映画・テレビ | 2009/08/14
「風の谷のナウシカ」は、多くの人が知っているアニメ映画ですが、この映画の原作となる漫画版の「風の谷のナウシカ」では、ラストが大きく違っているということは有名です。そして、この「マンガ版ナウシカ」は、思想史に残る重要な作品と言われる一方、根強い反対意見もあるようです。特に、ネット上で検索をすると、ほとんどの人がナウシカに批判的なコメントをしています。
自分は、最近、やっと「漫画版ナウシカ」を読むことができたのですが、ラストシーンでのナウシカの行動に共感すると同時に、「なぜ、ナウシカはあのような行動をとったのか」そして、「なぜ、ナウシカの行動が理解されないのか」ということについて、自分の学問的なバックグラウンドを踏まえて、きちんとまとめておかないといけないと強く思いました。特に、ネット上の意見が誤解に満ちたものであったため、そうした誤解を解く必要があると思ったからです。
最初に強く言っておきたいのですが、原作を読んでいない人は、この文章を読み進む前に、ぜひ原作を読んでいただきたいと思います(右のリンクからも簡単に買えます)。以下の文章は、「ネタバレ」であると同時に、「読んでないと意味が分からない」書き方をしているため、このマンガを読んでいない人にとって、百害あって一利なしの内容だと思うからです。
○「漫画版ナウシカ」のラスト
まず、漫画版ナウシカのラストに関して、ポイントになることを簡単にまとめたいと思います。
1. 腐海の生態系は、実は旧世界の人間が産み出したものだった。旧世界では、世界が汚染され、そのままでは人間が絶滅するしかないと思われた。そこで、「世界を浄化するためのプログラム」の一貫として、遺伝子工学技術を使って、腐海の生物たちが作り出された。腐海の生物は、長い時間をかけて大地を浄化し、その後には、(読者である)私たちが生きている世界と同じような、清浄で豊かな世界が産み出されることになっていた。
2. ナウシカの時代の人間は、腐海の毒に耐えられるが、清浄な世界では生きていくことができないように作り替えられていた。このため、清浄な世界では、短時間で血を吐いて死んでしまう。
3. こうした広大な「浄化のプログラム」を操っているのが、「墓所の主」だった。墓所の主は、憎しみや汚れのない新しい『人間の卵』を準備していて、浄化のプログラムが終了したら、憎しみや汚れのない人間が生きる世界を作りだそうとしていた。また、新しい世界では、「人間のもっとも大切なものは音楽と詩になる」ため、そのための音楽や詩も保存していた。
(墓所の主は、「浄化のプログラムが終了したら、浄化されて世界に適応できる人間に作り替える(元に戻す)」と言っているが、ナウシカはそれを欺瞞だとして否定している。直接は書いていないが、おそらく、『人間の卵』から新しい人間が作り出されるときに、生身の人間が必要で、ナウシカの時代の人間は、そのための手段として生かされていたということではないかと思われる。)
4. ナウシカは、こうした墓所の主の構想に反発し、墓所を破壊するという行動に出る。このために、巨神兵であるオーマを使う。
ほかにも、いろいろ説明しないといけないことがあるのですが、以上もっとも重要な前提です。これ以外のことについては、話の中で随時説明することにしましょう。
○墓所の主は何のメタファーか
ナウシカへの評価は、 結局、そこにどういうメタファーを感じ取るか、 つまり、身の回りのどういう問題に 対応させて理解するか次第だと思います。だから、究極的には人それぞれの解釈ということになるわけですが、当時の時代状況を踏まえて「一般的な解釈」というのは存在すると思います。
そういう意味からすると、「墓所の主」の発想は、一言で言えば、世界をある一つの視点でのみ理解して、それに反するものは排除していくという発想と言えるでしょう。これは、決してナウシカの物語の中だけの問題ではなく、現実の社会のさまざまな問題と重なっています。
おそらく、作者が想定したのは、直接的には、マルクス主義的なユートピア思想(マルクス主義革命によってユートピアが訪れると考える)や、科学技術絶対論(科学技術こそが人間を幸せにする)のようなものだったと思いますが、他のさまざまな問題にも言えることです。特に、論理主義(全てを論理的に理解できるものと考える)、規約主義(「~しなければいけない」という規約で、正義や道徳が説明できると考える)は、現代社会の多くの問題の根底にある大きな問題と言えるでしょう。
このことは、ナウシカが「墓所の主」に向けて言ったセリフ「(お前は)神というわけだ お前は千年の昔 沢山つくられた神の中のひとつなんだ そして千年の間に 肉腫と汚物だらけになってしまった」「浄化の神としてつくられたために 生きるとは何か知ることもなく もっともみにくい者になってしまった」からも読み取れます。この方面の議論に疎い人はピンと来ないと思いますが、「神の視点」という言葉は、論理主義や規約主義のような立場を批判的にとらえるときに、好んで使われる言葉だからです。
これは、ナウシカのストーリー全体で、「多神教」の宗教が肯定的に取り上げられていることも関係しています。キリスト教やユダヤ教の神は「たった一つの神」であり、哲学・思想の分野では、しばしば、論理主義や規約主義のように、自分に当てはまらないものを排除していくことの譬えとして使われます。これに対し、多神教的な神(ギリシャ神話もそうだし、日本の神もそう)は、そうではないとされます。「私達の神は 一枚の葉や一匹のムシにすら宿っているからだ」「私たちの身体(からだ)が人工で作り替えられていても 私達の生命は私達のものだ 生命は生命の力で生きている」とナウシカが言っているように、論理的に見たら、さまざまな矛盾を抱えている「生命」の営みを肯定するものなのです。
ナウシカの世界の「墓所の主」と異なり、現実の「墓所の主」(世界をある一つの視点でのみとらえて、それに反するものは排除していくという発想、たとえば科学主義や論理主義)は、ナウシカの「墓所の主」ほど、発達していないし、現在の人類を絶滅させて「憎しみのない人間」に置き換えるほどの技術も持ち合わせていないわけですが、それにもかかわらず、「墓所の主」のように奢り高ぶっている。それが、ナウシカを通して批判されている現実の問題なのです。
○ナウシカの葛藤
だから、
「生き物を殺すことは許されない」
→だから墓所の主を殺すのも間違っている
「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」
「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」
→だから、墓所の主も受け入れないといけない
こういってナウシカに批判的な人は、いろんな意味で「読み違い」をしているのではないかと思います。「いろんな意味で」というのは、ナウシカのストーリーに対する読み違いと同時に、現実の社会に対する読み違いという意味です。
なぜなら、ナウシカは、まさにそういう問題を踏まえ、そのために墓所の主を破壊するという行動に出たからです。ナウシカ、「生き物を殺すことは許されない」と思ったからこそ、生き物を手段として使う墓所の主を破壊しようとしたわけだし、「自分が正しいと思うことを一方的に突き通す姿勢は間違っている」「もっと矛盾を受け入れて生きていくことが必要」だからこそ、矛盾を受け入れない墓所の主を破壊しようとしたのです。
しかし、勘の良い人はすでに気づいたと思いますが、このことは、ナウシカが、ある深刻な葛藤に置かれていたということを示しています。それは、「矛盾を受け入れないといけない」と言いつつ、そのために「墓所の主」という矛盾は否定せざるをえないという葛藤、また、「さまざまな考え方を受け入れないといけない」と言いつつ、「墓所の主」は否定せざるをえないという葛藤、「生命の尊重」と言っておきながら、墓所の主を殺さざるをえないという葛藤です。
これは、次の3点にまとめることができるでしょう。
・生き物を殺すことは許されない」というとき、もし、生き物を何かの手段として平気で殺して、絶滅させてしまおうというような存在(考え方)があったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「自分が正しいと思うことを一方的に突き通してはいけない」というとき、自分が正しいと思うことを一方的に突き通して、そのために、現在生きている生命をも絶滅させようという存在(考え方)に出会ったとき、それにどう立ち向かっていけば良いのか?
・「矛盾を受け入れて生きていくことが必要」というとき、世界から、一切の矛盾を否定して、矛盾を撲滅しようという存在(考え方)、そのために現在生きている生き物を絶滅させようという存在(考え方)にどのように立ち向かっていけば良いのか?
