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2006年12月11日 (月)

鉄人28号(映像進化論)

題名:「鉄人映像進化論」

●同じ原作から
 4回アニメ化された作品

 筆者は昭和33年生まれ。『鉄人28号』は実写版には間に合わず、マンガを読み始めたときは月刊誌の時代の残滓はあったが、テレビアニメの影響で『鉄人』を知った世代である。
 以後40年余りアニメを観続けてきた経験の中で、都合四回にも及ぶ『鉄人28号』のアニメ化に関して「それぞれの違い」に深い興味をもっている。実を言うと最初のモノクロ版『鉄人28号』(TCJ/現:エイケン)だけは、夜8時から放送という“オトナの時間”だったため、オープニングだけしか見せてもらえず時間帯移動後と再放送でフォローしたのだが、おおむねリアルタイムで4つの作品を楽しんできた。
 アニメ研究という立場からすると、同じ原作からアニメ化された同じ作品が時期に応じて諸々変化し、「時代の痕跡」が刻まれているのがサンプルとして貴重だ。中でも内容以前にアニメ表現自体が変遷していくのが、非常に興味深い。
 そこで本稿では、「鉄人らしさを体現するアニメ表現」とはいったい何か……そこに着目して論を進めてみたい。まずは昭和30年代末の鉄人原体験をおさらいした上で、そのときの価値基準をベースに各時期のアニメ作品から、それぞれ時代に属する表現を浮き彫りにし、それがいかに鉄人を描き分けてきたか、軌跡を追うこととしたい。

●鉄人とアトムの間に潜む
 現実との地続き感の有無

 最初のモノクロアニメ版『鉄人28号』は1963年10月に放送スタートした。虫プロダクションによる国産初の30分連続テレビアニメ『鉄腕アトム』は同年1月の開始で、これが爆発的人気を博したことから即時立ち上げられた数作のうちの目玉であった。
 当時、横山光輝の原作はまだ月刊誌「少年」に連載中で、手塚治虫の『鉄腕アトム』と人気を二分していた。「少年」は筆者の記憶では暗いムードが漂った雑誌で、特に『アトム』の方は毒ガス風船で人が死ぬという陰惨な話などをやっていて、就学前後の子どもには怖くて買えず、明らかに「お兄さんたちの雑誌」だと思えた。
 だからアトムも鉄人も、原作に接したのは後に出たB5判単行本のカッパコミクス版である。同様に当時の子どもはアトムと鉄人に平行して接したから、当然のように「比べっこ」が始まる。同時の筆者としては、鉄人の方への興味がはるかに勝っていた。その判断基準は実に簡単。アトムが「ウソの存在」なのが、どうにも解せなかったのだ。たとえば「空を飛ぶ」能力ひとつとっても、鉄人はロケットをアタッチメントとして装備しているから科学的に根拠があるが、アトムは長靴が消えて飛行するし、腕がなくなって焔を噴射したりすることさえあって、絵としてごまかしがある。
 この違いは子どもにとって大きい。鉄人がマジンガーZ、ガンダムと後継を生んでいるのに対し、アトムがワン・アンド・オンリーとなっている理由がもしあるとすれば、こうした部分に意外に本質がありそうだと、今でも思っている。

