それはいまコンピュータ関連の分野では話題になっているクラウドが、実は食文化においてはとっくに実現されているということである。
今更いうまでもなくクラウドコンピューティングにおいては、ユーザーは自分が所有するクライアント側には最低限の環境をもつだけで、必要なサービスはネットワーク(インターネット)経由で利用する形態となるが、それが実は食の分野においてはとっくに実現されてしまっているのだということに気づいて唖然としたのだ。
クラウドクッキング
すでに紹介したとおり、かつての台所は日々の食事のための調理をする場というだけでなく、勝手口の裏は畑や鶏の買われた庭とつながった生きたままの食材を保管する貯蔵庫でもあったし、それらを採取したあとも漬け物や味噌などの保存食料品として大量に加工する生産の場でもあったし、かつ、それら大量の保存食品を食料保管基地でもあった。生きたままの鶏や地面に植わったままの野菜を原料として保管し、かつ長期保存が可能な味噌や漬け物などという保存食も大量生産し食材として貯蔵しておく。そうした原料の保管、原料からの食材への加工、そして、その貯蔵という機能が、その時々の調理という機能のほかにかつての台所はもっていたのである。
むろん、それは「計画のスパン」というエントリーでも書いたように1年という長いスパンで食生活が可能になるよう経営するためである。
ところが、いまやそうしたかつての台所がもっていた機能は、食品メーカーや流通業にアウトソーシングされている。僕らは必要なときに(つまり日々の食事を調理する前に)スーパーなどにアクセスすることで、そうした外部のサービスを受ける。
かつて各台所が保有・管理していた機能をアウトソーシングすることで、いまやクライアントたる家庭のキッチンはきわめて縮小された機能しかもたなくなっている。食の生産と流通のネットワークが前提となって、各戸のキッチンはいまのように縮小された脆弱な形でも成立しているのだ。
これがクラウドでなくてなのだろうか。
クラウドコンピューティング以前に、クラウドクッキングはすでに実現され、もはやそれが当たり前になっているのだ。
中央集約型ゆえのリスク
いまのシステムキッチンとは名ばかりのなんら食生活のためのシステムも提供しない箱型家具を中心とした現在のキッチンからは、かつて各戸の台所が保持していた生きた原材料の保管、その原料から大量の保存食を加工する機能、さらに大量の加工保存食を貯蔵する機能が失われたのだから、何かの災害などでネットワークへの接続に支障が出たら、個々の家庭での食生活はひとたまりもなく破綻するだろう。危機管理という面では、いまのキッチンと生産/流通ネットワークを中心とした食文化というのは、生存のために必要な原材料、食材が中央に集約して管理されているという面で、きわめて脆弱なシステムではないだろうか。リスクヘッジという面では資産というのは分散して保管しておいた方がリスク回避がしやすいのではないだろうか。
それでは各家庭が昔のように食料生産機能や貯蔵機能を取り戻した方がよいかというと、むろん、そんな単純な話ではない。機能だけを物質的に取り戻したとしても、すでにそうした機能を運用するソフトウェアとしてのノウハウは失われているのだから、ハードウェア部分だけを回復しても意味はないだろう。
かつ核家族化した現在の家庭では、生産も貯蓄も各戸ごとにしたのでは明らかに非効率で、仮にソフト的なノウハウやスキルの回復がなったとしても、今度はそれを伝授して受け継いでいく仕組みがなく、すぐにまたノウハウ、スキルの断絶がおこることは目に見えている。
新たな食生活、食文化を提案するヴィジョン
おそらく中央集約というマス的マーチャンダイジング的な規模を単位としたものでも、核家族という極小な単位でもない、中間的な規模のコミュニティがネットワークを形成することで、新たな食生活、食文化をつくりだし、それに見合ったキッチンのありようや、キッチンと家の関係、キッチンと働き方・暮らし方の提案が必要なのだろう。そうしたヴィジョンがないままでは、箱形の台所道具をシステムキッチンと呼んでいる状況から先へは進めない。まさに「僕らは自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らない」で書いたとおりの状況だ。
それを運用するヴィジョンも持たないまま、やたらとハードウェアばかりをつくりたがるハードオリエンテッドな思考しかできない状態からどうにか抜け出さなくてはいけない。
単純に機能をアウトソーシングすれば生活が楽になるという安易な発想はもうやめるべきだろう。そのことで何が失われるかも想像もせずに、外部機器やネットワークに依存しすぎるというのはどういうことかをよく考えてみる必要があるだろう。
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