天神さまとお手玉
2011-02-27
一昨夜だったか、妹が電話をかけてきて、わたしがメールで問うていた件に関する返答をくれた。その電話は実家の玄関先で携帯電話からかけてきたものであったらしく、入れ替わり立ち替わり、いろんな人が出入りして、そのたびに妹が「せっかくじゃけん、話す?」と言っては電話を替わってくれるから、思いがけず、いろんな人と話す。
そこに姪(弟の子)のみみがーも通りがかったらしく、妹が「あ、みみ、ちょっと、この電話、みそちゃんじゃけん、あんたも話しんさい」と声をかける。みみがーは一応「こんばんは。みそちゃん元気?」と言うとすぐに「みそちゃん、みそちゃん、あのね、わたしね、五十回できるようになったんよ」と意気込んで言う。
「五十回?」
「うん。五十回。お手玉。片手お手玉」
「おおー。それは、すごいじゃん。すごいすごい。がんばって練習したんじゃ」
「そうよ。ずうっと練習しようたらできるようになった」
「えらいじゃん。お正月のときには、一回か二回か三回か、できるかできんかじゃったのにね。がんばったねー」
今年の年始に実家に帰省したときに、みみがーはお手玉に凝っていた。両手で行うお手玉はすでに上手にできるのだけど、私の母が片手で行うお手玉を見て、彼女はぜひとも自分もその技ができるようになりたいと思っていたらしい。私の母は二個のお手玉を片手でひゅるんひょるんぽるんひゅるんひょるんぽるんとリズミカルに回す。私は二個のお手玉を両手で行うのが好きで、それ以外の技は持たない。他界中の祖母は、両手お手玉派なのは私と同じだったけど、一度に使うお手玉は三個と決まっていた。お手玉は二個が三個に増えた途端に、曲芸度が高くなる。
そして、みみがーは、お手玉二個片手コースの自主特訓に励んでいた。その特訓は全く秘密裏ではなくて、常に公開されている。まだ上手にできるわけじゃないのに「あ! わたしできるようになったかも!」と言っては、周りの人間に、たとえば私に「みそちゃん。見とってよ。するよ」と言って、お手玉を宙に放る。けれども、全然できるようにはなっていなくて、お手玉は宙から床に落ちる。それでも、彼女は、何度も何度も「見とってよ。できるけん、見とってよ」を繰り返す。
妹は「みみがー、あんたねー、見とってよ、は、ええけん、人に見てもらわんでも一人で練習しんさいや。ちゃんと一人で練習してから、できるようになってから、見せんさいや」と言う。母(みみがーにとっては祖母)は、お手玉をするときには、必ず天神さまの歌をうたうのだが、みみがーにお手玉を教える時にも、その歌をうたう。だから、みみがーは、私にも「みそちゃん、うたって。わたしがどこまでできるか、うたって、見とって」と言う。だから私は、みみがーのお手玉の練習に合わせて、その歌をうたう。
天神。天神さま。天神さまと。天神さ。天神さ。天神。
みみがーのお手玉に合わせると、その出だしの歌詞の部分から、なかなか先に進めない。傷がついたレコードみたいだな、と思いながら歌っていると、母が近くにやってきて、正座して、お手本を見せ始める。
天神さまという方は、御名は菅原道真公。学問深く徳高く、君に忠義のこころ篤く。
ああー、全部歌えて、すっきりー。みみがーが自分もその歌をおぼえると言うから、母と二人でもう一度最初から歌う。
てんじんさまというかたは、おんなはすがわらみちざねこう。
「あ、みみ。意味わかる? おんなはすがわらみちざねこう、の、おんな、ってわかる?」と訊く。わたしはだいぶん大きくなるまで「御名」ではなくて「女」だと思っていたから。「すがわらみちざね」って男っぽい名前なのに「女」なのかな、でもまあ、小野妹子は女っぽい名前だけど男の人だし、ま、いいか、いいんじゃろうね、と長く思っていたから。みみがーが「女の人なんじゃろ」と言うから、「それがね、違うんよ。おんな、は、お名前のことなんよ。御(おん)名(な)」と説明すると、漢字に強い彼女はすぐに「ああ、はいはい、御名ね」と納得する。
そして、また最初から歌い始める。
てんじんさまというかたはー、おんなはすがわらみちざねこうー。がくもんふかくーとくたかくー、きーみにちゅうぎのこーこーろあーつーく。
みみがーが、五十回連続で片手で二個のお手玉ができるようになったということは、この歌も最初から最後まですっきりと歌えるようになったということ。この歌を歌い終えても、まだ、片手二個のお手玉を投げ続けることができるようになったということ。できなかったことができるようになることや、ただできるだけでなく上手になめらかにできるようになることは、うれしい。自分でも自分以外の人でも。そしてそうやって自分や誰かが何かを上手にするのを見たり聞いたり感じたりすることが、わたしはかなり好きだなあ、と、この世のお楽しみだなあ、と、ぷくぷくといとおしく思う。 押し葉
