)6月5日条には京都の細川讃州邸で開かれた能会に同家の6歳の子息が参加していたことが記されている。当時、阿波下国中の細川成之(讃州)の留守を後継者である義春(之勝)が守っていたこと、之持の唯一の兄弟とみられる澄元が当時3歳であったことが他の史料より確認できることから、同記事に登場する讃州家の6歳の子息は之持ということになる[3]。
- ^ 天文2年没説を採用しているのは「淡路柏木系図」のみであるが、若松和三郎は堺幕府が置かれた享禄年間に之持に比定される讃岐守の活動が認められること(『細川両家記』・『応仁後記』)、『二水記』天文元年1月23日条[6]に讃州と彦九郎の2名が堺にいる細川晴元に対して、三好元長による柳本神二郎(甚次郎)殺害を弁明している記事があることを指摘するとともに、彦九郎は氏之の初名であることから、その当時の讃州(家当主)は氏之ではなく先代の之持であるとして、之持の永正9年没とする説では当該記事の説明がつかず、之持・氏之親子がともに堺幕府を支える存在であったとする[7]。この説に対しては馬部隆弘が反論を行った上で、『細川両家記』に関する別解釈および『細川高国晴元争闘記』から氏之は之持の子ではなく、永正13年(1516年)頃に生まれた澄元の次男で之持の死で空席となった讃州家を継いだ存在であるとした(この説では晴元と氏之は実の兄弟となる)[8]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 長江正一『三好長慶』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年4月(原著1968年)。ISBN 978-4-642-05154-5。
- 若松和三郎『阿波細川氏の研究』戎光祥出版、2013年(原著2000年)。ISBN 978-4-86403-087-8。(原著は私家版)
- 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02950-6。
- 「細川澄元陣営の再編と上洛戦」(初出:『史敏』14号、2016年。)
- 「細川高国の近習と内衆の再編」(初出:『史敏』13号、2015年。)