フリードリヒ・ニーチェ
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844年 - 1900年)は、ドイツの俳優(自称)、音楽家(自称)、舞踏家(自称)、詩人(自称)。本業は哲学(自称)だが、本業も副業も上手くいっていない。はっきり言ってNEET。特に運動オンチだったため舞踏家という職業には周囲も疑問を持つ程だった。哲学者としては、性交のみならず自慰行為までをも忌避する従来の哲学やキリスト教を徹底的に批判、自らは「生の哲学」を唱え「生」を謳歌するための行為であるセックスを礼賛し、「永劫回帰」思想で永遠のセックスに耐えられる「超人」を待望する哲学を繰り広げ、自ら創作した演劇「超人シュタイナー(原題:Ubermensch)」を主演するが、周囲の顰蹙を買うなど、一顧だにされなかった。しかし後にはその思想に同調したナチスによって英雄視された。神をチェーンソーで殺害できることを発見した始めての人物。
生涯[編集]
1844年ドイツのザクセン州に、牧師の子として生を受ける。5歳で父を失う。ボン・ライプツィヒ両大学で文献学を専攻、古典ギリシャ・ローマ文献で自慰することを覚える。また学生時代には風俗通いの挙句梅毒に感染したとの研究もある[要出典]。
「悲劇」の誕生[編集]
1868年、24歳のときにリヒャルト・ヴァーグナーと出会う。4年間白湯の杯を交し合い、1872年にバンド「悲劇」を結成する。ヴァーグナーが曲を、ニーチェが詞を書くスタイルをとった。当時はドイツ中どのCDショップでも山積のCDを見かけるほどの人気だった。ダンディで貴婦人に人気のでたヴァーグナーは、ヴィジュアル系への転向を計画するが、ニーチェに「悲劇的な容姿の私たちが、メイクをしてもそれは悲劇でなく滑稽だ。そして私には金も無い」と諭されてやめる。しかし1876年「ニーベルングの指環」のリリース後、「音楽性の違い」を理由に突如解散宣言が発表される。
解散はファンにとってまさに悲劇となった。ヴァーグナーは以後ソロ活動で人気を博す。ニーチェは詩人として活動するが、鳴かず飛ばずのまま一生を終えることになる。多くの同情がヴァーグナーへ寄せられた。
解散から2年後の1878年、ニーチェは「人間的な、あまりに人間的な」を出版。その中でヴァーグナーについて「彼の顔はあまりに人間的だった」と決別の意思をあらわにしている。また、この頃からダンスに興味を示すようになり、舞踏家として活動を開始。その集大成が後の『ツァラトゥストラはこう語った』である。
晩年、「この種を撒くと、わしの倅が生える」とのたまう。
発狂[編集]
1889年、馬車馬を虐めるジャイアンを止めに入り、馬に寄り添って涙を流した直後、発狂。自らが待望した「超人」ではなく「狂人」となった。その後、1900年までしぶとく生き、彼の面倒を見た家族の手を十年近くも煩わせた。
ルー・ザロメ[編集]
ニーチェにはルー・ザロメという美人の想い人がいた。ところが親友パウル・レーもザロメに想いを寄せており、ドロドロの三角関係になる・・・はずが、なんと三人一緒によるひとつ屋根の下でのなかよし共同生活ということになったのである。まったく、天才の考えることはわからない・・・。ちなみにその頃撮られたのが上部の3人一緒の写真で、ザロメが御者でムチ打ってニーチェとパウル・レーが馬車馬という滑稽な戯れをしているのだが、もしかしてSMの気があったのだろうか・・・。
妹エリザベート[編集]
彼には2歳年下のエリザベートという妹がいる。彼女は兄フリードリヒと違ってまともな人間で、変態的思想に溺れ人間としての道から外れた挙句、狂人となった兄の様々な愚行の尻拭いをする健気な妹であった。エリザベートは兄を慕う極度のブラコンで、幼いときは「ニーチェにいちゃん、ネイチャー読む?」と言って上目遣いに見上げるという、シスコンも悶絶するようなエピソードが伝えられている。ところで、後年このエピソードを聞かされた時に萌えてしまったというのが、前述のルー・ザロメであった。彼女は「ネイチャー」を「姉ちゃん」と聞き間違えてしまったのだった。もしザロメがニーチェと結婚したら、ザロメはエリザベートの義理の姉ということになる。つまりザロメは「お姉ちゃん」と呼ばれたい百合体質だったのである。
エリザベートは内容的にまったく破綻した兄の著作に手を加えて何とか出版できるよう尽力した。特に『この人を見よ』等は、その支離滅裂な文章に加え、家族や友人、理解者への罵詈雑言だけでなく、自己と同名のドイツ皇帝を侮辱するなど不敬罪に処せられてしまうような内容だったが、彼女は自分に対する悪口に耐えつつこれに加筆し、体裁を整えて出版、兄の後期思想の保存・普及に多大なる貢献を果たした。彼女なくして哲学者ニーチェ、延いてはナチズムは存在しえなかっただろう。