これはいずれも、「相対主義のパラドックス」と言われている問題であり、現代思想の根底にもあると言える非常に大きな問題でもあるのです。ナウシカはこの大きな問題に真正面から取り組んだと言うことができます。
実際、「ナウシカの葛藤」は、物語の中で、かなり意識的に取り上げられています。たとえば、ナウシカは、戦争の原因となっている「怒り=自分の考えを一方的に押し通す力」に批判的であるにもかかわらず、「怒り」による世界の支配に立ち向かうためには、自分自身も怒りを持たないことを意識するという葛藤が繰り返し出てきます。また、最後に、「墓所の主の血はオームより青かった」、つまり「墓所の主も同じ生命であった」ということが分かるシーンがあるのも、「ナウシカの葛藤」を象徴的に表す出来事と言えるでしょう。これは、現実の世界で、「墓所の主」のような考え方、思想、宗教と闘おうとすると、結局、生身の人間を否定せずにはいられないということと対応しているのです。
では、ナウシカは、こうした葛藤をどのように克服したのでしょうか。実はナウシカは、「ナウシカの葛藤」を克服などしていません。むしろそこでは、こうした葛藤を避けて矛盾を排除するような考え方(論理主義的な思考)が、「墓所の主」に象徴されるものとして、批判されているのです。
たとえば、ナウシカでは「生命の尊重」がテーマになっています。しかし、そこで言われているのは「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(倫理原則)ではありません。私たちは、ともすると「生命の尊重」を「生命を殺してはいけない」という規約・戒律(=墓所の主のような発想)で理解してしまうわけですが、ナウシカで表現されているのは、「倫理原則=矛盾の排除」となる前の、もっと原初的な「生命の尊重」なのです。ナウシカでは、ムシ使い達が、ムシの卵を食べたり、ムシを殺したりするシーンがあると思いますが、森はこれを受け入れているというのが、その例でしょう。
ナウシカの行為を矛盾しているという人がいるかもしれませんが、ナウシカは、そういった葛藤を受け入れて生きていく生き方を選択したという意味で、実は全く矛盾していないのです。「相対主義のパラドックス」は「墓所の主」のように論理的に、一面的にものごとを理解する立場からは簡単には解決することができません。しかし、ナウシカは「生きること」に注目することで、「相対主義のパラドックス」を乗り越えているのです。
○ナウシカとニヒリズム
このことは、ナウシカのもう一つのテーマである「虚無」とも深く関係しています。
墓所の主はナウシカを批判して「虚無だ!!それは虚無だ お前は危険な闇だ 生命は光だ!!」と言います。これに対してナウシカは反論します。「違う いのちは闇の中のまたたく光だ!!」「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」。ナウシカは、「虚無」を肯定するのです。
知らない人が見ると何を言っているのか分からないと思いますが、これはいわゆる「虚無主義(ニヒリズム)」の問題そのものです。ニヒリズムというと、通俗的には「すべての価値を否定して絶望の中に生きる生き方」という意味で使われる場合が多いと思いますが、これは本来の意味ではありません。ニーチェの言う(本来の)ニヒリズムは端的に言えば、「自分の生きる価値が何ものかによって与えられる否定して、生きるこのそのものを肯定していく生き方」ということです。両者を区別する場合は、前者の生きることに絶望するようなニヒリズムを「受動的ニヒリズム」、後者の生きることそのものを肯定するようなニヒリズムを「能動的ニヒリズム」と呼びます。
これを前提にして考えると、ナウシカは途中まで、「受動的ニヒリズム」に悩まされるが、墓所の主と対峙するに至って、「能動的ニヒリズム」に目覚めるというストーリーになっているということが分かるでしょう。物語の途中で繰り返し、ナウシカが「虚無」に悩まされるシーンが出現するのは、ナウシカが能動的ニヒリズムに目覚めるためのプロセスなのです。
ニヒリズムの特徴は、「何か別のものによって、自分の価値が決められる」ということを否定するということです。ニーチェは、ニヒリズムを、「苦しみに耐える」ようなキリスト教道徳の否定という形で象徴的に表現しました。「私達の生が、キリスト教の神によって初めて価値づけられる」というキリスト教道徳に対し、「(神がいなくても)生きることそのものが肯定される」というのがニーチェのニヒリズムなのです。これは、ナウシカが「墓所の主=神」を破壊しようとした、根本的な問題意識でもあるでしょう。ただ、ニヒリズムは、「神の否定」だけを意味するわけではありません。「論理主義な考え方(矛盾を排除するような考え方)を基準に自分の価値を決める」生き方に対して、「生きていく上での喜び、苦しみ、そこからくる葛藤を、そのまま肯定していこうよ」というのもニヒリズムです。ナウシカにおいて、墓所の主=神というのはあくまでメタファーであり、現実社会に当てはめれば、こうした「(社会の矛盾の源泉となっている)論理主義的な発想の否定」という側面が大きいのではないかと思います。
つまり、ナウシカは、墓所の主のように論理主義的な考え方によって初めて人間の価値が見いだされるような生き方を拒否し、「自分の生そのものを肯定する」「自分の中の葛藤もそのまま受け入れていく」能動的ニヒリスト、ニーチェの言う「超人」としての道を選んだわけです。
余談ですが、ニーチェのニヒリズムは、「他者と同じであることに価値を置く」ことの否定でもあるので、「個人主義」との関連で理解されることが多いようです。ただ、ニヒリズムを「個人主義」というのは、かなり誤解を招く表現です。なぜなら、ニヒリズムを「個人主義」と言ったとしても、周囲の人のことを考えないわがままな生き方を指すのではないからです。能動的ニヒリズムは、自分が生きていくことによって、周囲の人の素晴らしさ、人間関係の大切さを見いだすということも含むのであり、通俗的な意味での「個人主義」とは大きく違います。ニヒリズム=通俗的な個人主義と考えるのは誤りだし、これを基準にナウシカの「虚無」の概念を理解してはいけないのです。
○ナウシカの生き方
さて、「ナウシカの葛藤」に話を戻したいと思います。
「生きることそのものを肯定し、葛藤を受け入れて生きていく」と言っても、葛藤そのものがなくなるわけではありません。実際、ナウシカの作者は、ストーリーのさまざまな場所で、「ナウシカの葛藤」、そしてそれを受け入れて生きていくことの苦悩を取り上げているわけであり、ナウシカの葛藤を受け入れることが簡単ではないのは明らかでしょう。これは、ナウシカが正しく理解されない最大の理由ではないかと思います。ナウシカの葛藤を受け入れるということは、自分自身の生き方の中で、こうした葛藤を受け入れて生きていくということであり、それは決して簡単なことではないからです。
ただ、私たちはナウシカそのものになれないにしても、現実の世界で、ナウシカと同じような葛藤と向き合い、その中で生きていくことはできます。自分の身の回りの人間関係の問題、自分の生き方の問題、社会の不条理、こうした問題に向き合ったときに、既成の価値観に逃げることなく、まさに自分が生きる上での問題として立ち向かっていく、そういう生き方はできるはずなのです。そしてそれこそが、私達にとっての「ナウシカの生き方」と言うことができるでしょう。ナウシカが提起した問題は決して架空の世界の問題ではなく、まさに私たちが生きていく上での問題なのです。
●ネット上の記事に対するコメント
