富士山よりも深く
2011-02-20
もう十年よりももっと前のことになるのだな、と、思い出したこと。
当時、私は大阪の小さな製薬会社の管理薬剤師として勤務していた。非常に機嫌よく、ぜひとも長く勤めたいものだと思いながら、品質管理や製造管理や衛生管理や薬事関係の仕事を、地味にわくわくとこなしていた。ところが、本来ならば転勤などない部門や職種で働いている夫の勤務先(わりと大きめの会社)が、各種事情により統廃合や編成の見直しを行うことになり、夫の勤務地が大阪からけっこう離れた九州に変更になった。大阪から九州はあんまり近くない。少なくとも毎日通勤できる距離ではない。私はそのときの勤務先での仕事を続けたいのは富士山よりも高いレベルで相当山々ではあった。けれども、夫の転勤先である熊本に引っ越して、夫とともに同じ場所で生活することを選び、私はその小さな製薬会社を退職することに決めた。
しかし、管理薬剤師一名以外に薬剤師のいない状態の零細企業で、すぐに退職することはできないから、後任の管理薬剤師の人が見つかって、引継ぎを完了するまでは、夫は熊本で、私は大阪の社宅に残って、それぞれ単身赴任をする形をとった。単身赴任とはいっても、主な家財道具はすべて熊本に引っ越し済で、私が暮らす大阪の社宅には、必要最低限の生活用品のみ残した状態。朝食は湯沸かしポットでお湯を沸かしてコーヒーか紅茶を入れて飲み、果物(手で簡単にむけるもの)とパンを食べる。昼食は会社でお弁当を注文する。夕食は、同じ社宅で仲良しの家族数軒にお願いして、一食五百円でその家庭の夕ごはんを私の分も余分に作って分けてください、という交渉をとりつけた。
仕事から帰ったら、シャワーを浴びて職場のにおいをできるだけ落とす。薬の原材料独特のにおいが服にも髪にも染み付く種類の職場だったから。それから、ご飯を食べさせてもらうお家(同じ建物の別の部屋)に向かう。一食五百円で、とお願いしているにもかかわらず、「五百円は多いから」と、二百五十円だとか三百五十円だとか、ずいぶん安い金額のみの集金で夕食を供してくれたり、「今日はひな祭りだから」「今日はええねん」とタダにしてくれたり。「だってな、みそさんの食べる量って、うちの子(幼児)より少ないねんで。そんなん五百円ももらわれへんがな」と彼女たちは主張していたけれども、私は毎日供される夕ごはんが、それはそれはたのしみで、本当においしくて、私としてはかなりよく食べていたと思う。
いや、今回書きたかったのは、ご飯の話ではなくて、私の後任として入社された薬剤師の人の話。その人は、六十歳になっていないくらいの年齢の男性で、長年勤務した大手製薬会社を早期定年退職なさったとのこと。早期定年退職とはいっても、退職金は正規の定年退職とほぼ同等に支給され、生活のために働く必要はない。しかしながら、退職して、自宅にいると、配偶者(妻)がどんどんノイローゼ気味になるため、趣味の「狩猟」に再々出かける(野外にテントを張ったり山小屋に滞在するなどして、数日間、森の中などで野外生活をする)ものの、猟の時期は決まっている。禁猟期間には、これといって行くところがないので、家にいると、配偶者の調子がよくなくなる。配偶者の方は、ずっと、専業主婦として、子育てをし、子どもはすでに独立し、出張や単身赴任のため家にいることが少ない夫を支えてこられたのだけれども、夫が出張も転勤も出勤も単身赴任もなく家にいるようになると、それまでの生活リズムが崩れるのか、たいへんにつらそうで、困ったなあ、ということで、再就職することにしたのだと話される。
