みそ文

身悶えするよな精進を

 山用品屋さんから宿に戻る。夫はおやつに生もみじを食べたあと一階で煙草を吸ってくると言う。夫は「一階に降りたついでにフロントで今日の夕ごはんは六時からにしてもらうように頼んでくる。今日は山に登ってお腹がすいたから早く食べたい」と言って部屋を出る。私は部屋の卓でペルシャ語の書き取り練習を行う。

 夫が部屋に戻ってきて「夕ごはん六時にしてもらえるって」と言う。「昨日と今日では宿泊料金が四千円違うけど、部屋は同じだからその部分は変わらないとして、同じ精進料理で何がどう違うんじゃろうね」と予想を始める。

「予約の電話できいたときには、品数が少し四品ほど違うんです、って言いようちゃったけど、どうじゃろうねえ、例えば昨日はあった山菜おこわはたぶんなくて白ご飯だと思うんよ」
「ああ、そうやなあ、あと豆乳鍋もないやろうなあ」
「二連泊だと少し目先を変えてきてじゃろうけん、何かがちょっと変わるとして、おこわがなくて、お蕎麦もなくていいなあ、そういうかんじのものの品数が減って、楽勝で食べ尽くせるかんじの内容なんじゃないかな」
「今日の大山で食べたおにぎりも精進だったもんなあ。梅と昆布とゆかり混ぜご飯みたいなやつの三種類で、おかかも鮭もなかったもんなあ」
「うん、私ね、こういう精進料理の宿なら外泊も外食もラクにできるんだなあって、今回気づいた。いちいち五葷を外してくださいってリクエストしなくても全然五葷がなくて安心。唐辛子系は出てきても仕方ないかなと思ってたけどそれもなかったし」
「ほんまやなあ。昨日はシシトウも鷹の爪もピーマンもパプリカもなかったなあ」
「でしょ、なんかね、すごく安心なん。じゃけん、私、明日の朝部屋で食べる朝ごはん用とチェックアウトしたあと車の中で食べるようにおにぎりをお願いしようかと思うん」
「えー、それは、お昼ご飯は、高速道路のサービスエリアで食べたいなあ」
「うん、どうやらくんはそうしたらいいじゃん。私はサービスエリアでもネギなしでとかいちいち言うの面倒臭いけんここでおにぎり作ってもらって持ってれば安心じゃけんそうする」
「でもここのおにぎりは特別おいしいわけじゃなかったぞ。まあ、おれの場合は朝の出発が早かったけん、明らかに前の晩の作りおきじゃったけんかもしれんけど、明日の朝の作りたてじゃったらまだいいかもしれんなあ」
「うん。私、夕ごはんの時に明日のおにぎりのお願いをしとく。おにぎりじゃなくて幕の内弁当にしてもらってもいいかもしれんよね。精進の幕の内弁当なら安心じゃもん」
「なんか、みそきちどんさん、精進が食べたかったんやなあ」
「精進が、というよりも、五葷抜きで私が食べても頭痛を心配しなくてよくておいしい外食とそれができる外泊を求めていたんだと思う。それにここの宿坊だと、そんなに宿坊宿坊修行修行してないし。旅先の宿泊施設として私は宿坊を狙うといいんかなあ」
「それはどうかなあ。どこの宿坊でもみそきちが大丈夫な食事とは限らんかもしれんじゃん」
「それはまあそうなんだけど、これまでは、なんかもう食事の交渉が面倒くさくて、外泊や外食に関する意欲を発揮するのも面倒になりつつあったけど、今回の精進宿で私の旅の意欲が少し盛り上がったような気がするん」
「ほほう、それはよかったなあ」

 食事の前にお風呂に入る。夫は「おれは山からおりたときに入ったからいいや」と言う。昨日は母と二人だったお風呂は今日は私ひとりで貸し切り。脱衣室のゴミ箱は昨日と同じようにいっぱいで、やはりここの宿は掃除のたびにゴミ箱を空っぽにするわけではないんだなと思う。浴室の窓をあけて換気しながら湯船につかる。お風呂をあがるときには窓をしめておく。部屋に戻って身体を冷ます。スキンケアをゆっくりとして、お布団をのべて大の字になる。ああ快適。

