『思想地図』vol.4ー座談会:変容する「政治性」のゆくえーシェリングの分離・融合モデルとの接続ー

 積読解消シリーズもようやくゴールが見えてきましたがw、この本についても感想を書くつもりがだいぶ時間が経ってしまいました。この『思想地図』で興味を持ったのは三点です。宮崎哲弥さんを中心とした座談会、そして宇野常寛さんの論説、中川大地さんの要約とブックガイドで表現された中沢新一です。あとは興味が持てずに読んでません。後者二点はまた今後の話題にしてとりあえずいまは座談会の感想を手短に書いておきます.。

 この座談会に宮崎さんが呼ばれたのは東浩紀氏がいっているように知識人のメディアにおける活動を最も体現しているのが宮崎さんだから。それはいいにしても、そういうわりには宮崎さんの出ていテレビやラジオの番組を対談している人たちがうまくフォローしているとはいえない。逆に宮崎さんから座談会のひとたちを含めてバラエティ番組などにも積極的に出てOJTを積めと説教されている。この意識と行動のギャップは、特に宮崎・東間で顕著なようにも思える。

 以下はランダムな抜き書き(宮崎さん中心)

宮崎:「柄谷行人が1990年代の末に「国家は表象を生み出すが、国家は表象によって生み出されたものではな」という優れて予見的な提起をぶち上げ、その後の政治―社会状況の変化に伴って、「いつまでも表象をめぐるお喋りをしていても仕方がないだろ、仮構にしろ実体的な力(暴力=実力)を認める以外には橋頭保すら築けないぞ」という考えが急速に広まった」

宮崎:民主党の勝利→国民のフィジカルな要求ではなく、むしろ表象分析レベルの問題では?

宇野:「実体とかい離させて、言説の動員ゲーム自体を自己目的化して楽しむことに完璧になれてしまっているからでしょう。したがって、いまのサブカルチャー批評をきちんとやることで、逆説的にそうなってしまった日本の現状をえぐり出せるのではないかというのが、僕の考えです」

宮崎:「それよりも私が興味があるのは、やはり「大衆思想」なんですよ、いかにして大文字の「思想」が大衆に根づき、大衆の生を支える血肉となっていくのかという点。略 もう少し正確に言うと、ニーチェ主義的なポストモダ二ズムが大衆レベルで感覚化するまでになったということなんです。略 ここらは、一頃経済学のほうで話題になった「専門知vs世間知」問題などとも関わってきます。例えば多くの日本人が「構造改革」や「反官僚」に共鳴する背景に、サプライサイドの経済学が大衆レベルにおいて感覚化するまでの浸透があったと言えるのか……といった問題です」


宇野:いまの言論メディアの問題は大衆の無意識といえる思想を宿した文化があるのに、いまだに80年代以前のロジック

宮崎:テレビは粘性が高く簡単には変化せず。それに我慢して若手言論人はかかわるべし。テレビで何をしようとしているかはメタレベルの意図としては仏教者としての立場から、それを証明するために、「ごく一般的な内容のコメントにひとつだけ異なった視点を付け加えることだけなんです。そのたった一点の付加によって「コメントする」」という営為自体を異化、相対化できれば面白いかなと」。


宮崎:若手言論人のラジオやテレビでのOJTの重要性。「あえて挑発的にいえば、東さんの世代やそれ以降の世代のインテリさん達は、自分のシマを守り過ぎている。地面に半径一メートルぐらいの円を描いて、よほどのことがない限りそこから出て行こうとしない」

東:「論壇」の構築をしたい。言論の環境を変えたい。

 さてこの「論壇」を例えばゼロアカなどの営為を通して構築したいという東氏の主張は座談の終わりにでてくる、ロールズ的な「無限の他者への寛容」という態度への批判とリンクさせると面白いかもしれない。また彼は「無限の他者への寛容」を批判し、ローティ的な「要は、何となく近くで共感できるやつを見つけて、あとは少しずつ拡張していけないいと思う」といっている。つまり「近くの他者」への寛容を重視する。
 「いずれにしても、無限の他者への開放性を理念で担保しなければならない時代、それそのものが終わっている。インターネットとグローバル資本主義の最大の思想的功績はそこにある」

