映画・テレビ | 2009/08/26
ちょっと前に「風の谷のナウシカ」のラストについての記事(link)を書きました。そこで、ナウシカを理解する上での基本的なこと(一神教vs.多神教の問題、ニヒリズムの問題)について一通り書いたつもりでいたのですが、その後、この記事に対するいろいろな場所での反応を見ていると、一つ言い忘れたことがあることに気づきました。それは、ナウシカが「系統としての(つまり、先祖から子孫に至る)生命としてのあり方」に注目しているということです。これについて説明しないと、ナウシカのラストの問題(ナウシカvs.墓所の主の対立)についても良く分からないのではないかと思ったので、簡単に補足します。
ちなみに、この記事に「ネタバレ」の要素はそれほど多くないと思いますが、前に自分が書いた記事を前提にしないと、そもそも意味が分からないと思いますので、原作→前の記事→この記事という順番で読んでいただけると幸いです。
○ 生命の縦糸と横糸
ナウシカでは、系統としての生命(先祖から子孫へという生命の流れ)が問題にされています。これは、一神教vs.多神教の問題やニヒリズムの問題ほど、セリフにはっきりと現れていませんが、ストーリー全体にわたって「部族」「氏族」といったキーワードが現れ、「子孫を残す」ことの大切さが扱われていることに見て取れるでしょう。そこでは血縁を持つ人々がその子孫を残そうとする「生命」のあり方が注目されていることが分かります。
一方、これとは別に、ナウシカにおいては多くの生命が複雑に絡み合った生態系が問題にされています。腐海の複雑な生態系が「腐海の謎」とされ、ストーリーとともに解明されるようになっていること、腐海のムシたちがテレパシーを介して集合的な意識を持っているとされていることはその一例でしょう。系統としての生命と、生態系としての生命、これは縦糸と横糸のように、ナウシカの世界の「生命」を織りなしているのです。
さて、ナウシカはラストシーンで「人間の卵」を殺して墓所の主を破壊するわけです。「人間の卵」も「ナウシカの時代の人々」も「生命」という意味で同じであるにもかかわらず、どうして人間の卵を殺したのでしょうか。その理由の一つとして、「人類の卵」が、ナウシカの時代の「生命」―つまり、先祖から子孫へという系統としての生命、多くの生物が作る生態系―と別のものとして描かれているということを無視することができないと思います。ナウシカは自分たちの生命が、自分たちと別の流れを汲む生命の手段となることを拒否したわけです。いや、むしろ「生命」というのが、系統と生態系という縦糸と横糸の関係によって初めて成り立つものだとしたら、人間の卵のようなものは生命ではないとまで言えるでしょう。
○ 生命の境界線
こういうナウシカの発想と反対なのが、「人間(生物学的種としてのヒト)」というものを科学的に規定して、その「人間」を残していこうという発想です。以前に「人を殺してはいけないということについて」という記事でも書いたのですが、「人を殺してはいけない」の境界線として科学的に定められる「人間」が採用されるようになったのは、科学が発達して科学的な「人間」の概念が確立してからのことです。現代の私たちは、国際安全保障の枠組みの中で「人権」という概念を使うのが当たり前になっていますが、これも実は、科学的な「人間」の境界線が引かれなければありえないことだったのです。
ナウシカは、こうして「科学的に定められる人間を尊重する」というような立場ではなく、まさに自分たちが投げ込まれている生命の流れを重視する立場を取ったと考えることができます。墓所の主のように、「人間の卵もナウシカも同じように人間じゃないか。より未来まで残る人間の卵の方が大切じゃないか」という主張は、明らかに「科学的に定められる人間」を尊重する立場に基づくものであり、ナウシカの生命観と明確に異なるものだということが言えるでしょう。
◎「墓派」の立場(余談)
余談ですが、こうやって区分すると、自分は立場上、墓所の主の発想も完全には否定できなくなります。自分は、科学や人権概念に基づく人間の尊重は普遍的な概念ではないが、いやないからこそ、こういった考え方を大切に守っていかないといけないと思うからです。
もちろん、「人間の卵」が、人間として尊重される対象かどうかははなはだ疑問ですが、それはあくまで架空の話の中のことなので、どう考えるかは読者の自由でしょう。「人間の卵のような憎しみを持たない人間」「そういった生命が尊重される」ことを、科学や人権と言った現代社会の「秩序」のメタファーと考え、ナウシカをそうした秩序に対する「破壊」のメタファーだと考えるとしたら、その流れで墓所の主を擁護する見方もできるのです。
要するに、現代社会の「墓所の主」は、さまざまな問題の元凶であると同時に、科学や人権と言った素晴らしい秩序の源泉でもあります。作者の意図通り、墓所の主の悪い面に注目すればナウシカの行動に賛成できるでしょうが、作者の意図と反対に墓所の主の良い面に注目すれば、ナウシカの行動に賛成できなくなるのは当然なのです。これは前の記事にも書いたように、ストーリーにどのようなメタファーを読み込むかという問題にほかなりません。「自分には作者の意図通りのメタファーを読み込めない」という人が、ナウシカを好意的に理解できないのは仕方ないでしょう。
ただ、墓所の主はメタファーの一つに過ぎません。墓所の主を好意的に解釈するとなると、「生命」や「ニヒリズム」といった問題の解釈がかなり難しくなるでしょう。ナウシカに批判的な人は、そういったことについては無視するのだと思いますが、それはせっかくの作品を台無しにする残念な読み方であるような気がします。
○ 生命論的ニヒリズム
本題に話を戻します。
前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」という立場を取っているということについて触れました。これは、ナウシカのストーリーのさまざまなところで出てくるキーワード「虚無」にも現れているし、ラストの墓所の主とナウシカの会話の中にはっきり現れているものです。
ただ、ナウシカのニヒリズムは、通常の意味でのニヒリズムとかなり違います。それは、ナウシカのニヒリズムは、単に「一人の人間の生き方」にとどまらず、生命としてのあり方と関係しているからです。
墓所の主「人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない」
ナウシカ「それは この星が決めること」
ここで、「この星が決めること」というのを、ナウシカのストーリー全体の中で理解すれば、それは地質的な意味での地球という星を指すのではなく、ナウシカが生きている生態系、そして祖先から子孫へという生命の流れ(系統)を指しているのは間違いないでしょう。ナウシカは墓所の主=神という価値基準によって自分たちの生命が評価されることを拒否するわけですが、そこで価値基準としての役割を引き受けるのは、通常のニヒリズムのようにナウシカ個人ではなく、生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」にほかならならないのです。そしてその意味で、ナウシカの問題意識は、すでに通常の(個人のみを対象にした)ニヒリズムではなくなってしまっているということができるでしょう。こうしたナウシカのニヒリズムを、「生命論的ニヒリズム」とでも言うことができるのではないかと思います。
ナウシカのラストの選択も、こういう「生命」=生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」と、それを支配しコントロールしようとする存在の対立として理解しないといけません。前の記事では、ニヒリズムとの関連について触れたのですが、こういう重要なポイントについて全く触れなかったので、補足としてこの記事を書かせてもらったものです。
本題に関して言いたいことはここまでですが、本題ではないことについてちょっとだけ補足します。
◎環境問題とナウシカ(余談)
この記事の目的である「ラストのナウシカの行動を理解する」ことからは離れますが、ここまでの話は環境問題とナウシカの関係とも関係しているので、これについて少し触れたいと思います。
良く指摘されるように、ナウシカの最初の方(映画化された部分)では、「環境との共生」といったありがちなテーマが扱われているのに対し、ラストの部分では、テーマが「いわゆる環境問題」ではなくなってしまっています。これは、ナウシカが書かれたのは、公害や森林破壊などの問題が起きる中での切羽詰まった「環境運動」(環境を守らないといけないよね)から、その矛盾を指摘する意味で、「環境問題で言う環境って結局人間に取っての環境じゃないの?」という「環境思想」が出てきた時代だということと関係しているでしょう。オームも腐海も全部人工物というのは、こういう時代の流れの中で出てきたものではないかと思います。
そういうこともあり、ラストの部分では、直接的には「いわゆる環境問題」が射程に入っていないというのが、普通の解釈でしょう。しかし、ナウシカの主張を環境問題に当てはめるとどうなるのでしょうか?自分は、以下のように考えることができるのではないかと思います。
「『生きる』ことは、科学技術や『神』のようなものの手段ではなく、それ自体、世界に意味や価値を与えるものである。ここで、『生きる』ことは個人としての生の問題だけではなく、先祖から子孫に伝わる生命の流れや生態系を含めた『生きる』ことを含む。こうした広い意味での『生きる』ことに注目すれば、環境問題も解決するのではないか」
これは、環境倫理を、人間vs.環境という形で理解するのではなく、現行世代vs.未来世代という倫理(世代間倫理)として理解しようとする潮流とも近いのですが、「生命」という観点から考えるという点で、こうした議論よりさらに先に行くものではないかと思います。
大変興味深く読ませていただきました。
ところで細かい点ですが、本記事で貴方が書かれている以下の部分
『前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられる」という立場を取っているということについて触れました。』
は、
「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」
の誤りではないでしょうか?