主な著作[編集]
- 『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragoedie 1872)
- ヴァーグナーを聴きギリシャ悲劇を読みながら自慰することを勧めた書。R-18指定。
- 『反時代的考察』(Unzeitgemässe Betrachtungen 1876)
- 全四篇。第一篇「ダーヴィト・シュトラウス 告白者と著述者」は普仏戦争総括の書。文明より文化が大事!元気があれば何でもできると主張。第二篇「生に対する歴史の利害について」では自らの高校・大学時代の詰め込み教育に対する恨み辛みからゆとり教育の重要性が説かれる。第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」はひとの神経を逆撫でするブラックユーモアの教育的効果を説明している。第四篇「バイロイトにおけるリヒアルト・ヴァーグナー」は、自分の嗜好を一方的に相方ヴァーグナーに押しつけて論じてしまった書。二人の音楽性の違いが見え始めてくる。
- 『人間的な、あまりにも人間的な』(Menschliches, Allzumenschliches 1878)
- 『曙光』(Morgenröte 1881)
- 朝のラジオ体操の振り付けの新バージョンを収録。
- 『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft 1882)
- 前著の続編。「新しい朝が来た~」でおなじみの「ラジオ体操」オープニングのテーマソングに振りを付けた。
- 『ツァラトゥストラはこう言った』(『ツァラトゥストラかく語りき』)(Also sprach Zarathustra 1885)
- 前衛舞踏の教則本。しかしヘビやワシにまでステップをつけるという前衛的な、あまりにも前衛的な内容だったため、生前は、文壇内においては無視、と学会からは「トンデモ本」という不名誉な扱いを受けた。なぜかリヒャルト・シュトラウスが作曲している。
- 『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse 1886)
- 「ダンスに善いも悪いもないよ。好き勝手にやりゃあいいんだ」とスーパーフリー舞踏を提唱。
- 『道徳の系譜』(Zur Genealogie der Moral 1887)
- 『この人を見よ』(Ecce Homo 1888)
- ことごとく自著が売れずヤケになって踊りまくった自作自演のダンスDVD。後にこれをセルジュ・ゲンスブールがカヴァーした。
- 『ニーチェ対ヴァーグナー』(Nietzsche contra Wagner, 1888)
- 『ニーチェ対メカニーチェ』(Nietzsche contra Mechanietzsche, 1888)
- 『力への意志』(Wille zur Macht)
関連項目[編集]
地理 : | フランクフルト - ベルリン - ハンブルク - ブレーメン - ミュンヘン - ハノーファー - ドレスデン - ボン |
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人々 : | ドイツ人 - ゲッベルス - カント - ゲーテ - ヘーゲル -ショーペンハウアー- アインシュタイン - ルター - エック - ベネディクト16世 - ハイデッガー - マルクス - ニーチェ - シューマッハ - ベッケンバウアー - エンデ - ケーラー - エーリッヒ・ホーネッカー - メルケル - キーボードクラッシャー |
軍事 : | ルーデル - ハルトマン - ヴィットマン - カリウス - ヘッツェナウアー - シュライネン - マルセイユ - ビスマルク - ヒトラー - ヒンデンブルク - タイガー重戦車 |
言語 : | ドイツ語 - バイエルン・オーストリア語 - ウムラウト - エニグマ暗号 - ウムラウト怪物 |
音楽 : | バッハ - ベートーヴェン - ブラームス - ワーグナー - ヘンデル - ノミ - ドイツ讃頌 |
歴史 : | 第一次世界大戦 - 第二次世界大戦 - ナチス - ホロコースト - ベルリンの壁 - チェックポイント・チャーリー |
その他 : | ベンツ - ドイツ無政府主義ポゴ党 - ビール - ウインナー(ソーセージ) - ヴェルタース オリジナル - 1972年ミュンヘンオリンピック - ドイツ民主共和国 - 緑の党 |