 この東氏の「無限の他者への寛容」よりも「近くの他者への寛容」という態度が、社会批評的な見方、あるいは論壇の再構築、彼のオタク文化への共感などの基礎にあるのだろう。

 しかし「近くの他者への寛容」を例えばこのエントリーでとりあげたシェリングの分離・融合モデルを援用して考えると、東が期待している「論壇」や公共性にかかわる問題が、単なる大集団の中で過度に分離した集団化となる可能性を内包している。つまり近くの他者への寛容が、全体の不寛容につながる可能性があるだろう。

 ここでいうシェリングの分離・融合モデルは、人が住居を選択するときに、隣人の存在を非常に重視することが、人々の棲み分けのパターン(分離と融合)に影響を与えるということである。例えばクルーグマンによれば、シェリングのモデルが示した自明ではない二つの点がある。

「第一に、隣人たちの肌の色や文化に対して、それほど好き嫌いが激しくなく、表面上は融合して暮らしているようにみえるが、その好き嫌いの微妙な違いが実際にはきわめてはっきりした分離につながるということである。その理由が、人々の好き嫌いがそれほど激しくなく、「肌の色が違った隣人が何人かいても気にならない。自分が極端に少数派でなければね」」といっているときでも、融合して暮らすといおうパターンは、人々のあいだに時として起こる動揺のために不安定になりがちだからである。第二に、各住民の関心がごく近隣に向いており、自分のすぐそばの隣人についてしか関心がなかったとしても、住民はグループごとに大きく分離するパターンを形成する」(邦訳、30頁、ただし東洋経済新報社版)。

 つまりある人はそこそこ隣人に対して「寛容」であってもそのことが時として大規模な分離をもたらしてしまうということだろう。これは「論壇」の構築でも同じである。周囲にそこそこ受け入れることのできる意見の人間だけを集めるルールが、それを維持すればするほど、結果的に最も排他的な「論壇」を生み出すことにもなりかねない。ゼロアカのような試みも開放性があるようにみえて実は極度に分離した集団を形成してしまっただけなのかもしれない。

 「近くの他者への寛容」がもたらすこのような分離と同様な次元に属する問題として、オタク的な局所化した知識(いいかえると自分の小さいコミュニティの知識にのみ寛容な戦略をもっている人たちともいえる)が、もたらすぼったくれやすさについて、以前下のエントリーで論じたことがあるので参照されたい。

「まがいもの」を売る仲介者、ネット封建制 http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080307#p1

僕からみると東氏の営為というのは絶えず閉鎖的(過度に分離した)集団を生み出すという点に親和的な思想に思える。


(関連エントリー)現代思想の最前線(東浩紀と辛坊治郎)から:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090208#p4

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

NHKブックス別巻 思想地図 vol.4 特集・想像力

Micromotives and Macrobehavior (Fels Lectures on Public Policy Analysis)

Micromotives and Macrobehavior (Fels Lectures on Public Policy Analysis)

小田切博『キャラクタ―とは何か』

 マンガ批評に本格的に関心を持ち出してまだ一年未満だが、その中で昨年読んだ評論の中ではこの本はベスト5に入る。そして同時にこの本はかなり筋ワルである。これがいまの日本のマンガ批評の現状かもしれない。たぶん今週末に出るが著者からいち早く献本いただいた。しかしこの本はいったい誰にむけて書かれているのだろうか? 彼の周囲数名程度のうけを狙ったものなのか、あるいは勘違いした官僚を喜ばせるためなのか(それはさすがにないが一読すれば喜ぶだろう)。