●金属の質感を連想させる
 映り込みの表現

 鉄人の方が好きになった理由の中にはもっと決定的なものがあり、それと本稿の「アニメ表現」にも密接な関係がある。絵を描いたとき「似るか似ないか」という、子どもにとっては実に切実な命題に関わる記号である。
 当時、父親は会社(重工業系)からトレーシングペーパーをみやげによく持ち帰ってくれた。そのころのコピーは「青焼き」という湿式だったため、書類も図面もすべて透過を前提にした薄紙が基本だった。方眼罫のついた半透明の紙をマンガの上に乗せて鉛筆で写しとる。そうすると、鉄人は(子どもの目には)そっくりと思われる絵がそこに出現してくれた。だが、アトムの方は似て非なるものになり、哀しい気持ちにさせられてしまった。この気持ちがアトムと現実の距離感をを加速させ、自分と縁遠い「ウソ」が描かれている思いを強くさせていった。作品の善し悪しの定義は人により違うだろうが、自分という内面を介してもう一度外に出したいという欲望に根ざした部分は大きいはずだ。その出し入れがアトムではかなえられなかったのだ。
 鉄人の絵を写して手を動かし観察していく中で、決定的なことに気づく。それは鉄人の表面に沿って描かれている「黒い縞模様」の存在である。これがあるだけで表面が金属に見えて絵が似てくることが、6~7歳の自分には不思議で不思議で仕方がなかった。いったいこれは何なのか?
 一般的には「映りこみ」と呼ばれているようだが、かなり後になって高校生のころ、これを説明した名表現に出逢って膝を叩く。それは『ルパン三世』の車のキャラクターシートに大塚康生さんが書いた注記だった。「圧縮された風景の投影」……なんと簡潔にして本質に迫り、納得できる文言だろうか。

●平面と立体の差に
 起因する印象の違い

 鉄人の金属感は、当時の魔法瓶の記憶とも密着している。フタを指で引っかけ開閉するポットタイプのもので、去年『ウルトラQ dark fantasy』の「カネゴンヌの光る径」で久々に目撃して涙した。この頭部と鉄人が酷似していると感じていた。頭部だけでなく、円筒形のボディも鉄人の寸胴と似てると思っていたし、のぞき込むと保温のための鏡面処理がしてある内部に「例の黒い縞」が出現して、見飽きなかった。こういう実例と暮らしをともにしているからこそ、「鉄人の方がリアル」という皮膚感は頑強になった。
 鉄人の関節の黒い部分は、エッジが薄く白く描かれている。これは金属が反射した光が集中して輝く「ハイライト」の表現だ。これも「鉄」の表現の根幹である。黒い縞模様と白いハイライトのセットは鉄人の金属としてのアイデンティティを主張し、現実世界と橋渡しする上で欠かせないものだった。モノクロアニメ版もそこは忠実に再現していた。
 ちなみにアトムの存在感はどうだったか。実は好きだったのはアトムや作品はなく、明治製菓のマーブルチョコレートのオマケ「マジックプリント」だった。その転写式のシールは、表面がツルツルしている。つまり「アニメのセル」を質感ごと複製したものと、子ども心にとらえていた。これも「最初からこの世にいないものだからセル画を模擬するしかない」というアトムの非実在感を裏づけるものと思っていた。アトムの髪の毛のトンガリがどの角度から観ても重ならないのが何より平面的で非現実なことを象徴する。対する鉄人は、「あり得るものを、たまたまマンガという形式で写しとっている」「もしかしたら、(いつかは)実在するかもしれない」という、現実との地続き感が魅力だった。
 そう考えていくと、当時の鉄人グッズの中で一番人気はグリコ(キャラメル)のおまけ、つまり現世に実在する「立体物」であったことにも得心がいく。平面のマジックプリントと好対照を成していたからだ。こうしたグッズがリアル・バーチャルという点で子どもの心をどうとらえていたか、より深い検証が必要であろう。
 以上のように「アトムと鉄人」の間には、平面と立体、「ウソとして紙の中に閉じているもの」と「現実と往還可能なもの(を一時的に紙にしたもの)」という決定的な印象の差がある。それは当時の子ども(筆者)にも見抜かれていたのである。もちろんそこに優劣があるわけではないし、鉄人にも絵によるウソは山ほどある。だが、こうした本質の印象の差を浮き彫りにする論考は、もっと重ねられて良いように思う。

