シニア徒然ブログ

マイペースの自己満ブログです。 人生は、振り返ることは出来ても、後戻りは出来ない… 小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく。 神戸発信…

特別編・シニア徒然ブログ






※ ~


その患者さんは脳腫瘍終末期のため、大学病院から余命1~2
カ月との宣告を受けた30代後半の女性でした。


当初は病院で積極的に治療することを望まれていましたが、
医師からもはやなすすべがないと告げられると、ご家族の待
つ自宅で過ごしながら最期まで積極的に治療したいと、覚悟
を決め在宅医療を選ばれたのでした。


患者さんのご両親はそれぞれ遠方に住んでいましたが、そん
な娘さんのために同じ屋根の下で暮らすことに。


一般的に抗がん剤治療を行う場合には栄養剤の投与など、頻
繁に点滴を必要とします。点滴や注射のために何度も針を刺
していると、血管が細くなったりもろくなったり、次第に針
が血管に入りにくくなることがあります。


この患者さんの場合も、同じく血管が細くなり、点滴の針が
刺さりにくいといった報告を病院から受けていました。血管に
針が入りにくいと、薬が血管の外に漏れてしまいます。


そのため腕の血管からカテーテルを挿入し、心臓に近い太い
静脈に液剤を流すPICC(中心静脈カテーテル)を患者さんに
提案しました。


このPICCは挿入後は常に腕にチューブが設置されているため、
多少の違和感や煩わしさはあります。しかし点滴するたびに針
を抜き入れする手間と、感染症のリスクは確実に減ります。し
かも薬剤の投与がより効果的だといえます。  


かつてはこの処置を行うには入院が必要だったのですが、今で
は自宅で簡単に1時間余りで実施できるようになりました。  


ただ食事はご家族で一緒にちゃぶ台を囲んで取ると事前にお話
を伺っていましたので、患者さんの手の動きを確保できるよう
動線に配慮し、局所麻酔を使いエコーで血管状態を確認しなが
ら、およそ30センチのカテーテルを挿入したのでした。


「体の具合はどうですか。頭が痛かったりしませんか」(私)
「大丈夫です。ただぼやーっとモヤがかかった感じがします」
(本人)


「頭痛はなくて、お薬は飲まずに経過しています。スッキリす
る日もあるみたいです。昨日は薬が効いてよく眠れたみたいで
す」(同席した訪問看護師)


「やっぱり寝ないとダメなんですね」(本人)
「そうですね、眠れてよかったですね」(私)  


頭が重くなりもやもやしている時もあるとのことですが、容体
は安定しているご様子です。  


このPICCの造設は、患者さんの身体的、精神的負担を軽減する
ことができると共に、「病院に行くことができない」という理
由で治療を諦めることなく、自分らしい生活を続けていくこと
が可能です。  


いつでもどこでも高度な医療を自宅で受けることができる。そ
んな医療を持ち運ぶことが当たり前な未来を目指し、当院では
これからも患者さんやご家族の側に立った、さまざまな治療や
処置を試行錯誤しながら対応していきたいと思っています。










※~



哲ちゃんは青森の裕福なリンゴ園に生まれ、豊かな少年時代を過
ごしたそうです。ところが高等小学校の体操の時間、腕が曲がら
ないので保健室の先生にみてもらったところ、ハンセン病である
ことが判明しました。


「治ったら必ず帰ってこれるから」という母親の言葉を信じ、希
望をもって弘前駅を旅立ち、療養所へやってきたのです。17歳
の時でした。


しかし当時は薬などなく、療養所といってもただの隔離施設です。
多くの患者は絶望し、自殺者が後を絶たなかったそうですが、哲
ちゃんは「たとえ明日死ぬとしても勉強したい」と思い、なけな
しのお金で文学全集を買って勉強したと言います。