 しかし面識もありいろいろ教えてもらってきた身ではあるので言い難いのだが、はっきりいえば、ただおかしな産業政策論の要素を中核とする一書である。なぜ著者は彼のまわりにいたであろう経済学者たちに事前に原稿などをみせて意見をもらわなかったのだろうか? 本書の中心メッセージが、産業政策必然論になっている点をみるにつけて愕然とする。

 以下断続的にこの本の紹介をする。ただし全体評価は今書いた通りだが、もちろん全否定したくはないので個別に面白いところも紹介する。個人的にはこの本を手放しで誉めるマンガ関係者がいればそれはかなり悪質だと思っている。

 まず本書の問題意識は、キャラクターの産業論的な見方と文化論的な見方を不可分なものとして論じていくという姿勢をとるという。なぜならいままでキャラクターは文化論と産業論各々分離して論じられていたからである、という。そして本書は、「キャラクター消費」という文化と産業論の不可分な領域を語ることに費やされることになる。

 第1章は戦後日本のキャラクタービジネスの歴史を概観したものである。ここで後の章で関連が大きいのは、「需要創出装置としてのサブカルチャー」からの数頁である。著者は『ポケモン』の例のように、日本のキャラクタービジネスはホビーのもつコレクションの側面をキャラクターを媒介させて遊戯やコンテンツと有機的に結合したところに特徴をもつと指摘している。その典型が「トレーディングカード」(「遊☆戯☆王」など)である。小田切は以下のように指摘している。

「メインコンテンツがメディア間を移行してしまう「遊☆戯☆王」の持つこのラディカルなキャラクタービジネスとしての在り方は「少年ジャンプ」というそうしたビジネスを可能にするプラットホームがあってこそ可能になったものであり、そこにはおそらく世界でもっとも洗練された需要創出システムが存在している」(61)。

 第2章では、日本的な「コンテンツ産業」や「メディア芸術」についての概念の整理とその特殊性が指摘されている。この点については本ブログでも好意的の紹介したことがあるので当該エントリーを参照されたい。ところでこのような日本的な特殊な「コンテンツ産業」や「メディア芸術」などの諸概念が由来する一番の原因は、アメリカからの「外圧」であるという。つまりアメリカがベルヌ条約批准後に推進している国際社会への著作権保護と市場開放化への「圧力」にあるという。

「この点で象徴的なのは、経済産業省で「コンテンツ産業」が政策課題としてはっきり浮上してきたのがWIPO(世界知的所有機関)でコンピューターソフトやCD,DVDなどのプロテクト外しの違法化などを義務付けた「著作権に関する世界知的所有権機関条約」が策定された1986年以降だ、という事実である」80頁。

また「メディア芸術」(例の国立メディア芸術センター問題の基礎概念)についてもそれWIPOの条約策定を契機とする96年からの「外圧」の副産物であることが指摘されている。

「つまり、日本における「コンテンツ政策」も「メディア芸術」もアメリカのベルヌ条約以降の国際的な政治、経済環境の変化によって登場してきたものなのである」81頁

 ここから小田切は(僕には理解不能なのだが)「こうした状況がある以上、マンガやアニメといったポップカルチャーの「国策化」は不可避なものである」82頁と断言している。

 この「国策化」が何を意味するのだろうか? 国際的な基準に適合した著作権法の整備なのだろうか、あるいは日本の特殊な商慣習(例:再販制度)の是正なのだろうか? それらであれば理解できる面がある。しかし小田切はいわゆる「産業政策」そのものを支持しているようだ(本書でも「産業政策」と明言している)。

 ところで単純にいって小田切の文章は独特の癖がありわかりにくい(単純に意味がとれない文章も多く編集はもっと積極的に赤字をいれるべきだった)。たぶん彼は現状の産業政策(とその問題)を3つの具体例から個別に評価し、さらに現状のコンテンツ中心の産業政策ではなく、キャラクター中心の産業政策をとるべきだ、と主張していると思われる。