●ハンドトレスの線が
 シャープなモノクロアニメ

 さて、このように就学前後から絵の表現や作品ごとの区別にうるさかった(しかも40年以上経ってもいまだに同じようなことにこだわってる)筆者にとって、『鉄人28号』のアニメ表現がどう変遷していったか、話題を移していこう。
 まず、モノクロ版の『鉄人28号』については、ここまで述べて来たように金属の映りこみとハイライトを質感として記号的にセルへ移植したものだった。当時のアニメ用セル画は「ハンドトレス」と言って仕上げの部門にペインターとは別にトレーサーという職種が主線を描いたものだった。動画は鉛筆で描かれるが、その線をペンでセルへ引き写す。これによって、筆致が均質でなめらかになる。パソコンソフトの"Illustrator"でベジェ曲線によって描かれたシャープな線に近い。
 アニメ版でも決めポーズではペンの美しく細い線が、鉄人の表面の「映りこみの黒」と「ハイライトの白」を鋭利に見せて、金属っぽい感じをマンガ版より強調するかのように魅力的に見せていた。
 ただし、モノクロ版の『鉄人28号』をアニメーションとして評価しようとすると、黎明期という事情を差し引いても、かなり厳しい。動きが何より稚拙なのだ。『アトム』が劇場アニメーションのようにフルアニメーション(1コマ、2コマ打ち)というスムースな手法をやめて3コマ打ち(秒間8枚)を基本としたことは有名だが、鉄人がロボットの動きに6コマ打ちや8コマ打ちを用いたのはあまり知られていないのではないか。
 巨大なメカニズムを重々しく動かすという命題は、この時期のアニメ技術にはあまりにも荷が重かったのだ。物理法則を考えると、巨大な物体はゆっくりと動いて見えるから、特撮作品でも巨大なものはスローモーション撮影される。だがアニメは錯視・錯覚の世界だから、緻密にゆっくり動かすのは自殺行為だ。せめてコマのタイミングをあけることで動きをゆったり見せる作戦と推察するが、鉄人が短距離連続ワープをしているようにも見えてしまう。
 そんな鉄人がひときわ印象に残る瞬間は、なんと言ってもファイティングポーズ。正太郎くんのリモコン操縦の電波を受けて、「バンガオー!」と怪音を発する瞬間だ。リモコン電波の「クピーーピュギッギッ」という音との相乗効果で、そこにリアリティが発生する。白と黒の火花をパカパカと置き換えているだけの鉄人のバックは、強烈な輝きに見えた。この鉄人の機械効果音は実在感の大きな根拠になった。だが、後年の作品では怪獣の鳴き声(しかもテレスドン等、固有名詞がわかるもの)に差し変わって残念であった。

●80年代によみがえった
 「太陽の使者」

 『鉄人28号』がブラウン管に復活するのは、1980年のこと。単なる作品の復活ではなく、レトロヒーローの大量復活に載ってのできごとであった。『鉄腕アトム』や『あしたのジョー2』も同じ読売系列で同時期にオンエアされているし、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』も前後して復活している。70年代初頭にも『のらくろ』や『月光仮面』がアニメ化されたこともあり、世代の循環期がまた来たということだった。
 ただし、このときのリメイクは懐かしさを誘うためのものではなく、その時代の子どもにロボットのシンプルさを商品として訴求するためのものだった。メーカー主導で鉄人本体デザインをシェイプアップし、「重合金」という鋼鉄の重々しさを金属の装甲パーツで再現する玩具が発売された。もっとも衝撃的な違いは「目玉」がなくなったことで、それが時代の差であろう。この作品と鉄人は「太陽の使者版」として人気を博した。
 さて、アニメ化ではどのような表現がとられたのか?
 画面を見ればすぐわかる通り、金属の質感とアクション表現がモノクロアニメ時代とはまったく違ったものとなっている。この時期は1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによるアニメブームのまっただ中だった。そんな機運の中で、1979年の劇場版『銀河鉄道999』の戦闘シーンを手がけたアニメーター金田伊功が、アニメ雑誌等で脚光を浴びた。これが折からのSF映画ブームの追い風もあって、メカニズムやエフェクト(焔や光、煙、爆発など)の表現にもスター性があるというパラダイム転換につながる。
 この流れの中で「太陽の使者版」の前作にあたる『ムーの白鯨』で画期的なことが起きていた。第1話のエンディングに金田伊功が「メカ修正」としてクレジットされたのだ。「修正」とは本来は作画監督の作業だから、実戦闘機がスクランブル発進し交戦、ビームに貫かれて爆破四散するというメカ戦闘シーンを金田が通常の作画監督作業と分業して担当したわけだ。この明言化は画期的な出来事だった。
 以後、この分業は「メカ作画監督」という専業化へ発展する。21世紀の現在では現実世界が舞台のギャルゲーム原作作品まで「メカ作監」が立っているくらいだが(医療器担当らしい)、80年代初頭では大事件だ。実写映画でいえば本編監督の他に「特技監督(特撮監督)」が立ち、ミニチュアや合成などを取り仕切る。ついにアニメにもそういう専門職が発生したということだから、後世への影響は大きい。
 「太陽の勇者版鉄人」は、ちょうどメカやエフェクトがアニメの集客の求心力に即応する変化の時期に現れた作品なのだ。