以上で本題は終わりですが、最後に、2つのネット上の記事に対して、コメントをしたいと思います。
・「『風の谷のナウシカ』を批判する」について
この記事は、Googleで「風の谷ナウシカ」で検索すると上位に出ますが、ナウシカが書かれた背景を全く理解していないと言わざるをえません。この記事の作者は次のように書きます。
では、いったいなにがメインテーマになっていくのでしょうか。
それは、自然にしろ、社会にしろ、破滅的な難局を前にしてどんな態度でそれにあたるのかということだと思います。
もちろん、そうやって表面的に理解することもできるかもしれませんが、そういう表面的な理解で批判することにほとんど意味はないでしょう。メインテーマをこのように設定してしまったら、当然、結論は「ナウシカは間違っている」ということになると思いますが、これではナウシカがあまりにもかわいそうです。
これに反論するのは、あまりにもばからしいので、この程度にしておきます。
・「ナウシカ研究序説-『風の谷のナウシカ』を読む-」について
こちらは、上のサイトと比べるとはるかに細かく読み込んでいます。それにもかかわらず。あまり検索順位が高くないのが残念なところでしょう。こちらの人は、以下のようにまとめています。
以上を更に要約すると、ナウシカのメッセイジが見えてくる。巷間言われるように、環境問題などの話ではないことがわかる。
我々の生命は我々のものだ。生命は自立している。何かの目的に向かってそれを達成していくように設定されているのではない。未来は約束されたものではない。不確定のものである。現在を主体的に生きることによって、苦悩が生ずるが、それと共に世界の美しさも知ることができる。これが我々の生の価値だ。だから苦しくても生きて行きましょう。
なんでもない結論ということが分かるだろう。世界は大きな犠牲を払ったが、ナウシカが出した結論は、当たり前のものであった。
「ナウシカのメッセージ」としてまとめられた部分を個別に見ると、正しい面もあるのですが、この人は根本的な間違いを犯していると思います。それは、ナウシカのメッセージを全体として「だから苦しくても生きて行きましょう」とまとめていることです。
実は、「だから苦しくても生きて行きましょう」という立場は、ナウシカではなく、墓所の主に近いのです。「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとして やがて再建へのかがやかしい朝が来よう」という言葉がそれです。これは、まさにニーチェが批判したキリスト教的な生き方であり、マンガの上でもこの一コマにおいてだけ、墓所の主の顔が、キリスト教における神やイエスのステレオタイプとも言える顔(少し頬のこけた端正な顔の老人)に変化していることが、そのことを表していると言えるでしょう。
端的に言うと、「(神の下で)罪を償いながら、苦しみの中で生きていこう」という墓所の主に対して、ナウシカは「(神のようなものを基準にしなくても)喜びと苦しみは生きることそのものの中にある」と言っていることになります。たしかに、この二つ、「苦しみをともなう生を肯定する」ことには変わりません。しかし、肯定の仕方が真逆なのです。墓所の主の場合、「神」、「罪」や「苦しみ」が先にあって、その中に「生」があるわけですが、ナウシカの発想では、「生」の方が先にあって、その中に苦しみや喜びがあるのです。これは根本的に違います。「苦しみの中の生」か「生の中の苦しみか」の違いです。たしかに、ナウシカのメッセージを「苦しみの中の生」と理解するのなら、「ナウシカが出した結論は、当たり前のもの」ですが、ナウシカはそれと全く正反対のことを言っているということが重要ではないかと思います。
これと関係して、上記の引用の直前に、ナウシカの素晴らしさを「精神の偉大さ」とまとめている部分がありますが、これも間違いだと思います。本来、「精神の偉大さ」を認めるのは神(あるいは何かの特定の基準)であり、「偉大な精神であろう」という試みは、結局、「神の世界の中で生きる」という、ナウシカが批判しようとした生き方になってしまいます。実際、「精神の偉大さ」というのは、ナウシカのセリフにはどこにもありません。ナウシカのメッセージは、「(何かを基準にした)精神の偉大さなどなくても、生命はそれ自体として素晴らしいのだ」ということです。これは似ているようで根本的に違うのです。(削除理由はコメント欄を参照してください)
「ナウシカ研究序説」は、かなり丁寧にナウシカを読み込んでいて、自分も敬服するほどなのですが、これほどまで丁寧に読んだ人が、最後の部分で、こうした間違いに陥ってしまうのは、私達の発想の中に「墓所の主」が常にあって、ナウシカを読むときもそこから理解しようとしてしまうからだと思います。「墓所の主」は、決して私達の外側にいるのではなく、私達の心の中にいるのです。
この文章が、心の中の「墓所の主」を理解し、そしてナウシカを理解するために少しでも役立つものになれば幸いです。
●関連記事
「風の谷のナウシカ」について補足
→この記事で書き忘れたことの補足です。合わせて読んでいただければと思います。
貴重なコメント、ありがとうございます。
> ちなみにナウシカは「精神の偉大さ」という言葉を使ってますよ。
> ワイド版なら7巻目の133Pで、
> 「精神の偉大さは苦悩の深さで決まる~」
> と森の人に提言しています。
そうだとすると、これについて本文で取り上げたのは
適切ではなかったと思います。
原作にない言葉だというのを前提に書いたのですが、
もし原作にある言葉だとしたら、
話が複雑になってしまうからです。
まず、この場を借りて、説明しなおしますが、
「精神の偉大さ」と言ったときに、
自分以外の何か(たとえば神)を基準にした「精神の偉大さ」という理解だと、
ナウシカのストーリーとは異なる理解になるでしょう。
しかし、「精神の偉大さ」を認めるのが、
自分自身であるということであれば、
ナウシカの話とは矛盾しません。
一般に、「精神の偉大さ」というような言葉は、
前者の意味で使われることが多い言葉だと思いますが、
後者の意味で使うこともできます。
したがって、原作にある「精神の偉大さ」という言葉に、
何か問題があるわけではないと思います。
自分は、引用先の文章にあった「精神の偉大さ」という言葉を、
「何ものかによってナウシカの精神が評価され、そして偉大と判断される」
という一般的な意味で解釈して、
それを批判したわけです。
しかし、原作にある言葉だとしたら、自分の解釈そのものが微妙だし、
かりに、引用先の文章の筆者が、何か誤解をしているのだとしても、
もっと詳細に説明しなければいけない話だったと言えるでしょう。
本文に書いたようなナイーブな書き方は誤りであり、
また、誤解を生じさせるだけですので、
該当する記述は削除させていただきます。
(ただし、この議論が一段落するまでは、取り消し線での削除とします)
ただ、おっしゃていることは良く意味が分かりませんでした。
>「ナウシカ研究序説」様に関する記事で後半の「精神の偉大さ」の部分です。
> 精神の偉大さを認めるのは神・・・とあります。
> これは神の部分を人とも読み替えることが出来るので異論はありません。
> しかし問題はその次で精神の偉大さを認められるという事は
> 神(人)の世界の中で生きると展開されている点です。
> これは理論の飛躍と言いますか、強引なこじつけであると感じます。
> 精神の偉大さを認めるという行為に対して
> ナウシカ自身はどれだけの影響を受けると考えられているのでしょうか?