 現状の産業政策(コンテンツ産業中心のもの)の問題点

1)「知的財産」政策として省庁の縦割りではない「統一」した文化政策としての「知的財産戦略本部」の設置 

 これに対する小田切の指摘は意味がよくわからないが、そのまま文章を引用する。「だが、外交や通商レベルでの国同士の利害のぶつかり合いから場当たり的に生じてきた問題に対して主体的な一貫性をもつべきだ、とするのは因果関係の問題からいえば妙な話だろう。日本の場合、特に文化政策に力を入れてきたわけでもないため、フランスのような国家戦略としてそこに力を注いできた国と比べて受動的な立場になるのはむしろ必然的なことではないか」84頁。

ここで小田切はなにをいいたいのだろうか? 文意をそのままうけとると「統一的で積極的」な「知的財産戦略本部」のあり方に疑問を投じていて、むしろ歴史的経過からまた因果関係からも、省庁縦割り(通商と外交→経済産業省と外務省)の対応がいいといいたいのだろうか? 理解ができないのでより説明が加えられるべきである。

2)「国策」レベルと現場レベルの齟齬(インターフェイスの欠如)

 ここで小田切はこの齟齬の代表例として例のメディア芸術センターの例をあげている。

「先に例に挙げた「メディア芸術センター」に関する議論の紛糾などはその最たる例だが、このときの報道やその後の議論で推進・賛成派のひとびとによって唱えられた「作品の収集・保存」、「常設的な展示」、「海外への情報発信」といった諸機能が「美術としてのメディアアート」にとつてはともかく、ポップカルチャーであるマンガやアニメの産業としての振興や育成にいったいどのような役にたつかを疑問に思った人も多いのではないだろうか?だが、今後の人材育成を考えれば過去の作品や情報を集約して保存する機関が国内に存在することは決して悪いことではない。例えば過去の作品のデータベース化とライブラリ化によってアクセスが容易になれば、教育のみならず研究にも役にたつ。また、海外の研究者やエージェントなどへの問い合わせ窓口としての機能を持たせられるのであれば、これもきわめて有用な施設である」85頁。

 小田切が指摘する「有用」な諸点が産業政策として支持できるかといえば、答えは基本的にはノ―であろう。産業政策をみたす用件をみたしていないからである(下の産業政策についてのエントリー参照)。小田切の指摘する点は一部は、産業の育成・振興のための教育・研究への公的介入である。しかしそれを正当化する外部性があるだろうか? 例えばあるマンガ会社が過去のマンガリソースを利用してそれに投じた資金が市場で回収されれば、政府がわざわざマンガリソースの利用に税金を投入する理由はない。同じことだが、マンガ家を志望する学生がいたとしてそれが過去のマンガリソースの利用にお金がかかったとしても彼がその資金を後に市場で回収できるならばわざわざ政府が産業政策として支援する必要もない。

 または「問い合わせ窓口」については政府の方が民間よりも知っている必要がある。ところが本書を読むと、これが本書の抱える最大の矛盾点だが、政府はいまだコンテンツ中心の発想を抜けられず、民間が無意識?に前提しているキャラクター中心のビジネスの発想に劣るというのが本書の指摘だろう。となると小田切の発言をそのまま読むと政府は民間(小田切含む)に情報の点でも優位していない。ゆえに産業政策はこの点では正当化されない。

3)経済産業省傘下のJETROの活動は有意義だが、制作サイドやファンたちは「放つておいてほしい」という無関心という齟齬がある。

 「経済産業省傘下のJETROは市場調査だけではなく、こうした海外企業との契約に関するサポートを行っているし、カンヌやベルリンといった映画祭やゲームショーなどの国外のコンペティション(見本市・商談会)への日本企業の出展を支援する活動も行っている。ごく単純に考えても今後こうした行政サービスの必要性は増しこそすれ、減少することはない」87

 いや、違う。ごく単純に考えると、「今後こうしたサービスを行政が行うべきかどうか」まずはそこから考えるのがいいだろう。そして小田切のあげたものをJETROが行い理由を見出しがたい。


