半そでワイシャツって、すさまじくその人をオヤジに貶める気がする
確かに。
でも、「確かに」と思う一方で、それは日本人に限る、ではないだろうかとも思う。いや、アジア圏は全般的にそうなのかもしれない。
一方、欧米人には半袖シャツを格好よく着こなしている人が少なくない。アメリカ人なんかは実に格好よく半袖シャツを着る。ワイシャツ、カジュアルシャツ問わずだし、スウェットすら半袖だ。
これを体格の問題というのはやさしい。
でも、それだけではないはずだ。それとは別に着方の問題があると思う。サイジングや洗い方、アイロンをかけるか否かなどの全般で、どう着れば格好よくなるかがまだ日本人は半袖シャツの着方をわかっていないということもあるのだと思う。
サラリーマンが半袖ワイシャツを着始めて、もう随分たつと思うが、いまだにその着こなしが身についていないのだろう。
とはいえ、今日の主題はそうした異なる文化圏のあいだのファッションチェックではない。
おしゃれなパリの家の和家具
『パリのキッチン2』という、パリのおしゃれなキッチンを紹介した本がある。その本をみると、どのキッチンも、日本のシンプルに統一されたシステムキッチンのイメージとは異なり、色とりどりの道具が戸棚の中などに隠してしまわれることなく、おしゃれな感じで配置されている。置かれている道具ひとつひとつはおそらく日本でも売られているようなものだ。同じものを置くのでもこうも違うのかと感じる。
だが、そんな写真のなかに1つ、日本の和家具が置かれている写真がある。古い水屋箪笥のようである。ところが、それがイケてないのだ。あー、日本人ってセンスがないのかと思っていたのが、そこだけを見ると明らかに「勝った!」と感じるのだ。
1点だけなので断言はできないが、おしゃれなパリの人たちでもなじみのない和家具をおしゃれに使いこなすまでは至っていないのではないかと感じる。
作法は急に作れない
このパリの和家具と日本のサラリーマンの半袖ワイシャツの話って実は同じことを示しているんではないだろうかと思う。両者ともまだ自国に入ってきて歴史の浅い異国の文化の物をどう使ってよいか、その作法が生み出せてないのではないかと思うのだ。そんな風に考えるのは、まだ先日読んだ『台所空間学』(書評)の印象が強く残っているからだ。
すでに「台所空間学/山口昌伴」でも紹介しているが、そこにはこんな一文があった。
日本の台所にも作法の体系はあった。景観は荘重な風情をもっていた。決して画然と整理されきっていたわけではないが、道具・設備と空間の間にはりつめた緊張があった。日本の台所がとりとめのない猥雑さをみせるようになったのは、西欧の秩序を、作法ぬきに取り入れたからである。山口昌伴『台所空間学』
日本の今のキッチンが、パリのキッチンのようにイケてないのは、西欧の道具を「作法ぬきに取り入れたから」ではないか。同じように、パリの和家具や、日本のサラリーマンの半袖シャツがイケてないのも同様ではないかと考えてしまう。
作法と物
物だけ作ってもダメなのだ。物のデザインだけ良くしても良くはならないのだ。物の形にともなった作法も同時に作られる必要があるのだろう。だが、そこで問題なのは、作法はそうすぐには作れないということだ。
それは確かに歴史は浅いとはいえ、それなりの時間を経ているはずの日本人の半袖シャツやパリの和家具がいまだに物の形に適う作法を生み出せていないのをみても明らかだといえるのではないか。もちろん、日本のシステムキッチンも同様である。
作法が作れていないということが問題というより、作法なんて簡単に作れるものでないという認識が甘いことが大きな問題ではないかと思う。
作法は時間をかけて、それこそ親子代々引き継がれるような時間をかけてゆっくり形成されるのだろう。それゆえ、一度作法を失えば取り戻すのは時間がかかる。
作法を無視して無闇に物を作ってる場合ではないはずだ。
モノではなくコトをデザインするだとか、ユーザー経験をデザインするなどと暢気なことを言ってる場合ではないのだ。
伝統的な物が大事なのではない。伝統的な作法が大事なのだ。
作法を欠いた物は弱い。伝統的な物は作法をともなっているからこそ強いのではないだろうか。
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