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松島基地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松島飛行場
Matsushima Air Field
基地正門
IATA: なし - ICAO: RJST
概要
国・地域 日本の旗 日本
所在地 宮城県東松島市矢本字板取85
種類 軍用
所有者 防衛省
運営者 航空自衛隊
運用時間 24時間
所在部隊 第4航空団
標高 2 m (6 ft)
座標 北緯38度24分17秒 東経141度13分10秒 / 北緯38.40472度 東経141.21944度 / 38.40472; 141.21944
地図
空港の位置
空港の位置
RJST
空港の位置
滑走路
方向 長さ×幅 (m) 表面
07/25 2,701×46 アスファルト
15/33 1,500×46 アスファルト
リスト
空港の一覧
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松島基地の位置
松島基地の位置
RJST
松島基地の位置
上空から見た松島基地(2021年)
松島飛行場の空中写真(2019年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
松島基地付近の空中写真。1984年撮影の8枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

松島基地(まつしまきち、: JASDF Matsushima Airbase)は、宮城県東松島市矢本に所在する航空自衛隊の基地(軍用飛行場)。基地司令第4航空団司令が兼務。

所属する航空部隊はF-2Bの操縦訓練を実施する第21飛行隊(第4航空団隷下)、自衛隊の展示飛行隊である第11飛行隊ブルーインパルス、第4航空団隷下)、捜索救難を行う松島救難隊航空救難団隷下)である。

平時は戦闘機部隊が利用することはないが、中国軍およびロシア軍が有する戦闘機の戦闘行動半径外にある地政学的条件を活かして、有事の際は北方からの脅威に襲われる千歳基地や三沢基地を支援する戦略拠点となる。

また、百里基地などの関東地方の各基地と青森県の三沢基地の中間に位置するため、天候不順時に航空機代替着陸する基地としても使用される。

歴史

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基地としての歴史は、日本海軍の飛行場、松島海軍航空隊矢本飛行場として始まる。この飛行場の建設は1938年(昭和13年)から始まり、1942年(昭和17年)に竣工した。当時、横須賀海軍建設部の書記官一人が事前連絡なしに当時の鷹来村を訪れ、一方的に飛行場の建設を村の関係者に言い渡したという。完成した飛行場は、幅8メートル延長1550メートルの滑走路3本を持ち、戦闘、補給、管理の諸部隊の兵員約1000名がここに勤務した。基地に配備された機体は、夜間戦闘機月光」5ないし6機、爆撃機銀河」50機、一式陸上攻撃機20ないし30機である。また、第二〇一海軍航空隊第七〇六海軍航空隊などが駐留した。1943年(昭和18年)には、現在の仙石線の前身である宮城電気鉄道の矢本駅から矢本飛行場まで線路が引き込まれ、主に航空燃料の輸送に使用された[1][2][3]。松島海軍航空隊は豊橋海軍航空隊および松山海軍航空隊と共に陸攻隊を編成して沖縄戦を戦い、約200名が戦死した。

矢本飛行場は1945年7月の7月14日、7月15日、7月17日の7月空襲があった。終戦前の昭和20年の8月9日と8月10日の爆撃の合計5回にわたってアメリカ軍の空母艦載機による空襲を受けた。アメリカ軍機の接近を察知できなかった飛行場の日本軍機は一方的に破壊された[4]

終戦後、矢本飛行場はアメリカ軍に接収されて「松島キャンプ」となり、ここにアメリカ軍第11空挺師団の第188連隊が進駐した。この部隊はエアボーンを行う空挺兵の部隊で、いわゆる落下傘部隊である。進駐後、この部隊は松島キャンプで降下訓練を行っていたが、既存の敷地では手狭と考え、飛行場周囲の土地を追加で接収した[5]。また、朝鮮戦争時には陸軍工兵隊の訓練などに使われた[6]。1954年(昭和29年)6月1日に保安隊の臨時松島派遣隊が船岡駐屯地で編成されて、この部隊は翌日に松島キャンプに入った。同年7月に自衛隊の発足に伴って、臨時松島派遣隊は航空自衛隊の部隊となり、アメリカ軍の指導の下で日本人パイロットの養成が始まった。そして1955年(昭和30年)に松島キャンプはアメリカ軍から日本に返還されて松島基地となる[7]

年表

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JL2020便として松島基地に着陸した聖火輸送機(日本航空のボーイング787-8

東日本大震災

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2011年3月14日における石巻湾仙台湾)沿岸のフォールスカラー衛星画像。左下に松島基地が見える。
水没したF-2を見るアメリカ軍兵士(2011年3月18日)
旧管制塔(左)と新管制塔
かさ上げされた地盤と、その上に建設された格納庫(2016年8月)
基地の外周に建設された防潮堤(2016年8月)