 外出から戻った時に新しい急須を借りて、部屋ではひとつの急須では夫用に緑茶を、もうひとつの急須では私用になたまめ茶を入れて飲む。そのなたまめ茶は持参のものだけど、そうだ、ここで売ってる鳥取大山産のなたまめ茶を買って帰ろうかなあ、そうしようかなあ。よし、夕ごはんの時にお財布持っておりてフロントでなたまめ茶を買おう、そうしよう、と思う。

 精進料理宿坊に気をよくする私に夫は「みそきちどんさん、ごきげんやなあ」と言う。「うん。私、大山に来てよかった。どうやらくんも日本百名山のひとつの大山に登れたけんよかったんじゃろ」「うん、それはたしかによかった」

 ふたりともそれぞれの布団に寝転んで過ごす。夫は夕方のテレビを何か見ている。私は携帯電話で母の携帯電話番号宛に「今日はどうやらくんの希望で夕ごはんは六時からです。大山登山でお腹がすいたんじゃろうね」とメッセージを送る。これは、まあ、そういうわけであるから、母が六時過ぎに無事に帰宅してもすぐに無事に着いたよ連絡をしてこなくていいけんね、というか、むしろ食事中に連絡してこなくていいからね、という意味を込めているともいえる。

「ねえねえ、どうやらくん、なんとなくなんだけど、この部屋のお湯のポットって、昨日よりもなんかだんだんと大きくなってると思わん?」
「さあ、ようわからんけど、昨日おれの部屋にあったポットよりは確実に大きい」
「うん、形と色は同じなん。胴体が銀色で蓋と取っ手が黒いのは同じなん。でもなんかだんだんとサイズが大きくなった気がする」
「そりゃあ、あれだけ何回も何回もお湯くれお湯くれ言うてたら、こいつどんだけ飲むんかいな、もう大きいポットにしといたろ、思うわ」
「湯沸かしポットか電気ケトルが常備してあればそれで済むことなんだけどねえ。まあ、他のお客さんはそんなに何回もお湯を欲しがらんのんかもしれんね」
「それは間違いなくそうやろ」

 夫が「もう六時になったから食事に行こう」と言う。「そういえば、昨日は食事の用意ができたら部屋の電話で呼び出してくれたけど、今日は六時を過ぎてもなにも呼び出しサービスがないねえ。四千円の差はまずこのサービスがあるかないかにもあるんかもしれんね」と言いながら部屋の鍵をかけて階段をおりる。

 フロントの前を通り玄関あたりで今日の食事の場所はどこかなあ、昨日と同じ個室のあたりかな、と迷っていたら、宿の人が「お待たせいたしました、今日のお食事はこちらです」と案内してくれる。宿の人に部屋のポットを渡して「新しいお湯をまたください」とお願いする。

 食事の場所は大食堂で、学生食堂のようなおもむきのテーブルと椅子がたくさん並ぶ。なるほど、四千円の差は個室か大食堂かの差、きれいな庭を眺めながらの落ち着いた和室かこれといった景色は見えないいかにも食堂な部屋なのかの差額でもあるのね、と思う。そして昨夜は個室でエアコンだったけど、大食堂ではエアコンなしで扇風機二台なのね、これも差額のうちなのね、と思う。

 席に案内されて座る。卓の中央にあるのはドーナツ型のこれはジンギスカン鍋というのだろうか。宿の方が「今日はしゃぶしゃぶです。こちらのゴマだれをお使いください」とゴマだれの器を置いて出て行く。火のついたコンロではお湯がぐつぐつと煮える。そして卓上の大皿には大量の薄切りの豚肉が。

 ええと、ええと、ええと、ええと、これは精進料理ではない。でも私の中の私がとっさに「ああ、でも今日はどうやらくんは大山にのぼっておりてきたから身体が動物性たんぱく質や豚肉のビタミンB群を欲しているだろうなあ」と思う。それで「これは、思いがけない、あまりにも意外な展開だけど、私は別にベジタリアンというわけではないから、まあ食べられるけど」と思い込むようなとっさに自分を洗脳するような気持ちで、いただきます、と夕食に手を付ける。

 豚肉以外にもそれぞれに二種類のお刺身が置いてある。「赤身のほうはたぶんマグロで、もうひとつの白っぽいほうは何かなあ」と私が言うと夫が「カツオじゃないかな」と言うから、「カツオはこんなに白くないんじゃないかなあ、この独特のにおいはワニ、あ、ワニというのはサメのことね、じゃないかな」と話す。日本海側の山の中ならサメが出てきてもおかしくないけど、米子まで車で一時間かからない今時の流通事情でわざわざサメは出さないかなあ。