 さて本書の中心メッセージはすでに書いたが従来の「外圧」によってうまれたコンテンツ中心の産業政策やそれに基づく様々な意見を批判的に見、他方でキャラクター中心の産業論、産業政策の重要性を説くものである。ただ具体的な解法を与えるのではなく、著者の言う通りだとするならば問題の切り分けと整理をすることにあるという。すでにここまで見たように、問題の切り分けと整理の点でまったくダメである。少なくとも著者のいう産業政策の理解は意味が不明である。

 第三章も第4章も中味を読んでも僕には以下の感想ぐらいしか抱かなかった。

 さらにこれもよくわからないのだが、キャラクターのプロパティ―(所有権)を明確にすることが政府に求められているし、その意識が政府にもまた現場サイドにもないらしい。しかしそれは本当だろうか? 少なくとも二次創作市場を中心にキャラクターのプロパティ―をめぐる問題は議論されてきたし、また法整備をすすめる機運もあるのではないか?

 そしてキャラクターのプロパティ―を明確にするということが法整備で求められるとするならばそれはそれで本書の問題提起にはなる。しかしその程度だと本書の大半が不用である贅言でさえあるだろう。少なくとも産業政策などは不要である。まさに現場サイドやファンたちの言葉ではないが、法整備さえ整えればあとは政府の介入などいらない、放っておけばいいのだ。JETROもメディア芸術センターも補助金も減税も人材の保護・育成もまったく関係ない。

 もちろん日本においてキャラクターの所有権をどのように経済的に基礎付けるか。それはそれで固有も面白さがあるだろう。だがそういう指摘をする上での問題の整理と区分けに小田切はあまりうまくやっているように思えない。その証拠は上に長々と書いたのでもういいだろう。

キャラクターとは何か (ちくま新書)

キャラクターとは何か (ちくま新書)

産業政策とは何か(岩田規久男・飯田泰之『ゼミナール経済政策入門からのメモ)

 岩田・飯田『ゼミナール経済政策入門』は非常に便利な政策論の教科書である。上の小田切本にも関連するし、これからしばしば産業政策や産業組織論の話題が今年は頻繁にこのブログでもでてきそうなので整理のためにほぼ引用的に書かせて頂く。皆さんはぜひお手元にこの本をおかれたい。

 産業政策とは何か? 「一国の産業間の資源配分、または特定産業内の産業組織に介入することにより、その国の経済厚生に影響を与えようとする政策」である。ここでの経済厚生は総余剰を指す。

 具体的な産業政策として岩田・飯田本は3つの可能性を指摘しているが注目しているのは以下のふたつ

1)外部性の存在を根拠として、幼稚産業保護論や産業育成論など、補助金や税制、貿易などへの介入によって特定の産業の育成を図る政策
2)融資などにおける情報の非対称性問題が深刻な経済活動を、情報提供や補助金・税制優遇により支援する政策

 である。このふたつが正当化されるためには市場の失敗が存在しなくてはいけない。本書はその根拠を検討している

 産業政策の根拠の批判的検討

その1 動学的規模の経済(経済が時間が経過するほとに生産費用が低下していく状態)の存在は必ずしも産業政策を肯定しない

「動学的規模の経済がある産業では、現時点の技術水準では国内で生産するよりも、輸入した方が費用が安くすむとしても、一時的な国内産業の保護や赤字の補てんにより、その産業を育成すると、学習効果により技術が向上し、将来時点では採算のとれる産業になる可能性があります。この理由から主張されるのが、幼稚産業の製品の輸入規制や税制・補助金による支援です」

 しかし現時点で赤字で将来に採算がとれる産業(=立ち上げの費用、セットアップコストが多額)であれば増資や借り入れで対応可能。また政府が民間よりもその産業の動学的規模について情報を知っているケースでこの産業政策を肯定しようという意見もある。しかしそれならば政府がその情報を公開すればいいだけである。また情報の非対称性からセットアップコストを資本市場から十分に調達できない可能性がある。しかしこのときも貿易規制ではなく利子補給や公的融資があればいい。ところが公的な融資もそもそも政府サイドが民間の資金供給主体よりも融資先の情報を優越して把握してういることが公的融資の前提になる。しかしそのような事例は一般的ではない。