被害

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2011年(平成23年)3月11日14時46分頃に東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生、東松島市では震度6強を観測。14時50分、宮城県に15時00分に高さ6mの津波が到達するとの気象庁発表[15]。地震発生から約1時間10分後の15時54分頃、基地は高さ2m以上の津波に襲われた[16][17]

本来、震度5以上なら直ちに航空機で上空から被害確認にあたるが、天候による視界不良、津波到来の時刻が当初不明だったこと、揺れで捜索機の前輪がずれたこと、激しい余震が予期される中での救難ヘリコプターの離陸は回転翼が機体をたたく危険性があること、滑走路や誘導路に亀裂や断裂が生じている懸念の対策等から津波に襲われるまでに航空機を飛ばすことができず[18]、駐機場および格納庫に駐機していた航空機28機(F-2B戦闘機×18機、T-4練習機×4機、U-125A救難捜索機×2機、UH-60J救難ヘリコプター×4機)全てが水没し[19][20][21]、冠水のため基地機能も完全に喪失した(その後、水没した18機のF-2のうち修理可能な機体は13機と判明)。

当時基地で勤務していた隊員約900名は建物屋上に避難し全員無事だったが、休暇中の隊員1名が死亡した[22]

ブルーインパルスは、震災翌日に予定されていた九州新幹線全線開業の祝賀飛行[23]のため3月10日から福岡県芦屋基地に展開していたため、被害を受けたのは基地に残っていた予備機1機のみであった。

復旧

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翌3月12日の夜明けから隊員の手作業により滑走路の復旧に着手、同日午後には他基地から重機が到着し、復旧作業が本格化する一方で[24]、津波被害を免れた2台のトラックを救助活動に向かわせた。

3月15日に滑走路が復旧し(管制レーダーは使用不能)、翌3月16日5時50分にアメリカ空軍第353特殊作戦群所属のMC-130Pが着陸、人員と機材を下ろし臨時の管制機能を開設[25]、これにより松島基地は救援物資の輸送拠点として使用された[26]

第21飛行隊は、青森県の三沢基地へ移動して三沢移動訓練隊を編成、他部隊のF-2Bを借り受け飛行教育を行う事とした。

2014年(平成26年)3月3日、被災した旧管制塔に代わって建設された新管制塔の運用を開始した[27][28]。これにより、発災以来、松島基地で活動していた移動管制隊百里基地に帰還した[28]。また同月、松島救難隊と第11飛行隊(ブルーインパルス)の新格納庫が完成した[28]

2016年(平成28年)3月に駐機場を4mかさ上げする津波対策工事と新しい格納庫の建設が完了。同月には第21飛行隊が松島基地に帰還した[13]。帰還時は10機(内6機は修理完了機)のF-2Bで部隊を稼働し、残り7機のF-2Bも2017年度中に修理され復帰した。

配置部隊

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航空教育集団隷下

航空総隊隷下

航空支援集団隷下

防衛大臣直轄部隊

クラブ活動

航空祭

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毎年8月に開催。2006年平成18年)から基地内駐車場は原則として廃止したため、JR矢本駅などを利用する、公共交通機関での来場を呼びかけていた。ブルーインパルスの展示飛行が催される。2019年開催の航空祭では5万6千人が来場したとされ、東松島市最大のイベントとされる[29]

2011年以降は東日本大震災の影響により開催されていなかったが、2016年8月28日、事前公募9,000名と特別招待1,000名の計1万名に限定した「復興感謝イベント」を開催。ブルーインパルスの展示飛行が本拠地にて約6年ぶりに行われた[29]

2020年および2021年は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて中止されていたが、2022年は入場を応募制にした上での開催となった[29]

事故等

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  • 1977年(昭和52年)8月31日 - 地上のT-2高等練習機から誤って座席が射出。パラシュートが開かず教官1名が死亡した。
  • 2000年平成12年)
    • 3月22日 - 松島基地所属のT-2高等練習機1機が宮城県牡鹿郡女川町の山林に墜落。乗員1名が死亡した。
    • 7月4日 - コーク・スクリューの訓練を行った後に帰投する予定であったT-4ブルーインパルス仕様機5・6番機が無線交信の直後に牡鹿町(当時)の山中に墜落した。事故当日は悪天候であったため、救難機が捜索するも発見出来ず、翌日になって事故機・パイロットの遺体は発見された。パイロット3名が殉職・T-4を2機失うという、ブルーインパルス史上、最大の惨事となった。
  • 2003年(平成15年)7月26日 - 宮城県北部(鳴瀬町矢本町河南町周辺)を震源とした、震度5弱~震度6強の地震(宮城県北部地震)が連続して発生した。この地震の影響により松島基地内も一部が損傷し、翌7月27日(日)に松島基地航空祭が予定されていたが中止になった。基地内に設けられていた「航空祭対策本部」を「災害対策本部」に替え、同基地所属の松島救難隊が情報収集に緊急発進した。しかし航空祭が中止になった事を知らずに多くの人が基地を訪れてしまい、基地正面門前や最寄り駅に隊員を派遣して、「航空祭は中止になりました」との呼びかけや対応を行った。
  • 2014年(平成26年)1月29日 - 金華山沖の練習空域でT-4ブルーインパルス仕様機2機が訓練中に空中で接触。松島基地に緊急着陸し乗員は無事だった。

