「河井寛次郎記念館」とか「下鴨神社&銀閣寺」とか。なんで、この人、京都に行ってるの?と思った方もいらっしゃったかもしれませんが、この週末の2日間、大阪でデザイン思考(あるいは人間中心のデザイン)のワークショップの講師をさせていただく機会をいただいたので、金曜日は京都で遊んだあと、夜に大阪入りしたんです。
2日間で計12時間(実際は両日ともすこし時間オーバー)の長丁場なので、その前にちょっと英気を養っておいたというわけ。
やった内容は人間中心のデザインのプロセスに沿って、KJ法をやったり、シナリオを書いたり、ペーパープロトタイピングしたり、といった定番メニューなので割愛。
代わりにワークショップをやってみて、あらためて「デザイン思考」に関する気づいた点をいくつかピックアップ。どれも僕にとっては「まったく新しい発見」というよりは、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』でも指摘している点ですが、あらためてその重要性を再認識させてもらったので、忘れないよう書いておこうか、と。
キーワードは「外部をいかに導入するか」。
ピックアップしたいのは以下の5つ。
- グループワーク、しかも、コラボレーションで
- 外部の事実を自分の殻の外に抜けだすための素材として蒐集
- さまざまな視点を導入しての粘りづよい分解と組み立て、視点の切り替え
- だだっぴろい空間を自分たちの思考の結果で埋める
- 繰り返しの作業による慣れ、身体にパターンを覚えさせる
では、ひとつひとつ簡単に補足。
グループワーク、しかも、コラボレーションで
『デザイン思考の仕事術』では繰り返しグループワークの重要性を説いていますが、今回気づいたのは同じグループワークでもできるだけグループ内に普段の生活の空間をともにしていない人が混ざっていたほうがよいのだなとあらためて認識しました。個々人が分業で作業をするのではなく、グループワークを行う利点はそもそも自分の凝り固まった思考から出てくるアイデアの枠組みから抜け出すことです。自分の思考のフレームワークから抜け出すのには、他人の別の見方が刺激になって、それまで見えてなかった風景がみえることがある。
そういう利点がグループワークをするメリットなんですが、今日気づいたのは、それがさらに普段いっしょに仕事をしていない人、職能が違う人が混ざったほうがさらにその効果が高まるのだなということでした。たぶん、すこし言葉が通じない者同士のほうがいいと思います。時間さえあれば、まったく言葉が通じないもの同士でもいい。
もちろん、コラボレーションなので、そういう言葉が通じない同士でも協力し合って、ひとつのものを生みだすんだという目的の共有と協力し合おうというモチベーションやそれを可能にするいくつかの道具立ては必要です。そうした条件が整えば、コラボレーションは異質なメンバー同士が混ざりあったほうが固定観念の枠にでるきっかけが増え、いままで出なかったアイデアが生まれやすくなるのだということを再認識しました。
外部の事実を自分の殻の外に抜けだすための素材として蒐集
上で「道具立て」さえあればと書きましたが、その道具となるもののひとつが、集まったメンバー全員の外に厳然としてある事実。人間中心のデザインであれば、それは観察やインタビューによる人びとの生活行動の事実そのものです。そうした事実がメンバーが自分たちの内にこもって、自分勝手な世界観でのみ安易に発想しようとする誘惑を断ってくれます。なのでポイントになるのは、そうした事実をいかに蒐集できるか。いかに自分たちの外部としての、人びとの生活を自分たちの思考のうちに外から導入できるか。
やっぱり人びとの暮らしに入り込むというのは重要なファクターですね。
さまざまな視点を導入しての粘りづよい分解と組み立て、視点の切り替え
で、そうやってひとつの道具としての人びとの生活行動に関する事実が蒐集できたとしましょう。そこでもうひとつ必要な道具となるのが、そうやって集めたデータをさまざまな視点からみる=分析するためのツールです。それはワークモデル分析だったり、KJ法だったりしますが、今日気づいたのは、この道具の使いこなしは、いわゆる要領がいい人よりも、多少要領が悪くても粘りづよく事実に向かい合える人のほうが結果としてうまくできるんだなということでした。
