岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県恵那郡岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した[1]

藩史

編集

大給松平氏(宗家)

編集

徳川氏譜代大給松平氏松平家乗が、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)1月に、上野那波藩より岩村へ入り2万石の初代藩主となった(1万石加増され恵那郡・土岐郡のうち2万石拝領)。慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、子の松平乗寿が藩主を継いだが、大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ移封され、1万6千石を加増、3万6千石を領した。

一色丹羽氏

編集

この丹羽氏(一色丹羽氏)は、信長に仕えてその四天王(織田四天王)にまでなった丹羽長秀と血縁関係の無い別の一族である。源義家の12代子孫の氏明が、尾張国丹羽郡の丹羽荘に住んで丹羽氏を称した。その9代子孫の丹羽氏勝が織田信長に仕えた。その長男丹羽氏次は尾張国の岩崎城を本拠地として織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げる。功が認められ、氏次は三河国伊保藩1万石の第3代藩主となったが、寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり、岩村藩へ2万石で入った。第4代藩主の丹羽氏定正保3年(1646年)11月11日、弟の丹羽氏春に1千石を分与したため、1万9千石となる。しかし第7代藩主・丹羽氏音の時代に藩財政の困窮を救うため、新進の山村瀬兵衛を側用人として抜擢し、数年にして財政改革を成し遂げた。しかし旧来からの家臣たちから憎まれて騒然としてきたので、氏音は山村に身を退くように勧めたが、山村が幕府に内情を訴えたために丹羽家騒動となり、幕府からそれを咎められて、浅井新右衛門・田湖平蔵・西尾治太夫・須賀金左衛門は斬首、妻木郷左衛門は遠島とされ、その他25人は追放処分となった。氏音は政令疎怠の理由で1万石に減らされて元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ移封され、さらに氏音の養子・丹羽薫氏延享3年(1746年)に播磨国三草藩に転封されて明治維新まで続いた。明治維新後は華族令により子爵となった。

大給松平氏(乗政流)

編集

元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が'第8代藩主として入り、2万石を領した。歴代藩主の多くが奏者番寺社奉行など幕府の要職を歴任し、そのため第9代藩主・松平乗賢時代の享保20年(1735年)5月23日に1万石を加増され3万石となったが、そのうちの5,276石が駿河国の15か村(現在の藤枝市焼津市島田市静岡市の一部)で、横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。また岩村藩主が大坂城代に就任した期間は摂津国和泉国美作国で計1万石を給付された。

なお、大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は藩校文武所(のちに知新館)を創設した。松平乗薀の三男・松平乗衡は大学頭である林信敬の養子となり、後に林家を継いで林述斎(林衡)となる。

安政5年(1858年)箱館奉行所の要請により足立岩次らを蝦夷地へ派遣。近代北海道初の陶磁器生産である箱館焼の生産を開始するが、数年で失敗した。

歴代藩主

編集

大給松平氏(宗家)

編集

2万石(譜代)

  1. 松平家乗
  2. 松平乗寿

丹羽氏

編集

2万石→1万9千石[2](譜代)

  1. 丹羽氏信
  2. 丹羽氏定
  3. 丹羽氏純
  4. 丹羽氏明
  5. 丹羽氏音

大給松平氏(乗政流)

編集

2万石→3万石(譜代)

  1. 松平乗紀
  2. 松平乗賢
  3. 松平乗薀
  4. 松平乗保
  5. 松平乗美
  6. 松平乗喬
  7. 松平乗命

藩主の菩提寺

編集

大給松平宗家の菩提寺

編集

岩村藩初代藩主の松平家乗は慶長6年(1601年)に菩提寺として久翁山龍巌寺を建立し、また天正18年(1590年)に上州那波に父祖のために建立した久昌山盛厳寺を岩村に移した。慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、子の松平乗寿が藩主を継いだが、大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増されて移封となったため、移封の際に龍厳寺は廃されたが、盛巌寺は岩村の町人・松田自休によって復興され、現在に至っている。大給松平宗家は、館林藩唐津藩鳥羽藩亀山藩淀藩佐倉藩山形藩と転封し、最後に三河の西尾藩で明治に至り廃藩となった。そのため愛知県西尾市にも大給松平宗家の菩提寺としての盛厳寺がある。

