トラウマ
トラウマ(独:Torauma、英:Wounds)とは、「心に傷を負った可愛そうな自分」を演出するのに使われる心理学上の便利な言葉である。
概要[編集]
正式には「心的外傷」と呼ばれるものである。日本では「トラウマ」イコール「心的外傷」と思われがちだが、元々トラウマという言葉は古代ギリシア語で「傷」を意味するものであり、単にトラウマと言った場合通常は身体の外傷を指す。ただしここは日本語版アンサイクロペディアなので、「トラウマ」イコール「心的外傷」ということにして話を進める。
元々トラウマという言葉は幼少期の虐待や強姦、戦争、犯罪、事故、いじめ等による悲惨な経験などによって大きな精神的ショックを受け、長期間に亘って精神あるいは肉体に影響が残ってしまうことを指していた。しかし現在の日本ではそのようなことは関係ない。失恋、ペットの死、友人や家族との喧嘩、上司に怒られた、自慰行為を見られた等の比較的どうでもいいことでも「自分は心に傷を負った」と感じた瞬間それをトラウマと呼ぶことが許されている。かすり傷でも傷は傷だというのが彼らの主張だ。
使い方[編集]
本来なら大したことのない過去も心理学用語であるトラウマという言葉を用いることでお手軽に深刻さとかっこよさをアップすることができる。
例えば「彼に振られたことがショックで元気が出ない」と言うと心の底からどうでもいいって思い、「だからどうした」と返してしまいたくなるようなありがちな文章であるが、「彼に振られたことがトラウマになっていて新しい恋愛に踏み出せない」という表現に変えるとたちどころにケータイ小説のヒロインっぽくなる。
「俺、小学校の時にうんこ漏らしたことがあるんだ……」というちょっと汚い思い出も「ちょっと小学校にはトラウマがあってさ……」と言い換えるとなんだかかっこよく聞こえる。
トラウマ幻想論[編集]
90年代の日本で、トラウマとは幻想であるというニューポストモダン思想が一世を風靡した。それにより、トラウマ保持者たちはやっきになって、トラウマ幻想論を必死で叩いた。トラウマを誇りにしているということがばれると、生きていくのが困難になっているからだ。95年に流行った「新世紀エヴァンゲリオン」により、トラウマ幻想論は強固になり、トラウマを持っていることは恥ずべきこととなった。この現象を総じて「トラウマ幻想論」と呼称する。この幻想論とは無関係だったのが尻軽女で、彼女たちだけはトラウマの概念とは全く無関係にセックルを謳歌していた。
トラウマを持っている女子(おなご)はもて女[編集]
2000年代になると、突然トラウマ幻想論が弱みを覚えて、「トラウマ至上主義」が復興。その頃日本はアジア中に工場を打ち立てていたので、その燎火はインドネシア・ベトナムにまで広がった。トラウマ至上主義ともなると逆にトラウマを持ちネタにしない女子(おなご)は「恥ずべきもの」と認定され、それをフォローしたり激しく突っ込みを入れない男子(おのこ)は「人間のクズ」と日本リナックス協会から認定されるめーはとなった。トラウマ至上主義とこの頃無縁だったのは、虎、馬、前二者の愛好家たちであった。
虎と馬について[編集]
尻軽女、虎、馬、前二者の愛好家たち、この層に限ってはトラウマ論争とは常に無縁。その論考はいつも偉大なる知識人が試みるのだが、いつも失敗する、ニーチェはかつてこの問題に真正面から取り組んだが、結局それが遠因となって狂死した。まともな神経を保持するニーチェであってさえそうなので、普通の人生を送る人は「トラウマ論争」に入るか、もしくは尻軽女、虎、馬、前二者の愛好家たち、この層のコミュニティに参加して、わいわいがやがや生きていくのが無難と言えそうである。