 夫が「うーん、これは、どう見ても精進ではないんじゃないかなあ。宿坊でこれはいいのか」と言う。私が「お刺身も豚肉もあるんじゃあねえ、でも、仏教の宗派によっては肉も魚もありが標準なところもあるからこれもありなんかなあ、でもそれを精進料理と呼ぶかどうかはわからんけど」と言うと、夫が「そうじゃなくて野菜。ネギ」としゃぶしゃぶ用の野菜盛り合わせのお皿の中に大量に鎮座するネギを指さす。「がーん、がーん、がーん。ううう。はあ。だけど、でも、まあ、魚と肉が出てくるのであればもう五葷がいくら出てきてもおかしくはないよね。大丈夫。ネギ以外の野菜を食べるから。私が食べ終わるまで鍋にネギを入れるのは待ってね」と私は真剣にうなだれる。

 普段は自宅で魚も豚肉も普通に食べはするけれど、特に魚に関しては日本海の海の幸をたいそう愛しているけれど、今回の大山旅行には「精進料理」を楽しみにしてやってきて、口もお腹も身体もすべてがすっかり精進料理を摂取する態勢になっていたものだから、思いがけない刺身と豚しゃぶがあまりスムーズに身体に入ってこない。夫は「おれは問題なく食べられる、山からおりてきた身体だから」と言うけれど、お皿の豚肉はおそらくゆうに400gか500gくらいはあり、普段自宅の夕食では二人で150g前後の摂取量である身にはそれはあまりにも多くて、夫もとうてい食べ切ることなどできない。

 夕陽があたる暑い大部屋でエアコンなしで扇風機で鍋の火を焚いているからさらに熱く、食欲はさらに低下する。ご飯はもちろん白ご飯で山菜おこわではない。これは予想通り。私は早々に箸を置いて卓上の急須のなたまめ茶を飲む。夫は「おれももうお腹いっぱいやなあ」と言い始める。でもまだお皿には大量の豚肉と大量の野菜がある。

 宿の人が入ってきて「ゴマだれ足りていますか。追加をお持ちしましょうか」と訊いてくださるが、「いえ、もう、これ以上は」と断る。宿の人は「ではこのあと鮎の塩焼きをお持ちしますね」と言われる。私たちは「えええええっ」と本気でおののく。夫が「いや、豚肉もこれ以上は食べられませんので、焼き魚はなしでお願いします」と言う。宿の人が「もしかして、お魚やお肉は苦手でいらっしゃいましたか」と問われる。私は「食べられないわけではないのですが、たくさん食べることはできないので、精進料理を希望してこちらのお宿を選んだのですが、精進料理ではなくて少々驚いております」と伝える。そこで夫が「ぼくは大丈夫なんですけどね」と言う。

 宿の人は少し驚いて「まあ、そうでしたか、それは、事前に確認させてもらったらよかったですねえ。すみませんでした」と言われる。私は「いえ、こちらも事前に希望を伝えておいたらよかったです。次回は事前にリクエストするようにします」と応える。宿の人が「それでは、焼き魚のあとにお出しするデザートの果物はお持ちしてもよろしいでしょうか」と言われて、夫が「はい、それはいただきます」と言い、私も「いただきます、お願いします」と続ける。出された果物はスイカ。しゃくっしゃくっとスイカを咀嚼して飲み込む。

「ねえ、どうやらくん、なんか、お魚やお肉って、こう身体にぐっと重くくるね」
「それだけエネルギーが大きい食べ物なんやろうなあ。昨日は野菜ばかりでたくさん食べても重くなかったけど、動物性たんぱく質が身体に入ってくるとなんか少し入ってきただけで身体が瞬時に満足するなあ」
「さすが動物性たんぱく質だねえ。でも精進料理を食べる気満々だった身体にこんなに大量の豚肉は無理」
「いや、この量は、しゃぶしゃぶ食べるぞ、っていうときでも、おれらには無理な量だから」
「でもね、こうしてお肉もお野菜も大量に残すのってね、食事としての満足感がねえ。昨日みたいに出されたものすべてきれいに平らげましたっ、っていう快感がないねえ」