一色丹羽家の菩提寺

編集

一色丹羽氏が菩提寺としていた曹洞宗の大椿山妙仙寺は、現在、愛知県日進市岩崎町と兵庫県加東市山国の両方に存在する。一色丹羽氏が、岩村藩主となると大給松平氏の建てた龍厳寺の跡地に妙仙寺が造られた。末寺として清楽寺天長寺禅林寺がある。元禄15年(1702年)丹羽氏が岩村藩から越後の高柳藩に移封となると妙仙寺も岩村を離れ、さらに播磨の三草藩に移封となると、現在の兵庫県加東市に移された。そのため岩村藩主であった丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓は、岐阜県恵那市岩村町の妙仙寺(乗政寺)跡にある大名墓地に残されている。

乗政流大給松平家の菩提寺

編集

丹羽氏が移封後の元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が岩村藩に2万石で入った。その際に丹羽氏の菩提寺の妙仙寺の建物を受け取り、小諸城内にあった菩提寺の浄土宗の松石山乗政寺を、仏像や位牌と共に岩村へ移した。乗政流大給松平家は藩主の墓を岩村には建てず、全て江戸上野の春性院に建てたが、乗政寺の墓地に松平乗薀の長男で松平乗国の「玄達院殿踏雲幻光大童子 明和九年」という供養塔、松平乗保の長男で松平乗友の「大成院仁雄智道大居士 享和元年」という供養塔が建てられた。明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となった際に、乗政寺も廃されて、寺宝など一切は、近くの隆崇院に移された。

領地

編集

岩村藩成立時の領地

編集

【美濃国東部】

  • 恵那郡のうち 23ケ村 14,744石7斗7升2合

[通称:上郷]岩村 826石6斗6升9合983、(上飯羽間村、中飯羽間村、下飯羽間村、根上村) 1293石8斗0升0合049、富田村 1613石0斗0升0合000、馬場山田村 1271石3斗2升9合956、阿木村 1589石6斗4升0合015、飯沼村 459石8斗8升0合005、東野村(東野陣屋が存在した) 1230石3斗9升0合015、永田村 257石8斗9升0合015、中野村 531石4斗0升5合029

[通称:川通]上村 649石5斗5升4合016、漆原村 114石0斗4升0合001、下村 226石9斗4升0合002、小田子村 121石2斗0升70合01、串原村 1028石0斗2升6合001、澤中村 17石2斗6升0合000

[通称:中通]久須見村 1057石0斗6升0合059、藤村 962石5斗4升9合988、竹折村 304石5斗0升0合000、野井村 492石9斗7升0合001、佐々良木村 641石9斗4升0合002、椋実村 52石7斗2升0合001 

  • 土岐郡のうち 10ケ村 5,268石6斗5升1合

[通称:下郷]柿野村 479石1斗4升0合015、細野村 362石4斗8升0合011、駄知村 331石9斗8升0合011、神箆村 1943石6斗3升0合005、猿子村 87石1斗9升9合997、山野内村 339石0斗3升9合001、肥田村 621石5斗3升1合982、浅野村 287石1斗4升9合994、定林寺村 335石2斗9升9合988、河合村 481石2斗0升0合012

享保20年(1735年)5月23日に加増された領地

編集

【美濃国中部・西部】4,623石5斗3升6合

美濃中部・西部の19村については、現在の岐阜県大垣市北方に南方陣屋を置き西美濃代官が支配した。既に本巣郡に旗本戸田氏の北方陣屋が存在したため、区別するために南方陣屋と称した。

北方村 800石0斗0升0合000

上白金村 370石0斗0升0合000、下白金村 130石0斗0升0合000、跡部村 61石2斗7升0合000、笹賀村 188石6斗9升9合005、田栗村 174石6斗0升6合003

上願村 171石5斗2升4合002、藤倉村 141石1斗6升5合283、畑野富永村 268石0斗2升3合987、谷合村 361石2斗6升5合991、青波村 143石6斗8升6合996、片狩村 34石8斗6升8合999、日原村 11石5斗9升5合000

名礼村 737石9斗6升6合003、神原村 66石3斗8升9合999、松山村 498石1斗3升9合008、瀬古村 185石0斗7升0合999、麻生村 211石9斗1升4合993、浅木村 167石3斗5升0合006

