アフォーダンスの説明によく使われます。でも、それって椅子は座るものだという知識がすでにあるからじゃないの?といわれると返答に困ります。
説明としては、こういう例の方がわかりやすいのかなって思います。
ペンのように細いものを取ろうとするとき、ペンケースのようにある程度厚みのあるものを取ろうとするとき、手(指)の形は異なる。それもペンやぺーンケースに触れてから異なるのではなく、それらに触れる手前からすでに手(指)はペンやペンケースの形をなぞらえている。それぞれの形が、手(指)の形をアフォードする。
これが何か熱そうなものだとしたら、また、それは違う手の形をアフォードするし、蝶々をつかもうとしたら手は自然とやわらかな形をつくります。
アフォーダンスも専門家じゃない僕らのような人には、まずはこのレベルの理解からはじめるといいかなと思います。
どう、藤井君?
僕らは、いつも外部環境とインタラクションしながら
ひとつ前のエントリーでちょっと予測の話も書きましたけど、これが予測が働かないと行動が成り立たないということの一例でしょうね。こういう世界とのインタラクションもありつつ、僕らの思考も推論も働くというもの。単に「考える」といってそれが頭のなかで勝手に働いているというよりも、身体的にこうした外部とのインタラクションもありつつ思考しているのだと捉えた方がよいと思っています。
ノーマンがいうように、メモを使わない思考とメモを使う思考は別の作業だ、と。
メモa→考えるa→メモb→考えるb→メモc
こうやってメモを見ながら考える、考えたことをメモに書きだす、また、そのメモを見ながら考えるということをする場合、考えるaと考えるbは違うはずです。推論が働いて、思考が上書きされていくはずです。この繰り返しが最終的に求めるアウトプットにつながることもあるでしょう。
もちろん、記憶力に優れた人なら、メモなしでもある程度このプロセスを繰り返していくことは可能。でも、目の前にメモがあった方が何かがアフォードされやすくなります。当然、ここでは図式的に1つのメモから1つの思考みたいに表現しましたが、思考を生み出すメモは1つとは限らないないでしょうし、メモと何かの体験が組み合わさることで思考が展開することもあるでしょう。また、そこにいっしょに考えている他人の意見が入ることでまた変わってくる。
こんな風に、思考というものを作業レベルに落とし込むことで、そのブラックボックス的な見え方もすこしはマシになるのかな、と。僕がワークショップなど実際に手を動かしながらの思考を重視するのもここ。このあたりをもうすこし体系化できればいいなというのが、いまの課題。
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