禅と書と良心の人 山岡鉄舟 其壱
さてさて、私が大好きな幕末の偉人の一番には、やはり土方歳三さんが来るのですが、彼はなんというか、セクシーな男らしさに満ちた人物として、私の中では幕末セックスシンボル的なポジションにいます。
しかし、全く別の意味で大好きな幕末の偉人といえば、私にとってはこの山岡鉄舟氏が父親のような、兄のような一番のポジションに来るのです。
ところが、以外にこの山岡鉄舟氏はドラマやお話に沢山登場はしてくるものの、メインの主人公にはあまり来ない人物でもあります。しかし、幕末の中でもこんなに好漢と言える人もいないのではないでしょうか?
Wikipediaより
それにもかかわらず、彼の評価は今ひとつ華やかさに欠けるのが、ファンの私にとっては悔しいところです。
そんなわけで、まだ幕末の英傑の一人である、山岡鉄舟氏の素晴らしい生き様を、今回は私の拙い文にてご紹介していきたいことと存じます。
山岡鉄舟氏は天保7年6月10日、新暦の1836年7月23日に江戸本所に蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男として生まれました。母親は常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女である塚原磯です。
なんといってもこの人が偉人たること世に知らせしめるは、その堂々たる体格!幕末の日本人なんて、平均身長が150センチ前後と言われており、どこを行っても矮小な日本人でひしめいていたはずです。
それなのに、山岡鉄舟氏の身長は身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)という破格の体格です。
いやぁ全く堂々たる体躯ですね。ちなみに現在私が住んでいる桑港でも、彼の体格は確実にフットボールプレイヤーのレベルです。全く素晴らしい。ああーー!抱きつきたい。
山岡鉄舟は幕臣として将軍に熱い信頼を置かれていた人物の一人としても知られています。
そして新選組の前身となった、幕府と清河八郎が旗振りとなり結成された、京都警護のための浪士組の幹部として、後の新選組となる近藤勇や土方歳三たちと京都に向けて上洛したことでも、新選組ファンの皆さんなら既にご存じのことでしょう。
この時のエピソードとして面白いものといえば、、あの芹沢鴨が近藤勇の手違いで宿が取れていない事に腹を立て、大暴れしてしまい、そのあまりのカオスぷりに、山岡鉄舟はもうお前らなんて知らない!一人で江戸に帰ってやる!とすねてしまったとかいないとか??? かわいい・・!!
そして何と言っても山岡鉄舟が素晴らしい点は、その堂々たる立派な体格だけや新選組と上洛したことだけではありません。山岡氏は、幕末の三舟として江戸無血開城を実現させた、時代の重要な功労者としても知られています。
そしてその働きぶりは西郷隆盛をもって、 「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。
本当に無我無私(むがむし)の忠胆(ちゅうたん)なる人とは、山岡さんの如(ごと)き人でしょう。」
とまで言わしめた人であります。
そして大変に驚くべき点は、この江戸無血開城を実現した時点で、山岡鉄舟氏は幕臣とは思えないほどの貧窮ぶりで、なんと剣客として名前が通っているのにもかかわらず、刀の一つも持てないほどの貧しさでした。
幕臣であるべき人が、何故にもこんなに経済的に困窮しているのか?答えは山岡鉄舟のその人となりにあります。
山岡氏は剣客として素晴らしいだけでなく、禅と書の人としても知られていました。彼の肉筆で書かれた書は100万枚を超えるとも言われています。そして描いてくれという人が訪れれば、訪れた人の誰にでも筆を動かしたといわれています。
そして彼が書を振る舞えば、謝礼金を依頼した人から当然受け取るわけですが、山岡氏はそのお金を机の引き出しに仕舞いこみ、貧しい人が訪れて助けを乞えば、惜しみなくそのお金をあげていたそうです。
こんな無欲で心のやさしい人であったからこそ、山岡氏は常に困窮していたようですね。
彼のこのような逸話は現代の私達にも言えることですよね。いつも傲慢で自分の利益を主張する人ほど私腹を肥やし、優しく親切な人ほど、人を助けていてもその無欲さからお金に困る。そんなことを今まで私も良く見聞きしてきました。
しかし、人に頼まれれば、たとえそれが損な仕事であっても、決して断らずに最後まで責任をもってやり遂げる彼の性格は、まさに現代の私達が忘れつつある、古き良き時代の日本人としての見本のような人といえることでしょう。
また山岡鉄舟氏は大変な酒豪であり、グルメな人としても知られています。まぁあの体格ですから、酒豪で無い方がおかしいというものです。そしてその飲みっぷりも大変に豪快で、一升なんて序の口だったとか??すごいな、それ!