その2 時間的な規模の経済に動学的な外部性が存在しても産業政策は正当化されない

「ある企業が初期投資を行って生産を開始し、動学的な規模の経済によって生産技術や知識が向上したときに、それによって生じる利益がその企業のものになるならば、政府が介入する必要はありません。しかし、ある企業の技術・知識の向上に基づく利益が、対価を伴った市場の取引を通じることなく、直接、同業他社や他産業に及びときには、資源配分の効率性基準からみて、自発的は産業の立ち上げは過少になります」

この立ち上げの過少性は社会の経済厚生を損なう可能性があります。このような知識・技術の外部経済の波及効果を重視し、その技術を開発した産業を保護すれば、一国経済全体の厚生が上がる可能性があります。

 しかしこのような産業政策も批判的に検討すべきである。例えば発明、考案、意匠、著作物などの知的財産権の領域を確定し、他人や他企業がそれらの知的財産を利用するときにその所有者に対価を払えば、「外部経済が内部化」される。

 つまりここでは「産業政策」ではなく、政府がやるべきことは知的財産権を明確に定義して、それを法で守ることである。

 なおマーシャルの外部性などの議論は省くので本書を各自読まれたい。

ゼミナール 経済政策入門

ゼミナール 経済政策入門

 

白川方明日本銀行総裁のデフレ原因論→「日本銀行に責任ないってば」(要約)

 少し前の話題になるが備忘録の観点から書いておきたい。白川総裁がテレビ(ワールドビジネスサテライト)で日本銀行の政策について説明したことがあった。僕はテレビをみる余裕なかったので主に上念司さんのTwitterの「実況」で読んでいた。

 ここでは(上念さんのTwitterも参考にしながら)以下の上野泰也氏のまとめに依拠してわが国の総裁の経済観を考えてみたい。

 白川日銀総裁がテレビ出演http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/2427

 白川総裁はデフレの原因を3つあげている。1)規制緩和など内外価格差の是正、2)労使が雇用確保を重視しサービス産業などの賃金低下を許容した結果、3)一番重視しているのが、バブル崩壊後の国民の自信の喪失が需要不足を生み出した、というものである。

 この三番目が最も重要なのだが、要するにこれは期待成長率の低下であり、それを是正する主要な役割は日本銀行ではなく、政府にある、というのがこの総裁の話の中核である。3)に先行する1)は規制緩和だとかグローバル化の必然であり、これも日本銀行のせいではない、といいたいのだろう。2)は労使の自発的な行為でありこれも日本銀行のせいではない。そもそもの不況は3)や1)の結果であるのでもちろん日本銀行はこの労使の交渉をもたらした要因ではない。

 さてこの3)は現代風(とはいえいまから話す「昔」はたかだか7〜9年前のことだがw)に翻訳されていて気がつかない人も多いだろう。これは「構造改革主義」と僕が名付けてきた発想そのものである。もう「構造改革」自体が死語になっているため、ここでは総裁の話に合わせて「自信喪失仮説」とでも呼んでおこう。

 この「自信喪失仮説」の中身について、僕は『経済論戦の読み方』の中でまとめたことがあるので以下に表現を直して引用しておく(構造改革主義を自信喪失などに修正)


「自信喪失仮説」の経済理論は、たとえば企業の設備投資計画は、将来の潜在成長率に依存していると考える。例えば小泉ー竹中政権時の『経済財政白書』は、期待潜在成長率が一%上昇すると、設備投資は二−四%上昇するという関係を導き出し、それゆえ期待潜在成長率の一%の上昇は、現実の経済成長率を〇.三%−〇.七%上昇させるだろうと予測していた。