> これはむしろ精神の偉大さを認める側が
> ナウシカという対象の世界に入り込んでこそ可能になるもので、
> 神の方がナウシカという基準を受け入れてた結果になるのです。
「神の世界の中で生きる」というのは、
すぐ上で説明したように、
「自分以外の何か(たとえば神)を基準にして生きる」ということを
比喩的に述べたものです。
したがって、「精神の偉大さを認めるのは神」ということの
言い換え表現のようなもので、
何か特別なことを言っているわけではないのです。
本文で書いたように、ナウシカのテーマの一つは
「他の何かによって自分の生が評価されるのではない」
ということだと思いますので、
「精神の偉大さ」という言葉を、
「自分以外の何か(たとえば神)を基準にして生きる」という意味で
解釈してはいけないというのが、自分の言いたかったことです。
はじめまして
じっくり読ませていただきました。
そんなに賢くない私ですが・・
ナウシカの漫画版は私が高校時代に完結し
私の思想に大きな影響を与えております
ニーチェや葛藤について、解りやすくまとめてくれていて
自分の思考や生き方が理解しやすくなって良かったです。
前略
自己紹介いたします。
私は40年以上旅おしています。4カ国語を少しだけ話します。 日本語もある程度読み書きできます。 国籍はにほんじんです。 一般には知られていませんが、裏社会ではユウメイな芸術家です。(24時間365日かんしつきです。) MUMOONと呼んでください。 ご迷惑かけない程度おつき合いさせてください。
私は一般に芸術と呼ばれているもの、美術、音楽、映画など世界的トップレベルの物を好みます。宮崎駿監督(芸術家)の作品の中で”風の谷のナオシカ”(映画)を何回か見せていただきました。感動しました。その後の漫画については息子に頼んで探してきてもらいますので、コメントは今しばらくお待ちください。 あなたの情熱的な文や他の人の物を読ませていただきました。細かい点は今、何ともいえませんが... 映画”風の谷のナヲシカ”を観て、何か偉大な物を感じました。 宮崎駿監督ダン違いの最高の作品だと思います。技術的には、少し古いですが、彼が描こうとした純粋性が光った作品です。 これからもいいコメントガンバってください。
敬具
O`MUMOON 10.07.17
[email protected]
ナウシカはそもそもニーチェではありません。
超人でもありませんし。確かにその要素はありますが。
確かにそのように解釈できます。
私も「あ、ニーチェ的だな。」と思いました。
しかし、深く読んでいくと、そうでもありません。
しかし、視点はいいと思いました。
私もナウシカで論文書きたいのであえてまだ私感は
公開しませんが・・・環境対人間なんて・・・乙ですよね。
もぅすこし読み込めば、ニーチェから漏れ出してくるところをみれると思います。
特にナウシカの植物観察なんかや、王蟲感など。
「もぅ少しで分かりそう・・・」というナウシカの世界への捉え方。ナウシカは世界を私感で理解しようとしているのではなく、きちんと把握しようとしているところにあると。
私もナウシカ論書きます♪♪
管理人より:本文で提示したのは「意味づけされないことを理解した上で、あえてそこにとどまる」という考え方ですが、これはニヒリズムのほか、ロマン主義、プラグマティズム、言語哲学、現象学、システム論などにもつながります。後は細かいニュアンスの違いであり、大きく言えば、こういった現代思想の流れを踏まえて書かれた作品ということになると思います。こういった細かい違いを踏まえてあえてニーチェというつもりはありません。
ただ、「虚無」という言葉の解釈としては、どう考えても「ニヒリズム」との関連を指摘するが適切だし、ニヒリズムという言葉を使うためには、ニヒリズムという言葉に対する一般的な誤解を解かないといけません。その流れでニーチェを出しただけであり「ニーチェ的解釈」を示したつもりはないのです。「ナウシカがニーチェ的」と言うのには自分も大変違和感があります。やはり、個人名を出すと、そこばかり注目されるのが難点ですね。
ナウシカ論楽しみにしています。私の記事は「ラストの解釈」を巡る論争に絞って考えたものですが、当然、ナウシカの読みどころはラストだけではないし、これ以外にもさまざまな分析ができると思います。また、ラストに関しても違う解釈はできるでしょう。思想的な流れをあまりにも無視した解釈はどうかと思いますが、これが唯一の解釈と思っているわけではありません。できあがったら、また連絡をいただけると幸いです。
自己紹介。学生時代、脳死・臓器移植などに関する
生命倫理を学んだ医者です。
漫画版は、雑誌連載時よりリアルタイムで読み続け、
映画制作などでで中断される度、
「いいから続き書いてくれ」
と思っていました。
この作品は、10年くらいの長時間かけて描かれたもので
あり、宮崎先生もナウシカの考えも、
取り巻く社会も変化し、最初から最後までを
無矛盾で説明しようとすると
どうしてもあらが出てしまうのはしょうがないと思います。
私は墓所の主との対決がよくわからず、
「ニーチェ読まなきゃ」と『ツァラトゥストラはかく語りき』
を読んだのですが、よく分からないままでした。
ただ、大学時代のドイツ語の先生が、
「ニーチェはツァラトゥストラのような生き方をした
のではなく、
ツァラトゥストラのような生き方にあこがれていた」
といっていました。
もしかしたらまだ『超人』は一人も現れてない
可能性もあるのでは?
ニーチェ・ニヒリズム・あの有名な「神は死んだ」
については、あとの宿題ということにさせてください。
管理人より:興味深いコメントありがとうございます。ニーチェの超人を、「超人/非超人」という二項対立的に考えたらそうなるでしょうね。ただ、もっと理念的なものではないかと私自身は理解しています。ちなみに、ナウシカの「虚無」「神」という用語は、明らかにニヒリズムと関係していると思いますが、ニーチェと一対一で対応させて理解する必要はないと思います。
読ませていただいて、分かりにくかったところ、
勘違いではないかと思ったことを打たせてもらいます。
原作が実家にあるので、勘違いだったらごめんなさい。
>浄化のプログラムが~
のところの【欺瞞】という言葉です。
生身の“新世界の”人間が必要だ~
の部分で、オンライン辞書の範囲では
“嘘”となっており、
自分の解釈での、
憎しみや汚れ
(汚れは、処女受胎のキリスト教の言葉ですか?)
のない人間が“新世界の”人間の助けなく
生きられるようになったとき、“新世界の”人間
憎しみや汚れのある“新世界”の人間は、
庭の守り人(?)がナウシカの体に何もしなかったら、
と語っていたように、
血を吐き
(これ、ショウキを吸っても「血を吐く」
ので誤解を招きかねないと思います。)、
一人残らず死ぬと少なくとも墓所の主は思っており、
一方ナウシカは、空を飛ぶ鳥(?)の例えから、
もし自分自身は乗り越えられなかったとしても、
(例えば、
ペストでも種としての人間が絶滅しなかったように、)
乗り越え、伝え続ける人間が現れるはずだ
と思っていた。
としたのですがいかがでしょうか?
これはおもしろい解釈ですね。たしかに、そう考えると、もっときれいに理解できます。批判するつもりはありませんが、自分には、原作そのものから、確実にそういう読み取りはできるとは思いませんでした。ありえそうな話ではありますが…
<もう一度読み直してください>
ムシの卵をを(頼んで分けてもらい)食べたのは、
森の人です。
ムシ使いの祖先は、
「オウムを組織的に殺し、ダイカイショウを引き起こし、
住むべき場所を失なった」呪われた種族だったはずです。
ただ、ムシを、飢えて苦しみ徐々に死ぬより、
いっそひと思いに、と…
ムシを愛していたとの描写もありました。
最後までナウシカと共にいた「セルム」にも、
ムシ使いの血は流れています。
<ちなみに>
セルム以外の森の人は、ナウシカの境地にまでは
たどり着けなかったようですね。
「偉大な精神と深い苦悩を持つ」
オウムが旧世界の人間が人工的に手段として作り上げられた
生き物とは森の人たちの信仰とあい反するでしょう。
そういったことも含めて、「矛盾を抱えながら生きる」というメッセージだと私は理解しました。本文でも、それを強調して書いたつもりです。ちなみに「人工物」と「環境」の関係については、補足記事の方でちょっと書きました。
>「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」。
>ナウシカは、「虚無」を肯定するのです。
もう少し、ここの「虚無」が受動的ニヒリズムか、
能動的ニヒリズムか(後者だと現時点では思います)
説明をお願いします。
皇弟(超能力使いの方)が闇に(虚無へ?)帰ろうとした際、
ナウシカは手を引っ張りました。
ここの闇は、受動的ニヒリズムなのでしょうか?
そして、森の人ですらたどり着けなかった、
浄化された世界へ消えていきます。
自分は「前期ナウシカ・中期ナウシカ・後期ナウシカ」
のように、整合性は追求しなかったのですが、
池田さんはどう解釈されたでしょうか?