そこに姪(弟の子)のみみがーも通りがかったらしく、妹が「あ、みみ、ちょっと、この電話、みそちゃんじゃけん、あんたも話しんさい」と声をかける。みみがーは一応「こんばんは。みそちゃん元気?」と言うとすぐに「みそちゃん、みそちゃん、あのね、わたしね、五十回できるようになったんよ」と意気込んで言う。
「五十回?」
「うん。五十回。お手玉。片手お手玉」
「おおー。それは、すごいじゃん。すごいすごい。がんばって練習したんじゃ」
「そうよ。ずうっと練習しようたらできるようになった」
「えらいじゃん。お正月のときには、一回か二回か三回か、できるかできんかじゃったのにね。がんばったねー」
今年の年始に実家に帰省したときに、みみがーはお手玉に凝っていた。両手で行うお手玉はすでに上手にできるのだけど、私の母が片手で行うお手玉を見て、彼女はぜひとも自分もその技ができるようになりたいと思っていたらしい。私の母は二個のお手玉を片手でひゅるんひょるんぽるんひゅるんひょるんぽるんとリズミカルに回す。私は二個のお手玉を両手で行うのが好きで、それ以外の技は持たない。他界中の祖母は、両手お手玉派なのは私と同じだったけど、一度に使うお手玉は三個と決まっていた。お手玉は二個が三個に増えた途端に、曲芸度が高くなる。
そして、みみがーは、お手玉二個片手コースの自主特訓に励んでいた。その特訓は全く秘密裏ではなくて、常に公開されている。まだ上手にできるわけじゃないのに「あ! わたしできるようになったかも!」と言っては、周りの人間に、たとえば私に「みそちゃん。見とってよ。するよ」と言って、お手玉を宙に放る。けれども、全然できるようにはなっていなくて、お手玉は宙から床に落ちる。それでも、彼女は、何度も何度も「見とってよ。できるけん、見とってよ」を繰り返す。
妹は「みみがー、あんたねー、見とってよ、は、ええけん、人に見てもらわんでも一人で練習しんさいや。ちゃんと一人で練習してから、できるようになってから、見せんさいや」と言う。母(みみがーにとっては祖母)は、お手玉をするときには、必ず天神さまの歌をうたうのだが、みみがーにお手玉を教える時にも、その歌をうたう。だから、みみがーは、私にも「みそちゃん、うたって。わたしがどこまでできるか、うたって、見とって」と言う。だから私は、みみがーのお手玉の練習に合わせて、その歌をうたう。
天神。天神さま。天神さまと。天神さ。天神さ。天神。
みみがーのお手玉に合わせると、その出だしの歌詞の部分から、なかなか先に進めない。傷がついたレコードみたいだな、と思いながら歌っていると、母が近くにやってきて、正座して、お手本を見せ始める。
天神さまという方は、御名は菅原道真公。学問深く徳高く、君に忠義のこころ篤く。
ああー、全部歌えて、すっきりー。みみがーが自分もその歌をおぼえると言うから、母と二人でもう一度最初から歌う。
てんじんさまというかたは、おんなはすがわらみちざねこう。
「あ、みみ。意味わかる? おんなはすがわらみちざねこう、の、おんな、ってわかる?」と訊く。わたしはだいぶん大きくなるまで「御名」ではなくて「女」だと思っていたから。「すがわらみちざね」って男っぽい名前なのに「女」なのかな、でもまあ、小野妹子は女っぽい名前だけど男の人だし、ま、いいか、いいんじゃろうね、と長く思っていたから。みみがーが「女の人なんじゃろ」と言うから、「それがね、違うんよ。おんな、は、お名前のことなんよ。御(おん)名(な)」と説明すると、漢字に強い彼女はすぐに「ああ、はいはい、御名ね」と納得する。
そして、また最初から歌い始める。
てんじんさまというかたはー、おんなはすがわらみちざねこうー。がくもんふかくーとくたかくー、きーみにちゅうぎのこーこーろあーつーく。
みみがーが、五十回連続で片手で二個のお手玉ができるようになったということは、この歌も最初から最後まですっきりと歌えるようになったということ。この歌を歌い終えても、まだ、片手二個のお手玉を投げ続けることができるようになったということ。できなかったことができるようになることや、ただできるだけでなく上手になめらかにできるようになることは、うれしい。自分でも自分以外の人でも。そしてそうやって自分や誰かが何かを上手にするのを見たり聞いたり感じたりすることが、わたしはかなり好きだなあ、と、この世のお楽しみだなあ、と、ぷくぷくといとおしく思う。 押し葉