> ところで細かい点ですが、本記事で貴方が書かれている以下の部分
> 『前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられる」という立場を取っているということについて触れました。』
> は、
> 「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」
の誤りではないでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。
さっそく本文を修正させていただきました。
ナウシカは、自ら生命とは何かと定義している訳で、それは彼女自身を神としていることになる。確かに、旧世界の人間たちは自らを神とし、自らの手で緩慢な洪水を引き起こし、そして生命の尊厳を踏みにじりつつ清浄な地へ降り立とうとした。大罪を犯している。ナウシカは、それを否として哀れな巨神兵を使ってまで自ら裁定を下した。ナウシカは旧世界の最後の神の積もりであるのだ。これは、墓所と同じように傲慢ではなかろうか。生命を捨て駒として使い、自らの精神まで改造して理想の楽園を追い求める者たち。一方で、捨て駒として生きることを強いられた者の中に、自ら何を持って生命とするかを語る者がいる。自ら裁定を下すナウシカは何者であるか。裁定はこの星が下すものだ。裁定はこの星の生態系が下すものだ。この物語は滑稽だ。結局人間は業に包まれている。
ナウシカの記事を検索していて、偶然このエントリにたどり着き、読ませていただきました。
失礼ながら、このHPを拝見して情報学という学問を知りまして、興味を持ちました。
HPで紹介されていた「基礎情報学」とベイトソンの本を購入したので、じっくり読んでみようと思います。
また訪問させていただきます。
マンガ「風の谷のナウシカ」は宮崎駿の哲学書であると、第7巻を読み終えたときに思いました。宮崎駿なる人物がどのような学問的背景を持っているのか私は知りません。しかし、人間をこよなく愛し、エネルギッシュに作品を送り出している希有の人物であることはその後の作品群を見ても明らかであります。本稿は哲学的な観点から生命の本質、ニヒリズム(虚無)との関連、傲慢に対しての考え方など大変示唆に富むものでありました。
後に作られた作品の中では「もののけ姫」の結末がナウシカのラストと重なります。ナウシカでは旧世界の遺した「墓の主」がナウシカの手によって破壊されるのですが、もののけ姫では生死を司る「獣神」がエボシ御前によって殺されます。どちらも文明の入れ替わりを示唆するものです。さらに共通することは登場人物たちは多くの犠牲を払いながらも力強く生き抜いていくことです。これは人間が愛しくてたまらない宮崎駿の思想哲学を表しています。
ナウシカほどには批判されていないようですが、人間が殺してしまった荒ぶる神々、一神教と多神教について、エボシ御前と現代人の功罪など読み解く課題は多いと思います。
貴殿または貴女の記事を読み、論理的に解説している事に対して私は好感を持ちました。私もナウシカファンとして私なりの解釈を申し上げたくなりましたので、厚かましいとは存じますが、よろしくお願いします。
私は漫画版ナウシカがとても好きで単行本を買って何度も読みましたが、最後の方の墓所の主との対決の場面で「穏やかで賢い人間になる卵」をナウシカが殺してしまった事には納得出来ませんでした。墓所が生む新人類とナウシカ達旧人類が共存出来る方法を探すのが、よりナウシカらしいと思ったからです。
ただ今では、漫画としてあのような結論に至る事は良かった事だと思います。何故なら、漫画は私達現実に生きている人間が読む物だからです。私達現実の人間は、欲望や怒りといった感情を持たないことはできません。何故なら、欲望は向上心に、怒りは侵されたくない大事なものを守る為の原動力になる、大切な感情だからです。もし、作中の旧人類の未来が天使のような心を持った新人類に引き継がれたなら、確かに平和な世界が実現され、一見綺麗な物語の終わらせ方に見えます。ですがそれでは現実に生きる我々に対するメッセージとしては、あまりにも空虚な物になってしまいます。なぜなら私達の心は天使のように無垢ではないからです。そのような物語の解決法では、私達にとって参考にはならず、共感することもできません。ですから作者の宮崎氏はナウシカに新人類を殺させたのだと思います。また、もう一つナウシカが新人類を殺した理由について挙げられるのがナウシカは旧人類や王蟲や腐海を愛していたからということです。ナウシカは多くの人や腐海の生き物、さらに粘菌までもを思いやり、理解をしようとしました。また、自らの命を犠牲にして変異体の粘菌の孤独から救った王蟲の偉大さに心を奪われました。例え王蟲が墓所の作製者が計画した通り腐海を守るために行動しているのだとしても、命を懸けて行動しているのは王蟲自身であり、尊いのは王蟲自身だとナウシカは思っているのでしょう。墓所の主は言います、「生命は光だ!」と。これは、世界が浄化された後に目覚める新人類を象徴しているのだと思います。しかし、新人類はナウシカら旧人類や王蟲を始めとする腐海の生き物達の犠牲に成り立っているにもかかわらず、この言い方は非常に滑稽だと思います。そして、墓所の主からは一度も腐海の生き物や旧人類をいたわる言葉は聞くことができませんでした。墓所の主にとって旧人類や腐海の生き物は新人類を繁栄させる為の道具に過ぎないのだということです。ナウシカは墓所の主に言い返します。「ちがう!いのちは闇の中のまたたく光だ!」と。これは、毒に耐えながら生きる旧人類と命懸けで腐海を守る王蟲達の事を表した言葉だと思います。おそらく、ナウシカは汚染の中で懸命に生きている旧人類と腐海の生き物が、浄化された世界で目覚め不自由無く生きる事が約束されている新人類よりも尊いと言いたいのだと思います。いつかナウシカが城爺の大地の毒で膨れ上がって硬くなった手を見て「働き者の綺麗な手だわ」と言ったように。そうで無ければ、苦労をした者は報われません。ナウシカはそれが嫌なのだと思います。ですからナウシカは、浄化された世界を引き継ぐのが旧人類と腐海の生き物である為に新人類を殺したのだと思います。新人類は庭園の主のように、相手の命は奪う事ができなくても従えてしまう能力はあるのかもしれません。ナウシカは浄化された世界で死ぬ定めである旧人類や腐海の生き物に自立して生きるチャンスを与えたのだと思います。作られた命である王蟲にいたわりと友愛の心が生まれたように、旧人類や腐海の生き物の中から浄化された世界で生きられるようになる者が奇跡的に現れる可能性を信じて。
ただ私としては新人類の卵が一個くらい無事で、そこから生まれた赤ちゃんをナウシカが育てるはめになっても面白いかとは思いますね~。とんでもない悪ガキに育って、ナウシカが「墓所の主は嘘つきね!」とか言って欲しいです。そんでもってその子の子孫が他の場所にある墓所から生まれた新人類と旧人類との橋渡し役になったりとかしても乙ですかね。
昨日、日本テレビでスタジオジブリの特番を組んでいたので影響されたのでしょう、個人的に気に入った作品である『風の谷のナウシカ』について情報を集めていました。そんな折、御サイトを見つけることが出来ましたので、非常に興味深く拝見させていただきました。
自己紹介をさせていただきますと、私は都内の公立高校に通う学生です(男子)。高校生という年齢でお分かりになるかとは思いますが、スタジオジブリ長編作品の影響を甚大に受けています。なのでどうしても私の中で、『風の谷のナウシカ』は勿論のこと、『天空の城ラピュタ』や『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』といった作品はエンターテイメント性・娯楽性の方が、高くなりがちです。思想とか哲学、メッセージ性というものは、いまの自分一人で到底解釈できるものではないと正直感じています。
『風の谷のナウシカ』に出会ったのは、中学生の時です(映画の方は小学生の時でしたが)。読み終わった瞬間、「おもしろい!」と感じました。私自身個人的に、絵を描くことが凄い好きです。おそらくその「おもしろい!」という言葉は、作中の表現方法に対するもの。例えば、風の谷やぺジテ市のガンシップのフォルムの格好よさなどが挙げられると思います。しかし何度も何度も読み返す度に、底なしの腐海に入り込んでいく気がしてなりませんでした。読むたびに新しい発見、推測、考察、解釈が生まれてくるのです。今では何回読んだかわかりません。一度読んだだけで理解できっこないとは思いながらも、学校に持っていき、友人に紹介しました。原作漫画の存在を知らない人が多かったようで、皆口々に「『ナウシカ』のイメージが変わった」と言っていました。所詮は知識も教養も浅く、「青き衣」ならぬ「青き尻」を持った人間の言うことです。私自身、御サイトの考察や、それに寄せられたコメントにあることも非常に難しく感じました(「ならどうしてコメントを寄稿した?」といった感じですが…)。