当時三十代になって間もない私は、後任の男性薬剤師の人にとっては、それまでその方が部下として使っていた年代の小娘や小僧たちと同じ年頃だった。最初の何日かは、そんな小娘から手取り足取り仕事を習わねばならないことに、ある種の抵抗感を覚えていらっしゃることが、私ですら気づくくらいに、明らかだった。けれども、しばらく日にちが経って、その人が仕事に出るようになったことで、配偶者の方の調子がよくなってこられると、それに伴いその人の心情も安定するようになられたのか、引継ぎは引継ぎとして、私が小娘であろうがなかろうが、私のことは仕事に関する情報を持つ人物として、冷静に対等に、後半はむしろ敬意を持って、接してくださるようになった。
最初の頃は、何事に関しても、抵抗感による反論のようなものをいったん聞く時間が必要だったのが、しばらくすると、仕事に関する私からの各種提案(実験器具の使い方のコツなど)にも各種連絡にも、ふむふむ、と耳を傾けて即実践してくださるようになり、仕事の伝達に要する時間が大幅に削減されて、引継ぎが非常に円滑になった。休憩時間には、その人がかつて何度も出張で訪れたことのある九州に関する情報をいろいろと提供してくださり、私がよりいっそう九州暮らしを楽しむことができるようにと応援してくださった。無事に引継ぎが完了して、私が退職したときと、その後、無事に熊本での生活を始めた後に、「どうやらさんにはすごくお世話になったから」「家内からも、どうやらさんには、本当にしっかりとよくよくお礼を伝えてほしいと言われているから」と、かつて営業職として活躍なさった方らしいスマートなセンスでの物品、ちょうどよく消費してなくなるような物品、を、贈り物としてくださって、なんだかこんなにしてもらっていいのかな、と思うほどであった。
その方とほんの一時期ともに働いて、家庭の事情をうかがったことで、老齢化後、退職後、元気な場合、夫婦ふたりともが、ずっと一緒に家にいることが、向いているカップルと、そうでないカップルとがあるんだな、という、しごく当たり前なことを、私はじんわりと学習した。そして、自分と夫はどうなのか、婚姻関係が続く間は、少しずつ観察を重ねて、しかるべき時にはしかるべき形をとれるように、準備や心づもりなどをしていきましょう、と、わりと強く、そして深く、決意した。 押し葉
当時、私は大阪の小さな製薬会社の管理薬剤師として勤務していた。非常に機嫌よく、ぜひとも長く勤めたいものだと思いながら、品質管理や製造管理や衛生管理や薬事関係の仕事を、地味にわくわくとこなしていた。ところが、本来ならば転勤などない部門や職種で働いている夫の勤務先(わりと大きめの会社)が、各種事情により統廃合や編成の見直しを行うことになり、夫の勤務地が大阪からけっこう離れた九州に変更になった。大阪から九州はあんまり近くない。少なくとも毎日通勤できる距離ではない。私はそのときの勤務先での仕事を続けたいのは富士山よりも高いレベルで相当山々ではあった。けれども、夫の転勤先である熊本に引っ越して、夫とともに同じ場所で生活することを選び、私はその小さな製薬会社を退職することに決めた。
しかし、管理薬剤師一名以外に薬剤師のいない状態の零細企業で、すぐに退職することはできないから、後任の管理薬剤師の人が見つかって、引継ぎを完了するまでは、夫は熊本で、私は大阪の社宅に残って、それぞれ単身赴任をする形をとった。単身赴任とはいっても、主な家財道具はすべて熊本に引っ越し済で、私が暮らす大阪の社宅には、必要最低限の生活用品のみ残した状態。朝食は湯沸かしポットでお湯を沸かしてコーヒーか紅茶を入れて飲み、果物(手で簡単にむけるもの)とパンを食べる。昼食は会社でお弁当を注文する。夕食は、同じ社宅で仲良しの家族数軒にお願いして、一食五百円でその家庭の夕ごはんを私の分も余分に作って分けてください、という交渉をとりつけた。