 スイカを食べ終えて、厨房に「ごちそうさまでした」と声をかけてから部屋に戻る。夕食が精進料理でなかったショックで、私は翌日のお弁当やおにぎりのこともなたまめ茶購入のこともなんだかどうでもよくなり、食事のあと宿の人に何も頼むことなく、なたまめ茶を買うつもりで持っておりていたお財布と新しくお湯を入れてもらったポットをそのまま抱えて二階にあがった。

 部屋で布団に横になる。夫はテレビでオリンピック選手の特集番組を見る。私はこのショックをどう発露すればよいかとぐるぐる思いあぐねる。とりあえず母の携帯電話番号あてに「今日の夕ごはんは豚肉のしゃぶしゃぶでした。びっくりびっくり」とメッセージを送る。しばらくすると母から「なんとそれはいったいどうしたことなのだ」と返信が届く。

 テレビを見る夫の背中に自分のお腹をくっつけて横になる。思いがけず食した動物性たんぱく質を消化するためには少しお腹をあたためたほうがよさそうなかんじだから。

「あのね。どうやらくん。今日の夕ごはんのときにね、出されたものに手をつけずに、本気ですごーく驚いて、これは食べることができません、精進料理のつもりで予約したものですから、これからでも精進に作りなおしてもらえますか、って言う方法もあったと思うん」
「まあ、それもありやろうなあ」
「でもね、私はどうやらくんに対して思いやりがあるけんね、ああ、今日は山に行ったしお腹ぺこぺこですぐに食べたいだろうなあ、精進料理よりも動物性たんぱく質がある料理のほうが身体には嬉しいだろうなあ、と、とっさに思ったんだよねえ」
「うん。たしかに動物性たんぱく質は身体にぐっと力になった」
「でさ、どうやらくんて、ああいうときに、今回に限らずだけど、私が食事に関して事情がある話をしたときに、必ず『ぼくは大丈夫なんですけどね』って言うでしょ。あれはなんなん?」
「フォロー」
「誰をフォローしてるん?」
「宿の人。だって、なんか気の毒じゃん」
「気の毒なのは私も相当気の毒だと思うんだけど、私のフォローは?」
「今してる」
「ああ、うう、私は、これで、宿坊を使うスタイルの旅行にすれば、外食外泊もらくになるなあって、すごく発見した気分だったん。だってね、宿のホームページのどこにも肉魚料理のことは書いてなくて『精進料理の宿坊』だったんだもん。なのに、なのに、こんなにがつんと肉や魚が出てくるんなら、それなら何もここの宿でなくても他の肉魚料理での研鑽を積んでいるお宿にしてたと思うん」
「たしかに他の宿のほうが、もっと肉魚料理は上手」
「うわあああん。精進料理の宿坊だからここのお宿にしたのにー。バタバタバタバタバタバタ(布団の上でバタ足をして暴れる)」
「ああー、ジタバタ暴れようてじゃ。身悶えようてじゃ」
「暴れるよー、身悶えるよー。だって、だって、精進料理のつもりじゃったんじゃもん。すごく楽しみにしとったんじゃもんー」
「でもそれは、たとえ精進料理が売りの宿坊であっても、やっぱり、二泊とも精進にしてくださいとか五葷抜いてくださいとかリクエストするのを面倒くさがっちゃあいけん、いうことなんじゃないかな。精進料理を食べて精進するべき宿坊という場所において精進を怠っちゃあいけませんよ、ということなんじゃろう」
「うわあああん。なんでー。精進料理を食べるために精進をせんといけんのんー」
「精進には限りがないんだって。それが精進なんじゃけん。ほら、さっきのテレビでオリンピックの選手だってオリンピックでメダルを取るためにはあんなに苦労するんだってテレビの人が言ってたじゃん」
「私の外食や外泊はオリンピックじゃないよ。ただの食事と宿泊だよ」
「いいや。みそきちはそこでラクして自分の希望を叶えようと思うようじゃあ、精進する人としてまだまだいうことなんだって。そう簡単に実現するものじゃないという前提が必要なんだって」

 なんだかたいへんに不本意ではあるけれど、夫の言うことはなにやらいちいちもっともで、でもせめて精進料理が売りの宿坊では昨日も今日も明日も明後日も精進料理だけを供してもらいたいものだという思いが切々とつのる。

