デカルトは、有機体の肉体を自動機械としてみることで、こう説明している。
動物一個体の肉体中にあまた蝟集(いしゅう)し輻輳(ふくそう)するところの骨、筋肉、神経、動脈、静脈その他悉皆の部分に比べるとほんの僅かと言わるべき数の部分品を用いて、人間の匠みがいかに多種多様なオートマータ即ち自動機械をつくり上げることができるものかを弁(わきま)え知り、この肉体をしも一個の機械とみなしているような人々の目には、このことは全然奇異には映るまい。ルネ・デカルト『方法序説』
このデカルトの機械論的発想は、人間の身体にも及ぶ。ただし、人間は世界を機械的に感知する。ただ、それは世界をそのまま見るのではなく、すこしズレたイリュージョンとして見るのだとデカルトは考えた。
そんなデカルトが懇意にしていたミニモ会士でプラトン主義者であったマラン・メルセンヌ師を介して、同じミニモ会修道士でメルセンヌの弟子であり、数学者であったジャン=フランソワ・ニスロンにもこの機械論は共有されていた。
そのニスロンの1638年の著作に『奇妙な遠近法』がある。デカルトの『方法序説』の翌年の公刊であり、1646年のラテン語版は『光学魔術』と改題されている。副題は「奇妙な遠近法、或いは驚異の効果の人工魔術」である。ニスロンはこの魔術の効果を「人間の芸術と巧智が到達しうる最も美しく、最も素晴らしいもの」と讃える。
ニスロンはその論のなかでデカルト同様に「自動機械(オートマータ)」に触れている。「自然がうんだものででもあるかのように口をきくアルベルトゥス・マグヌス作の青銅頭像、学あるポエティウスの玄妙至極のわざは青銅の蛇にしゅうしゅう啼かせ、青銅の小鳥にさえずらせた」と自動機械への関心を示す。
そのニスロンの関心の中心にあるのが、自動機械としての遠近法であった、というのが、今回紹介する『アナモルフォーズ』の著者ユルジス・バルトルシャイティスである。
機功を匿(かく)した精密機械の一種として、事物を遠ざけたり近づけたり形態をイリュージョンの宇宙の中で生き生きと動かしてみせたりする遠近法も、同じような範疇に属するべきものであった。ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』
ここでデカルトの話に戻る。
デカルトが『方法序説』で自身の機械論的世界観を主張する際、「おそるおそる」だったのは、1633年にガリレオ・ガリレイが異端審問を受けていたからだ。それをきっかけにデカルトは予定していた『世界論』の公刊を断念した。その一部をあらためて略述したのが『方法序説』であり、問題になりそうな地動説に関する論考は控え、『屈折光学』『気象学』『幾何学』などを選んで附している。
その俗に『方法序説』と呼ばれるデカルトの著書の原題は『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論』である。つまり「序説」および「方法の試論」の2つからなる。この後者の「方法の試論」にあたるものに含まれるのが『屈折光学』『気象学』『幾何学』であり、その『屈折光学』で展開されるのはニスロンが『奇妙な遠近法』で記したのと同様、遠近法とその光学魔術的側面なのである。デカルトはそこに「見かけのウソ」をみた。彼の懐疑論の根幹の1つがここにあるといって良い。
では、デカルトが17世紀の半ばにみた「見かけのウソ」とはいったい何だったのだろう?
