日比嘉高研究室

近況、研究の紹介、考えたこと

「大学改革」が見ていないものは何か


大学をいま襲っている「改革」の大波は、二つある。一つは大学運営の「経営化」の波。もう一つは「グローバル化」と称される世界的なランキング競争の波である。この二つは、それぞれの大学の質のあり方に応じて、強く結びついたり弱く結びついたりしながら、大学のあり方を大きく変えようとしている。

大学運営の「経営化」と機能分化・機能強化

「経営化」と「グローバル化」の二者の結びつきは、「選択と集中」、別名「機能分化・機能強化」というかたちで、大学の前に姿を現している。

ご存じの通り私たちの国は借金漬けで、お金がない。大学などへ渡す予算にも限りがある。予算は「国民の税金」がもとになっているのだから、有効に用いられねばならない。だから大学は、与えられた予算の枠内で、生み出しうる最大限の「成果」を見せねばならない。

では、どうやったら「成果」を出せるか。今のままではだめである(らしい)。「改革」せねばならない。限られた予算で最大の成果を出すためには、成果が出やすいところに、集中的に資本を投入するにしくはない。そして大学は選別される。大学の「機能分化」とか「機能強化」と言われる流れである。

「機能分化・機能強化」の流れを財政的に後押しするため、予算にメリハリを付ける。条件の付かない基盤的な予算(運営費交付金)を削減し、競争的に獲得する予算(科研費など)にどんどんと振り替えていく。また「改革」を確実に行わせるため、総長・学長をトップとする大学の管理運営部門の権力――いわゆるガバナンス――を大幅に強める。

そして「改革」が確実に行われていることを確かめるため、そして「国民の税金」を投入することへの説明責任、また特定の大学や分野に資金を集中することに対する説明責任を果たすために、「評価」が重視される。「評価」は、短期的に、目に見えやすい形で行われる。長期的で、目に見えないものは「評価」としての説得力を持ちがたいから、それは当然である。

競争とそれに付随する「評価」とは、それぞれの大学の性質に応じ、分化したかたちで行われようとしている。具体的には、世界レベルの教育研究拠点、日本のトップレベルの教育研究拠点、地域活性化の中核的拠点となる大学への機能分化が取りざたされている(「国立大学改革プラン」文部科学省、2013年11月)。各大学は、世界最先端の学術成果を生み出すのか、各地域の多様な世代の(再)教育機関となるのか、産業界と相互乗り入れしながら技術革新を目指すプラットフォームになるのか、地域活性化の拠点となるのか等、自分自身の手で選択しながら(実際には実情からして選べないのだが)、そのカテゴリの中でしのぎを削っていく。

「グローバル化」という名のランキング競争

分化した大学の性質を一見すると、「グローバル化」の波をかぶるのは世界レベルの教育研究拠点だけように見えるがそうではない。

国や文部科学省などが念頭に置いている「グローバル化」というのは、主に大学の世界ランキングに代表されるそれである。大学ランキングとは、大学の価値を限られた評価ポイントで数値化し、その数値の大小で存在価値の高下を計ろうとする発想である。いま、前面に押し出されている「グローバル化」とは、国際競争に偽装されているが(たぶん本当にそう信じているのだろうが)、その実態はランキング的発想、すなわち「数値化によって価値を計るシステムのグローバルな適用」である。

この「数値化によって価値を計るシステム」は、適用の容易さと利用の簡便さと理解のたやすさとによって、先端的大学の国際競争だけではなく、大学評価という姿で、あらゆる高等教育機関に浸透している。いま声高に叫ばれている「グローバル化」を、国際競争という意味で額面通りに受け取ると、その本質を見失う。真の問題は、高等教育の(限られた評点による)数値化の蔓延である。(後に再論するが、大学が、そして私たちの社会が本当に向き合わねばならないグローバル化は、もっと別のかたちで展開している。)

「大学改革」の見ていないもの

私はこうした「大学改革」と称される一連の流れ、とりわけ現政権以降急激に加速している方向性に、強い危惧を覚える。理由はいくつかある。

  • 「選択と集中」はさまざまな格差を拡大させる
  • 「機能分化」は大学総体の研究力をむしろ弱体化させる
  • 「改革」が財政的発想を出発点にしている
  • 「みえにくい大学の機能」を無視している
  • 短期的な成果が求められすぎている
  • グローバル化の意味をはき違えている
  • 革新的イノベーションが誘導可能だと考えている
  • 大学を横断して広がる「研究界」への視点を欠いている
  • 大学が学生による自主的・自律的な学びの場/時であるという視点を欠いている