 神社を散歩してゴンドラに乗ってソフトクリームを食べてたいそう楽しい一日だったけれど、夕食の思いがけない展開にうちひしがれて早々と寝る。夫には「あとで寝るときに、テレビのコンセントを抜いておいてほしいの。テレビの電源の赤いランプの明かりが眩しくてしんどいけん」と頼んでから目をつむる。

 翌朝目が覚めたのは七時過ぎた頃だろうか。ぬるくなったポットのお湯に携帯湯沸かし器を入れて再度沸騰させる。紅茶に豆乳を入れていつもの朝のように飲む。緑茶の茶葉を新しくして渋めの緑茶を入れる。残りの生もみじを朝ごはんに食べる。部屋の窓から見える大山は今日も雄大で美しい。身支度を整えてから、窓辺で写真を撮ってもらう。

 ゆっくりと身支度をして九時すぎにチェックアウトする。本来ならチェックアウトは指定のチェックアウト時間ぎりぎりの遅い時間に行う主義であるが、今回はまだここから自宅まで高速道路での長距離移動をしなくてはならないから早めに出発することに。

 会計の時に宿の人が「昨夜のお料理では本当にすみませんでした」と言われる。私は「いえ、今度は事前に、精進料理希望であることをリクエストすることにします。でも精進料理の宿坊でも精進料理以外の料理が供されることがあるものなのですねえ」と丁寧に応える。宿の人は「実はもともと二連泊というお客様は殆どなく、たまに連泊される方はほぼ間違いなく山登りのお客様で、そういう方はやはり山で疲れて戻ってこられるものですから、山からおりてきた日の食事は肉や魚にしてほしいというリクエストが続きまして、そういうことであればと今の形になっていたんです」と説明される。私は「ああ、はい、それはそうでしょうねえ、山でエネルギー使ってきた人の身体は精進料理よりも肉魚を求めるものなのでしょうねえ」とヒトの身体が欲する栄養について思いを巡らせる。

 どうもありがとうございました、と、玄関を出て車に荷物を入れる。トランクに旅の荷物を積みこみながら、私は、はっと「たいへんっ」と思い出す。「冷蔵庫に預かってもらったもの、忘れてきたから取りに行ってくる」と夫に伝えて宿に戻る。宿の人に「すみません。冷蔵庫と冷凍庫で預かってもらったものを…」と言うと宿の人も「ああああっ、そうでしたっ」と大急ぎで出してきてくださる。思い出してよかったです、と、今一度お礼とお別れの挨拶をして、マンゴープリンと保冷剤を抱えて車に戻る。

 大山のふもとから米子自動車道で岡山方面へと南下する。高速道路を走ると、車の窓から見える大山の形が宿の窓から見えていた大山の形とは異なることに気がつく。そしてさらに走るとまた山の形が違って見える。

 大山はほんとうに気持ちのよいところであった。宿坊で連続精進料理のつもりでいたのが後半全然精進料理ではないものが出てきて驚愕はしたけれど、予想外の本意でない展開に心底落胆しながらも、ああ、この展開はネタとしては悪くない展開だわ、と脳内で自分がキーボードを叩き始める音が聞こえてきて、こういうのを人はきっと「業(ごう)」と呼ぶのであろうなあ、と納得するような諦めるような悟るような、いろいろ思い通りにはならないけれど、少なくともネタのかみさまには寵愛を受けているようだわと、自分で自分を慈しみ慰め励ます。

 このあとは米子自動車道、中国自動車道、舞鶴若狭自動車道、そして北陸自動車道と走行して自宅を目指す。走行時間は休憩も含めて八時間前後の予定。たのしかったな、大山。また来たいなあ、大山。そして今回の山陰紀行はこれでおしまい。めでたしめでたし。     押し葉

光る温度計

 大山で泊った宿からほど近い場所にそのお店はある。名前はモンベル。スペルはmont-bell。夫が買い物をする間、私も店内で待つ。私には山用品アウトドア用品の買い物希望はない。

 夫は一階で目当ての商品を見るが、私は店内の階段をあがり二階の展示室に入る。展示室の入口には「会計前の商品の持ち込みはご遠慮ください」の案内がある。私には会計前の商品も会計後の商品もないのでそのまま展示室に入る。展示室には特に大山にこだわったわけでもなく、アウトドアに特化したわけでもない美術作品が壁にぐるりと展示してある。

