ピカソの絵「朝鮮の虐殺」(Masacre en Corea)と信川虐殺事件について

lovelovedog2007-01-22

以下のところから。
→棒太郎の備暴録 radical memo by boutarou - 【簡易】韓国 Yoko 狂想曲【まとめ】
こんな絵がピカソにあるなんて知らなかったよ。

→ピカソ展@レイナ・ソフィア美術館-nakais

13時になり会場に出向く。通常ゲルニカが展示してある展示室。入ってすぐには見たことのあるコレクションが多かったので、それほど様子が変わらないように見えたのだが、ゲルニカのところまで辿り着いて驚いた。普段ゲルニカ(1937年作)の作品がある場所の向かい側にあたる所に、ゴヤの『1808年5月3日、マドリード』(1814年作)(プラド美術館蔵)が対面していたのだ。すごいインパクト。
このゴヤの作品は通常、マドリードにある王立プラド美術館・ゴヤルームの所定の位置に飾られている。それを今回この展示の為に持ってきてしまっているのだ。通常そう動くことはない。
ピカソ『ゲルニカ』
ゴヤ『1808年5月3日、マドリード』
その対面上側面を囲うように、マネの「La ejecucion de Maximiliano(皇帝マクシミリアンの処刑)」(1868-1869)(プラド美術館蔵)、ピカソの「Masacre en Corea(朝鮮の虐殺)」(1951年)が、通路空間を挟みながらそれぞれ左右に位置する。
(展示空間が見られます!)
その1 その2

↑のリンク先だと「その2」のほうで「朝鮮の虐殺」の絵が見られます。
→PICASSO, la exposicion del Reina-Prado(「朝鮮の虐殺」その他が掛けられている部屋の展望(360度回転する動画)
また怪人二十面相の人に頼んで、4枚の絵を盗んでもらおうかと思ったんですが、そんなことしなくてもここにありました。
→Picasso exposicion Museo Reina Sofia Imagenes 06
各絵のgoogleウェブリンクをしておきます。「イメージ」は各人でどうぞ。
→El 3 de Mayo de 1808 en Madrid - Google 検索
→Guernica Picasso - Google 検索
→La ejecucion de Maximiliano - Google 検索
→Masacre en Corea - Google 検索
リンク先はスペイン語ばかりなんでとほほなんですが、絵を見てみるとピカソの「Masacre en Corea(朝鮮の虐殺)」は、構図・題材ともにゴヤの「El 3 de Mayo de 1808 en Madrid」、マネの「La ejecucion de Maximiliano」に影響を受けている絵だということがわかります。
→朝鮮の虐殺 ピカソ - Google 検索
韓国・朝鮮の人たちは知っているんでしょうか。
→映画の中の南と北−『ブラザーフッド』と『シルミド/SILMIDO』−

今夏韓国でも公開される予定だったピカソの『朝鮮の虐殺(Massacre in Korea)』という絵画がある。朝鮮戦争の市民虐殺をテーマにピカソが1951年に描いた作品である。北朝鮮の黄海道信川(シンチョン)郡で米軍あるいは反共産主義集団に市民が虐殺される場面が描かれているという。

「予定だった」というのがとても気になるんですが、公開されたのかな。
→ピカソの『韓国での虐殺』が韓国初公開へ(朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition))

20世紀の天才画家ピカソが描いた『韓国での虐殺』(Massacre in Korea/1951)が韓国で初公開される。国立現代美術館の金潤洙(キム・ユンス)館長は「果川現代美術館で6月末に開催する『平和展』でピカソの『韓国での虐殺』を公開することになった」と明らかにした。

↑これは2004年4月の記事。
→★ヴィクトリア通信3  ピカソの「朝鮮の虐殺」によせて   立命館大学 徐 勝(ソ・スン)