それぞれ今後丁寧に書いてみようと思っているが、簡単にいまコメントだけ付しておく。

「選択と集中」はさまざまな格差を拡大させる

大学が機能分化していくと、大学間で格差が広がる。文部科学省側は区別であって格差でないというだろうが、予算、勤務形態、社会的評価など、さまざまな点で差が開く。大学間だけではない。資本を投下される学問分野とそうでない分野、常勤教員と非常勤教員、大都市とそれ以外、裕福な学生とそうでない学生の間にある格差も、拡大する。「集中」は、この意味で「独占」の色をなしていく可能性すらある。

「機能分化」は大学総体の研究力をむしろ弱体化させる

別のところでも書いたが、先端研究拠点を数校にだけ絞って集中的に資本投下して闘わせようというやりかたは、いわばサッカーJリーグからJ1の二チームだけを残して、そこに予算をつぎ込んで世界レベルのチームにしようとするようなものである。切磋琢磨する広大な裾野の存在があって、始めて頂きは高くなる。これが地域拠点であっても、専門特化であっても、理屈は同じである。「集中」とは「層の薄さ」の別名に他ならない。

「改革」が財政的発想を出発点にしている

現在の議論は、「予算ありき」で進みすぎている。日本にはお金がない、大学に出すお金もない、だったらその範囲内でどうするのか。この観点が重要であることは当たり前すぎる程当たり前だが、この観点が大学改革の全面に展開されることは誤っている。なぜなら、大学の価値は金銭に置き換えがたいからである。

「みえにくい大学の機能」を無視している

大学の役割には見えにくい部分が多い。それは、どこまで根を張っているかその樹自身もわかっていない巨大樹のようなものだ。教育、研究、人脈、知的ストック、歴史、文化、感情などなどなど。一人の老人の死が、一つの図書館の消滅に等しいとするならば、一つの学部の消滅、一つの大学の消滅は、いったい何に等しいのだろうか。

短期的な成果を求めすぎている

「選択と集中」は必然的に説明責任をともない、したがって「評価」を伴う。「評価」は期限を区切った、見えやすいものでなければならない。だが、研究の成果は3年単位、6年単位で出るものではない。20年、30年かかって始めて生まれる達成があり、年月が経ったあとに再発見される価値もある。
 「選択と集中」と親和的な「成果主義」が、必ずしも良い成果には結びつかないということも、知るべきである。

グローバル化の意味をはき違えている

「グローバル化」はランキング競争でもなければ、英語化でもない。真のグローバル化は、私たち社会の足下で起こっている。私たちは中国人や韓国人やブラジル人やフィリピン人たちと共棲する社会に生き始めている。カザフスタン人やトルコ人やナイジェリア人やペルー人とも。グローバル化は、「世界の中で日本が活躍すること」ではない。私たちの社会が多様化し雑種化するということだ。

革新的イノベーションが誘導可能だと考えている

革新的イノベーションは、どこからやってくるか予想が付かないから、革新的なのである。逆に言えば予測可能な範囲内にある成果は、革新的とは言えない。だから限られた予算を有力な分野に振り向けるという戦略は、短期的には成功するかもしれないが、長期的には失敗する。

大学を横断して広がる「研究界」への視点を欠いている

大学の「機能分化・機能強化」論は大学単位でなされている。だが、大学単位でなされているのは教育であって、研究ではない。研究は大学を横断した「学会」や「研究会」などといった研究者たちの集団が担っている。大学総体の研究力の項目でも書いたとおり、東大と京大に膨大な資金を投入すれば、世界レベルの研究が生まれると考えている人々は、この単純な事実を知らない。

大学が学生による自主的・自律的な学びの場/時であるという視点を欠いている

学生は勝手に学ぶ。また勝手に学べる学生こそが、優れた学生である。必要なのは、学生が勝手に学べる環境をお膳立てすることである。多様な出会い、挑戦的機会の多さ、豊富な資料や資材、そして何より時間的、経済的余裕。かつて大学生活が「モラトリアム(猶予期間)」の名で批判された時代があった。「モラトリアム」は、いま反転して、積極的に意味を見いだされなければならない。「あそび」の意味も、同様に。(「あそび」については別の記事があります)


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以上、批判を連ねてきたが、では大学は現状のままで良いのか、改善するとしたらどういうことをするべきなのか、といえばもちろんそうではない。大学にいまなにができるか。答えは複数ありうるし、あるべきである。

大学の研究力・教育力を保ち、高めるには、知的生産における「あそび」の部分を確保することが必要である。また大学がさまざまな意味での多様性の拠点となることも重要である。「グローバル化」の指す意味内容を規定し直し、それを支えることもここに付随する。各教員が、それぞれの専門分野の研究・教育の存在意義を問い返し、多様なチャンネルを用いて自らの知見を社会に還元していくことの大切さは、むろん言うまでもない。