たしかに、整合性まで考えると大変だと思います。それで、「ラスト」に絞って記事を書きました。引用された箇所は「能動的」だと思いますが、それ以前については、ナウシカ自身の心の変化と理解しています。それはもしかしたら、原作者自身の方針の揺らぎかもしれないし、意図した揺らぎかもしれません。このあたりについては自分には良く分かりません。
初めまして。
捕捉記事も含め興味深く拝見しました。
7巻のラスト間際で、チャルカが墓所より帰還したナウシカを見て「あの服は…王蠱の血よりも青い」と思うくだりが有りますが、どう解釈したものかしっくりくるものを捻り出せません。よろしければお考えをお聞かせください。
・あまり意味はないのか
2P後の「王蠱の体液と墓のそれとが同じだった」というナウシカの心の声を捕捉するためだけの描写である。
・ナウシカが「真の」青き衣の者という事なのか
皇弟が、現れるたびに大騒ぎして引き裂いてしまったという「哀れな犠牲者達」や、過去にエフタルに現れ森の人達を導き予言をしたという「青き衣の者」とも違う特別な存在であるという事なのか。
森の人によれば「青き衣の者」は予言をし導くだけの存在であり、ユパの考えによれば土鬼の民をはじめ多くの人々が「青き衣の者」とその予言をしばしば自身の願望に基づいて解釈してきたらしい。
過去の「青き衣の者」について詳細な描写は無いが、墓所の主の計画を全て知った上で人々に予言し、導いたのは彼女だけだったという点で彼女だけ特別な存在なのだろうか。
・象徴的意味があるのか
ご存じ人間の血は鉄分などによって赤いので、映画監督でもある著者は蠱の代表である王蠱の血を青くする事で「人間とは違う存在」である事を端的に示したかったのかもしれない。SF映画等でアンドロイドがしばしば白い血を流すのも同じ効果を狙っている場合があるだろう。
という事で直前の物語内容(生命についての墓の主との対話)からナウシカが人間以外の存在、ひいては生命全体と繋がった存在になった、等の象徴的意味があるのかもしれない。
もしくは「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」のであれば、大破壊前の人々の深い苦悩の結晶とも言える墓の血は王蠱のものより更に青かった=青の濃度が濃い程苦悩している(笑)、という事も有り得るかも。
「青き衣の者」についてはワイド版2巻(以下全てワイド版)P79・P127で僧正によって2回、4巻P29でセルムによって1回、5巻P74で土鬼の部族の長老達が「白い鳥」について1回、7巻P61で皇兄ナムリスの死体を見た土鬼の民達が経文を唱えるシーンとそれをうけてのユパによるセリフ、そして7巻のラストのチャルカの心の声で言及されていました。
他にもあるかもしれません。
余談ですが、アニメ「エヴァンゲリオン」に出てくる敵役・使徒の血も青いそうで。様々な作品の中で「青い血」にそれぞれ何が託されてきたか比較してみるのも面白いかもしれませんね。
大変内容の濃いお考えを読ませていただき、感激しております。
私は、今年大学一年生の医学部生です。
ずっと読んでみたいと思っていたナウシカの漫画版をやっと借りることができ読みふけってしまいました。
宮崎駿さんの独特の世界観に強く魅かれておりまして、このナウシカの映画版も例に漏れず何度もみました。
映画だけだとメシア思想と科学技術に対する批判が混じった、割とすっきりとした作品だなと感じていたのですが、漫画版を読んでみるとその内容の重さに悩んで寝込んでしまいました。
私は、科学者になりたいと願っている訳ですからナウシカがとった行動に純粋に賛成することはできません。なぜなら、私は科学を敬愛し、それが人を豊かにしてくれるのだと信じているからです。そして、これは奢りでも理想でもなく事実だったのだという信念があります。
ですから、初めて読んだときはその行動の意味を計りかね、憤りもしました。ナウシカの自らの首を自ら絞めるような行為に幻滅もしました。
ナウシカが何のために自由を求めたのかがわからなかったのです。
「将来の火種を事前に摘むため?いや、それにしてはあまりに過激だ…」
しかし、池田さんのお考えに触れ、それの意味するところを必死に読み解こうと努力すると、墓の主が主張する理論が「そなたたちは罪を背負っている…云々」、まるっきりキリスト教での布教に使われた論法と同じだということに気づきました。
私にはこれが「気付き」でした。
そう考え始めるといろいろな登場人物たちの言動が筆者の主張と強く関係していることがだんだんとわかってきました。
私は哲学の分野には明るくありません。ニーチェの思想と作品と作品とを結びつけて考えるということには目から鱗の思いでした。
この作品を読んだ衝撃は忘れられません。池田さんの深いお考えに触れてその衝撃はさらに大きくなったような気もします。
これから私はまさに科学と生命とが交錯する道を歩んでいこうとしています。
こうして、生命としての意志と科学が真正面から対峙する物語をみると、私の科学への信仰はその都度揺らぎます。
そして、この悩みを科学が解決してくれることはありません。
私自身が悩み、悩み続け、そして悩み抜かなければならないのです。
大変、貴重なお考えをありがとうございました。
今回の原発事故とその後の言論を考えると、脳と体(自然)の問題のように感じます。
墓所の主と墓所自体は、人間の脳にある論理的な思考、現代社会そのもののように思えます。
ナウシカは、「ああすればこうなる」というような、脳みそだけにある論理を破壊して、体(自然)ある不確実性、進化、可能性をとったのではないかと思いました。
これからの我々は、どちらの道を歩むのか考えます。
初めまして
私は数学者と映画監督及び俳優を目指している高校生です
私は理系者でして、倫理を習ったことも、接したこともなく生きてきました。そのためか、最近初めて読んだ「風の谷のナウシカ」を、ただ綺麗でいい漫画だ。としか感じれず、宮崎駿先生は「人間、かたよった思想を持つのは他の物を苦しめるから、よくない」ということを伝えようとしたのだと思っていました。
そのため貴方の記事を、無知ながらも少しづつ理解させていただきました。本当に興味深くて改めてこの作品を見直そうと思いました。
文頭に書いたとおり私はいつか映画監督になりたいと思ってまして、この記事を見てそのインスピレーションのためにも他の宮崎駿先生の作品を見たくなりました。
できればお手数ですが、初心者でもわかるおすすめの倫理の本を紹介していただけないでしょうか?
大変興味深く読ませていただきました。ニヒリズムでニーチェが出てくるところなど鋭い指摘だと思います。ただ、ナウシカが、「その朝が来るなら私達はその朝にむかって生きよう。私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ。」という言葉がありますが、このあたりは「これが人生だったのか。よし、それならばもう一度」という永劫回帰の思考に近いものがあると思います。ナウシカの中でも生をめぐる根本的な問題だと考えますが、この辺にも触れていただければと思います。
私は原作、アニメともに知り合いなので色々突っ込めるところはあるのですが、面白いですね-。
原作者と似たような話したことありますけど、「難しく考えすぎ」って言われたのを思い出しました。
ネタばらしはできませんので、内容に関してのコメントは控えますが、難しく考える人ほどハマルとは言ってましたので、ある意味楽しんで頂けているようで、何よりです。
これからも頑張ってくださいね。
素晴らしい分析だと思います。
私は哲学を専門的に勉強してきましたが、確かにニーチェの思想があるよう思えます。
しかし、ナウシカの思想を、ニーチェと結びつけるのは違うと思います。
墓の主は、確かにニーチェが否定した、キリスト教的な絶対善であり、
それを否定する姿は、ニーチェではないかと思えますが、
ナウシカはむしろ「ありのままの人間を肯定しようとする」実存主義がよいように思えます。
細かく指摘していきませんが、実存主義として説明した方が分かりやすい部分は、何点かありました。
あと、キリスト教的善とは、「科学万能主義」だけでなく、「人間中心主義」でもあります。
補足で「生態系」の話をしていますが、そういう点も絡めると良いと思います。
>「科学的に定められる人間を尊重する」
キリスト教と密接に絡み、生命絶対主義とされるものですね。
それと、ところどころ相対主義に偏り過ぎているよう思えます。
ニーチェ以外の実存主義は詳しいですか?その後の思想の流れは?
キリスト教的世界観、構造主義などは?