 展示室の真ん中にある椅子に腰掛ける。美術館や博物館ではできるだけ展示室の中ほどに身をおくことにしている。椅子があれは椅子に座って、なければなんとなく立って。展示物を直近間近で見ると、大抵の場合において、私はエネルギー負けを起こす。

 エネルギー負けというのは、なんと説明するとよいのか少し迷うのだけれども、食あたりのような熱射病のような、頭が痛くて息苦しくて軽く吐気がするような症状に見舞われる。これは絵画にしても彫刻にしても古代の遺跡関連物にしてもおなじで、人間がつくったあらゆる作品に相対する時にはその作品の前でがぶりよつになることなく身体も気持ちも一定の距離を保つことで、作品のエネルギーに毒されるような、毒されると言うと少し聞こえがよくないかなあ、感電するようなそんな症状を予防できる。これが同じ展示物であっても、地層であるとかただ切り出された鉱物であるとかそういうものの場合は不思議とエネルギー負けが起こらない。だから地質学系統の展示館ではわりと安心して地味ではあるが気楽にはしゃいで過ごせる。

 エネルギー負けを起こすのは現代作家さんの展示作品でもそうではあるのだが、よりいっそうエネルギー負けを起こしやすいのは歴史のある展示物。少し古い有名な絵画も危険であるが、古代エジプト展であるとか名城に展示される当時の刀であるとか、そういうものにはさらなる注意が必要だ。よほど自分の興味があるものを除いては、展示物から少し距離を置いて、その展示物が放つエネルギーをミストシャワーのようにふうわりと浴びる程度にとどめる。それを入館料を払ったからには元を取らなくちゃ的感覚であらゆる展示物の間近に近寄って、特にメインとなるような展示物を見るために並んでまでそのすぐ前でその作品と対峙するとその後だいたい寝こむ。寝込んで苦しんで消耗する私の体力気力にもしも値段がつけられるとしたら、その価格は入館料よりもずっと高いと思うのだ。入館料の元を取ろうと思って無理して展示物をガン見して体調崩して寝込んだのでは、そういうのを「本末転倒」というのではないかなと。

 人ごみの中で並ぶという作業自体がもともと得意でない私にとってはその作業だけでも十分に疲労の原因にはなる。そこにさらに、なんだろうなああれは、存在の主張が強力な作品、とでもいうのだろうか、そういうものと向き合う作業を重ねると、高い確率で寝こむ。

 でもそこで、その作品の存在もそれを見る人々がいればその人々の存在もそこに在るすべての存在エネルギーを均等にうっすらとそよ風を浴びるように、自分の全身で受け止めれば寝込むほどには疲れない。むしろそれは心地よい刺激で、ふだんの暮らしでは得ることのない種類の栄養のようななにかとして好ましいこころ持ちで吸収する。

 展示物から数メートル離れてそのものを見るということは、展示物の細部までよくよくは見れていないだろうとは思う。特別に細部まで見たいものに関しては、そのつもりで気合を入れてその展示物の前に立つ。が、そうでないものに関しては、少し遠くから俯瞰することで見えるものを味わう。そういう見方をするためには、展示室の中央あたりに配置される椅子というのは絶妙に使い勝手がよいものであり、展示をする側の人というのはよく考えて気配りをするものなのねえと感心する。

 モンベルの二階の部屋で椅子に腰掛けてぐるりと壁に目を向ける。なんとなく、弟に「母は無事に特急に乗ったよ」の連絡を携帯番号宛てメッセージで送ろうかな、と思いついて携帯をバッグから出して手に取る。んー、でも、やっぱり、まあいいか、と思うと同時に、連絡するとしたら、鳳来万頭をくれた義妹(弟の妻)にお礼も兼ねてするべきかしら、と思う。しかし、おやおや、私は義妹の携帯電話番号を知らないのね、ということに気づく。それじゃあ連絡しようがないから(いや、実家に電話をかけて音声で伝えるという方法がないわけではないのだが)、鳳来万頭のお礼は後日自宅のPCから義妹の携帯メールアドレス宛に送ることにしましょう、と決める。