私は『風の谷のナウシカ』を、「絵」「デザイン性」という切り口からのんびりと検証しています。御サイトのようにウェブ上で発表する予定は全くありませんが、作品を鑑賞する立場としても、また絵を描くのが好きだという作り手の立場としても、この『風の谷のナウシカ』は非常に参考になると思っています。
私は原作本・原作漫画に勝る映画・ドラマ等の映像作品は存在しえないと思っています。まだまだこの作品の存在自体を知らない人は多いです。一人で考察するよりも、語り合える友人を作る方が良いかもしれないなと、思ったりします。布教と言っては何ですが、『風の谷のナウシカ』の頭に「漫画版」という文字がつかないくらい認知度が高まれば、「『風の谷のナウシカ』と言えば映画ではなく漫画」といわれるほど多くの人に読んでもらえたらと思います。拙文・乱文失礼いたしました。
はじめまして。
震災があってナウシカの話題がちらほら出ていたので、最近また原作版を読みました。そして、昔から何度読んでも納得いかないことがあったので、ネットで調べるうちにここにたどり着きました。
ナウシカのラストの行動に賛否両論あるとのことですが、私もどうしても終盤からラストにかけ納得いかないことがあります。
それは、ナウシカが、庭園の主や墓の主との対決で確信した世界の真実(神聖とされる蟲や腐海は墓の主=人間が1000年前に作った、蟲使いも含めてナウシカら人間の生物的な仕組みも操作されている)を、この先、誰にも言わずに秘密する、ということです。
最終ページで、この物語が後年の年代記を語っている風になっているので、年代記にはそこらへんのことがばっちり書いてあるのかもしれません。
しかし、基本的には秘密にするということが、納得いきません。このことが私には現代の為政者や国家権力などと重なって見えてしまいます。
最後の最後には重大な秘密情報について、自分はそんな責任を負えません、王様じゃないし、政治も嫌いだし、自由に生きたいし的な逃げをうっているような気がしてしまうのです。
それに、本人もチククも、ナウシカの神格化を嫌っているわりには、最後にもっとも重要な秘密は、秘密にしておきましょうというのも納得いきません。
思わせぶりな言動(あとは自分たちで状況を判断して、察してね的な言動)はかえって神格化につながるんじゃないですか。
はじめまして。大変興味深くじっくりと拝読いたしました。
3月の震災が起こって10日ぐらい経った頃、急にナウシカを読みたくなり、アマゾンで揃えました。漫画のナウシカは3巻までしか読んでいなかったので、初めて、そして改めて「風の谷のナウシカ」という物語が素晴らしい哲学書であることを感じました。
貴ブログの考察について、私はほぼ全面的に同意をいたします。(ほぼと言うのは、私の理解の及ばぬ部分があるかもしれないと思うからです。)
以下、私が個人的に感じたことを記します。
虚無について:文字通りの「虚無」からは私も貴記事にあるようなことを思いました。それとは別に、虚無に悩まされるナウシカや、心の森/闇から戻ってこられるかどうかの瀬戸際(第6巻)のページから、私は人の精神世界の闇をも感じました。私が数年前に見た闇の中が絵に表現されているように思いました。実は私はうつ病を患っています。6巻であった、ナウシカが闇の中で膝を抱えている姿をみたとき、涙がとまりませんでした。症状が一番つらい時、まだ自分が病気にかかっているとは気が付かない頃をすぐに思い出しました。私の患者としての実感は闇の中というより「蟻地獄」のようでもありました。もがいてももがいても、どんどん足が体が引きずり込まれるような感覚です。とても恐ろしい体験でした。ナウシカが言う「(生きることを)一度捨ててしまった」「生まれかわったよう」というセリフにも共感します。病気が好転していっているいま、それがとてもよくわかります。実際、私の友人(英国人)が重度のうつ病になり、それが治ったとき「目の前がパーッと晴れ渡って、Re-bornしたようだった」と話してくれました。「病気になる前よりも自分は強くなった」とも。まるでナウシカのようです。私も治療に専念して、「生まれ変わったよう」といつか言ってみたいです。
地球の視点:人間も人間社会に関わる「環境」もすべての動植物も何もかも世界は地球に乗っかって生活しています。ナウシカの言う「星が決めること」に全てが乗っかっているのでしょう。3月の震災や福島のことを考えたくてナウシカを読み直してとてもよかったと思います。
映画版と漫画版で区別されることもあるこの物語ですが、地球という星からの視点で考えるとやっぱり同じ原作に端を発していると思えます。
比喩:腐海の底に住む森の人、腐海に住む蟲使い、腐海のほとりに住む氏族、機械工学を得意とする氏族、宗教が全ての規律である土鬼、文明の中心であることを謳歌する氏族、風使いの氏族…この物語に登場する色々な人間社会は地球に存在する色々な生物をも表しているような気がしました。地球上のあらゆる生物の食物連鎖を…。トルメキア王家の紋章が地を這う蛇であること、「鳥のような」風使いをキーワードにしても…。
第7巻:作者はこの最終巻で丁寧に読者に対して説明をしてくれているように思いました。ナウシカが従者である蟲使い達になぜシュワへ行くのかを説明しているくだりです。
長くなりました。私のコメントは以上です。
ありがとうございました。
はじめまして。
ナウシカのラストについて自分が抱いていた「疑問」に対する答えが、
この記事を読んで少し解ったような気がしました。
あくまで私見ですが・・・。
Q:ナウシカが墓所の主に対し取った行動は、殺人(殺戮)と呼べるものなのか?
システムの「破壊」にすぎないのか?
A:墓所の主が創り出そうとしているものが、人為的なもの、
科学的に操作されたシステム上に存在するものであることに主眼を置くと、
この記事で述べられているように、
人間の卵のようなものは生命であるかどうかすら怪しくなり、
墓所の主も、ある種のバイオコンピュータシステムでしかないと解釈できる。
Q:ナウシカの時代の人間は、汚染に適応できるように作り替えられた生命であり、
ある意味では人為的・人工的なものの一種であるので、
墓所の主や人間の卵と同じ、
科学的に操作されたシステム上に存在するものではないのか?
だとすれば、墓所の主を破壊し、
ナウシカ側の人間のみが(当面は)生き延びる道を選択することには、
一定の矛盾が存在するのではないか?
A:生態系や、祖先から子孫へという生命の流れ(系統)を操作すること自体が、
生命への冒涜であり、許されない行為であるという前提に立てば、
仮に、すでに一度作り替えられていた命だとしても、
これ以上同じような「操作」を許さないことが、ナウシカの取るべき行動である。
墓所の主との対話で、真実を悟った上で、現状(現実)を受け入れ、
これから先に起こり得る過ち(科学的な操作)を阻止することは、当然の判断ともいえる。
さらに言えば・・・
墓所の主のいう、「浄化のプログラムが終了したら、
汚染に適応した人間を(新世界に適応できるように)元に戻す。」
ということばが、仮に虚偽ではなく真実だとしても、
これ以上人間を作り替えるという行為を繰り返すことは、
生命に対する科学的な操作を許し、
罪(生命への冒涜)を重ねることに荷担することになるといえるのでは・・・。
名指しされましたので、反論を「墓派」の立場から行いたい。
思想の内容は、その前提として手続的倫理によって担保されねばなりません。
人類の生存はナウシカによれば「この星が決めること」であるはずなのに、
ナウシカは密室で、独断で、選択肢の一部たる墓所の破壊を決めている。
しかも清浄の地について正確な情報を与えないどころか、
意図的に虚偽の事実を民衆に告げているのです。
矛盾していますし、倫理的にも許容不可能です。ミラルパとどこが違うのか。
ミラルパはまだ「民の苦しみ」に思いを馳せ、相矛盾する帝国の維持に苦悩します。
国土の壊滅を案ずるチヤルカが、人間的にミラルパを慕う要因はここにあります。
ミラルパは具体的な政治的現実の中で苦悩し、帝国を背負い、己の責任で選択する。
彼のウソは、その中で出てきた政治的営為です。
ナウシカは違う。何ら具体的展望を持たず、選択の自由を残さず、政治的責任を取らず、
墓を密室で「暗殺」したのです。
ナウシカこそ、民衆が自身の道を選ぶことを信じず、その葛藤を受け入れられない、
否定的ニヒリズムの塊なのです。彼女の思想が何であろうと、行動が雄弁に証明している。
土鬼の国民の立場に立ってみて下さい。
「憎しみより友愛を」と訴えた人物が実際は虚偽の事実を告げ、自分の信頼を利用し、
己の思想を実現するために、自分の将来の選択肢を奪った人物であると判明したなら。
いかに綺麗事を並べようと、私たちは耳を貸そうとは思わないでしょう。
それどころか、人間に対する極度の絶望感に陥るに違いありません。
ナウシカのウソが判明するのは、清浄の地が広がり、生存領域が狭まった時です。
清浄の地に飛び込んだ民衆は、現実に血を吐いて絶命しながら、ナウシカのウソを知る。