「人間の卵」が生命として尊重されるかとか、相対主義として疑問点を何点か挙げられてますが、
なんだか、相対主義に話しを持っていきすぎる感じがしました。
「○ナウシカの葛藤」についてのご意見がよく理解できません。
「矛盾を受け入れない」墓所を破壊しておきながら、
その葛藤を克服せず、論理的整合性を追及しないことこそが
「墓所の主」の思想に対置されるものとして正当化される、とは何でしょう。
ナウシカはその時々の気分でぶっ壊してもいいんだ、と言っているのと
いったい何が違うのでしょうか。論理の放棄は信仰への飛躍です。
ナウシカが信仰に飛躍するのはナウシカの自由ですが、
彼女は他者に対してフェアであらねばならない。
つまり「清浄の地に現人類は適応できない」と言う、
自分が知り得た事実を伝えてしかるべきなのです。
さらにご意見では、たとえば全権委任法のようなパラドクスを取り上げて、
それにどのように対処すればいいのかと言う問いを立てておられますが、
墓所はナチとまったく違うからこそ、問題がややこしくなっているのです。
(どちらかと言えば、価値相対主義を悪用して説明責任を放棄しているのはナウシカです)
墓所の主がナウシカから見て問題であるのは、
「価値相対主義を悪用し、生命を絶滅させようと企む存在であるから」ではありません。
ナウシカがそう思い込んでいたなら、周囲は大変な迷惑ですが。
墓所の主はナウシカから見ても
「絶望の時代に理想と使命感から…作られたことは疑わない」とされる存在で、
人類絶滅などと言う意図を持っていないからこそ、
「お前は再生への努力を放棄して人類を滅びるに任せると言うのか」
とナウシカに反論しているのです。
このあたり、どうも誤解が多い気がします。
ナウシカのほうが「一般的に見たら破滅的発想」だからこそ、問題がややこしくなっている。
ナウシカの言う「生命の尊重」は倫理原則ではなく、もっと原初的な生命の尊重だ、
と言うご説明も、危うさを強く感じます。
「原初的な生命の尊重」と言う「感覚」だけなら、我々は1人残らずそれを持っています。
しかし、それをどう発現させるかにおいて、様々な対立が発生する。
例えば広島の被爆を見て、ウォルフォヴィッツのような発想をする者も出るのです。
二度と悲劇を起こしてはならない、我々は核の抑止によって平和を保たねばならない、と…。
「原初的な感覚」に依存し、「葛藤を受け入れる」だけでは、
そうした他者との対話の回路が繋がらないのです。
早い話が、「墓の技術を受け入れてでも生きたい」と考える人間(おそらく多数派)にとって
倫理原則で説得されるならまだしも、「原初的な感覚」による納得などあり得ないでしょう。
やはり最低限の「論理」なり「倫理」を人間は排除しえないし、
排除した場合はより恐ろしい対立が待っているのです。
ナウシカの墓所破壊行為の説明において、論理的整合性を排除しながら、
なおかつ合理化しようとする営みそのものに無理があると考えるほうがずっと簡明です。
「ナウシカ研究序説」への論評部分で感じたのですが、
ナウシカの言う「清浄と汚濁こそ生命」のような禅公案的なレトリックも、
精神論が嫌いな私のような人間の「原初的な感覚」では受け入れるのは無理ですね。
現にナウシカも、現生態系が生きられない清浄の地の体験を「安らぎ」と表現しているし、
清浄を「清浄」と認識しているわけですから。
その種のレトリック、例えば「生死一如」がいつの間にか「死は鴻毛より軽し」になり、
一億が即身成仏しかけた時代を忘れたのかと。
精神論への転化を防ぐ防壁が論理であり、個人主義である。
ナウシカに倣うより、墓の「理詰めの人間中心主義」に立ち戻るほうが必要じゃないかな。
我々は宮崎駿の主張とは正反対に、もっと「論理性の重視」を貫くべきでしょう。
楽しく拝見させて頂きました。
いろいろ言う人が多いですが、ナウシカのとった行動はごく自然なものだと思ってます。
何故なら、汚染に適応した体を元に戻す技術も記されるというのは墓所の主の嘘です。そうじゃなければ清浄化計画が破綻するのは目に見えてますし。
それが分かっている以上、墓所の主に加担する理由はひとつも無いからです。
いつかも分からない遠い未来の、しかも品種改良済みの新生人類の為に、ジワジワと滅亡への道を進まされる事を自ら望む理由も無いですしね。
そしてナウシカが心で辿り着いた清浄の地では、原生動物が生息してました、セルムのセリフが本当ならばあれは実在の風景であり、汚染適応済みの生物でも、いつかはそこへ辿り着くことが出来る事を示唆していると思います。
その二点を考えると、ナウシカが墓所の主を葬り、再生への希望を生命の力に託した理由は至極当たり前のような気がします。
墓所の主の如何わしさが分からない人は深読みし過ぎて本質を見失ってる気がします。
墓ぶっ壊すって決めてストーリー上手く整えてるけどぶっ壊すならトルメキアでよくね?トルメキア王(独裁者)大絶賛だし。最後ナウシカどっか行った結果トルメキア大勝利だし。
ナウシカが居なくても悟り(笑)開かなくても我等がクシャナ殿下なら巨神兵入手して消すよ。巨神兵はていのいいママ〜ママ〜な道具だし。石持ってた人=法律で巨神兵=裁判官+警察+執行者って作られた兵器かよって落ちぶれてるし。
力さえあれば理不尽な奴ぶん殴れるもんね。
ハルノート突きつけられ真珠湾かました大日本帝国みたいで読んでてスッキリするよね。
教祖様やんないてどっか行った6ら大層なニーチェか知らんが悟り意味ないがな。きったねぇ世の中のまんま。それが人であり正義。
正直ブツこみ過ぎて痛い漫画にしか思えん。
ドルク皇帝(弟)も6巻最後で墓所の主の言いなりが気に入らんって言っちゃってるし、お前は墓所壊す為巨神兵用意したんじゃねえの?
「俺はもう生きあきた何をやっても墓所の主のいうとうりにしかならん」「あとはあの子娘がしょっていけばいい」
ナウシカが墓ぶっ壊して罪を背負うならオレいらね発言なのか、墓所の主の言いなりとして自分の跡継ぎやるからオレいらね発言かわかんねえし。
保存場行ったドルク皇帝(親)は身体移し替え失敗して死亡。お前は何してる
楽しく読ませて頂きました。
頭の中がだいぶ整理されました。
私は仏教を学んでいるのですが、ニーチェは西洋哲学と東洋哲学の中間だなと感じました。
より具体的に記せば、
ニーチェは、
1、何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
2、すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
だそうですね。(WIKIより)
仏教では、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(受動的ニヒリズム)が、好ましいとされています。
そして、流れるように生きる中で、自然の美しさや、人の優しさを感じましょうとの教えです。
ニーチェは、能動的に勝ち取っていくんだとの姿勢が、やはり、西洋哲学的だなと思いました。
皮肉なことに、この姿勢こそがキリスト教的な発想です。
なぜなら、キリスト教とは土地の貧しい人たちの哲学であり、
彼らにとって自然とはこちらから能動的に奪っていかないと、
何も得られないモノだからです。
対して、東洋哲学は、豊かな土地の人たちの哲学です。だから、
彼らにとって、自然とは、黙っていても色々くれる慈愛に満ちた存在なのです。
現代社会は、資本主義をはじめとし、西洋哲学が猛威を振るっています。結果、自然から様々なモノも奪いすぎています。
世界には、豊かな土地もあるのです。だから、自然に感謝し、
敬意を払って、与えてくれる実りを大切に食べていくことが、
人類が永続的に繁栄するには大切なはずです。
なので、ナウシカが最終的に西洋哲学的な人間になってしまったのは、少し残念に感じました。
初期、中期のナウシカが、僕は好きです。
初めてこの記事を読ませていただきました。そして私がナウシカを初めて読みおわって感動したときの、漠然とした解釈をここまで学問的に解説されていることにまた感動させていただきました。ありがとうございます。
そして、コメントで色々と否定をしている方がおられますが、否定しかできない方は結局このナウシカの話を理解することが出来ないと思います。
また私もそういう方を否定しているのでこれも矛盾なのですが(笑)
澄んだ空気では、血を吐いて生きられないはずの、ナウシカたちが腐海の底に落ちたとき、死ななかったのはなぜか?
腐海の底は、腐海がきれいにした空気、つまり、ナウシカたちにとっては毒の空気で満たされていたのでは?
という矛盾がある?
ナウシカの旧人類の卵を破壊するという行動はニヒリズムではなく正当防衛だと思います。腐海による環境の浄化は完了しました。腐海の毒がないと生きられないナウシカたちは滅びてください。などということを言われたらナウシカが怒るのは当然です。そもそも、ナウシカの時代の人類と旧人類は別の生物です。別の生物を生かすために、わざわざ滅亡する生物が存在するとは思えません。
私は、この物語を遺伝子操作、優生学の成れの果てと考えています。人工的に人間よりも優れた生物などを作ってしまったら、その生物は人類の敵になるのは当然です。ドラえもんなどでも出てきます。人工知能を持ったロボットに人類が支配される物語はたくさん存在すると思います。
TYPO?