 モンベル二階の展示室はあまりエアコンが効いていなくて、全身がじわりと汗ばむ。涼しい一階に降りることにして、とんとんと階段をおりる。夫は山歩きの時に使うグローブを物色している。気に入ったものはあるのだが、右手にサイズを合わせると左手には少し大きくて、左手にサイズを合わせると右手には少し小さいとかで、サイズをどうしようと迷う。私は、なるほど、こういう手袋をしていれば、うっかりウルシの枝に触れても、少し前の夫のように手の甲が漆かぶれの水ぶくれだらけにならなくても済むのね、と納得する。実際には漆かぶれ予防目的よりも、ちょっとした岩場などをよじ登る時になにかをしっかりと掴むことのほうが主な目的なのかもしれない。

 夫がグローブを迷う間、私は山の上で用いる食器類を眺める。棚の一番下に抹茶の茶筅を見つける。なぜこんなところに茶筅が、しかもなんとなくそのサイズが小さい。スカートをおしりから太ももに添わせてしゃがみ、茶筅を手に取る。間違いない、これは茶筅だ。

 よく見ると茶筅だけではなく抹茶のお茶碗の小さなサイズのものがその横にある。手に取るとやや軽い。軽量化を工夫してある茶碗のようだ。はて、これは、いったいどこで何をするものなのだろう。

 さらにその横に目をやると、高機能超軽量巾着袋のようなものがあり、携帯野点セット、と書いてある。子どもの頃茶道教室に通っていた私は「野点(のだて)」というものがあることは知っている。お茶室以外の野外で抹茶をたてお菓子をいただきお茶を飲む。しかしその野点の場所は、たとえばお花見や紅葉の時期の戸外で、着物を着て行き帰りできるような気軽な場所であって、山の上は想定していない。

 しかしここにある野点セット巾着袋についている説明書の写真は、明らかに山の上で、数人の男性が登山服姿で写る。地面には赤い毛氈。登山服姿の男性のうちの一人は茶筅で抹茶をたてており、残りの三人は横並びに正座して、一人は抹茶の茶器を両手で口にあてて飲んでいる。

 近くを通った夫に「ちょっと、ちょっと、見て。これ山の上でお抹茶を飲むための道具だよ」と伝える。夫は「なんで、わざわざ、山で抹茶なんか」と言うが、私にしてみたら「なんで、わざわざ、山になんか行くのか」であるから、「どうやらくんみたいに山に行きたい人がおるくらいなんじゃけん、しかもそれが少数派ではなくてこういう専門店が商売するくらいにお客さんがたくさんおってんじゃけん、中には山に行くだけではなくそこで抹茶もたのしみたいという人がいてもおかしくないんじゃないかな」と言う。山にコンロを持ってあがり、山の上でお湯を沸かしてインスタントラーメンやレトルトカレーをたのしむ人たちがいるように、お抹茶をたのしむ人がいる、そういうことではないかしら。

 夫は「わけわからん」と抹茶セットの場所から離れる。私は引き続き抹茶セットの説明書を見る。セットの内容は、茶筅、茶杓、茶碗、なつめ(抹茶粉末を入れる容器)。どれも大きさが小さくて、写真のおじさんたちのような男の人達には扱いにくそうだなあ。さすがに赤い毛氈まではセットに含まれていないようだが、登山野点をたのしむ場合は、野点メンバーの誰かが毛氈を背負って持っていくのだろうか。

 店内を見回して夫の姿を探す。小物類の場所にいる夫を見つける。夫に「ねえ、どうやらくんは、山の上で抹茶をたてて飲む人みたことある?」と問うと「見たことない。そんなやつおらんて」と言う。「でも、もしも、どこかで見かけることがあったら、写真撮らせてもらってきて。顔をはっきり写す必要はないけん、写真撮らせてください、って頼んで」と頼む。

 夫は「ううん、どっちにしよう、何が違うんだろう」と小さな温度計を見比べる。形は同じだが、数字が書いてあるプラスチックの台座の部分の色が異なる。ひとつは真っ白でもうひとつは薄い黄色。どれどれ、と見てみるが、商品の表側と裏側に書いてある商品説明はアルファベットで書かれているものの英語でもドイツ語でもなくて文字の意味がなにひとつ目にも頭にも入ってこない。これは何語だろう、オランダ語かしら、ううむ、というところで立ち止まり、それ以上の解読はできない。「お店の人に訊いてみたら?」と勧めると夫は「そうする」と言って、ふたつの温度計をレジに持っていく。