ところで、埼玉の比企郡に国の有形文化財に指定されている、二葉という割烹旅館があります。この由緒正しき旅館には日本五大飯と呼び声高い、忠七飯という宿ご自慢のメニューがあります。そしてこの忠七飯は、禅の人と知られる山岡氏が、おい主人!調理にに禅を盛れ!と言ったことから出来上がったメニューだとか。
また、私達が日本人の朝ごはんの一品として欠かすことのできない、味付け海苔も、明治天皇の家臣として信頼されていた山岡鉄舟が手土産を相談された時に、知り合いの海苔屋さん相談して出来あがったものと言われています。
こんな数々の食べ物にまつわるエピソードも、禅と書の人と言われる、実に山岡鉄舟らしいお話でございます。
そして山岡鉄舟は禅の人と知られることは既にお伝えしましたが、晩年は悲しいことに、長年の飲酒で胃がんに苦しんだと言います。そしてその痛みを禅による瞑想で乗り切ったとも言われています。あの時代には、癌に関する治療など皆無に近かったはず。きっと肉体的にも精神的にも辛いことだったでしょう。
しかし、山岡鉄舟は痛いとも辛いともこぼさず、表情を変えることもなく、つねに温和な表情で日々を過ごしていたというから、やはり只者ではありません。私なんて、こんな辛い病気にかかったら、寝込んで毎日泣いてますね。ハイ。
やはり、偉人と呼ばれる人たちは、こういうところが全く私達のような凡人とは違っています。辛くとも絶対にも文句さえ言わず、顔にさえ出さずに品格を保ち、偉人として周りの者が不安になり動揺しないよう辛いことさえ伝えずに、リーダーとして、偉人としての品格を保たねばいけないのです。それが上に立つ人間の配慮であり、条件なのです。
あの徳川慶喜でさえ、晩年に身体がどんなに辛くとも、身なりをきちんとして、外に一歩出た瞬間から、背筋をピンと伸ばして歩いたと言われています。何故なら、彼のような人は、上に立つ者の帝王学を、子供時代から仕込まれていたはずですから。将軍として、だらし無い姿は見せられないのです。本当に、このあたりは私達には真似のできない点でございます。(ただこの人の場合は、お殿様らしくい下々の者は自分の使い捨ての駒ぐらいに考えてたフシもありますが。)
あれ?なんだか長いですね?というわけで、次回は山岡鉄舟氏の偉人としての凄さを更に書き綴りたいと存じます。
長々と、お付き合いいただき有難うございます!次回もよろしゅうに!!!
↓押すと、山岡鉄舟氏も泣いて喜ぶ?
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しかし、全く別の意味で大好きな幕末の偉人といえば、私にとってはこの山岡鉄舟氏が父親のような、兄のような一番のポジションに来るのです。
ところが、以外にこの山岡鉄舟氏はドラマやお話に沢山登場はしてくるものの、メインの主人公にはあまり来ない人物でもあります。しかし、幕末の中でもこんなに好漢と言える人もいないのではないでしょうか?
Wikipediaより
それにもかかわらず、彼の評価は今ひとつ華やかさに欠けるのが、ファンの私にとっては悔しいところです。
そんなわけで、まだ幕末の英傑の一人である、山岡鉄舟氏の素晴らしい生き様を、今回は私の拙い文にてご紹介していきたいことと存じます。
山岡鉄舟氏は天保7年6月10日、新暦の1836年7月23日に江戸本所に蔵奉行・木呂子村の知行主である小野朝右衛門高福の四男として生まれました。母親は常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女である塚原磯です。
なんといってもこの人が偉人たること世に知らせしめるは、その堂々たる体格!幕末の日本人なんて、平均身長が150センチ前後と言われており、どこを行っても矮小な日本人でひしめいていたはずです。
それなのに、山岡鉄舟氏の身長は身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)という破格の体格です。
いやぁ全く堂々たる体躯ですね。ちなみに現在私が住んでいる桑港でも、彼の体格は確実にフットボールプレイヤーのレベルです。全く素晴らしい。ああーー!抱きつきたい。
山岡鉄舟は幕臣として将軍に熱い信頼を置かれていた人物の一人としても知られています。
そして新選組の前身となった、幕府と清河八郎が旗振りとなり結成された、京都警護のための浪士組の幹部として、後の新選組となる近藤勇や土方歳三たちと京都に向けて上洛したことでも、新選組ファンの皆さんなら既にご存じのことでしょう。
この時のエピソードとして面白いものといえば、、あの芹沢鴨が近藤勇の手違いで宿が取れていない事に腹を立て、大暴れしてしまい、そのあまりのカオスぷりに、山岡鉄舟はもうお前らなんて知らない!一人で江戸に帰ってやる!とすねてしまったとかいないとか??? かわいい・・!!