「自分の生きる価値が何ものかによって与えられる否定して、生きるこのそのものを肯定していく生き方」
解説素晴らしいですね。ですが思想面では大変参考になりましたが、やはり自分の中での靄は取ることができませんでした。
ナウシカのとった行動で、人類は結局のところすべて滅ぶわけですよね。
それをナウシカが否定、決定する事は、神の行いでないのか?と。
そして世界の現象全てを受け入れるなら、神の存在も含めて生命が辿り着いた結論ではないのか?能動的ニヒリズムで世界の行く末を決めるというのは、結局のところ自分が神になってしまうことなのでは…と。
まぁ、結局のところ1人の主人公が行く手を決めるのですから、受動的にしろ能動的にしろ、主人公が道筋を決めるのが物語なのかもしれませんが…
宗教学や哲学を漫画で表現したのだという事はこの論文を見てよく理解できたのですが、
最後に愛した世界の人間が血を吐いて死に絶滅する、それを見て見ぬふりをするのが愛、自然だ、生き様だとするのは…どうしても受け入れられませんでした。
あまりにも、独善的すぎて。人間を愛していない、世界を愛していないというならまだよかったけれど、愛しているともがきながら最終的に出た結論は、ある種のエクスタシーで神と違う極論を出した同じ存在にしか思えなかったのです。ちなみに自分が庵野さんを好きになれない理由の1つに、この空気感を感じるせいです。
私の中で漫画のナウシカは、一番の罪人であったと結論づけました。
自分の脳ではこの問いへの解は出ず、このナウシカ論を見て腑に落ちず…。
自分は理想だと言われても映画ナウシカが本当に好きなので、それをナウシカがぶち壊すという漫画版には強いショックを受け、原作はすぐに廃棄してしまいました。映画のナウシカに近いのはセルムであり、セルムとナウシカは違う考え方であったでしょう。
もののけ姫のように呪いが解け新しい自然が生まれていくというエンディングもないし、自分にはナウシカも他の人間と同じような存在なのかと、どうしても思えてしまいます。
よく宮崎さんは政治にも口を出すことがありますが、究極的に言えば彼は周りの愛する人間がどうなろうと、愚かさが招いたことだからどうでもいい、それに対して対処をしたり知恵を絞ったり、要は音楽と詩を愛していこうという思想を否定していくのだろうか。
映画化を熱望する声がありますが、庵野さんのナウシカ続編だけは絶対出ないでほしい。
漫画版ナウシカは、映画版ナウシカの対極的作品と思ってます。
作品の1つをぶち壊すのだけはやめてほしい。こんなところで言っても仕方ないんですが。
>ナウシカのとった行動で、人類は結局のところすべて滅ぶわけですよね。
>それをナウシカが否定、決定する事は、神の行いでないのか?と。
全く違うと思います。
ナウシカがとった行動は自然を人間が制御することの拒否です。
自然を自然にゆだねること、これがナウシカの選択です。
人類が滅びるかどうかは分からないのです。自然淘汰で滅びるかもしれないし適応していくかもしれない。このままでは「人類は全て滅ぶ」と決めつけることこそ自分が神であるという思想です。
原作を読み終えて一つ疑問があるのですが、
なぜ人工生命である王蟲の血の色は青という設定があるのに
同じ人工生命であるはずのナウシカたちの血は赤なんでしょうね。
未来に目覚めるための旧人類の卵からさえも赤ではなく青い血が流れるのに…
腑に落ちません。
実はナウシカたち新人類とされている方が旧人類で…みたいなことだったりしませんかね。
>原作を読み終えて一つ疑問があるのですが
ナウシカらあの物語世界で生きている人間たちは「旧世界人類の末裔」であって、蟲や墓所のような「人工生命」ではありませんよ(土鬼の皇族たちだけは、ヒドラの肉体を手術で得ている例外ですが)。
千年前に「火の七日間」を生き残った最後の人類たちは、墓所と関連システムを設計した科学者(そして政治家たちも?)たちによって、やがて来る「輝かしい朝」を迎えるまでの汚染された地球環境でも生きていけるよう、ほんの少し手を加えられた。その子孫があの漫画の主だった登場人物たちとすべてのモブである——私はそう解釈しています。
そして墓所の卵の中に眠っているのは、正真正銘、漫画の読み手である私たちと同種の普通の人間であるにすぎません(ただし、人の手によって精神的には「去勢」されている)。生物種として「素のままの人類」を残さなければ、この計画はまったく意味がありませんから、それは間違いないでしょう。
ただし、墓所のシステムを作ったとき、「去勢」にあたって生き残りの人類から何らかの選別作業を行なったのか、それともそういう人間をゼロから造り上げたのかについては分かりませんが。
素敵な考察をありがとうございます。
私はナウシカの選択に賛成派なのですが、なかなか共感してもらえずにいたのでこの記事に出会えてとても嬉しかったです。
自分自身でも奇妙なんですが、墓所が作られた理由や墓所を作ろうとした人達の遺志、そしてそれに賛同する読者の気持ちが非常に共感できるし、賛成したいと強く思います。
ですがより善い生命、清浄な世界という葛藤を放棄した二元論的な墓所の見方を肯定してしまうと、結局旧人類が起した過ちから逃れられないのだと思いました。
事実、王蟲や谷の人々、虫使いを見ると、生命の抱える矛盾を批判的に捉えず変化や葛藤を伴いながら丸ごと受け入れています。憶測ですが、最後に墓所を破壊したという行為も、ナウシカの独断というよりそれまでナウシカが出会ってきた人々や事象に裏付けられた、生命達からの墓所への答えだったような気がします。
対症療法や逼迫した状況下での論理としては、墓所や森の人の考え方に落ち着くのが最も人間的だとも思います。
ですが数学のように明確な正解を求め、そこに依存すること自体が誤りであると気付くことの大切さがナウシカを通して見えるような気がします。
つい最近になって、原作の『風の谷のナウシカ』を知り、驚いた者です。いったい地球の生命の浄化とは、元の地球に戻すという意味かもしれませんが、ナウシカは、そのもともとのはじまりの種の世界を破壊してしまったということ、それはもともとの世界から見れば、ナウシカの住む世界とは、不浄の世界であるから、その不浄の世界は、主体も客体も、最後は淘汰されて、滅んでゆく。でもその滅んでゆく側の命の問題についてどのようにとらえてゆくのか・・・・
不浄なる悪の世界の消滅は、善なる世界であり、その善なる世界の種を破壊したナウシカは、犯罪者となる。あるいは神の世界に敵対する者となる。では、浄化とは、何故浄化しなければならないのか・・・・浄化とは、いかなる意味があるのか・・・私たちは浄化の持つ意味について深く考える必要性があるように思えてきます。
たとえば、核戦争による放射能汚染の世界で、その放射能を浄化すること。そしてその放射能に適用した人類が生まれてくること。ナウシカの問題は、生命の浄化の方法の問題であり、墓の主は、その方法論を誤ってしまったのだ。本来ならば、すべての生命が浄化されるべきであり、すべての生命が報われるべきなのだと思うのです。
それゆえにナウシカによって、破壊されてしまった。ナウシカの破壊は正しい選択であるのか・・・不完全ながらも生命の浄化装置を作り、その科学力でできる範囲の方法を行った墓の主は間違っていないだろう。
そして本来であれば、浄化とは何か、浄化の持つ意味について、深く考えて、墓の主は、浄化の方法について、修正して変化させてゆくべきである。一度作り上げたプログラムは、けして絶対ではない。それを絶対と思うのは奢りである。浄化の持つ科学的哲学的意味について深くプログラムを変化させるべきであり、その意味では墓の主には、浄化の方法について、誤りがあったのだ。
そしてナウシカは、人間の希望の一つを破壊してしまった。ナウシカも浄化の意味について深く問うていたと思う。人間と自然の浄化とは、何であるのか。浄化の方法とは、火による破壊であるのか・・・・私たちがナウシカの問題を通して深く考えるべきことは、浄化ということの意味であると思う。浄化とは、生命の破壊や粛清なのか・・・・浄化の持つ哲学的意味について。そしてそれは生命の浄化と再生とは、この浄化と再生の持つ意味について、ナウシカの問題は投げかけていると思います。
人間と自然の関係性、主体と客体の関係性、連動性相互性補完性について、考え行くと、自然界が破壊されて汚染されて、水と空気が汚染されれば、その汚染は、人間の肺や消化器系を通して、人間の内なる自然を汚染してゆく。自然界の木火土金水の汚染は、人間の内なる自然に輪廻にして、人間の内なる木火土金水を汚染して、その結果自然の寿命も人間の寿命も短くなってゆく。
