日本銀行、東日本大震災でも金融緩和事実上ゼロ対応

 日本銀行が経済学でいうこところの金融緩和をしているかどうかは極めて重要である。なぜなら経済学の基礎的な知見と最近の観察によれば、日本銀行の金融政策の姿勢が、1)国内の消費、投資、雇用などに影響を与える、2)為替レートの動向に影響を与える(→円高にすすめば円高の利益よりも輸出企業、輸入競争企業へのダメージへ)、3)震災復興のために必要な日本経済自身の体力の喪失につながるからだ。

 金融緩和をしているかどうかは、簡単には日本銀行のバランスシートの規模をみればわかる。バランスシートが拡大していれば金融緩和、縮小していれば金融引き締めと考えていい。リーマンショック後、世界中の先進国がバランスシートの急激な拡大をしていたのに、日本銀行は「もとから規模が大きいので特に増やす必要はない」と言い切った。そのため他国にくらべて猛烈に景気・雇用が悪くなり、また円高が急激に進んだ。

 今回の東日本大震災でももちろん日本銀行には経済の下支えのために金融緩和が望まれていた。しかしそんな姿勢はこの日本銀行には微塵も観察できない。数日前、このブログで日本銀行文学について解説したが、まさに東日本大震災があってもいまやその震災前の状態に戻している。これは驚くべきことである。まったく日本銀行は東日本大震災を支えるための努力を放棄していると、金融緩和の見地からいえる。

 日本銀行のバランスシートはとりあえず営業毎旬報告からとれる。http://www.boj.or.jp/statistics/boj/other/acmai/index.htm/

震災が起こる前の規模は以下のとおり

資産 (単位千円)
金地金 441,253,409
現金1 384,066,373
国債 77,697,411,008
コマーシャル・ペーパー等2 148,754,921
社債3 204,522,365
金銭の信託(信託財産株式)4 1,505,288,399
金銭の信託(信託財産指数連動型上場投資信託)5 112,711,929
金銭の信託(信託財産不動産投資信託)6 8,232,083
貸付金 47,037,010,000
外国為替7 5,153,854,745
代理店勘定8 22,071,479
雑勘定 563,438,617

合計 133,278,615,332 (震災前)
これが震災後には東電の社債を購入するなど少しだけ増加した。3月20日現在で149,781,950,832 。ところがここからあとは減少するのみである。142,925,001,918(3月31日) 138,434,853,656(4月10日) 136,324,503,395(4月20日) 134,621,339,088(4月30日)である。下は直近のものであり、震災前と同水準に戻っている。

資産
金地金 441,253,409
現金1 385,388,457
国債 78,607,652,370
コマーシャル・ペーパー等2 679,425,933
社債3 341,439,527
金銭の信託(信託財産株式)4 1,477,598,204
金銭の信託(信託財産指数連動型上場投資信託)5 259,586,535
金銭の信託(信託財産不動産投資信託)6 19,651,927
貸付金 46,688,210,000
外国為替7 5,138,653,037
代理店勘定8 17,568,008
雑勘定 564,911,677

合計 134,621,339,088 (現時点)
 連動して急激な円高に呼応した各国協調介入による一時的な円安は、まさにこの日銀のバランスシートの縮小を後追いしているように急速に円高にふれている。

4月30日現在の日本銀行の金融緩和のスタンスは震災前とバランスシートが同じ規模になっているので、「ゼロ回答」である。しかも後刻書くが、国債整理的には今後、さらに1割以上のバランスシートの縮小が予定されている。このままでは経済は知らないうちに日本銀行によってとどめをさされることは疑いない。事実上ゼロ回答だが、実質的にはきわめて厳しい引き締めだ。日本経済全体は無論のこともっとも弱い被災地経済は見殺しではないか。亡国の中央銀行といって差し支えない。

関東大震災における経済学者の活動

 関東大震災のときの経済学者の活動についてのメモ。ここでいう「活動」は単なる講義、論文書きや各種メディアへの寄稿を意味するのではなく、政府とのかかわり、政府への政策提言などにかかわるものである。これらの「活動」以外では、(経済学者ではなく後に経済学者になるものの)兵役従事、日記、あるいは震災調査(福田徳三、小泉信三ら)がある。

 以下では関東大震災のときの経済学者の最も活発だった「政府外での活動」についての簡単なメモ。それは二十三日会でのもの。当時の総合雑誌『改造』の社長山本実彦が音頭をとったもの。政府の復興政策への対案提出を企図して結成された。メンバーは堀江帰一(慶應義塾教授)、福田徳三(東京高商教授)、政治学者の吉野作造(東大教授)が中心。経済学者はこの二名だけだが、堀江と福田は中心になって活動した。彼らは失業救済、火災保険問題、朝鮮人&社会主義者虐殺事件<特に大杉栄事件>について討議し決議した。

 他のメンバーは・松尾尊兌「吉野作造の朝鮮論」(『吉野作造選集』第9巻所収)によれば、伊藤文吉、渡辺鮧蔵、千葉亀雄、吉坂俊蔵、鶴見祐輔、永井柳太郎、中野正剛、大川周明、大田正孝、山川均、山本実彦、松本幹一郎、桝本卯平、小村欣一、小村俊太郎、権田保之助、北?吉、城戸元亮、三宅雪嶺、三宅驥一、下村宏、鈴木文治、末広巌太郎、饒平名智太郎が、第一回の会合(9.23)に出席した。堀江と福田は第一回会合に出席し、座長を堀江、会合の二十三日会の名称を福田がつけた。吉野は欠席。松尾によると、案内は出したが欠席したものは、伊藤正徳、石橋湛山、鳩山一郎、長谷川萬次郎、馬場恒吾、穂積重遠、富田勇太郎、吉野信次、田沢義鋪、大山郁夫、安部磯雄、青木得三、杉森孝次郎などであった。『改造』の執筆者を中心にした当時の知識人大集合の感がある。

 さらにその決議をもって、首相&内相&法相に手渡すことをこころみる。内相官邸では岡田忠彦警保局長と懇談。ちなみに『改造』にも典型的だが、新聞や雑誌を含めて関東大震災関連の記事は震災が起きた9月から翌年二月にかけてがピークであり、それ以降は急速に関連記事が乏しくなる。『改造』でも10月号から翌年2月号にかけて集中的に震災関連の記事が掲載されていた。二十三日会も10月20日の諸決議を閣僚たちに手渡して以降は自然消滅。

 なお、拙著の『沈黙と抵抗』には、吉野作造の朝鮮人虐殺問題について、また当兵卒であった住谷悦治の関東大震災時の回想(彼の経済学者への転進の契機となる)などが記載されているので参照していただければ幸い。

沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治

沈黙と抵抗―ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治