寶珠寺 (瑞浪市)
寶珠寺(宝珠寺・ほうじゅじ)は、岐阜県瑞浪市釜戸町荻之島にある臨済宗妙心寺派の龍泉門派の寺院。山号は龍雲山。
所在地 | 岐阜県瑞浪市釜戸町4071 |
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位置 | 北緯35度25分27.50秒 東経137度19分34.70秒 / 北緯35.4243056度 東経137.3263056度座標: 北緯35度25分27.50秒 東経137度19分34.70秒 / 北緯35.4243056度 東経137.3263056度 |
山号 | 龍雲山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派(龍泉門派) |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
開山 | 大雲慈徳 |
開基 | 無外一有 |
中興年 | 元禄6年(1693年) |
札所等 | 美濃瑞浪三十三観音霊場六番 |
法人番号 | 7200005008615 |
歴史
編集江戸時代になると、釜戸村は旗本の釜戸馬場氏の知行所となった。
三代の馬場利尚は、信光寺系下の寶珠庵と、大仙寺系下の光春院は、当時は檀家数が少なかったため、釜戸馬場氏の菩提寺である天猷寺の末寺にしたいと考えていた。妙心寺からの寺廻状によって
寛文年間の末寺帳作成時に、寶珠庵と光春院は大本山妙心寺の直末となることを希望したが、馬場利尚は「妙心寺の直末では寺役も負担しなければならないから」という理由で、両寺を一応納得させて、「どうしても妙心寺の直末になりたいと願うなら時期を待て」と申し渡して、寶珠庵と光春院の両寺を天猷寺の末寺として寺社奉行に報告した。
ところが、寶珠庵と光春院の両寺とも納得せず、寛文・延宝年間に寶珠庵の住持であった、莫(永)蔵主[1]が、密かに妙心寺に直末を出願し、延宝4年(1676年)に認められた。
後に妙心寺からの寺廻状によって寶珠庵が直末となったことを馬場利尚が知り、「一滴公[2]御立腹ニテ寶珠庵ハ潰候様」となり、この直末寺の一件から天和2年(1682年)に一時期無住となった[3]。
元禄5年(1692年)、本末制度の施行に伴い、釜戸馬場氏四代の馬場尚恒の代に、天猷寺四世の大雲慈徳からの要請により、天猷寺の末寺となり龍泉門派に改めて、釜戸・町屋の藤田家出身の無外一有に命じて再興に取り掛かった。
無外一有は自分の甥にあたる庄屋の三宅嘉助と協力して田地等買添え基礎を定め、元禄6年(1693年)に妙心寺から認められ、寶珠庵を再興して一世となった。
この事から、寶珠寺では再興を指示した天猷寺の大雲慈徳を開山、実際に再興を主導した無外一有を開基、無外一有首座に協力した三宅嘉助を準開基としている。天猷寺の隠居寺となった。
天猷寺所蔵の「釜戸寶珠庵 光春院」本・末寺一件証文の古文書によれば、
「四月九日之飛札令披見候、然ハ 馬場三郎左衛門殿 知行所 濃州釜戸之内荻嶋村 寶珠庵、公文垣内村 光春院 之儀ハ、同所中切村 天猷寺支配ニ被申付置候処ニ、本山直末寺ニ罷成候故、被遂吟味庄屋井組頭等之書付被指越、具遂披見得其意候、則 馬場三郎左衛門殿 願之通ニ直末之帳面相除、天猷寺末寺ニ貳ヶ寺共ニ記録可申候」
一、寶珠庵・光春寺ニヶ寺共、先年吟味之上、直末之証文下置候得共、此度地頭御吟味之段、被仰残候間任其意候
一、寶珠庵直末之証文并六通書付請取申し、且又光春寺之証文、此度宿坊より被指出候
右之趣、馬場三郎左衛門殿之伝達可有之候、不宣元禄七申戊歳[4]四月十一日 聖沢院彗星花押
霊雲院 全轍花押 東海庵 法東花押 龍水庵 東常花押 松源寺
宝暦6年(1756年)三世の譚叟祖北が、現在の本尊である聖観世音菩薩を入仏した。
仏法に精通し、兵庫県明石市の慈泉寺の上野崇雲や、寶珠庵七世の圓道宜頓など弟子数人を育て、文化8年(1811年)に庫裏を改築した。
文政9年(1826年)、名古屋大須の總見寺の漁巣老師(卓洲胡僊禅師)を請し盛大に法会を催した。この会中毎日のように高名な宿老(僧侶)が寶珠庵に来山し、広間四本戸松の墨絵は、横浜市の永田山 寶林寺の師家である妙喜和尚の筆とされる。
