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福島のいまとこれから(1/7)Twitter をはじめたきっかけ(@savefukushimaa さんインタビュー)

  3.11以降、福島第一原発の事故によって放射能汚染がひろがっています。しかしながら、放射能による被害をおおきく受けているはずの福島県に住むひとびとの声はなかなか聞こえてきません。たとえば、インターネットでは多様な意見が見られますが、インターネットを利用しない・できないひとたちはどんな経験をしているのでしょうか。福島の現状について知らないことは、まだまだ多いように思います。福島に住んでいるひとたちの声をきくことによって、できることなら有効な支援につなげることはできないか。そう考えて、ForFukushima 企画第二弾として福島への取材をメンバー3名で7月30日・31日・8月1日に実施しました。

  今日からは、3.11直後からいちはやくインターネット上で原発事故の危険性を指摘し、「子どもたちを守ろう」「そのためにつながろう」と呼びかけてこられた郡山在住の @savefukushimaa さんへの取材レポートを連載していきます。全部で7回程度の予定です。取材日時は2011年8月1日@郡山、聞き手・編集ともに @dabitur です。取材した内容は、一度 ForFUKUSHIMA のメンバーですべて文字起こしをして、その上で編者作業を行い、ご本人の承諾を経て、公開しています。

  編者からまえがきに代えて。個人的には、3.11直後から @savefukushimaa さんの情報発信には非常に勇気づけられてきました。テレビや新聞等から「原発は安全だ」「ただちに健康に影響はない」と声高に叫ばれるなかで、そうしたことばに飲まれることなく、原発災害にたいする福島に住むひとびとの葛藤や不安、怒りや悲しみに向き合っていた方だと思っています。と同時に、積極的に情報発信を行っているものの、ご自身の考えについてはあまり前面に出さない方だなとも感じていました。そのため、ぜひお話をうかがいたいなとつねづね思っていた方のひとりです。無事取材が終わり、結果を公開することができ、一番よろこんでいるのは私自身かもしれません。郡山市内の静かな喫茶店で氏のことばに耳を傾けつづけた時間は、福島の現状だけでなく、県内と県外との温度差や日本政府の災害対応の問題をあらためて浮き彫りにしてくれました。以下の取材報告が日本の歴史上最悪の原発災害にたいして私たちに何ができるのか、考えるきっかけになれば幸いです*1


1.Twitter をはじめたきっかけ
言えること、言えないこと

――まず、Twitter の @savefukushimaa アカウントで情報発信をはじめたきっかけについて教えてください。


地震直後の原発事故で、やっぱりどうみても放射能でまずい状況だったわけです。でも、「大丈夫だ」「大丈夫だ」っていわれているなかで気軽に「危険だ」といえない状況がありました。だから、自分で思いをちゃんと吐き出して皆にわかってもらうしかないなと思った。それで、アカウントを取りまして、状況をツイートしはじめた、という次第です。原子炉が爆発した直後か、3月17日くらいにはもう始めていたと思います。

だから、「言える部分」と「言えない部分」というのが3月11日の時点ではありました。危険だと言うことがタブー視されているような、危険と言ってはだめだ、というような状況がありました。

あと、一番の問題は、あの時ガソリンがなかったんです。「逃げろ」と言ってもガソリンがないわけです。だから、「そんなこと言ってても逃げられないじゃないよ」「それに政府は安全だって言ってるじゃない」「逃げろって何考えているんだよ」「そんなこと言ってどうするんだよ」「何が変わるんだよ」みたいな感じがありましたね。あの時はやっぱりそういう雰囲気が心苦しかった。


子どもたちになにができるか

――「いてもたってもいられない」というような気持ちから、はじめられたということでしょうか?

そうですね。爆発した直後に、ニュースの報道見ていても安全だって言ってるけどどうみても危ないだろっていう話になったんですね。ただ、まわりは、それでも「まあまさか郡山までは来ないだろう」「山も挟んでいるし」という感じでした。政府も同心円状しか言っていなかったですし、まさか福島経由でこんなふうに広がるとは誰も思ってなかった。

でも、うちは小さい子どもがいるので、やっぱりこれは危険だろうということになりました。癌になったりとか、チェルノブイリの例とか見ていると、まあ離れるにこしたことはないんじゃないかと思った。それで、なんとかガソリン集めて、家族といっしょに首都圏まで逃げたんですね。

でも、その時に考えました。福島に残っている子どもたちはあの場にまだいて、安全だと言われているけれども本当は危ない。子どもは全員避難すべき状態なのではないか? という悶々とした感じから、なにかできることはないかなという風に始めたんですよね。


つながることで変わる

――3月15日の爆発直後に savefukushimaa アカウントをはじめられます。

その後、仕事を再開しました。でも、この危険な状態で自分の地域の学校が再開される。しかも地震でいつ崩れるかわからないような校舎で新学期が始まる。そういう行政の対応もちょっとおかしいなと思いました。

でも、一個人じゃなにもできない。みなさんに声を聞いて伝えてもらって、できる人ができることをやる。それをつないでいくということをやるしかないなと思いました。「今こういう状況なんだ、子どもたちの命をつなぐために助けてくれる人はいないか」という感じで呼びかけていきました。

結果として、いろんな方が「やりますか?」とか「こんなことしますか?」といろんな声を上げてくださった。私のつぶやきをまとめてくださったりとか、mixi のほうでそれを立ち上げてくださったりとか、ポータルサイトを作ってくださったりとか。どんどんどんどん「みんながいろいろやり始めたら」ということをつないでいくことができました。そして、つないでいったおかげで、すこしずつすこしずつ、「ここにいるのは危険なんだよ」という声を出しづらい状況が改善されていきました。

そのおかげで今は誰もが危険だとわかっています。この場は危険、被ばくは危険だとみんなわかっている。あの時は「大丈夫」というふうにみんな言っていたんです。うちの親より上の年代はやっぱり固くて、なかなか厳しいものがあったのですが、最近は本当におかげさまで危険だっていうことがふつうに言えるようになってきました。

だから今はみんな危険って承知でここに住んでます。危険だってわかっても動けない人たちばっかり…そんな感じです。

(つづく)
*1 9月1日記。9月2日修正。
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テーマ:災害ボランティア - ジャンル:福祉・ボランティア

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