●メカ作画監督制度の勃興と
 鉄人のアニメ表現

 『ムーの白鯨』第2話以後、メカ修正は金田作画の流れをくむ亀垣一と本橋秀一のコンビにバトンタッチされ、そのままの布陣で制作に入ったのが「太陽の勇者版」だった。
 メカ描写で特徴的なこととしては、やはり金属的質感をもった表面処理が真っ先に浮かぶ。金田伊功のメカ描写の特徴のひとつに、独特のカゲ・ハイライトのつけ方がある。自家用車や新幹線など身近な大型メカの表面を観察してみれば、光沢や反射した風景は曲面に沿ってはいるが均質でなく、鉄板の微妙な成形の歪みにそってうねりをもっていることが見てとれる。
 前述の“圧縮された風景の投影”指定もこのうねりを意識していたが、金田伊功による処理はもっと大胆に、波打ったような光とカゲを塗り分けで指定したものだった。少し後に金田モドキと言われるデッドコピーが業界に蔓延したとき、「ワカメが貼りついたようだ」と批判も集めたが、この時点では平板でセルの実寸にしか見えないことも多いアニメメカを、立体的かつ巨大に見せる手法のひとつとして、充分な効果を生んでいた。
 その流れで、独特のうねりと複雑なシェイプを持った光沢とカゲを駆使し、ロボットパーツの円柱や球面をベースにした体躯にそって金属感と立体感を表現したのが、「太陽の勇者」版鉄人のアニメ表現と言える。
 本作はアクション表現にも見る部分が多く、金田伊功や友永和秀、はては宮崎駿まで作画に参加して、鋼鉄のロボットが格闘するネイティブな魅力にあふれている。語るべきところも満載だが、紙数の関係でここでは割愛させていただく。