それこそが本書『アナモルフォーズ』がテーマとする、ゆがんだ画像を円筒などに投影したり角度を変えてみたりすることで正常な形が見えるようになる、遠近法の応用としての視覚表現技法である。
デカルトの『屈折光学』
『屈折光学』で、デカルトはレンズの研究を元にした光学的思考を展開している。1つ前の「観察者の系譜/ジョナサン・クレーリー」という記事でもすこし書いたように、そのレンズはカメラ・オブスキュラ的な単眼の視点である。そして、単眼的な見方であるがゆえに、遠近法とつながってくる。デカルトは「事物とわれわれの距離を知るためのあらゆる方法が不確かなものだと言わざるを得ない」と書いている。デカルトは、遠近法で描かれた絵を見れば、それがわかるという。
遠近法の絵では、そうあるべきだと思っているよりも小さく描いてしまえばモノは実際より遠く見えてしまうし、輪郭をぼんやり描いてしまうことで実際より大きく見えてしまったりすることがあるからだ。「遠近法の規則では」とデカルトは言う。
円は別の円によってではなく楕円によってこそもっと巧みに表現され、正方形は正方形ではなしに台形によってこそ巧く表現され、他の図形についても全く同じことが言えるからである。つまり、イメージとしてより完璧たらんとし、ある事物をよりよく表現しようとすればするだけ、その事物には似ていてはいけないことになる。ルネ・デカルト『屈折光学』
リアルに見えるためには、現実をそのまま描いてはいけないということだ。ギリシアの円柱が直線に見えるように曲線で作られたのと同様に。
このデカルトの見方について、バルトルシャイティスは、こう書いている。
画工たちの指南書は、台形で表象された正方形で一杯だ。それらの中に内接する円が描かれることが多いが、こちらはこちらでみごとに楕円形であらわされていた。物理的世界のみかけがいかにウソであるか、それを決定的に傍証するもの、それがたとえばアルベルティの「正しき手法(コストルツィオーネ・レジティマ)」であり、ヴィニョーラの第二則なのである。遠近法は正確な表象の具ではなく、一個のウソなのだ。ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』
そう。ここで15世紀に遠近法を定式化したレオン・バッティスタ・アルベルティが、遠近法を「正しき手法」と呼んでいたことと、デカルトがそれを「一個のウソ」と捉えたことが対比される。
アナモルフォーズ
ここであらためて本書の主題である「アナモルフォーズ」とは何か?をみていきたい。代表的なものは、ハンス・ホルバインの『大使たち』に描かれた骸骨の像だろう。ハンス・ホルバイン『大使たち』(1497年)
有名な絵なので説明はいらないと思うが、2人の若い大使のあいだに、斜め右からみると骸骨が浮かび上がるという絵だ。正面に飾られた絵をみている際は骸骨に気づかないが、絵の右側にある部屋の出口から出ようとして、ふと振り返ってもう一度絵を見ると突如、骸骨が浮かび上がるという仕組みである。
また、17世紀後期バロック巨匠アンドレア・ポッツォの最高傑作といわれる『聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光』もアナモルフォーズの一例である。
ローマのサン・ティニャーツィオ聖堂の天井画として描かれた作品であるが、遠近法の効果により、建築物と遠近法で描かれた天上の世界が一体化して見えるようになっている。
こうした2つの例を見てわかるとおり、アナモルフォーズは、通常、真正面から見たときに正しく見える遠近法を応用して、極端な位置から見た場合に正しく見えるように遠近法絵画である。
〈自然〉そのものも幻影ファントム
アナモルフォーズで描かれた絵は、ある極端な位置から見れば像が浮かび上がってくるが、通常絵を見るときのように正面から見たのでは歪んで見える。だが、それは正面からみた場合に正しく見える通常の遠近法で描かれた絵でも同じなのだ。
その絵を極端に右のほうから見たら描かれたものは歪んで、極端な場合、何が描かれているかわからなくなる。実際、ホルバインの絵も、骸骨が見えているとき、大使たちやそのまわりの品物は歪む。
実際、ホルバインはそのことを見越して、大使たちの周囲に「ヴァニタス」と呼ばれる「人生の空しさの寓意」を表した静物画でよく描かれる品々を置いている。そう、人間が見ている世界は空しく儚いのだ。
ようするに、アナモルフォーズとして描かれた絵だけが魔術的なのではない。アルベルティが「正しい制作術」と呼んだ遠近法自体がウソを生むための魔術なのだ。