 いいかえれば、期待成長率は自己実現的な性格をもつ。期待成長率が高まれば設備投資や消費が拡大し、現実の経済成長率が押し上げられる。現実の経済成長率が高まれば期待成長率もあがるというわけである。この際に期待潜在成長率の上昇に寄与するのは、「自信回復」への政府の強いコミットメントである。おまけとしての日本銀行の弱い追従である。
 「自信回復」の実現への期待によって、総需要(設備投資、消費の増加など)と総供給の増加という一挙両得が可能になるとかって説明されていたし、いまの日本銀行の考えもそうであろう。

 図では「自信喪失仮説」の考え方が描かれている。自信喪失仮説の考え方でも90年代の初めに何らかの原因によってデフレギャップが発生する。そして政府が主導して自信回復へのコミットを力強く行うことでこのギャップを解消し、自信回復の成果に見合った潜在GDPに見合った経路に戻ろうというわけである。図表ではC点から始まり、従来の潜在GDPのトレンド(D)に復帰し、さらに自信回復によって従来の潜在成長経路を上回るトレンド(E)にもっていくということである。

 まあ、さすがに「自信回復」でトレンドEまで景気よく回復するというシナリオを白川総裁は口に出してはいない。そういう打ち上げ花火は政府の役目であり、日本銀行は概ね潜在成長率を1%と見積もりそれを現実の成長率が上回りそうなときは「バブル」(資産市場の歪みだとか金融リスクだとかいろいろ能書きがあるがわかりやすくいえばこれ)を叩くために利上げ、出口、フォワードルッキング、「正常化」などとこれまたいろんな修辞で引き締めをするだろう。

 さてここで面白いことが起きるw この「自信回復」の手段はなんだろうか? 小泉政権のときであればそれは「構造改革」であった(当時の速水元総裁はそう明言していた)。だけどそうなると1)のデフレ要因にした手前、規制緩和や民営化などの推進とは明言できなくなる。ここで出番が出てきたのが「世界経済頼み」と「産業政策」である。

 ところで世界経済の回復で「外需」が伸長してそれで日本の景気が回復していくシナリオというのは確かにある。他方でそれが日銀が意識しているコアインフレを「改善」していく可能性もあるだろう。このことについては別エントリーに書く。いまは改善にわざわざ「」をつけたことを覚えておいてほしい。

 「産業政策」のようなことをいっていたというのは上念さんの指摘だが、面白いのは自公政権のときは「構造改革」や「成長戦略」に期待し、今度は民主党政権になればその政権が主軸になっている「産業政策」的なものに期待するという態度だ。ここを批判すればきりがないので今日はこれもやめておく。

 ところで上野氏の予測を最後に紹介しておく。

 日銀は新型オペを活用しながらのターム物金利低め誘導を、着実に実行していくことだろう。円高が急激に進むなどで必要が生じれば、新型オペの量およびタームの両面での拡充が、次の一手、新たな「チャレンジ」として実行されるだろう。そしてそのことは、イールドカーブの手前の部分からの金利低下圧力を、中期さらには長期ゾーンへと波及させていく、強力な効果を有している。

 上野氏もチャレンジに「」をつけているところが面白いが、私見によれば本当に日銀がチャレンジ精神をもち、なおかつその政策が「強力な効果」をもち、さらには世界経済の進展に期待をよせるならば、「そのために必要と判断されるようであれば、迅速果敢に行動するという態勢を常に整えている」(白川総裁談)のは、いまだと思うのだが。様子見でじっと市場や政界・世論に「異変」が起きるのを待っているようではこの国の中央銀行は依然として危うい。

 ところで上野論説の紹介を読んで気になったのだが、「「デフレスパイラルを防ぐために流動性を潤沢に供給し、金融市場や金融システムの安定をしっかり維持していく」という発言である。これだけだとなんともいえないが、確か日銀はデフレスパイラルの可能性を否定してきたのだが、これだとそのリスクが顕在化しているから防いでいると読める。まったくよくわからないわが国の中銀である。