嘉永2年(1849年)、八世の大道祖圓は、観音堂及び龍堂を再建し、安政5年(1858年)に弟子の澤雲祖恩に住持の座を譲り、光春院に隠居した。俳句や歌を楽しみ、時の人からは今一休と呼ばれる。俳句や歌を残し、俳号を「売仏」と称した。明治9年(1876年)1月28日に寂し、光春院に葬られた。
明治29年(1896年)、九世の澤雲祖恩は、安江幸右ェ門・水野善九郎の他十数名と協力して本堂を再建した。
明治32年(1899年)、可児郡久々利村の東禅寺の徒弟であった実應恵参が十世住持となった。
明治35年(1902年)4月、子安観音の開扉を兼ね、虎渓山より老師を招き提唱・授戒会を行った。
明治40年(1907年)、可児郡錦津村(八百津町)の明鏡寺に転住した。
明治45年(1914年)、天猷寺から朴雲祖瑞が寶珠庵に隠居し十一世住持となった。
大正4年(1915年)、朴雲祖瑞が高野山奥之院に請願して入仏した厄除弘法大師像が本堂内に安置された。
太平洋戦争中に寶珠寺に寺号を改めた。
本堂には本尊の聖観世音菩薩の他には、子安観音菩薩、弘法大師像が祀られている。
境内
編集名号碑
編集寛文3年(1663年)癸卯三月建立の剣型碑で念仏同行十三人と刻まれている。
地蔵菩薩石像
編集元禄9年(1696年)建立の丸彫りの坐像である。
「奉造立等 元禄九年七月十二日 願主 当村 宝須 方信」とあり、像高は80cm・台石を含めると135cmである。
その他、延享4年(1747年)建立の光背付きで合掌姿の立像が3体ある。
道祖神碑
編集元禄11年(1698年)建立の丸彫りで大型の坐像で合掌姿である。
三十三所観音石像
編集聖号碑
編集正徳4年(1714年)建立。三十三所観音石像の中央にある。像台石に七字聖号あり。
十一面観音石像
編集正徳4年(1714年)建立。三十三所観音の主尊で、宝瓶を持っており、ここの三十三所観音の主尊として造立されている丸彫りで大型のものである。
右手に水瓶、左手は与願印という珍らしい像形に彫られており、台石に「南無観世音菩薩 正徳四午歳二月十八日 施主女人三十五人 荻之嶋村中」とあり村民の名が刻まれている。
髪は高い宝髪に彫られていて聖観音の像形であるが、右手の持物によって十一面観音と考えられる、珍らしいものである。
四霊場順拝記念碑
編集享保4年(1719年)に、荻之島村の三宅七左右門が建立した、四国八十八箇所・西国三十三所・秩父三十四箇所・坂東三十三観音の四霊場への大乗妙典を奉納したと思われる珍らしい廻国塔である。
寶珠寺のものは、瑞浪市内では最初のものと思われるが、立派な笠塔婆の四霊場順拝のもので「大乗妙典奉納」とあるので、百八十八所に納経したという記念塔であると考えられる。
文政5年(1822年)建立の角柱塔で、西国・四国・秩父・坂東供養塔もある。
弘化3年(1846年)建立の自然碑で、奉納百八十八所供養塔もある。
明治41年(1908年)建立の角塔で、西国四国巡拝供養塔もある。
如意輪観音石像
編集享保年間末頃に建立された丸彫りの坐像で、二臂[5]・他に一体がある。施主は釜戸村の足立伝左衛門である。
馬頭観音石像
編集元文4年(1739年)建立の立像で、三面六臂[6]。旧下街道沿いにある。
聖観音石像
編集明和元年(1763年)建立の立像で、光背付。三十三所観音もある。
三界萬霊塔
編集神前灯篭
編集享和3年(1803年)建立。天照皇太神宮・八幡菩薩・春日明神と刻まれている。
経典読誦塔
編集文化7年(1810年)建立の奉読誦観音経の念仏供養塔である。
「奉読誦観音経二千巻・念仏千六百万遍供養塔 文化七年 当所白木屋之分 河合氏」 とある。
天神石像
編集寶珠庵には、江戸時代後半から寺子屋があり、近隣の子供たちが集まって勉学を学んでいた。
文化4年(1807年)に、寺子屋手習子供連中によって建てられた天神石像がある。
「手習天神」と呼ばれる丸彫の立像で、 「天神 文化四年卯三月二十五日 願主手習子供中」とあり、寺小屋の手習子供中によって建てられた。寺子屋手習いを立証する貴重な天神石像といえる。寺小屋の手習子供中によって建てられています。像容は慈相で、神像というより僧容と見られる。