その後も仏教哲学を学び、唯識論や鈴木大拙(だいせつ)、西田
哲学の本などを読み漁(あさ)りました。


しかし、哲ちゃんの病気は次第に悪化していきます。早く病気を
治して家に帰りたい。その一方で、このまま一生ここで生きるの
かもしれないとの思いがよぎり、どんなに仏教や哲学を学んでも
自分の人生を受け入れることができないでいたのです。


しかし、ある時哲ちゃんは悟ります。ここで生きていくことを変
えることはできない。ならばここを自分の「まほろば」にして生
きていかなければならない。家族や幼なじみ、故郷を振り切って、
すべてを受け入れる覚悟を決めたのです。


 【天の職】 桜井哲夫


   お握りとのし烏賊と林檎を包んだ
   唐草模様の紺風呂敷を
   しっかりと首に結んでくれた


   親父は拳で涙を拭い低い声で話してくれた
   らいは親が望んだ病でもなく
   お前が頼んだ病気でもない
   らいは天が与えたお前の職だ


   長い長い天の職を俺は素直に務めてきた
   呪いながら厭いながらの長い職
   今朝も雪の坂道を務めのために登りつづける
   終わりの日の喜びのために


       (第一詩集『津軽の子守唄』より)


哲ちゃんは自分の顔が好きだと言います。「俺は自分の顔に誇り
を持っているの。目が見えないからよくわからないけど、この顔
には苦しみや悲しみがいっぱい刻まれていて、崩れちゃっている
けどいい顔なんじゃないかな。エステに行ってもこの味わいは出
せないよ。


でもこの顔で泣いてばかりいたら目も当てられないから、いつも
笑っているんだ」


また、「らいになってよかった」とも言います。私は時々、そう
じゃない人生のほうがよかったのではないかと考えてしまいます
が、哲ちゃんは心からそう思っているのです。


しかし、哲ちゃんがそう思えるようになったのは、本当の試練を
味わった「空白の十年間」の後のことです。


哲ちゃんは22歳の時、園内で知り合った真佐子さんと結婚しま
した。当時の優生保護法では「らい及び伝染病患者の子孫は残さ
ない」とされ、結婚の条件として断種手術が義務づけられていま
した。


ところが、哲ちゃんの手術は失敗したらしく、真佐子さんは妊娠。
すでに6か月経過していて、堕胎した子どもはすでに人の姿をし
ていたといいます。


2年後、真佐子さんは白血病でなくなりました。愛する人を立て
続けに失った哲ちゃんを、さらに病気が苦しめます。


何日も高熱にうなされ生死をさまよい、なんとか一命を取り留め
たものの眼球を摘出。今度は光を失いました。その時、哲ちゃん
は30歳。その後の十年はほとんど部屋から出ず、人との付き合
いもなかったそうです。


いまでもその「空白の十年間」のことを語りたがりませんが、一
度だけ話してくれたことがあります。


「あの時、この世に神様なんかいるもんか、もしいるとしたら、
なんで俺ばっかりこんなに苦しめるのかって、毎日考えていた。
でも、ある時、おれはこんな状況に置かれなかったらきっと神様
のことなんて考えなかった。


もしかしたら神様は、俺をこの病気にすることで、その存在を知
らしめようとしたんじゃないかなあって思えたの」その後哲ちゃ
んは洗礼を受け、これまでの思いを誰かに伝えるために詩を作り
始めます。


目も見えず、指も失った哲ちゃんは、頭の中だけで完璧な詩を作
り、それを園の職員に代筆してもらって、「日本で最後のらい詩
人」と呼ばれるようになったのです。


 【おじぎ草】   桜井哲夫


   夏空を震わせて
   白樺に鳴く蝉に
   おじぎ草がおじぎする


   包帯を巻いた指で
   おじぎ草に触れると
   おじぎ草がおじぎする


   指を奪った「らい」に
   指のない手を合わせ
   おじぎ草のように
   おじぎした。


    (第四詩集「タイの蝶々」より)









×

非ログインユーザーとして返信する