 お店の人は、ええと、これは、何が違うんでしょうねえ、と言うがすぐにはわからないようで、商品の表側と裏側をまじまじと観察する。その手元を見ているうちに私達のほうが、あ、ここに小さな字で日本語の説明が書いてある、黄色いほうは「発光タイプ」と書いてある、と気づく。するとお店の人が「そうそう、発光タイプは蛍光塗料入りなので、暗いところでも見やすいんです」と説明を加える。

 発光タイプと発光しないタイプの温度計の値段のちがいは30円ほど。温度計の大きさは運転免許証よりも小さくて手のひらにちょこんとのるくらい。

 夫はじゃあ光るほうにします、と決めて、グローブと一緒に会計をしてもらう。

 お店を出て、隣の駐車場に置いていた車に戻る。夫は「何か少し軽く食べたいなあ。大山まんじゅうかなにかそんなものがあれば。大山名物山菜おこわは昨日の夕ごはんでもう食べたしそれでは多すぎる」と言う。「大山まんじゅうではないけど、宿の部屋に戻れば母が買ってきてくれた広島の『生もみじ』があるよ」と私が言うと、「そうか、それにする、それでいい、それがいい」と夫が言う。

 こうして山用品屋さんモンベルでのひとときは終了。後日になって山に行った夫が「大山のモンベルで買ったグローブはすごくよかった。もっと早く買って使ったらよかった」と言う。

「温度計はどうだったん? そもそもどういう時に使うの?」
「うーん、今温度どれくらいかなあ、と思った時に温度計見て、これくらいの温度ならこういうことに気をつけたほうがいいな、って考えるのに使う。ただ、あの発光は意味がなかった」
「なんで? 光らんかったん?」
「いや、光るのは光るんだけど、数字が書いてある文字盤のほうは蛍光加工してあるから光るんだけど、温度計の赤い液体の部分には蛍光剤が入ってないけん、暗いところでは温度が何度になってるかが見えん。これなら発光タイプじゃないほうでもよかった」
「うーん、でもね、温度計を本気で見るときには、暗いところならヘッドランプ照らすとかなんかするんじゃないかな」
「だったらなおのこと温度計のどこも光る必要ないじゃん」
「温度を見るのはヘッドランプで照らして見るとしてもよ、温度計そのものを暗い場所でリュックの中を手探りで探すようなときにね、ヘッドランプの明かりがあるにしてもないにしても、温度計そのものが薄ほんのりと光ってくれたら、ああ、ここにあったのか、って見つけやすいんじゃないかなあ」
「ヘッドランプつければ別に温度計が光らんでもリュックの中で探すのは探せる。それにリュックの奥のほうに入れたりせずに、決まったところに固定してぶらさげとくけん、どこにあるかはすぐにわかる」
「そうなんじゃ。でも、まあ、これも買って使ってみて、温度計の温度によって上下する部分は光らんことがわかったんじゃけんよかったじゃん。学習学習。今度買う時にはそこもチェックポイントにすればいいってことじゃろ」
「こんなもの何回も買い換えるもんじゃないけどなあ」
「んー、白い温度計よりも、黄色い温度計のほうが、雪の上に落ちた時にも見つけやすくていいじゃん」
「まあ、そういうことにしとこうか」

 光る温度計を買う時には、どこがどんなふうに光るのかを確認できたらするのがいいね。もしかすると私達が読めない言語で書かれた説明文にはそのへんのことが詳しく書いてあったのかもしれないな。     押し葉

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プロフィール

どうやらみそ

Author:どうやらみそ
1966年文月生まれ

ときどき、思い出したように、いただいたメッセージへのお礼やお返事をリンク先の「みそ語り」に書いています。よろしければ、いつでも、どうぞ、どなたでも、ご覧ください。「みそ語り」では、メッセージをくださった方のお名前は書いておりませんので、内容から、これは自分宛かしら、と推理推察しながら読んでいただければうれしいです。手の形の拍手ボタンからメッセージをくださる場合は五百文字以内、文字の方の押し葉ボタンからメッセージをくださる場合は千文字以内となっております。文字数制限なくお便りくださる場合には、下のメールフォームをご利用ください。

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