その段階で土鬼人がナウシカのウソに気づき、対策を立てようにも時はありません。
彼女は選択肢を奪ったばかりか、時間を奪い、信頼と言う人間的営為をも壊している。
頭の中で「墓派の立場」を勝手に規定し、頭の中で「思想」を対立させる前に、
「ナウシカの行動で何が起き、自分が当事者ならどう感じるか」を想像して下さい。
奴隷でない限り、自分たちに向けられた残酷な悪意と不信に打ちのめされるはずです。
ナウシカがたどり着いたのは、ミラルパをもはるかに凌駕する究極の生命否定だった。
この「上から目線」に気づいていながら、突き詰めずにお茶を濁す鈍感さが、
宮崎駿の思想的限界です。繰り返しますが、私たちは「ナウシカの下僕」ではない。
ナウシカ支持の論評は、多くが手続的正義を無視した「上から目線」に立ったものです。
そこでは現実の土鬼の人びとが、一切、無視されている。
思想談義に熱中し、思想の発現過程の「ナウシカのウソ」を等閑視してしまう。
「墓派」は必ずしも思想的に墓に与しませんが、ナウシカは強く非難します。
思想には他者が存在します。他者関与のプロセスを抜いた思想は存在し得ません。
思想の表現過程の倫理的過誤は、その思想の正統性に関わる重大な問題です。
この点を無視するのは、極めて幅の狭い、残念な読み方と言わざるを得ません。
私はナウシカの思想や行動を支持する論者が、
なぜこの重大な手続的瑕疵を軽視もしくは等閑視するのか、まったく理解できません。
ナウシカと墓を対比させ、前者の「思想」をもってその重大な倫理違背を宥恕するのは、
極論すれば選民思想とえらぶところがないと言えましょう。
ナウシカがたどり着いたものは、ナウシカが支配する恐怖の楽園、最悪のディストピアだったのです。
ブログ「風の谷のナウシカを批判する」の宮崎駿・ナウシカ批判は、極めて正当です。
宮崎駿は明らかに、この問題から逃げたのです。
2010年7月5日の投稿者氏の指摘は、的を射ています。一部を引用します。
「ナウシカは、自ら生命とは何かと定義している訳で、それは彼女自身を神としていることになる」
「自ら裁定を下すナウシカは何者であるか。裁定はこの星が下すものだ。
裁定はこの星の生態系が下すものだ。この物語は滑稽だ。」
まったく同感です。
私の立場は単純です。現実の民衆を信じず、裏切った人物を支持などできるはずがない。
ナウシカ批判派、つまり「墓派」の立場に全面的に賛同します。
ラストのナウシカの行動を「独断」と批判される方がいます。が、実際にはトルメキアの「王」と、森の人の「長」の息子セルム(精神のみ)がその場に立ち会っています。トルメキアのヴ王はナウシカの言動に賛同し、またセルムはナウシカを促し、オーマを呼び寄せます。
物語の流れからも、ナウシカに、人間としての意思決定を委任する立場の人物も多数登場しており、完全な独断と表現するのは行き過ぎではないかと感じます。
先日のTV放映の後、原作をパラ読みしてからこちらにたどり着きました。ナウシカ派と墓派共に意見を読み、深く考えている方が多いことに驚きまた自戒しました。
自分はこの原作をどう読み解いたのか、自分ならどうしたかともう一度考えてみました。そこでひとつ気付いたことがあります。簡単に言ってしまうと、これは宮崎駿のただの皮肉なのではないか。
例えばこの散りばめられた哲学的思想、宗教的な思想、環境問題、人間同士の関係、人間とその他、これは全て「ナウシカという一人の少女」を読み手が自分に置き換えてそれでは自分ならどのような選択をするか。と考えるように用意されている言わば読み手が自分に置き換えることができやすい現実との付随性を現し、ナウシカに感情移入しやすい環境をととのえているだけに過ぎないような気がします。当初より最後に至るまでナウシカの心は葛藤し続けます。まるで現実の我々と同じように。
この手法はとても有効で、この本を読んだ後に多くの人がナウシカの最後の選択を自分ならどうしたかと考えたと思います。墓所に頼る、墓所を取り敢えず残す、墓所を破壊する。
理路整然と考える方は、墓所を残し頼る事を選択すると思います。今後ナウシカの生きている時代もそのうち過去に滅びた火の七日間前の産業文明の軌跡を踏むでしょう。片鱗は原作中そこかしこにありました。それであれば、例えナウシカの時代でなくても今この現実の我々よりも進んでいたであろうその文明の選択は正しくあると想定はでき同じ事を繰り返すぐらいならと墓所を頼るでしょう。
それではなぜ宮崎駿は墓所破壊を選択したのでしょうか。ここに皮肉があると思います。ここまで原作を読んできた人たちは既に未来への最善の選択は選びようがないほどわかっている。人類が同じ轍を踏むこともわかっている。墓所に従うことが最善だともわかっている。でもどのような読み手でも墓所のあの瞬間に立っていたら、破壊を選択すると思う。
例えば今目の前に神が降りてきて「君たちの世界失敗だったから滅ぼすわ。前回と一緒だった。一旦滅ぼしてその後また新しい完全なの造るからさ。」と言われたら反抗するだろうし、あわよくば神を殺すでしょう。中には納得してしまう人もいるかもしれないが、いきなり来て言われたことに納得する人は多分あまり考えていない人かな。
自分たちの「おごり」を可能性とか、希望とかって言葉で綺麗事にして我々ならまた違う未来があるかもしれないと主張すると思う。皮肉というのはこれで、人間はどんなに深く考えたところで同じ事を繰り返す生き物だと、そして人間は自分たちの置かれている環境はなかなか捨てられない、だからよりよい選択があっても人間は必ずと言っていいほどそれは選択しない、宮崎駿はそう言いたかったんじゃないかな。
ナウシカその後のことも予想してみた。
ナウシカの墓所破壊の選択は人造人間が生きる上では正しかった。腐海は無くならない。その後主要都市の産業は発展しそれに伴い大地を冒し大気を汚染し水に毒を垂れ流し続け腐海により生まれた清浄な土地が清浄なままであることもなく腐海は場所を変えながらも仕事がなくなることはなかった。そして何度かの大海嘯、それでも人造人間は生き続けた。歴史を繰り返すように
墓派もしくは墓の主に問う
では、新しい人間の卵とはそもそもなんなのだ?
その人間は憎しみを知らないという。
そしてまた、これまでの人間と同じ過ちを繰り返さないという。
つまりそれはある程度操作された人間だ。
操作されてるのはかまわない、どうせ我らも既に操作されている身だ。
では具体的にはどういうタイプの人間になるように操作したのか?
どうすれば、これまでの人類と同じ過ちをおかさない優れた人間になれるのだ?
墓派もしくは墓の主はあえてこの部分には言及していない。
なぜなら、それは民衆には素直には受け入れがたい厳しい現実だからだ。
1.憎しみや悲しみなどの負の感情を持たないようにし
2.知的好奇心を抑制し
3.生殖能力を抑制するか無くし
4.不老不死(生殖能力の無い場合)もしくは死の恐怖を感じさせないようにする
新しい世界の人間はこれらの特性を持つように操作されているはずなのだ。
なぜなら、人間の侵した過ちとは、人口増加と文明の発展と切っても切れない関係にあり、
上記の4点は人口増加と文明発展の原因および原動力となる危険性があるからだ。
人間が智恵を持たず、猿のようなままの存在であれば、なにも問題にはならなかったのだ。
地球環境のリソースは有限で、失われたリソースの再生には相当な時間がかかる。
故にサステイナブルに地球環境を保つためには、
どうしたって、人口および文明程度を一定のところで押し留める必要があるのだ。
戦争を無くし、知的好奇心を抑制することで、文明は発展しにくくなる。
しかし、戦争や飢餓の消滅は生殖出産コントロールをしない限り人口増加につながる。
墓の主が定期的に飢饉をおこしたり、病原菌を撒いたりして、人口調節を図るという方法もあるだろう。
この想定は極端過ぎる世界なのか?
もっと、穏当にすべてが解決された未来世界と言うのはありえないのだろうか?
わからない、想像すら出来ない。
ただ、どのような形にせよ、人口増加と文明の発展を抑制する必要があるのだ。
これが墓派もしくは墓の主の描くユートピアの実態なのだ。
彼らは開き直るだろう。
「すばらしい!素晴らしい理想的な管理社会じゃないか!」
「人類が地球に生き延びるためだったら、これくらいの条件を課されてもかまわんわ!」
「そこで生きている人間にとっては、どうせ自分達のいる世界が管理社会だって事にすら気づかないだろうしね」
なんという欺瞞!
そんなものはもはや人間ではない!
墓の主、お前こそが欺瞞に満ち溢れた人類の敵なのだ。
薄汚い汚物と浮腫の塊め~!
というわけで、まともに考えれば墓の主の目指す未来はいわゆる全体主義の管理社会だ。
そこには人間や生き物の持つ本来の自由はない。 すべてを墓の主にコントロールされた世界。
だから、新しい世界の人間の卵などは、そもそも人間ではないとみなしても構わない。
ある意味、宇宙人に侵略されてるのと同じ状況ではないか。
故に墓の主もろとも全てをぶち壊してしまったナウシカの決断はやっぱり正しかったのだ~!