そして何と言っても山岡鉄舟が素晴らしい点は、その堂々たる立派な体格だけや新選組と上洛したことだけではありません。山岡氏は、幕末の三舟として江戸無血開城を実現させた、時代の重要な功労者としても知られています。
そしてその働きぶりは西郷隆盛をもって、 「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。
本当に無我無私(むがむし)の忠胆(ちゅうたん)なる人とは、山岡さんの如(ごと)き人でしょう。」
とまで言わしめた人であります。
そして大変に驚くべき点は、この江戸無血開城を実現した時点で、山岡鉄舟氏は幕臣とは思えないほどの貧窮ぶりで、なんと剣客として名前が通っているのにもかかわらず、刀の一つも持てないほどの貧しさでした。
幕臣であるべき人が、何故にもこんなに経済的に困窮しているのか?答えは山岡鉄舟のその人となりにあります。
山岡氏は剣客として素晴らしいだけでなく、禅と書の人としても知られていました。彼の肉筆で書かれた書は100万枚を超えるとも言われています。そして描いてくれという人が訪れれば、訪れた人の誰にでも筆を動かしたといわれています。
そして彼が書を振る舞えば、謝礼金を依頼した人から当然受け取るわけですが、山岡氏はそのお金を机の引き出しに仕舞いこみ、貧しい人が訪れて助けを乞えば、惜しみなくそのお金をあげていたそうです。
こんな無欲で心のやさしい人であったからこそ、山岡氏は常に困窮していたようですね。
彼のこのような逸話は現代の私達にも言えることですよね。いつも傲慢で自分の利益を主張する人ほど私腹を肥やし、優しく親切な人ほど、人を助けていてもその無欲さからお金に困る。そんなことを今まで私も良く見聞きしてきました。
しかし、人に頼まれれば、たとえそれが損な仕事であっても、決して断らずに最後まで責任をもってやり遂げる彼の性格は、まさに現代の私達が忘れつつある、古き良き時代の日本人としての見本のような人といえることでしょう。
また山岡鉄舟氏は大変な酒豪であり、グルメな人としても知られています。まぁあの体格ですから、酒豪で無い方がおかしいというものです。そしてその飲みっぷりも大変に豪快で、一升なんて序の口だったとか??すごいな、それ!
ところで、埼玉の比企郡に国の有形文化財に指定されている、二葉という割烹旅館があります。この由緒正しき旅館には日本五大飯と呼び声高い、忠七飯という宿ご自慢のメニューがあります。そしてこの忠七飯は、禅の人と知られる山岡氏が、おい主人!調理にに禅を盛れ!と言ったことから出来上がったメニューだとか。
また、私達が日本人の朝ごはんの一品として欠かすことのできない、味付け海苔も、明治天皇の家臣として信頼されていた山岡鉄舟が手土産を相談された時に、知り合いの海苔屋さん相談して出来あがったものと言われています。
こんな数々の食べ物にまつわるエピソードも、禅と書の人と言われる、実に山岡鉄舟らしいお話でございます。
そして山岡鉄舟は禅の人と知られることは既にお伝えしましたが、晩年は悲しいことに、長年の飲酒で胃がんに苦しんだと言います。そしてその痛みを禅による瞑想で乗り切ったとも言われています。あの時代には、癌に関する治療など皆無に近かったはず。きっと肉体的にも精神的にも辛いことだったでしょう。
しかし、山岡鉄舟は痛いとも辛いともこぼさず、表情を変えることもなく、つねに温和な表情で日々を過ごしていたというから、やはり只者ではありません。私なんて、こんな辛い病気にかかったら、寝込んで毎日泣いてますね。ハイ。
やはり、偉人と呼ばれる人たちは、こういうところが全く私達のような凡人とは違っています。辛くとも絶対にも文句さえ言わず、顔にさえ出さずに品格を保ち、偉人として周りの者が不安になり動揺しないよう辛いことさえ伝えずに、リーダーとして、偉人としての品格を保たねばいけないのです。それが上に立つ人間の配慮であり、条件なのです。
あの徳川慶喜でさえ、晩年に身体がどんなに辛くとも、身なりをきちんとして、外に一歩出た瞬間から、背筋をピンと伸ばして歩いたと言われています。何故なら、彼のような人は、上に立つ者の帝王学を、子供時代から仕込まれていたはずですから。将軍として、だらし無い姿は見せられないのです。本当に、このあたりは私達には真似のできない点でございます。(ただこの人の場合は、お殿様らしくい下々の者は自分の使い捨ての駒ぐらいに考えてたフシもありますが。)
あれ?なんだか長いですね?というわけで、次回は山岡鉄舟氏の偉人としての凄さを更に書き綴りたいと存じます。
長々と、お付き合いいただき有難うございます!次回もよろしゅうに!!!
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