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2007年2月 8日 (木)

機甲界ガリアン(解説)

●TVシリーズ解説

『機甲界ガリアン』は、1984年10月5日から1985年3月29日まで、日本テレビ系で全25話にわたって放映されたTVアニメーションである。その後、1986年に全3巻のビデオシリーズが発売された。 
 物語は、古典的とも言える壮大なるイントロダクションから語られ始める。3000年の長き歴史を誇るボーダー王国。その世継ぎたるジョルディが誕生した、まさしくその夜──惨劇は起きた。
 この世界に突如として姿を現した征服王マーダル。彼の率いる機甲軍団の手によって、王国は瞬時に崩壊してしまった。王は殺害され、王妃はマーダルに囚われ幽閉されてしまった。そして、赤子のジョルディは重臣アズベズに救い出され、その孫として育てられ、鍛えられていった。マーダルに対して反攻に出る、その日のために……。
 このある意味ではアナクロとも言える語り口は、鉄の鎧がロボットとして活躍するという設定とも親和性が高く、独特の世界観をつくりあげていった。ガンダムのモビルスーツが人型をした汎用兵器的なイメージが強いのに対し、ガリアンの機甲兵は一体ずつ特徴と役割が明確になっている。それが世界に重層的な厚みをもたらし、個々の機甲兵にも強いキャラクター性を感じる源泉となっている。
 その世界の中で語られるのは、ジョルディ(通称・ジョジョ)の少年らしいまっすぐな気性と、前に向かって進んで行こうという気迫だ。もちろん、その純粋さが局面を打開することもあれば、障害が成就を妨げることもある。その起伏の中で描かれるものとは、言うまでもなくジョジョの成長である。その点では、本作こそは正統派の冒険譚、ビルドゥングスロマンの継承者と言えるだろう。
 だが、この観客の世界への一方的な思いこみは、主人公たちにとっての“宇宙人”なる存在でゆらぎ、終盤で大きく覆されていく。そして、マーダルの究極の目的とは……まさにSFの世界で連綿と語られ続けてきた、科学文明と人間の進化・退化との相関についての大考察なのである。
 マーダルの意図は、社会的・大局的見地からすれば、まさしく一面の“正義”だ。それを知った上でのジョジョが選択するもの、“高度文明連合”が取ろうとする措置、最終的にマーダルの選ぶ行為が絡み合い、幾多の人びとの思いをからめながら終結へとつながっていく。そのとき生まれる感動とは、まさに長編小説を読み終えたときのもの。これぞ25話、約10時間(映画5本分)という長さならではの、凝縮された味わいである。
 今回のDVD化を機に一気にご覧になってはいかがだろうか。この作品だけの持つ、豊饒なるロマンを一気に味わうために。

●ビデオシリーズ解説

 TVシリーズ終結後、本作のビデオシリーズ展開が開始された。初出の発売は、東芝映像ソフト。全三部構成で、最初の2本が総集編、3本目がオリジナルである。
「ACT1 大地の章」は1986年1月21日発売。TVシリーズの前半に相当する第1話から第13話、ジョルディが母のもとへと旅立つまでを再構成したものである。
「ACT2 天空の章」は同年3月21日発売。第14話以降の後半部分を再構成したもので、鉄巨人と機甲兵の戦いが惑星アーストを超えて銀河へと広がる展開を描いた。
 この2編については、過去のLD-BOXには収録されておらず、初出以後は今回が初の再録となる。特に新作に相当する部分はないが、画角を映画風のワイド画面に変化させた部分があり、 本作が映画化されていたら……という気分を味わうことができる貴重なビデオグラムである。
「ACT3 鉄の紋章」は、1986年8月5日に発売されたビデオ用のオリジナル作品である。登場人物も機甲兵も、この小一時間の作品用にTVシリーズから換骨奪胎されている。
 惑星アーストを統一しようと野望に燃えるマーダル王。彼の手によって甦った機甲兵によって、各地は征服されていった。だが、その強大な力の影には恐ろしい邪神の姿があった。そして、その邪神が目覚めるとき、伝説の鉄巨人もまた世を鎮めるため、甦るという……。
 マーダル王のキャラクターはTV版のアズベズに近く、また主人公のジョルディとチュルルはハイティーンにと、大きく設定が変更されている。養子のハイ・シャルタットが邪気にとらわれ、王の殺害のイメージどおりになっていくという展開や、騎馬軍団が各地の部族を襲っていく様子などは、まるで映画の巨匠・黒澤明がシェイクスピア劇にヒントを得て製作した『蜘蛛巣城』、あるいは『影武者』のような戦国時代劇を連想させる。そして、ただ一度だけ復活する鉄巨人は特撮時代劇の『大魔神』に通じるものがある。
 TV版のテンポ良く進む活劇風の作風に対し、ビデオ版ならではの拡がりを持った重々しく大時代的な世界観には、出渕裕の提供した機甲兵の新デザインがよく馴染んでいる。中世風の飾り文様や突き出した棘、甲冑の折り重なりなど、TV版ではアニメ作画のために省略されていたテイストを復活した上に、もう一度プロポーションごと全体を再構成。このメカ群のまとまり感は、出渕裕のファンタジー分野のテイストを確立したと言えるだろう。
 こういった情報密度は、90分以上の映画サイズに充分に耐えうるものである。実際の尺(長さ)は1時間以下とやや短いが、その凝縮感もまた味のうちになっている。
 特に後半、竜巻とともに鉄巨人(ガリアン)が姿を現し、まさしく蛇のように身体をうねらせながら攻撃をしかける邪神兵と刃を交えるクライマックスでは、この作品だけのダークなメカアクションが展開、画面から目が離せない。【初出:『機甲界ガリアン』DVD-BOX(バンダイビジュアル)解説書 脱稿:2003.02.11】