(そして墓派という人々は、想像力の乏しく洗脳されやすい哀れな人か、筋金入りの管理社会大好き人間なのだ。)
という見方もできる。
つまり墓の主の実態を見破ることで、物語を正当に理解したと思い込む方法だ。
でもそれでも、実はまだ足りないのだ。
彼女の葛藤はもっともっと腐海。じゃなくて深い。
そして、筋金入りの墓派および墓の主もそう簡単には引き下がらない。
とにかく、奴らは弁が立つのだ。
「だからといって、ナウシカ側の未来だってロクなもんじゃないじゃないか! 」
「お前らは結局、目先の自由に目を眩まされて、人類の未来を踏みにじったのだ。」
「管理社会のなにが悪い? 完全無欠の管理社会ならばその内側では全く不満は生まれないのだよ。」
「受け入れたまえ、いずれにしても人間にはもう野放図な自由など許されないのだから。 」
ぐぬぬ
さあ、どうする?
墓の主の側の未来は結局私たちから見れば明るい未来ではないだろう。
でも、その世界に住む新しい人間のような存在にとっては、もしかすると幸せな世界なのかもしれない。
それに引き換え、ナウシカ側の未来はほとんど絶望的だ。
人間は新しい清浄の地に立つことは難しそうだ。
それ以前に、人類は憎しみあい、殺し合い勝手に滅んでいくかもしれない。
残念なぎら墓の主の言う事は常に正しいのだ。
さあ、あなたならどうする?
それが、テーマだ。
それがナウシカの向き合った葛藤だ。
。
。
。
実はね
ナウシカにとっては本当はどっちでも良かったの。
ええっ!?
「それは地球が決めること」
って後で言ったでしょ?
実はあの決断の瞬間、ナウシカは殆ど地球のようになってたの。
どういうこと?
地球の声
「あのー、地球としては別に人類がいようが、生物がいようが、不毛の惑星になろうが、全然気にしてないんですけどね~(^_^;)」
そういうこと
地球にとっては、全球凍結だって2度も経験してるし、生物にしたって、初期の硫酸のような海に適応していた生物は、その後の酸素の増加によって、ほとんど絶滅していった。
かろうじて生き残った生物達も、その後何度も何度も絶滅の危機に瀕した。
でも、その度に生物は変化し適応しなんとかかんとか生き残ってきた結果が、今の我々に続く生命なのだ。
地球にとっては、はっきり言って生物なんてどうでもいいし、ましてや人間なんていてもいなくても構わない。
生物の絶滅を悲しむのは、人間とかいう愚かな生き物の優しさという傲慢のなせる業に過ぎないのだ。
「そうよね、私達だって既に旧世界の人にいじられちゃってるわけだし」
「キレイさっぱり、火の七日間の時点で人類なんか滅亡しちゃってても、別によかったのかもしれない」
「だから別に墓の主に協力して、わけのわかんない人類みたいな者共に未来を託してもいいの」
「どっちでもいいの、どっちが上でも下でもなく、なんでもないの、なんでも関係があって、結局なんにも関係ないの」
だから
それだったら
どっちでも大差ないのだったら
「今あるこの世界に生き、そして死んでいく、儚い者達の可能性に賭けてみるのも悪くないじゃない!」
「だって、私は今ある世界の蟲たちや人間達を愛しているんだもん」
オーマよ、光をここへ!
私達は生きている。
ヒドラや墓の主や人間の卵と違って、
我々は死からは逃れられない生を生きている。
生きて、生殖して、死ぬ。
闇から生まれ、ひととき瞬き、そして闇に帰る。
それはつまり変化するという事だ。
遺伝的多様性をもって、環境に適応し、種を残していくために個々の個体の死があるのだ。
我々は新しい朝を乗り越えられないかもしれない。
だけど、我々生物はいつもそうやってきたじゃないか。
95%くらいの人類は間違いなく血を吐いて死ぬだろう。
もし、そこで全滅してしまうなら、それはそれでしょうがない。
それは地球が決めることだ。
でも、どんなに致死的な病原菌にも数パーセントの確率で耐性をもっている人がいるように。
新しい朝を乗り越えていける人がきっといるはずだ。
私達は生まれ、死ぬ事をもって多様性を維持しているのだから。
その可能性に賭けよう。
そして最終的な判断は地球に任せよう。
「その朝がくるなら私たちはその朝に向かって生きよ
私たちは血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ」
。
。
これは、そういう物語だ。
わかる人はわかったかもしれないが、ナウシカはあの決断の瞬間、悟りに至った。
仏教用語で言うなれば色即是空の空のような状態になっていた。
墓の主とナウシカの問答が、禅問答のように論理的に噛み合わなくなっていたのはそのためだ。
早トチリしてもらいたくないのは、この物語は宗教ではない。
ナウシカが最終的に悟りに至ったのは、宗教の力など全く関係なく、自分の力で至ったのだ。
大切な事は、悟ること、世界を理解するということではない。
一番大切なことは自分の頭で考えるという事だ。
このブログ主の解釈、墓派の解釈、私の勝手な解釈、宮崎駿の解釈、ナウシカの解釈を鵜呑みにする事ではなく、自分の頭で自由に考える事こそが肝要なのだ。
そして、皆が自分で考えた後、どう生きるかということが大切なのだ。
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いや~、調子こいて書きまくっちゃった
失礼いたしました
初めまして。風の谷のナウシカめっちゃ好きです。映画版ってナウシカの話の一部分で、漫画が映画版の続きになるんですよね!!兄が7巻セットの漫画を持っていたので、昔はよく借りて読んでいました。今は兄が家を出てく時に持っていってしまったので、図書館で借りる予定です。自分はどっちかっていうと、一部分の映画版の方が、好きです。
宮崎さんの人生観と照らし合わせて読むと、彼の人生が非常に深いものだったことだけは理解できます。
こちらの見解はほぼ大体当たりでしょう。
遠くをみるニヒリズムを説いていたようでもあります。はじめてその言葉を聞いたときは理解できませんでしたが、こちらではとてもよく考察されています。
この見解であれば、「戦争を起こすナショナリズムの象徴である」=「神」にもがき苦しんだ宮崎氏の苦悩を知ることができます。また自身が信じていた理想を説いていたもの(ソ連、中国)が実は一番の支配主義であったという現実を知り打ちのめされたことも。
それは、彼女がまるで愛しい人のように慕う王蟲(理想、共産主義「自身」)が、まさか人間の欲望と崖っぷちの世界から産み出された、犠牲をはらんだ虚像(人間の欲望、偽りの民主主義)であると知ったことと驚くほどリンクします。
正直、ナウシカを書きはじめた当時の彼には描けなかった、紅の豚以降の、いわば極度に方向転換された話であることが伺えるため、読者もそれについていけないのではないかと感じます。
ですが、彼はその偽りの民主主義=神=虚像を知ってなお、理想=生き生きといきる生を見捨てなかった。そう、漫画版ナウシカはそんな彼自身。
確かに私もナウシカは神になってしまった、と思います。作品にすべて納得したわけではありません。けれど嬉しかったことがあります。
彼やナウシカが、共産「党」としての真実を知り、その現実に絶望したとしても、彼等は理想を捨てなかったこと。
それは正しい結末とは言えないかもしれない。
人々はそんなに少なくない可能性で、血を吐いて死ぬでしょう。ナウシカが単なる無責任さでそれを伝えなかったとは思いません。何故ならナウシカは皇弟と意思は同じだったから。
そのことを伝えれば、人間たちは絶望し諦め虚無に囚われるか、もしくは暴動をおこし今までと同じ結果を選んだだろう。
そして自らの命を縮め、腐界に没する。だからこそ皇弟は神の伝導師となり、人々は止まらず、過ちを繰り返した。
(宮崎氏が宗教自体に寛容なのかはよくわかりませんが、なにかを信じる希望というものはまたたきには必要なのかなぁ。)
ともかく、ナウシカはそれ(宮崎氏としては戦争、欲望の連鎖)をたちきらねばならないという宮崎氏の思想の具現化だ。
そうなら、友愛を忘れ戦争という過ちを犯すことも避けねばならない(まぁ、清濁あわせもつと知ったナウシカがこの思想のままかどうかはわからないのですが)。
そして神ではなく自然(生命)として、きちんと生を生きるべきだと、そうするならこの結末は仕方のないことだと言える。
あとひとつ言えるとすれば、ナウシカ=宮崎氏は人という汚れは、星が選択するのならば滅ぶべきだと考えていたのかもしれない、ということ。
なぜかここに書く方も驚くほどこの可能性を書きませんが、私はこれが大きく、彼女の闇として存在すると思っています。
だからこそ、まだユートピアを信じていた頃の劇場版ナウシカは美しく優しく、私にとって漫画版より圧倒的に作品としては優れていると思わせるのですが。
漫画版は、よくも悪くも宮崎駿さんの人生の哲学の変遷を記した本であり、
だからこそ物語として完璧ではなく、そして完璧ではないから哲学として深いのだと、しみじみと思われます。
(哲学における完璧は、それは神、宗教になってしまうから。それを否定するという哲学はとても彼らしいと思います。)
私は彼を正しいとは言えませんが、それでも、糞みたいな民主主義を語る政治家たちより、理想を捨てず泥臭く訴えた彼がもっと好きになりました。
まぁ、劇場版ナウシカのナウシカとは別物でよかったと思います。だって、もう漫画版ナウシカは宮崎駿氏にしか見えないですから。(笑)
劇場版はそれともかけ離れた存在だと思うのです。彼女は人々の王女として、そのままの形で紡いでいって欲しい。結局宮崎流哲学を抜きにすれば、そのまま腐海とともに友愛と生きることは、漫画版と結果的には同じなのですから。彼女も、命として生きていく覚悟があると思いますし。(だから作品としては漫画版は蛇足だなーとも思っちゃうのですけど。漫画版も凄まじいけど、それでも劇場版はやっぱりすごいです!)