脚注

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  1. ^ 廃線であり現存しない。
  2. ^ 『矢本町史』第4巻375-378頁。
  3. ^ 『矢本町史』第3巻431頁。
  4. ^ 『矢本町史』第4巻452-453頁。
  5. ^ 『矢本町史』第5巻4-5頁。
  6. ^ 日本語 Miyagi 1951 - 宮城 1951-Miyagi 1951 - 1951年3月から6月まで訓練の合間に松島や石巻を撮影した軍医の写真を集めたページ
  7. ^ 『矢本町史』第5巻377-378頁。
  8. ^ a b c イカロス出版 JWing No.121 2008年9月号 52頁 「集まれ!日本の戦闘機部隊 航空自衛隊、過去の戦闘機部隊」
  9. ^ a b c d イカロス出版 自衛隊の名機シリーズ4 航空自衛隊T-2/F-1 20頁-21頁 「歴代F-1/T-2飛行隊 第21飛行隊」松崎豊一
  10. ^ イカロス出版 自衛隊の名機シリーズ4 航空自衛隊T-2/F-1 22頁-23頁 「歴代F-1/T-2飛行隊 第22飛行隊」松崎豊一
  11. ^ イカロス出版 Jwing No.34 2001年6月号 10頁-11頁 「第22飛行隊 解隊記念行事」宮北正芳
  12. ^ イカロス出版 Jwing No.46 2002年6月号 19頁-21頁 「航空自衛隊・松島基地 臨時教育F-2飛行隊にF-2B到着!!」小栗義幸
  13. ^ a b 「困難を乗り越え、本日をもって松島基地は復興する」 帰ってきたF2戦闘機 第21飛行隊、訓練再開へ 宮城県”. 産経新聞 (2016年3月20日). 2016年3月20日閲覧。
  14. ^ 東京2020オリンピック聖火が日本に到着”. 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 (2020年3月20日). 2020年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月28日閲覧。
  15. ^ 気象庁 - 平成23年 3月11日14時50分 気象庁発表
  16. ^ 東松島市 - 松島基地の基地機能の回復とT-4ブルーインパルス機の松島基地での早期訓練再開を要望する意見書
  17. ^ 毎日jp(毎日新聞) - 検証・大震災:自衛隊員10万人、史上最大の作戦(2)
  18. ^ 証言3・11:東日本大震災 松島基地、無念の全員退避 吹雪の中、迫る津波 飛べずに28機全滅毎日新聞 2012年4月29日
  19. ^ 空自松島基地の全航空機水没2011年3月12日 日本経済新聞
  20. ^ F2戦闘機18機など水没 松島基地 1機120億円2011年3月12日 asahi.com(朝日新聞社)
  21. ^ 広田防衛政務官、「パイロット養成に支障、防空態勢に困難」 松島基地被災で2011年3月22日 MSN産経ニュース
  22. ^ 朝雲ニュース - 東日本大地震 松島基地の機能回復
  23. ^ 3月11日の午前(大地震発生前)の事前飛行は行われたが、12日の祝賀飛行は自粛された
  24. ^ 東日本大地震 松島基地の機能回復
  25. ^ 『マンガでわかる日本の軍事問題 トモダチ作戦!』 Col.AYABE (著)、2011年。ISBN 978-4-7986-0280-6
  26. ^ 空自松島基地の滑走路復旧 救援物資の輸送拠点に - 東日本大震災2011年3月16日 asahi.com(朝日新聞社) 2011年3月31日閲覧
  27. ^ 松島基地松島管制隊. “松島管制隊”. 2021年11月8日閲覧。
  28. ^ a b c “元気です。松島基地”. 防衛ホーム新聞社. (2014年10月15日). http://www.boueinews.com/news/2014/20141015_12.html 2021年11月8日閲覧。 
  29. ^ a b c “松島基地航空祭、3年ぶり開催へ 感染対策で応募制に”. 河北新報. (2022年7月11日). https://kahoku.news/articles/20220711khn000023.html 

参考文献

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  • 矢本町教育委員会 『矢本町史』第3巻 矢本町、1976年。
  • 矢本町教育委員会 『矢本町史』第4巻 矢本町、1986年。
  • 矢本町教育委員会 『矢本町史』第5巻 矢本町、1988年。

関連項目

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外部リンク

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