【駿河国】5,274石2斗4升3合

駿河国内の15村については横内陣屋(現在の静岡県藤枝市横内字堂ノ前)にて横内代官が支配した。明治維新後に静岡藩に編入された。

横内村 477石5斗0升9合003、宮島村 81石7斗8升2合997、落合村 360石4斗4升9合005、大草村 373石7斗8升5合004、前島村 1022石4斗6升3合989、稲葉堀ノ内村 438石5斗3升7合994、助宗村 272石6斗2升2合986、村良村 284石8斗4升8合999

広野村 291石7斗7升9合999、鎌田村 514石1斗9升0合369、北脇村 161石5斗5升2合002、北脇新田 121石6斗3升9合999、石部村 109石1斗9升9合997

吉津村 36石6斗8升3合361、下当門村 727石1斗9升7合021

大坂城代に就任期間中の給付地

編集

摂津国

  • 住吉郡のうち 3ケ村 - 遠里小野村、杉本村、大豆塚村

和泉国

  • 日根郡のうち 4ケ村 - 新村、波有手村、下出村、黒田村

美作国

  • 勝南郡のうち 15ケ村 - 書副村、城田村、今井村、中原村、長内村、堂尾村、則平村、下香山村、黒土村、墨坂村、勝間田村、新田村、鳥淵村、福田村、西吉田村

廃藩置県後に岩村県に加えられた領地

編集

土岐郡のうち14村(旧幕府領9村、旗本領6村)なお、相給が存在するため、村数の合計は一致しない。

高山村 198石3斗5升8合994、大富村 878石0斗3升9合978、久尻村 675石9斗7升4合976、土岐口村 869石0斗0升8合972、小田村 572石1斗5升8合997、山田村 425石5斗8升9合996、須之宮村 171石6斗2升1合002、寺河戸村 579石6斗0升9合985、下石村 827石1斗6升9合983

山田村 103石1斗2升0合003、羽広村 55石3斗2升0合000、曾木村 364石8斗0升9合998

釜戸村 1032石4斗6升8合994

妻木村 830石5斗8升9合294

妻木村 506石5斗4升0合009

妻木村 99石8斗6升00合01

妻木村 99石0斗3升9合902

江戸屋敷

編集

参勤交代

編集

丹羽氏の頃は、岩村城から富田村阿木村東野村を経て茄子川村から中山道に入って江戸へ行くのが主流であったが、乗政流大給松平の頃は、岩村城から飯羽間の根上から上平を通って夕立山を越え、佐々良木村竹折村土岐郡駄知村曽木村、柿野村から三国山を越えて三河の挙母に出て岡崎宿から、東海道で江戸へ向かった。

この道筋は遠回りではあるが、美濃国内は全て岩村藩領を通るため、他領を通る場合の面倒な手続きが回避できたのである。岩村藩では、この道筋を大名街道と呼んでいた。また、中山道ではなく東海道を通行した理由は、享保20年(1735年)に1万石の加増を受けて3万石となった際に、そのうちの5,276石が駿河国の15か村で、そこを支配するための岩村藩の横内陣屋が東海道沿いにあり、立ち寄る目的もあった。