私見の形で述べさせていただきます。
・セルムとヴ王が立ち会っているから独断ではないと言う指摘に関して
ナウシカに関しても言えますが、一体セルムやヴ王はいかなる資格を持って
現人類の意思を代表していると言えるのでしょうか。
まずセルムは「火を捨てた者」であり、現人類の一般社会と関わりを断っています。
また、彼は清浄の地で現人類が生きられない可能性を察知しつつ、
それをナウシカにすら明かしていない。
庭園の主に暴露されて、初めてナウシカの追及に答えるほどの秘密主義者です。
もちろん、彼は清浄の地の真実を土鬼の人々に伝える気は毛頭ありません。
ヴ王に至っては土鬼戦役を仕掛けた「暴君」であり、奴隷狩りを行った責任者でもある。
土鬼の人々にとっては意思の代表者どころか憎むべき侵略者、殺戮者です。
しかも、彼は墓所に侵入するまでは、墓所との交渉を目論み、巨神兵に阻止されている。
極めて気まぐれなエゴイストなのです。その性格付けも充分行われているとは言えません。
正面からナウシカを擁護するのを断念した宮崎駿は、一種の「サクラ」として、
ヴ王に援護射撃をさせているのです。当然、ヴ王へのナウシカの応答や肯定はない。
逆に考えて下さい。
なぜ現実世界では没交渉もしくは無責任な人たちだけがナウシカの秘密を共有したのか。
ナウシカの同志的存在と言えば、クシャナ、チヤルカ、チクク、アスベルなどがいます。
彼らの共通項は「現実世界においてナウシカとともに善を追求してきた」ことです。
なのに、古くからの同志である彼らには一切、真実は明かされていません。なぜでしょうか。
ナウシカの思想は、現実に善を追求する人々によっては到底、理解され難く、
困惑や反発は必至であった。それを知るナウシカは、真実を明かすのを秘匿した。
そう考えるのが妥当でしょう。それはすなわち、宮崎駿の自信のなさでもある。
盟友にすら秘匿されたナウシカの破壊を独断と表現するのは、当然のことです。
・誰がナウシカの代わりを務めても、墓所を破壊したであろうと言う指摘に関して
少なくとも私は破壊を躊躇します。
墓所の技術に代わる技術を現人類が生み出すことは不可能ですし、
技術の実在は庭園でナウシカに施された施療で明らかです。
清浄の地に現人類が適応できない以上、墓所の技術の否定は種の存続の否定になる。
何より、私は他の人類から何ら墓所破壊に対する授権をされていません。
以上より、墓所の破壊は、ロマンティシズムに酔わない限り、通常の感覚では不可能です。
ナウシカですら「絶望の時代に理想と使命感からお前が作られたことは疑わない」と述べ、
墓所に理解を示している。
考えてみれば旧人類の計画がなければ、ナウシカたち現人類は存在せず、
ナウシカが墓所に対して抗議すると言う状況それ自体が存在しなかったのです。
我々は先行世代から、プラスマイナスを問わず遺産を継承し、その枠内で模索し、
次の社会の枠組みを作り上げます。
前世代の遺産の枠内から出発することそれ自体は自由の否定を意味しません。
先行世代の遺産の継承を拒絶することこそ、非人間的な行為で、破壊的なのです。
ましてや「どうせ同じ過ちを繰り返すから」などと言う自己決定権の放棄は、
ナウシカの主張にも反する。「苦しみや悲劇や愚かさ」は「人間の一部」ではなかったか。
人間の自由意思や尊厳を全面的に愚弄した議論には、とうてい承服できかねます。
・新人類の性格について
ナウシカは新人類の卵の破壊の際に、このように強い後悔の念を吐露しています。
「自分の罪深さにおののきます。
私たちのように凶暴ではなく、おだやかでかしこい人間となるはずの卵です」。
明らかにナウシカは、新人類それ自体に対して肯定的な評価を下しています。
新人類が「ロボット」であるなら、ナウシカがこのような罪悪感を覚える必要はありません。
また、現人類も旧人類によって、汚染に適応するよう創出された「凶暴」な鬼子であり、
鬼子であると言う点では新人類と変わらないのです。
むしろ新人類のほうが、本来の自然たる清浄の地に適応し得る。
その点で、オリジナルである旧人類に近いと評価し得るのです。
鬼子が、鬼子を「鬼子である」と言う理由で非難するのは滑稽です。
いかなる理由によって殺害が正当化されるのか。
種としてのエゴイズム以外では説明不可能でしょう。
また、墓派が「管理社会大好き」であると言う印象論は強く反論せざるを得ません。
授権されざるナウシカが独断で墓所を破壊し、しかも事後的にも真実を秘匿すると言う、
ナウシカによる「有徳者の管理」に対して強い違和感を覚えるのが所謂「墓派」です。
ましてや禅思想的な「悟り」は、ナウシカ個人が己の身を処する原理にはなり得ても、
他の人間の命運を巻き込む事態の正当化にはなり得ないのです。
私はナウシカの解説で用いられるアニミズムや仏教思想の濫用に強い危惧を覚えます。
それは「生命」と言う抽象的な価値の解釈しだいで、他者への支配を正当化するから。
個人の権利、自由と言った具体的な制度的担保を無に帰する危険性を持つからです。
「この星が決める」かどうかをナウシカが事実上決めてしまったと言う大いなる皮肉を、
我々はもっと真剣に考えるべきです。抽象的なロマンティシズムに逃げ込んで、
現代市民社会を支える個人的自由の倫理を否定することは、容認できません。
この作品は、国家や、制度や、産業社会による「管理」をひたすら否定すれば、
人間は自由になり得ると信じたナイーヴなロマンティストが、
幻想を壊され、極度の人間不信とディストピア肯定に陥るまでを描いた作品です。
ではいったい、何が間違っていたのでしょうか。
社会的な管理設計を、人間の自由の対立物と考える宮崎駿の思考枠組です。
ナウシカと言う作品は皮肉にもその破綻によって、国家、倫理、政治制度、科学技術、法、
と言った「管理」、我々を規定する、一見役に立たない概念枠組や、社会的設計の体系が、
人間的自由にとっていかに貴重なものかを痛感させてくれているのです。
ブログ大変面白く読ませていただきました、色々考えさせられることが多く興味深かったです。コメントも意見が色々あって、やはり皆それだけナウシカに何かひきつけられるものがあるのでしょ
↑の「ナイーヴなロマンティストが、幻想を壊され極度の人間不信とディストピア肯定に陥った」というのは明らかに墓所の主、というかその作成者の方ではないでしょうか?彼らが信じていたのは自分たちの科学技術なのでしょうが。
墓所の主を作った者たちは感情を持った何十億もの人間が溢れる世界が、自身が作り出した神によって崩壊したので、その原因は自分達の暴力的な感情によるものだと考えました。
そこで、汚染された世界を浄化した後、そんなネガティヴな感情を取り去った人間だけの世界へと移行するよう計画していました。
その世界の管理者であり、ある程度能動的に動けるのは墓所の主ただ一人、人間は詩と音楽のみ与えられてただ生きているだけ、何故なら暴力的な感情を取り去ってしまったから、自身の置かれている環境に対する不満も怒りも悲しみも抱くことも出来ません。
ただ一つの管理者に支配され、住民はそれに反抗することも出来ません、そもそも詩と音楽以外選ぶことすら出来ないわけですからこれは明らかにディストピアです。
私見なのですが、ナウシカが墓所の主を否定した一番の理由はこのネガティヴな感情を消去しようとしたことだと思います。墓所の主は世界がこれによって汚染されつくしたのだから、もう要らないというわけです。
しかしナウシカは怒り、嘆き、苦しみ、悲しみといった感情、汚れを否定すべきではないと考えています。何故ならそれらが無ければまた喜びや慈しみもといった無く、それらを含めて人間というものは成り立っているからです。
墓所の主の言うようにネガティヴな感情の無くなった人間が生み出されれば、確実に争いはなくなるでしょう。しかしヴ王の言うようにそんなものは、最早人間とはいえません、人類が皆ヒドラとなったのと同じことです。
別にナウシカは国家や制度、産業社会による管理を否定しているわけではありません。そんなことは作中一言も言わなかったし、トルメキアや土鬼を否定するような行動もとることは無かったです。
ナウシカが墓所の主、ついでに新人類の卵も破壊し、それを公表しなかったことについての批判は、ある程度的を得ていると思います、確実に可能性は減ったのですから。
ただしいくつかの擁護点というか、状況的に仕方の無かった部分は有りますのであまりナウシカを口汚く罵るのもどうかと思います。
墓に来たとき、ナウシカの目的は唾棄すべき技術を垂れ流す墓を封じることでした。これは真実を教えられようが変わらないことです。また庭園の時点でほぼ真実にナウシカはたどり着いてました。
この相手はヒドラですので、このままに放置しておくと恐らく計画は遂行され技術は流出しまくり、混乱は拡大し最終的にディストピアが出来てしまうのでこれは止めておかねばなりません。さらに相手はプログラムみたいなものですので話し合いをしようにも妥協点を探すのが困難、しかもナウシカが断った瞬間にこちらを攻撃してきた、これらのことからその時点で壊すのやむを得ないといえます。またこれらの事実をこの時点で土鬼に伝えても無用な混乱を招くだけで決していい結果にならないことは予測できます。