ワークモデル分析にしても、KJ法にしても、やっぱり自分たちの既存の固定観念を捨てて、いかに人びとの生活に迫れるかということです。インタビューで発せられた言葉だけを把握しても、それは人びとの生活に迫ったことにはなりません。いかにその言葉の背後にあるもの、観察された行動の背後にあるものを、粘りづよく、データを分解し、さまざまな形に組み立てなおしたり、カテゴライズしたデータ群のラベルを考えたりを繰り返しながら、なぜ、その言葉が発せられたのか、なぜそうした行動をとるのかということに迫らないといけません。
実はこれに向いているのが地道にデータにあたり、それを粘りづよく分解し組み立てるという作業ができる人なんだなと思いました。逆に要領のよい人だとうまく要点をつかんでしまうので、その要領のよさが迷いながら深くデータのなかに踏み込んでいくということをできにくくさせてしまうということがあります。
そうした要点を要領よくつかんでしまえる人よりも、データの海に溺れながらもひとつひとつのデータに向き合いながらそれらを自分の力でなんとか組み立てようと粘れる人のほうが結局は大きな波にのることができる。
そう。たとえば、これだけのデータをきちんと図式化してデータ間の関係性を明示できる人です。
だだっぴろい空間を自分たちの思考の結果で埋める
デザイン思考の発想には、広い空間が必要なことも再認識したことのひとつです。今回あらかじめできるだけ大きなスペースをとお願いしてあり、それなりになんとかなるんじゃないかと思えたスペースを用意していただいたのですが、それでも実際に作業をしてみるとスペースが足りなかったようでした。手を動かしながら、どんどんアウトプットしてみて、その作業を通じて発想を生み出すのがデザイン思考のやり方です。それは上の写真のようなKJ法でもそうですし、シナリオを書きつつのペーパープロトタイピングでもおなじです。
上の粘りづよさとも関係しますが、大量にアウトプットを生みだしながら、さまざまな角度からアイデアを検討するなかで発想を重ねていく。視点の切り替えによる発想の創出です。とうぜん、アウトプットの量を増やせば、それに応じてスペースは必要になる。だだっぴろい空間をいかに自分たちの思考の結果で埋められるかというのは、優れた発想にたどりつけるかどうかのポイントだと、これも再認識させてもらいました。
繰り返しの作業による慣れ、身体にパターンを覚えさせる
それから最後は、デザイン思考の発想術というのは、結局、身体をそのやり方に慣れさせながら、身体にデザイン思考の発想の仕方のパターンというものを手続き的記憶として書きこんでいくということが大事なんだなと思いました。ここがデザイン思考の仕事術を講師として教える場合のむずかしい点でもあって、僕がデータを前にしてみえているものが、はじめてこうしたやり方をする人にはみえなかったりするんですね。幽霊がみえる人がそうでない人に幽霊の存在を理解してもらうようなもので、これはなかなかむずかしい。座学による講義よりも、実際に作業を体験してもらうワークショップを重視するのもそこなんですが、今日参加してくれた何人かは、その作業体験の重要性を感じてもらえたようなのでよかったかな、と。
そして、これはもう言葉でそうだと書いておくしかないんですが、作業に慣れてくると、見えなかったものが見えるようになります。これはもう本当に何回も繰り返して作業してもらうしかないかなと。野球選手が何度も素振りをしたり、実践で生きた球をみて、バッティングというものを身につけるのとまったく変わらないものだと思っています。
というのが、あらためて重要だなと思ったデザイン思考のポイント。
お礼
最後に2日間ワークショップに参加してくれた皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。あっという間の2日間でしたが、楽しく過ごさせていただきました。
また、何かの機会にお会いできればと思います。
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