→関連評論「メカファンタジーの可能性」

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機甲界ガリアン

題名:メカファンタジーの可能性

『機甲界ガリアン』の放映当時、サンライズ製作のロボットアニメは、青年層向けの二本柱があった。ひとつは富野由悠季監督による『疾風ザブングル』から『聖戦士ダンバイン』『重戦機エルガイム』へと続いていくシリーズ。そして、もうひとつが『太陽の牙ダグラム』から『装甲騎兵ボトムズ』を経て本作へとつながっていく高橋良輔監督のシリーズである。
 高橋監督作品の系譜においても、ロボットが強いキャラクター性を持ち、ファンタジー色の強い冒険譚というのはやや異色であった。それまでは、高橋監督作品も、富野監督の『機動戦士ガンダム』が切り開いた路線の上にあったからである。つまり、ロボットをアニメーションのキャラクターではなく、科学と工業技術の産物であり、量産可能なある種無個性な機械と位置づける観点である。
 ガリアンという作品も、実際にはそこからは大きくは逸脱していない。ロボット自体には意志はなく、操縦者を必要とするし、過去に存在した未来的テクノロジーで作られた量産兵器でもある。それにもかかわらず、そこには強いキャラクター性を感じる。これは一種の矛盾であるが、実はその矛盾を超える“トンネル効果”的なポイントにこそ、一方向に進めば閉塞してしまうだけの限界を打破する可能性が秘められているのではないだろうか。
 “ファンタジー”という欧米色の強い要素が、時代とともに日本社会へ受容されたことも、これには作用している。
 ファミコンゲームの『ドラゴンクエスト』の発売は1986年5月、ガリアン放映終了直後のこと。『指輪物語』に代表される本格的ファンタジーは、「剣と魔法」という世界観で、それをテーブルトークRPGからコンピューターRPGを経て、日本の大衆向けに一般化して受け入れられたのが『ドラクエ』である。それとガリアンやダンバイン等の出現が歩調を合わせているのが、歴史的には面白い。
 ドラクエ以前の『ダンバイン』では、魔法を「オーラ」と言い換え、生体が放つ気に近く、人によって優劣のあるものとした上に、魔法(オーラ)の受け皿となるロボットのデザインを生体方向に強く色づけ、そのリンケージを明確にしていた。このように世界を構成する要素の、何が「あり」で何が「なし」かのサジ加減をかなりうまく配分しないと、単に勝手なことが夢のように展開する方向性へ流れてしまう。
 一方で『ガリアン』の方法論は、魔法抜きである。鋼鉄メカによる剣技だけで、ほとんど勝敗・優劣の決まる世界で、これは中世の騎士物語や日本の時代劇が持っていた世界観やドラマと親和性の高いものである。それは、ビデオ版ガリアンの『鉄の紋章』が証明済みである。
 現状、ロボットアニメというとガンダム的な兵器的世界観のものか、スーパーロボットという呼び名のヒーロー要素の強いものが主体である。それぞれが、おそらくはロボットの兵器的リアリティとキャラクター性が両立せず、苦労していることだろう。
 だが、こういった“メカファンタジー作品”とでも呼べる分野には、兵器とキャラクターの矛盾を飛び越えることのできる“可能性の鉱脈”が眠っているのではないか。その矛盾を超えられるのは、まさに無生物に生命を吹き込む矛盾を内包したアニメだけなのである。
【初出:『機甲界ガリアン』DVD-BOX(バンダイビジュアル)解説書 脱稿:2003.02.11】

→関連評論「機甲界ガリアン(解説)」

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