緋桜の歌碑
編集緋桜の歌碑は、昭和6年(1931年)寶珠庵十一世の朴雲祖瑞が建てた歌碑である。
蓮信法師 「散るたびに もえこがれても 惜しけきは かまど山なる 緋桜の花」
朴雲和尚 「いにしえの 花かぐわしき 緋桜も 今はむなしく 名のみ残れり」
その他
編集復礼館・復礼学校
編集明治6年(1873年)、釜戸村では、寶珠庵と天猷寺に義校[7]が置かれた。
寶珠庵に開校された「復礼館」は、明治8年(1875年)、に「復礼学校」、明治20年(1887年)の「荻之島小学校」を経て、明治33年(1900年)、「餘戸第二小学校」となり、大正6年(1917年)、釜戸小学校荻之島分校となり、昭和43年(1968年)に廃校となるまで続いた。平成22年(2010年)3月に建物は解体され、跡地は寶珠寺の駐車場となっている。
寺宝
編集函館真景絵馬
編集幕末の安政年間(1854~1860年)、蝦夷地の松前藩から、美濃の岩村藩に対して製陶技術者の派遣依頼が来た。
岩村藩は松前藩の求めに応じて、荻之島焼[8]窯元の足立岩次(道隆)と数名が函館へ派遣されることとなった。
足立岩次と数名は、函館で約5年間製陶に従事し、美濃焼の技術を箱館焼として広めた。作品は今も各地に残っている。このため岩次は「北海道の陶祖」として、その偉業を顕彰されている。
足立岩次と数名は、函館へ渡る前に事業の成功を祈念し、安政6年(1859年)3月の函館の風景を、縦37cm横136cmの板に描いた「函館真景絵馬」の額を寶珠庵へ奉納した。
この絵馬は 小木曽文洲[9]が描いたもので、讃文は岩村藩の儒学師範であった 田辺恕亭の選になる漢詩で、蝦夷地函館の景観と足立岩次等の壮挙を讃えたものである。
裏面には「安政六歳己未三月十九日奇進 足立岩次」の寄進者名とともに、「箱館表江召連候人夫覚」が記されており、窯職人は多治見村・尾州・阿州・飯田・当所・江戸・京等の18名、大工は大島村・日吉村・尾州等の7名、陶土原料係黒鍬は小里村・水上村・日吉村・桜戸・大馬・平山・池之内(尾州)、四国丸亀・駿河・野尻の他、椋実村・竹折村等の18名と代人たる大阪の儀助・岩村の勘兵衛等総勢45名の名が記されている。
関連リンク
編集参考文献
編集- 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第五章 文化と信仰(文化宗教史) 第二節 神社と信仰 一 近世宗教の普及 釜戸地区本末次第 p1015~p1016 瑞浪市 昭和49年(1974年)
- 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第五章 文化と信仰(文化宗教史) 第二節 神社と信仰 ニ 市内の近世寺院 市内の各寺院 p1026 瑞浪市 昭和49年(1974年)
- 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』 釜戸町概史 近世 荻之島村 熊野神社と宝珠寺 p234~p235 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1983年
脚注
編集- ^ 信光寺の「哲堂祖十」の法系
- ^ 馬場利尚のこと
- ^ 「寶珠庵本末一件」
- ^ 元禄7年(1694年)
- ^ 一つの顔と二つの腕の姿
- ^ 一体で三つの顔と六つの腕の姿
- ^ 明治時代の初めに、岐阜県と愛知県で各地域の一般住民の寄付金によって設立された小学校の前身をなす簡易な初等学校のこと。
- ^ 天保年間(1830~1843年)に荻之島村の足立良平、足立財助の両人が開窯した美濃焼で、その後を引き継いだのが足立岩次である。
- ^ 寛政6年(1794年)に細久手宿で生まれた。馬籠宿の蜂屋蘭洲について円山派の画法を学び、はじめ月洲と号していたが、後年に谷文晁に師事して文洲と称し、尾張藩小納戸役の御用画師となり、慶応2年(1866年)4月、72歳で没した。遺作集としては東濃中仙道真景がある。