身体的な知としてのインテリジェンス

情報というものを、単にテキスト情報やコンピュータ上で表現可能な2次元的な画像や動画や音声のような情報のみならず、生物としてより身体的に無意識のうちに感知している情報も含めて捉えようと思う姿勢は、ピーター・モービルの『アンビエント・ファインダビリティ』西垣通さんの『情報学的転回』を、あるいは、石井裕さんのタンジブル・ビッツというコンセプトを紹介したときから一貫しているつもりですが、最近、アフォーダンス系の本を読むにあたり、ますます身体的な情報というものに考える機会が増えてきています。

インタラクションを美的にする日本文化

例えば、先日も書評を書いた『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』における深澤直人さんのこんな言葉。

洗練するってことはすごくインテリジェントなことだと思います。たとえば茶道の作法では、あたかも無意識にやったかのように意図的に非常に無駄のない線をたどっていくことを極めている。無理に直線を引こうとするのではだめだし、すっといかない。

深澤さんは茶道のほか、武士道、俳句などの日本文化に「ほっておくと雑多で無秩序な環境ができ上がってしまう宿命は、その関係性を美化する知恵と鍛錬された身体感覚によって洗練され調和してきた」というインタラクションを美的にする文化の特質を見ています。

モノとの距離を置いて対象として分析的に見る知性とは異なり、自身の身体と環境に存在する要素の距離が極端に近く、かつその境界さえもあいまいな状態で自身の身体の動きとそれによって変化する環境のレイアウトをもろとも知覚する、まさにアフォーダンス的、生態学的な作法によってかつての日本人は美を表現してきたのではないかと思います。

身体的な知としてのインテリジェンス

先の引用には、こんな言葉も続きます。

インテリジェンスの定義は、現代では知識や情報をたくさん持っているということになってきていますが、実はもともとの意味は洗練度や身体的な知的さで、身体をよく知っているということがその人を非常に美しく見せたり、賢く見せたりしていたのかなという風に思ったりします。

以前「T型人間の生きる場所:組織内のプロセスをリデザインするとき」でも書きましたが、「知識や情報をたくさん持っている」というインテリジェンスのあり方はいまや膨大な知識のネットワークであるインターネットと検索技術によって、あらゆる専門知識がコモディティ化する状況においては価値を暴落させています。
そうした状況において、コンピュータのネットワーク上には載らない身体的な知と身体が行動のリソースとして感知するアフォーダンス的情報は、その反対に価値を高騰させていくのではないかと思います。

身体が喜ぶデザインに恋をするヒト

最近、全世界的にデザインに対する評価が高まっているのも、デザインという行為がまさにそうした身体的知を刺激できる可能性をもったものだからなのだと感じます。

頭でわかるデザインだけではなく、身体が喜ぶデザイン。
脳みそのインテリジェンスを刺激するのではなく、身体的な知を刺激するデザイン。


そうしたものに今後、ヒトはますます恋をするようになるのではないかと思ったりします。

  


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