仕事から帰ったら、シャワーを浴びて職場のにおいをできるだけ落とす。薬の原材料独特のにおいが服にも髪にも染み付く種類の職場だったから。それから、ご飯を食べさせてもらうお家(同じ建物の別の部屋)に向かう。一食五百円で、とお願いしているにもかかわらず、「五百円は多いから」と、二百五十円だとか三百五十円だとか、ずいぶん安い金額のみの集金で夕食を供してくれたり、「今日はひな祭りだから」「今日はええねん」とタダにしてくれたり。「だってな、みそさんの食べる量って、うちの子(幼児)より少ないねんで。そんなん五百円ももらわれへんがな」と彼女たちは主張していたけれども、私は毎日供される夕ごはんが、それはそれはたのしみで、本当においしくて、私としてはかなりよく食べていたと思う。
いや、今回書きたかったのは、ご飯の話ではなくて、私の後任として入社された薬剤師の人の話。その人は、六十歳になっていないくらいの年齢の男性で、長年勤務した大手製薬会社を早期定年退職なさったとのこと。早期定年退職とはいっても、退職金は正規の定年退職とほぼ同等に支給され、生活のために働く必要はない。しかしながら、退職して、自宅にいると、配偶者(妻)がどんどんノイローゼ気味になるため、趣味の「狩猟」に再々出かける(野外にテントを張ったり山小屋に滞在するなどして、数日間、森の中などで野外生活をする)ものの、猟の時期は決まっている。禁猟期間には、これといって行くところがないので、家にいると、配偶者の調子がよくなくなる。配偶者の方は、ずっと、専業主婦として、子育てをし、子どもはすでに独立し、出張や単身赴任のため家にいることが少ない夫を支えてこられたのだけれども、夫が出張も転勤も出勤も単身赴任もなく家にいるようになると、それまでの生活リズムが崩れるのか、たいへんにつらそうで、困ったなあ、ということで、再就職することにしたのだと話される。
当時三十代になって間もない私は、後任の男性薬剤師の人にとっては、それまでその方が部下として使っていた年代の小娘や小僧たちと同じ年頃だった。最初の何日かは、そんな小娘から手取り足取り仕事を習わねばならないことに、ある種の抵抗感を覚えていらっしゃることが、私ですら気づくくらいに、明らかだった。けれども、しばらく日にちが経って、その人が仕事に出るようになったことで、配偶者の方の調子がよくなってこられると、それに伴いその人の心情も安定するようになられたのか、引継ぎは引継ぎとして、私が小娘であろうがなかろうが、私のことは仕事に関する情報を持つ人物として、冷静に対等に、後半はむしろ敬意を持って、接してくださるようになった。
最初の頃は、何事に関しても、抵抗感による反論のようなものをいったん聞く時間が必要だったのが、しばらくすると、仕事に関する私からの各種提案(実験器具の使い方のコツなど)にも各種連絡にも、ふむふむ、と耳を傾けて即実践してくださるようになり、仕事の伝達に要する時間が大幅に削減されて、引継ぎが非常に円滑になった。休憩時間には、その人がかつて何度も出張で訪れたことのある九州に関する情報をいろいろと提供してくださり、私がよりいっそう九州暮らしを楽しむことができるようにと応援してくださった。無事に引継ぎが完了して、私が退職したときと、その後、無事に熊本での生活を始めた後に、「どうやらさんにはすごくお世話になったから」「家内からも、どうやらさんには、本当にしっかりとよくよくお礼を伝えてほしいと言われているから」と、かつて営業職として活躍なさった方らしいスマートなセンスでの物品、ちょうどよく消費してなくなるような物品、を、贈り物としてくださって、なんだかこんなにしてもらっていいのかな、と思うほどであった。
その方とほんの一時期ともに働いて、家庭の事情をうかがったことで、老齢化後、退職後、元気な場合、夫婦ふたりともが、ずっと一緒に家にいることが、向いているカップルと、そうでないカップルとがあるんだな、という、しごく当たり前なことを、私はじんわりと学習した。そして、自分と夫はどうなのか、婚姻関係が続く間は、少しずつ観察を重ねて、しかるべき時にはしかるべき形をとれるように、準備や心づもりなどをしていきましょう、と、わりと強く、そして深く、決意した。 押し葉