ナウシカは選択肢を奪ったのでは有りません、選択肢を奪おうとする墓の主を止めたのです。その結果人類がどうなったかは書かれていませんので、空想するしかないのです。庭園などから、もしくは自力で清浄環境への適応がなされ人類は救われたのか。あるいはそのまま滅んでしまったのかは読者に委ねられているのだと思います。
後、正直「墓派」と主張するのはやめたほうが良いと思います。「墓」は人間の感情を奪おうとし、そのほうが墓にとって都合が良いのか技術を無節操に垂れ流し戦乱を拡大させ、狂った計画の修正になんら有効な手を打てなかった出来損ないのコンピューターですので。
今読み終えたのですが、人間の卵が可哀想だと思いました
もし人類が滅びたらその責任の一端はナウシカにもあるのでしょうね
ナウシカは「そなたが光なら光など要らぬ」と言っていますが俺がこの世界の住民ならこの光は要りますねw
幽体離脱かなんかで腐海の果ての清浄の地を見たときも人類がもっと賢くなってたらここに来ようとかやたら上から目線だったもんね、ナウシカ。
セルムなんて腐海や王蟲が人間が作ったものだと知ったとき動揺してたしね。「王蟲を愚かな人間が作ったなど」とか言って明らかに見下してたし。人間が清濁備えた存在なら高貴な王蟲くらい作ったっていいのにね。やっぱ人間もやればできるんだな―こんな尊い生き物も造れちゃうのかとはならなかったね。あろうことか秘密にしておきましょうとか。清濁とか言いながら本当は人間は汚い存在であってほしかったんだよね。そうでないと森の人が選良でなくなっちゃうし。作中でもあんまり「清」の部分はとりあげられなかったし。
あと「凶暴性のない穏やかな人間は人間じゃない」の根拠がないんだよね。それじゃロボットだとかいう人がいるけどロボットの話じゃなくて人間を定義してほしいんだよ。そして客観的な根拠も。でもできない、精神とか心とか目に見えないから。だから観察できる範囲で他の動物と比較できるように定義する。すると生物学とかの人間の定義になっちゃうけどそれじゃあね。
ナウシカが殺したのは青い血を流す人間のようなものだから殺人じゃない、虐殺じゃない。アホか。作者はこういうところでも逃げ道を作ってるんだよね。せめて新人類の血も人間と同じく赤くしておけば「凶暴性のない穏やかな人間は人間じゃない」について盛り上がれるのにね。
漫画版ナウシカが全然理解されてない(多くの知識人にさえ)のを残念に思っていたので、あなたが書かれたことを見て嬉しくなりました。
すでにいろいろ書かれているのでひとつだけ私の意見を。
ナウシカは地球上に人間が絶対にいなければならないという考えを持っていないのだと思います。もちろん自分は人間であり、人間に対して愛着はあるでしょうが、自然が浄化された時にもし今の人間が滅ぶのなら、それも仕方がないと考えているのではないでしょうか?
読み違えると大変危険な考え方ではありますけど、ナウシカは地球を人間のものだとは思っていないはずです。
少なくとも墓所は、「生き残るためにいくらもなかった」手段を選び、
汚染に適応するナウシカたち現人類の創出に成功し、生存のための計画を立てています。
また、清浄の地が広がってきた時に汚染に対応する術も持っており、
これは庭園の持つ技術で実証されているし、ナウシカも認める事実です。
よって墓所を「幻想を壊されたナイーヴなロマンティスト」とは言えませんね。
墓所とナウシカの対話は、ときどき例に取り上げられますが、
実は後半の「真実を語れ」のくだりで庭園の主の顔が登場してから、
墓所の説明をナウシカが一方的に拒否し、自らの価値観を語るだけのものになっているのです。
この作品の終盤は、このような現実的な解決策をなぜナウシカが否定するか、
に力点が置かれています。しかし、それが説得力に著しく欠けるのです。
象徴的な問題を一点だけ挙げておきます。
ナウシカによれば「清浄と汚濁こそ生命」であるはずです。
しかし実際のナウシカは「汚濁」のない清浄の地を守るために躍起となっている。
清浄の地の拡大を邪魔させないために、蟲使いたちに嘘を告げてまで。
自己矛盾もここに極まっています。
この嘘に対するエクスキューズは
「腐海の胞子はたった1つの発芽のためにくり返しくり返し降り積もり、
無駄な死をかさねる」「私の生は10人の兄や姉の死によって支えられた」
などというものです。しかし、この論理は明らかに破綻しています。
なぜならこの場合、ナウシカが「死によって支える」ことを要求する対象は、
具体的な人間ではなく、あくまでナウシカが個人的に思い入れる「清浄の地」だからです。
「清浄の地」を「国体」「社会主義」「自由市場経済」など、多くの犠牲を要求した抽象語に置き換えれば、
ナウシカの論理の危険性はすぐ明らかになる。
達成されざるユートピアのために、現実の人間の無限の犠牲を容認することは不可能なのです。
要するに、ナウシカにとっては物語の序盤から真に重要だったものは、
現人類の生存でも尊厳でも何でもなく、清浄の地だったのです。
現人類が肺から血を噴き出して死ぬと知ってもなお、ナウシカはユートピア信奉を捨てきれない。
だからこそ、現人類が「死によって支え」るべきだ、という信じ難い正当化を行うのです。
ですから「ナウシカも努力したのだから、許すべきである」
という弁護は成り立たない。なぜなら彼女の努力は一貫して自らの勝手な理想に向けられ、
そのために現人類が滅亡の淵に瀕しても構わない、という恐るべき発想に立脚するから。
この点が、少なくとも「改善」を試みた神聖皇帝や墓所とは根本的に違うのです。
何より、「この星」の意思と、ナウシカの意思が一致する保障など、どこにもありません。
誰がそれを保障するのでしょう?保障など原理的に不可能です。
あえて保障するとしたら「人間」である現人類しか、意思の表明者は、あり得ません。
地球環境の保護は、あくまで「人間の価値観」として生み出した理念なのです。
確かに、「墓所の思い通りにならない」というナウシカの宣言は、
高度な現代の管理社会に鬱屈する一部の人々にはカタルシスを与えるのかも知れません。
しかし、破壊の後に来たる理想が、実際は死の地である「清浄の地」であることを思うとき、
少なくとも、人権、人道、民主主義、科学的発展、社会保障などを実現するために、
試行錯誤を繰り返しつつ誕生した「制度的管理」を否定することは、到底出来ないのです。
この作品は、既存の制度と向き合いながら前に進んできた人間の営みを否定し、
既存の制度と、制度の中で現実に生きる人間を否定し去ったという点で、皮肉にも、
ユートピア思想や現代社会批判が陥りがちな陥穽を示してくれているのです。
通りすがりの者です。読ませていただいて不思議なのでちょっと書きます。
墓派の方たちは墓とナウシカのどちらが正しいかという論点で話されているように思うのですが、そこじゃないんじゃないかなと思います。
ナウシカは自分ももちろん含む不完全な人間の手から星に決定権を取り戻しただけではないですか?
葛藤し続ける彼女は自分の考えが完全に正しいなんて思っていないでしょうし、自分も手を加えられた存在と知っているのだから。
前の方が書いていらっしゃるように、人間が生き残るかどうかも含めて星に託すということですよね。
墓派の方たちは、人間が生き残ることを必要絶対条件と考えるところから考えていらっしゃるから、ナウシカの判断が間違っていると思われるのではないでしょうか。
それにしても、頭脳明晰な方たちがコントロールされても生き残ることを望む傾向が強いように見えるのは恐怖です。
わたしは自分より他のどんなに賢い人間より星の決定を支持します。
いろんな方の意見を読んで、本当にいろんな理解の仕方や考えがあるのだなと驚くくらいです。でも恐らくは、そうした多様性こそが生命や世界にとって重要なのだろうとわたしは思います。
ナウシカが「腐海の胞子は・・・」「わたしの生は・・・」と言うのは、「これまでもそうだったんだから、これからも死によって支えればいい」ということではなく、「生命はそのような強靭さをもって生き抜いてきた、きっとこれからも(人的管理をされなくても)その強靭さで生き抜いていけるという可能性を信じて未来を託す」いうことではないでしょうか。
ナウシカが重要と考えていたのは「現人類の生存でも尊厳でもない」というご指摘がありますが、彼女は地球を人類のものともおそらく思っていないのだからそれは当然でしょう。
「清浄の地」にこだわっているというのはそれが自分の求めるユートピアだからではなく、植物が光に向かって伸びるように、自然な生命の方向性はこちらなのだろう、と考えているということでしょう。だからこそ、自分たちが清浄に耐えられないと知ってもその方向性を変えないということではないですか?