だから自然界がオウムと腐海によって浄化されて、オウムと腐った海や虫たちや植物たちは、浄化されて本来の自然の世界に変化してゆく。長い時間をかけて浄化されて、変化してゆく。そして客体である自然界が浄化されて、水と空気が浄化されるのであれば、その五行循環によって、浄化された水と空気が人間の体内に入り、人間の内なる自然の世界も浄化されてゆく。
生命の客体が浄化されることによって、主体も浄化されてゆく。そしてそれが自然界の五行循環の世界であれば、人間の腐った海と空気によって起きる病気も、原因が除去されるのであるから、人々の病気は時間をかけて改善されて、健康となり長寿となってゆく。
だから墓の主が 自然を浄化するために作り上げたシステムは、そのままであれば、人間の肉体も浄化するシステムでもある。だからナウシカたちの生命を遺伝子改造をして、本来の自然の中では生きられないように作り変える必要性はなく、自然の浄化は、人間の浄化でもある。問題なのは、墓の主の人間に対する浄化方法なのだと思う。
そしてこのような自然の道理について考えると、一番の問題は、ナウシカの世代の遺伝改造の問題が、一番の問題であるということがわかる。墓の主とは、遺伝子改造の技術・知恵によって、生態系をコントロールしょうとする人々なのである。それは人間の遺伝子改造によって、様々な奇形怪物を作り、人間の寿命もコントロールする。そしてそのような科学と知恵が墓所の中に秘密にされて、それがその時代の国家に権力を与えている。
この問題を現実的に考察するのであれば、飛躍するが都市伝説の中のイルミナティーの思想となる。遺伝子操作の技術によって、現代社会では、生態系がコントロールされつつある。生態系をコントロールする人々が、歌や音楽を愛する人間を遺伝子操作で作り、人間の未来を創ると述べているのである。いったい、歌や音楽だけを愛する人々が遺伝子操作でできるのか・・・・人間のマインドを遺伝子操作で行うことが可能なのか。それはそのままマインドコントロールではないのか・・・脳神経感覚系の細胞を遺伝子改造するのである。
ナウシカが破壊した墓の主とは、遺伝子操作によって、人間と自然を含める生態系をコントロールしょうとする科学者の人々、或いは、そのような知恵と科学力を持つ神々なのである。だから墓所とは、現代風にいえば、それを保持しているデータバンク・電子記憶装置、集積回路のチップであり、人間と自然を破壊した過去の文明の記憶や意識なのではないだろうか。
このように考えると、ナウシカの選択とは、その大本の技術の記憶と意識によるマインドコントロールの根源を破壊することによって、遺伝操作の世界から生態系を解放することとなるのではないだろうか・・・一番の問題は、墓の主の人間に対する見方であり、この問題は複雑である。墓の主がいなければ自然の浄化はできなかった。しかし、墓の主によって、戦争の原因が作られた。
まとまりがなくなりましたが、おそらく原作のナウシカは、もしかしたら、過去の文明の世界の中で起きた出来事を描いたものかもしれません。そしてそのような出来事なので、そこに善悪の物差しですぐに計れるような物語ではなく、そのままなのかもしれません。でも一部は、神々の黄昏、北欧神話の世界が投影されているような気がしますが、原作の風の谷のナウシカは、現代の遺伝子操作社会の入り口に立つ、そして核の時代に生きる私たちに対する大きな問題提起となっていると思われてならないのです。そしてこれは、そのような出来事が過去にあった・・・ナウシカの行動の良しあしを問うよりも、そのような行動をした女性の戦士がいたということなのではないでしょうか・・・
「ナウシカのせいで人類が滅びる」ってしたい勢力があるようにどうしても読めるのですが、一番最後に年代記があって「ナウシカのその後」とか「トルメキアは王を持たない国になった」とかの記述があるじゃないですか。そうして記録として残っているのなら、人類は滅びてないと読めるんですけどね、どうですかね
ナウシカは責任を取ったのだと自分は思います。オーマを使ったのも火を使ったのもナウシカ。そもそもは風の谷で起きたことがこの終末の引き金でもあったわけですし。風の谷の族長として、責任を取った。それに過ぎないと思っています。
色々言う方はたくさんいらっしゃいますが、自分がこれを読んだ感想は「ナウシカみたいになりたい」ですかね。
最近、初めてナウシカの原作マンガを読み、映画と違った物語の真相を知り、驚きと感動を覚えた一人です。
この壮大な物語の結末に対し、否定的な意見がある(それも否定派の方が多数?)ということが、私にとってものすごく意外でした。
どう見ても、墓の主の思想は矛盾と嘘の下に成り立っていると思うからです。
ナウシカ批判の記事を読むと「ナウシカが否定しているものは何か」について、根本的なズレがあると言わざるをえません。
ナウシカが否定しているのは「浄化された世界」ではなく
「墓の主の欺瞞」ですよね。
そもそも人間が生きるには、他の動植物の命を奪って取り込まないことには不可能です。
その時点で、人間は汚れた生き物だということになります。
人間は「他者の命をもらって生きる」という本能によって生きているからこそ、自分の生命を守るために戦争や殺戮が起こり、その結果、世界の汚染に繋がってしまうのです。
墓の主の主張するところの「浄化された世界」を作るには、他の生き物の命を一切奪うことなく、霞を食って生きてゆける人間を作り出すことでしか、為し得ませんよね。
しかし旧人類は、そうした改良を施すわけでもなく「争いを好まない」という表面的な改良しか施していないわけでしょう?
墓の主は結局、自分の命は尊いが、他のみんなの命は尊くない、と主張しているのと同じですよね。
その考えこそが対立や争いを生み出す根本原因なのではないでしょうか?
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
に対する
進撃のナウシカさんのコメント
「風の谷のナウシカ」について補足
に対する
異邦人さんのコメント
世界の情報量は求められるのか? (2011/02/19)
WEBRONZAのホメオパシー騒動とメディアの問題 (2011/02/11)
クリスマスという記号 (2010/12/24)
書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について (2010/12/07)
社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠 (2010/09/04)
こんにちは
大変興味深い考察で楽しく読ませて頂きました
ですが引っかかったところがあるのでコメントします。
私自身人文系の学問には疎く稚拙な内容となってしまうことが自分でも分かっているのでそこの部分はご容赦ください。
「ナウシカ研究序説」様に関する記事で後半の「精神の偉大さ」の部分です。
精神の偉大さを認めるのは神・・・とあります。
これは神の部分を人とも読み替えることが出来るので異論はありません。
しかし問題はその次で精神の偉大さを認められるという事は神(人)の世界の中で生きると展開されている点です。
これは理論の飛躍と言いますか、強引なこじつけであると感じます。
精神の偉大さを認めるという行為に対してナウシカ自身はどれだけの影響を受けると考えられているのでしょうか?
これはむしろ精神の偉大さを認める側がナウシカという対象の世界に入り込んでこそ可能になるもので、
神の方がナウシカという基準を受け入れてた結果になるのです。
私は「精神の偉大さ」も「素晴らしさ」とやらもその対象の本質になんら影響するものではなく、
その対象の方から受けた影響を表す言葉だと思うのです。
簡単に言ってしまえば「評価」なんですよね・・・
こんなものは無知な者でもできてしまいます。
神にそのような評価を受けたとしても、神の世界で生きているとはいえないということですね。
ちなみにナウシカは「精神の偉大さ」という言葉を使ってますよ。
ワイド版なら7巻目の133Pで、
「精神の偉大さは苦悩の深さで決まる~」
と森の人に提言しています。
本当は他の部分に関してもコメントしたいのですが、
今日はここまでにします。
どうもありがとうございました