廣松渉哲学論集 (平凡社ライブラリー)70年安保のころの学生運動が残した知的な遺産はほとんどないが、当時の教祖的な存在だった廣松渉だけは、戦後の日本を代表する哲学者として歴史に残るだろう。当時、彼の講義には、他大学からも多くの聴講生がやってきて、いつも500人の大教室に立ち見が出た。その講義も、原稿なしで古今の文献を詳細に引用する濃密なもので、1回の授業で本1冊分の内容があった。

本書は、廣松のデビュー作(卒業論文!)である『世界の共同主観的存在構造』(第1章)を中心にして、彼の代表的な哲学論文を集めたものだ。彼のわかりやすい講義とは違って、文章は一見むずかしい漢字が多くて読みにくいが、彼の認識論の基本である「四肢構造」はきわめて単純で、いわばそれを公理系として展開する数学の論文のように書かれているので、基本的な図式が頭に入ると意外にわかりやすい。

廣松はマルクスの研究者としても知られているが、そのマルクス解釈は「階級闘争」や「弁証法的唯物論」などを中心にしたスターリン的な解釈を詳細な文献考証にもとづいて否定する一方、マルクスを「人間主義」的に解釈する疎外論も否定するものだ。最近はやっている「プレカリアート」の類の話も、彼がとっくに葬った左翼的センチメンタリズムにすぎない。マルクスは「分配の平等」を求める社民党の改良主義を激しく攻撃したのである。

廣松のマルクス解釈はかなり強引で、彼の四肢構造論もポストモダン派からみると、古臭い「ロゴス中心主義」という批判をまぬがれない。しかし彼の図式を通してみると、プラトン以来の西洋的なロゴスの歴史が実にすっきり整理され、カントやヘーゲルを読む前に本書を読むと、その論理が頭に入る(いま思えばそれは廣松流の理解だったのだが)。

マルクスの唯物論はレーニン的な素朴実在論ではなく、弁証法的唯物論などという言葉もマルクスは使ったことがない。彼の哲学は、人間を社会的諸関係のアンサンブルととらえる一種のホーリズムである。ポパーはそれを「歴史主義」と批判したが、その後の分析哲学はクーンやクワインのようにホーリズムに回帰している。そして最近の脳科学が示すのも、全体的なゲシュタルトの構成が部分の知覚に先立つということだ。

ただ本書は、あくまでも廣松の認識論であり、彼のマルクス解釈とは独立に読まれるべきだ(生前の彼も「私の本業は哲学で、文献学はスターリン主義者の歪曲をただす清掃作業のようなものだ」といっていた)。いま行動経済学が「認知構造」から再出発するとすれば、認識論の基礎的な勉強は不可欠だろう。本書の第1章は、今なおその超一流の解説書である。