廻米

編集

岩村藩は廻米を江戸へ送る際には、大名街道を通って、三河の越戸(愛知県豊田市越戸町)から矢作川を舟に載せて、三河湾から海路で江戸へ送った。

年貢米

編集

木曽川沿いの新村湊可児郡御嵩町上恵土)まで陸路で運び、木曽川の水運で伊勢国桑名宿へ送った。

藩札

編集

江戸幕府は享保15年(1730年)に各藩に対し、年限を期して藩札の発行を許可した。岩村藩は金札2朱・1朱、銭札1貫文・100文などを発行した。

大政奉還後

編集

慶応3年10月14日(1867年11月9日)の将軍徳川慶喜による大政奉還により、朝廷はまず10万石以上の諸侯を京都へ召し、21日には1万石以上の大名にも上洛すべき旨を達した。岩村藩主松平乗命は江戸在府中で11月には陸軍奉行に任じられ、また江戸家老の澤井市郎兵衛は佐幕党の幹部であったため「主家は徳川家の譜代、藩祖以来の縁故を顧みれば、徳川家と存亡を共にする外情義他にみるべきなし」と持論を主張し動かなかった。一方、国許では朝命に従い藩主は上洛すべきであると意見する者も少なくなく、藩論が二分する事態となった。岩村藩の文学者原田文嶺らは勤王の事に従おうとしたが、藩命によってより蟄居を申し付けられ、ついで平尾鍒蔵(下田歌子の実父)も勤王の説を述べて幽閉された。11月21日、岩村藩は謹慎中であった岩松傳藏を京都へ向かわせ、情勢を視察させた。12月20日の岩松の帰藩後、乗政寺にて開かれた藩臣会議において藩論は勤王に定まり、藩主の上洛を促すべく国家老らが江戸へ急行。佐幕党の幹部であった澤井市郎兵衛とその息子は、藩主の上洛を抑止した理由で蟄居を命じられ岩村へ送致されたが、その途中の小田原で脱走、脱走士に加わり各地で戦った。慶応4年(1868年)1月21日、官軍(東征軍)は江戸へ向かい京都を出発。1月27日に官軍(東山道鎮撫総督)は、沿道の諸藩に朝廷へ従うように布告。岩村藩は、丹羽瀬市左衛門が藩主が徳川慶喜に仕えていたことを陳謝し、免罪を請うた。2月26日に藩主松平乗命は願い出て陸軍奉行を免ぜられ、帰藩後は謹慎して処分を俟った。4月に朝命により岩村藩は苗木藩や尾張藩と共に信州防衛のため出兵、岩村・苗木藩は中山道を松本を経て善光寺に到り、守備に就いた。その後信州防衛を免ぜられ、甲府守備に転じたが、ほどなく帰藩した。松平乗命は8月6日に上洛のため出発し、8月15日に京都へ到着。8月20日に京都御所へ参内し、忠誠を誓い奉った。それにより京都鞍馬口の警衛を仰せつけられ、部署に付いて奉仕した。

版籍奉還と廃藩置県

編集

明治元年(1868年)松平乗命は、官軍に帰順し兵を出して征東の師に従った。

明治2年(1869年)6月17日、乗命は版籍奉還し、6月20日に岩村藩知事に任じられた。7月16日に土岐郡にて土民が蜂起し騒擾すると、岩村藩兵を出して鎮定に従った。8月10日には駿河国内の岩村藩領5,270石の代替地を土岐郡内に賜り、12月に領収した。

明治3年(1870年)10月14日、藩政の改革があり、家禄官禄を定めた。

  • 家禄
    • 知事:1,327石、士族:16石、卒族:8石
  • 官禄
    • 知事:200石、大参事:772石、権大参事:64石、小参事:32石、大属:24石、権大属:14石、少属:10石、権少属:4石、史生・庁掌:2石8斗

11月1日、藩政改革の報告を弁官に通達した。

  • 大参事:味岡正秋
  • 権大参事:岩松慤、松田道夫
  • 少参事:千野光博、中村中、山梨健蔵、藤野敬介
  • 医師:松田良澤
  • 大属:8名
  • 権大属:8名
  • 少属:7名
  • 権少属:14名
  • 史生:5名
  • 庁掌:3名
  • 兵隊:士分61名、卒76名
  • 諸芸世話人:18名
  • 学芸武術修行中:16名、うち家附13名
  • 使部卒:41名、うち内家々丁卒6名
  • 幼年者を含む非役士分:32名
  • 卒:98名

明治4年(1871年)4月6日より、知事の松平乗命は、藩内の巡村を行い民治の状況を視察した。

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により、岩村藩は岩村県となったが、同年11月20日、府県統合により岐阜県に編入されて消滅した。

著名な藩士

編集

脚注

編集
  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編『国別 藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年、304頁
  2. ^ 弟の丹羽氏春に1千石を分知して旗本とした

参考文献

編集
  • 『岩村町史』岩村町史刊行委員会、1961年、183-229頁(15 岩村藩主時代)
  • 『岩村町史』岩村町史刊行委員会、1961年、364-366頁(21 岩村藩末期の状況) 
  • 『恵那郡史』恵那郡教育会、1926年、209-231頁(第7篇 江戸時代、第28章 諸藩分治、藩旗分属・其1岩村藩)
  • 『恵那市史 通史編 第2巻』恵那市史編纂委員会、1989年、117-132頁(第2章 諸領主の成立と系譜、第3節 岩村領)
  • 『土岐市史 2(江戸時代~幕末)』土岐市史編纂委員会、1971年、28-29頁(第3章 江戸時代の領主、岩村藩) 

関連項目

編集

外部リンク

編集
先代
美濃国
行政区の変遷
1601年 - 1871年 (岩村藩→岩村県)
次代
岐阜県