●90年代に、鉄人は
 レトロから二世代へ……

 数えてみると鉄人がアニメで復活するのは十数年周期である。
 次の作品は1993年の『鉄人28号FX』。「太陽の勇者版」がアニメ新技術で原点回帰を目ざしたリファイン作品だったとすると、これは「二世代アニメ」を志した作品と言えるだろう。
 それも時代の要請であった。90年代初頭はアニメ業界の世代が一巡した後を感じさせる企画が数多く出た時期でもある。ロボットアニメでは「勇者シリーズ」や「エルドランシリーズ」、スーパーデフォルメ的な作品など児童層中心の作品が増加し、『美少女戦士セーラームーン』で女玩(女子向け玩具)がブームにもなっていた。
 そこに登場した「FX」は、驚きの人物設定で話題を呼んだ。かつて半ズボンで拳銃を撃っていた少年探偵・金田正太郎が中年になって登場、主人公はその息子・金田正人という、ある意味正統なる「続編」としてスタートしたのである。これもまた現実世界の反映だった。モノクロ版鉄人を楽しんだ世代は、金田正太郎と同じく当時30代となっていたからだ。鉄人を観るとしても親子2世代というケースの方が多い。
 結果として本作では、中年となった金田正太郎も初代鉄人を操縦し、親子で鉄人をコントロールする二世代共闘が描かれている。それが本作でもっとも興味深いことだ。
 「超電導ロボ」として誕生したFXは、「武器を内蔵・携行しない」という鉄人の原則を忠実に守ってデザインされた。ただしプロポーションは逆三角形のマッチョに大幅変更され、装飾的な凹凸に充ちたディテールも増加した。肩アーマーが張り出し、各部ユニットが複合ブロックのように噛み合った構造的なボディは、明らかに『機動戦士ガンダム』以後のリアル系、プラモデル系のデザインラインの流れにある。そのためか、初代鉄人と並んだFXは悪役にも見えてしまうときがある……。同時代の複雑なロボットを見慣れている子どもには、あれで良かったのかもしれないが。本作のブラックオックスも複雑なデザインとなり、変形を行うようになった。FX自身も飛行のために変形鳥型メカを背中に装着、変形合体のプレイバリューを鉄人原則ギリギリで備えた機体であった。
 作画表現的には、金田アクション系が一巡して作法となった時期のもので、ときどきハッとするようなシーンも少なくなく、見どころも多い。
 金属の質感表現的には、「太陽の勇者」でも行われていた三段階での塗り分けが、必ずと言って良いほど入るようになり、画としての情報密度が高まっている。驚くべきことに、初代鉄人の表面処理も変更されているのだ。かつての黒いベタカゲが普通のカゲ(2号落ち、つまり絵の具の明度を2段階落としたもの)になった上に、ハイライト(白ではなく表面色の系列のもっとも明るい色)が入るようになった。そして全体の色が原作カラー画稿を参考に、ブルー系の暗い方に指定されたため、その分モノクロ時代よりも押し出しが減ってしまった。これは脇役になったことも合わせ考えると正しい措置かもしれない。
 FXの方は、身体全体にディテールが多くなった分だけ、金属板装甲の感じが減じている。むしろディテールのエッジに沿った面的カゲの積み重ねがボリューム感を醸し出すという表現になっていて、これもまた90年代前半という時代を象徴したものかと思う。

●最新作、デジタルが
 可能にした色味による質感表現

 さて、最後は最新作。まだ記憶に新しい2004年の『鉄人28号』についてだ。
 すでに語られているとおり、本作の最大の特徴は原作の発表年代である昭和30年代初頭の風景を再現し、一種の「時代劇」として見せることにある。そして、戦後の混迷期を抜けだし、高度成長へと到る熱い時代の原風景を確認するという、『プロジェクトX』と通底する意図があった。
 原作に登場する名ロボットたちは、忠実なデザインで画面に登場。作風には最初の鉄人世代が働き盛りを超えつつある年代の感慨をこめたものがが漂い、リファインとも二世代とも違う、2004年という時代性を射程に入れたリメイクとなった。
 アニメ表現という観点からすると、『FX』と約十年しか離れていないのに抜本から変わってしまったことがある。それは、2000年代初頭からアニメーションがセルとフィムの使用を止めてコンピュータを使ったデジタル制作に移行したことである。現在では100%近くがコンピュータ処理した画面でアニメ映像が制作されるようになった。
 デジタル化は、鉄人の質感表現を従来の「カゲとハイライト」という記号的なパキっとしたものから解き放つ方向に作用した。もちろんセルアニメの伝統に基づく表現も併用されてはいるが、色数がデジタル化によって絵の具の制約を離れて無限に近くなったことが、色調の渋さに大きく貢献している。さらに光と陰影の実写で言う照明効果が容易になったことも加わり、これまでの「アニメといえばカラフル」というイメージを離れ、彩度・明度を落とした渋く錆びたように古び、しかし確実にかつて存在したという手応えあふれる昭和30年の世界観が表現されている。
 鉄人も、かつてのヒーロー性から離れて兵器としての本質的意味あいを問いかけられ、その渋さと一体化するかのように物語の中心で存在感を放っていた。ロボットアクションとしての快楽は残念ながら減じていたが、モノクロ版から40年が過ぎて、こういうかたちでの現実感ある鉄人が観られ、良い意味での意外さがあった。
 2005年予定の劇場映画版では、この成果に続く新たな表現の鉄人が登場するに違いない。このように40年以上にもわたり、鉄人の存在感は継承され、連鎖していく。その様子を、この先も見届けていきたいものである。
【初出:鉄人28号論(出版社: ぴあ) 脱稿:2005.01.15】

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