わたしからするとそれはどうみても私利私欲を越えた境地だと思うのですが、そうではない理解をされる方もいるのだなと、読んでいてとても驚きました。
でも、多様こそが担保されるべきともし考えるとした場合、こうした意見の対立は不可避です。
「清浄と汚濁こそ生命」という意味は、そうしたことではないかと考えます。
それでも「じゃあ戦争し続けるのか」「野蛮でいいってことか」というのではないと思います。
生命はたくさんの犠牲をはらっても自らの生命力で環境に順応し生き抜いてきた。進化し続けてきた。これからも無駄に思えるほどの努力や死をたくさん重ねながら、自らの力で進化し続けていく、ということではないでしょうか。
たとえば人類は長い長い時間をかけて、武力によってではなく対話によって問題解決することを学んできました。今も学んでいる途上です。
話し合いによって問題を解決したり、合意形成をしてくことはとても時間がかかります。まるで時間の無駄のようですらあります。でもそれは無駄でしょうか?大切なことではないでしょうか。「これが正解だ。これ以外は不正解だから、そういう考えを持ってはいけない」といった軍国主義的な管理は、それが一見どんなに美しく正解に見えても間違っているとは思いませんか?
ナウシカは神ではありません。もちろん完全ではありません。
わたしたちは誰一人、神でもなく完全でもありません。
だからこそ、多くの試行錯誤を重ね、対話を重ねていくことが重要で、それはきっとどんなに無駄に見えても無駄ではないのだと思います。
生命は一点の曇りもないいただ美しい光ではなく、闇のなかで瞬く、そして闇を内包した光として運命づけられた存在なのかも知れません。
それでも自らの運命を受け入れ、血を吐きながらも繰り返し飛び続けることが生命の美しさであり尊厳だと、ナウシカの物語は伝えてくれているように思います。
墓が完全な自律システムであるならば、墓は、シュウにある必用はなく、むしろ腐海が生まれて1000年の地にあったほうが、人類を取り替える計画に最も適していると想定できる。人間に対しても長期保存ができるようなシステムを持っているため、他の生物も墓で管理維持ができるはずだ。したがって、墓の貯蔵庫も圧縮した形で保存できるはずである。事実、墓の貯蔵庫は、閉じた完全な自律システムである。
しかし、墓を構築した者は、そうしなかった。これはなぜか。個人的には、墓にはなんらかの邪悪な意志が隠れているような気がしてならない。
漫画から表現された事実だけをおってみる。
(1)墓の中には、教団の選民が住んでいる。かれらは不死の生命体で、墓が表す文字列の解析を行っている。文字列の解析するのに、教団は時間が足らないと述べている。
これにより、彼らは、旧世界の知識を与えられずに、構築された生命体であると言える。
(2)教団は、外部の人間の協力を必要としている。
これにより、墓は、完全に自律したシステムではなく、外部から、何らかの物が必要である。外部の物は、ヒドラや蟲では供給できない物であると言える。
もし、蟲やヒドラで可能である場合、自分の回りを腐海にすればよい。
このことから、墓を構築した集団と、墓の回りに住む汚染適応人類を構築した集団は、まったく別の集団ではないと考えることができる。しかし、ドルクの人々だけががこの対象であり、エフタルの民やトルメキの民は、別の集団が構築した可能性は、否定できない。
腐海を広めるためだけに、構築されたとすれば、エフタルやトルメキアの民も同一の集団により構築された可能性が高いと思う。
少なくとも、ドルクの人々は、墓を維持管理するために構築された汚染適応人類である見ることができる。これは、一種の墓の奴隷である。また、ヒドラ、森や蟲といった生体を利用した自律システムを構築できる技術があるにも拘らず、あえて利用しないで、奴隷や教団を利用する意図は、ある意味邪悪であると言える。
ナウシカは、取り替える時に奴隷が必要であると墓の主に聞いているが、実は、維持管理に既に奴隷が必要であるため、ナウシカの行動は、墓を破壊することによる奴隷開放であると言える。
奴隷をわざと利用するよな墓の構築者は、清浄な世が訪れた時、汚染適応奴隷を変更するだろうか?
墓が自律システムで腐海の土間真ん中にあり、汚染適応人類が腐海を広げる目的で構築されたの場合でも変更を行うだろうが?
私は、否だと感じてしまう。汚染適応人類は、目的を持った生体であるため、清浄化した後には必要がない。最も一部は、奴隷として必要として存続させる
可能性はある。
ナウシカの世界について、私たちはここで提起されている問題を現代社会の中に見出してゆくとするなら、それは人と自然界を遺伝子操作によって作り変えて支配する人々に対する抵抗運動と捉えることができると思います。たとえば、今日の種子法によって、自然界の生産物をコントロールして支配したりする企業が存在しています。またデザイナーチャイルドやキメラの問題も含まれるのです。
遺伝子操作をするということは、その種の運命を根底から決定してしまう宿命をその生き物たちに背負わせるものです。そして、そのように地球上の種を操作して支配コントロールする知性体が現実に存在して、その知性体は、自然界を支配してしまう。自然や人の運命を支配することができるのです。そしてこのような遺伝子操作文明が過去に実際に存在していて、それがギリシャ神話の中に顕されているのかもしれません。
そしてこのような現実的な推測できる人と自然界の遺伝子操作文明の全体像を把握した上で、その中でナウシカの選択したことを現実的にとらえることが必要となるのです。
現実的に遺伝子操作の倫理的問題をナウシカの世界は、問題提起しています。
もし人類の遺伝子が本来は12本あるのに、2本に遺伝子操作されて、本来の人間ではない改造された、でき底ないの人間が、あなたであり、遺伝子操作する知性体から、もうできそこないはいらないと消去しますと言われたら、あなたはどうするのだろうか・・・・この問いを自分自身に問うことがナウシカの問題提起したことであり、その時にあなたは自分の生命をどのように感じるのだろうか・・・それは思考ではなく、感情であり、論理ではなく感情なのである。そしてその時の感情を土台としないかぎり、ナウシカの問題は、わかないのではないだろうか。
久々に原作を読み返し、偶然このページに辿り着きました。
ブログ主さん、コメント欄の皆さんの考察や解釈を読ませて頂きました。
大変面白いですし、考えさせられます。
私は墓派でもナウシカ派でもありませんが、気になる箇所がいくつかあります。
論点又は視点が「人間」「人類」「ヒト」という一生命体の種族に行き過ぎかと思います。
旧人類も現人類も「人間」の視点から世界を見がちというか…ストーリーの展開上か、前半〜中盤まで登場していた他の種族(蟲や腐海の植物)が後半には出てきませんよね。
オーマや庭の主ヒドラが出てきますが、言うなればオーマはナウシカ派、庭の主は墓派です。
蟲使いに真実を伝えない。
ほぼ独断的に旧人類を滅ぼす前に、一度王蟲=人間以外の生命体に相談すれば良いのにと考えてしまいます。
王蟲も同じく造られた人工生命体であり知能があります。
ナウシカなら念話も出来ます。
人間だけで判断を下す前に、同じく造られた他の生命体と相談すべきと思います。
ナウシカが王蟲を敬っているのなら尚更。
一匹の王蟲に相談しても、王蟲は個は全、全は個の生き物ですし。
博愛のナウシカなら出来たはずなので、終盤の描写がナウシカを独裁者に見せるのかなと。
そういう人物ではないはずなのに。
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
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こんにちは。
最近ナウシカを読み返したので、ふとタイトルで検索してみたところ、貴ブログを見つけ、前エントリーと合わせて非常に興味深く読ませていただきました。
大変明晰な論理で、作品に対しての見方をかなり整理することができました。
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僕自身は今生態学者を志す者として勉学に励む毎日ですが、そのような視点から見ると、”予測可能性”がキーワードになっているように感じます。
ナウシカの主張は現代生物学における生命の見方と驚くほど一致しています。一方、墓の主の主張やそれまでしてきたことにあるのは、”生態系は予測可能だ”という前提です(これは研究者がしばしば陥る誤謬でもあるかもしれません)。
「多少の問題の発生は予測のうちにある」「人類は私なしには滅びる」というのは墓の主の主張ですが、これが物語内で非常に批判的に提示されるのは、これらの主張が”予測可能という傲慢”を含んでいるからです(同じように、物語中にしばしば登場する虚無が抱えるのは、実はネガティブな未来の予測であり、墓の主と表裏一体の傲慢さだと思います)。
このように捉えると、環境問題という視点から見えてくるナウシカと墓の主との対立軸は、「生命に対する真っ当な理解vs.予測可能という傲慢」というものではないでしょうか。これは自然保護の現場で専門家が感じている葛藤と同じだと思います。
宮崎駿が凄いのは、専門家よりも鋭い指摘がしばしばあることです。日本が世界に誇れる思想家だと思います。
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乱文・長文失礼致しました。これからも訪問させて頂きたいと思います。