実際、現存する最も古いアナモルフォーズ作品は、レナオルド・ダ・ヴィンチが残したスケッチである。つまり、遠近法はその初期の段階から、その魔術性は画家はみんな知っていたということだろう。
そして、それはもちろん芸術作品だけの問題ではない。視覚がたまたま誤謬をおかすという話でもない。
そもそもウソがなくては人間は自然や世界と向き合えないということなのだ。
デカルトが指摘したのはそのことだ。
あらゆる形におけるイリュージョンの問題が一瞬としてデカルトの念頭を去ったことはなかった。現実とそれに対する人間の判断の間にはズレがある。プラトンにとってそうであったようにデカルトにとってもそうだった。このズレはひとり芸術作品にのみ当てはまるというものではないのだ。〈自然〉そのものも幻影ファントムだと、デカルトは考えた。ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』
この幻影としての視覚を、デカルトも、ニスロンも、自動機械としての人間の機能的問題として捉えた。カメラ・オブスキュラ的な視覚機械である人間は、そうした幻影を見るものなのだ、と。だから、デカルトは懐疑論を唱え、機械である人間身体とは別に、懐疑によってプラトン的イデアに到達する思惟する主体としての人間を考えたのだろう。
魔術師アグリッパの遠近法批判
ダ・ヴィンチがすでに気づいていたように、遠近法のウソを気づいていたのは何も17世紀のデカルトを待つまでもない。バルトルシャイティスが「アナモルフォーズの発展には二つの段階がある。16世紀における誕生と初歩的な流布、そして17世紀におけるリヴァイヴァルである」と書くように、むしろ、それが最初に登場したのはダ・ヴィンチの生きた16世紀である。例えば、デカルトより100年早い時代の16世紀のドイツの魔術師、人文主義者であり、医師でもあったハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ。この魔術師は1530年に『諸学諸芸の不確実と虚妄と誤謬』というデカルトの懐疑論もびっくりな、懐疑のかたまりのようなタイトルの本を書いている。
この本でアグリッパは、科学をはじめとするあらゆる分野のウソを指摘し、その最初にやはり遠近法のウソを指摘する。アグリッパは絵画と光学に関心を寄せていたらしく、遠近法を人工的システムと解釈して、諸学一般のヒエラルキーの中に含めていたらしい。その上で、このような遠近法の批判である。
科学の他の分野とのその関係をアグリッパは明快な言葉で定義づけている。「遠近法」とも別称される光学は幾何学のすぐ後に続き、後には宇宙測定学が来る。遠近法はこうして、世界を幾何学的に測る術のひとつなのである。しかし、それは欺きでもある。この言葉の後、重要な二つの定義が定式化されている。「遠近法は、偽りの外見が何故そういうふうに目に映るのかの理由を教えてくれる」し、一方、光学に力を借りる絵画は「誤れる測定によって事物に、現実にそうであるのとは異なる姿をとらせる」。ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』
バルトルシャイティスが「この本には既にデカルト的な言説の胚種が含まれていて、その上、遠近法についての評言はその一語も変えずにそのままそっくり、同じ規則をパラドキシカルに延長したものに過ぎない狭義のアナモルフォーズにも当てはめることができる」というように、観点は同じだろう。むしろ、その感性は、1497年という15世紀も終わりころに描かれたホルバインの『大使たち』のヴァニタス的な空虚感を共有しているのかもしれない。
この遠近法的イリュージョンから画家たちが解放されたのが、19世紀後半の印象派の画家たちによってであり、さらにその先駆けとして、ターナーやクールベなど、19世紀半ば以降の画家たちがいたということが、1つ前の「観察者の系譜/ジョナサン・クレーリー」という記事で紹介したとおり、デカルト的な単眼での機械的な視覚という考え方自体を、ゲーテの『色彩論』での残像を起点としてはじまった19世紀初頭の生理学によって覆されたことをきっかけとしているのだから、人間の歴史というのはなんともダイナミックで面白い。
そんなこともあったので、すでに1年以上前に読んだこのバルトルシャイティスの本を、クレーリーの『観察者の系譜』に続いて紹介してみたわけだ。
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