つれづれに、インターネットを覗いていると、果川(クァチョン)の韓国国立現代美術館で、今年の6月から9月まで、平和をテーマにした「平和国際術展」が準備されており、ピカソの「朝鮮の虐殺」をフランスから借り入れるという、小さな記事に出会った。
「朝鮮の虐殺」は1951年の作品で、ピカソが朝鮮戦争中、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の黄海道信川(シンチョン)郡で行われた集団虐殺にインスピレーションを得て描いた大作であり、ゲルニカとともにピカソの代表的反戦作品である。
この報せに接して隔世の感を禁じえない。この絵は韓国で反米的あるいは親北(朝鮮)・容共的なものであるとして、近頃まで禁止されてきた。1960年代の半ば、この絵が収録されている平凡社版の世界美術全集だったかが、輸入禁止になっていたことを思いだす。当時は、この図版を所持するだけで反共法違反で処罰されたものだ。それが、運搬費や保険料など5〜6000万円を投じて借り出そうというのだから、韓国社会の変化がよく分かる。
金属板で覆われたロボットのよう兵士が母親と子供、妊婦に銃を向けている構図は、マドリッド攻略時のナポレオン軍による虐殺を告発したゴヤの「5月30日」(1814年)から借用していることは知られている。無機的で機械的な殺戮に母親と子供、妊婦という人間の生命を対比させているが、彼女たちが犠牲者として描かれているのは、「信川虐殺」の最も悲劇的な事件である「400オモニ(母親)の墓」、「102子供の墓」の虐殺事件からインスピレーションをえたからだと思われる。すなわち、旧弾薬庫に100余名の母親から引き離された子供を閉じこめ、その下手の倉庫に400名の母親や娘たちを入れて、お互いを呼びあう阿鼻糾喚の中で火を放ち両者を焼き殺したという。ナチスの蛮行を凌ぐ惨劇である。
「信川虐殺」とは、1950年9月、マッカーサーの仁川(インチョン)上陸作戦後、国連の制止をふりきって疾風怒濤の勢いでピョンヤンに向かって殺到する米第24師団第17連隊の一部が、10月17日から米軍が中国人民義勇軍の参戦で撤収を余儀なくされるまでの52日間に当時の信川郡の人口の4分の1、35,383名を虐殺したといわれている事件である。1953年、朝鮮戦争の停戦とともに、当時の金日成(キム・イルソン)首相が虐殺現場を保存し記念館を作る事を提案し、58年に開館してから延べ1400万人が参観し、北朝鮮の反米教育の現場となってきた。
「信川虐殺」は朝鮮戦争時期の100万になんなんとすると言われる民間人虐殺の一部を構成するものであるが、従来、アメリカ軍の犯行であると言われてきた通説に最近、異議がだされている。韓国の代表的作家、黄皙映(ファン・ソギョン)氏は一昨年出版した話題作『ソンニム(お客さん)』(岩波書店から翻訳出版予定)で、虐殺の下手人は米軍ではなく、むしろキリスト教を背景とする反共右翼テロ団である事を示唆した。当時の状況や韓国での証言採録の結果を勘案すると、黄氏の言が現実性を帯びてくる。ただし、当時、また今も、韓国軍の軍事指揮権を米軍が持っている事を考えるなら、米軍が虐殺の直間接的な責任を負わなければならない事は言うまでもない。

(太字は引用者=ぼく)
この「信川虐殺事件」、ものすごく興味がわいてきました。
 
ピカソが共産主義者だった、ていうかフランス共産党員だった、というのはある種有名です。
→ピカソ 共産主義 - Google 検索
こんな話もあります。
→村人生活@ スペイン : ピカソとダリ

1927年から1970年の間に サルバドール・ダリはパプロ・ピカソに30通の手紙や電報をおくったそうです。 その中には 絵も同封してある物もありました。 それらの書簡と絵画がフランスで一冊の本になりました。 ピカソは一度も返事を出しませんでした。
しかし 初めて ダリがニューヨークに行ったときも ピカソが飛行機代を払うなど かなり援助をしています。 ただ 市民戦争の時代 ダリが電報で 「あなたは共産主義にもかかわらず ベラスケス以来の偉大なる画家だ」と書いたときはさすがのピカソも激怒したそうです。 
当時の 作家や画家たちで中流階級以上のインテリたちはだいたい 共産党を支持するか どちらも支持しないと言う人が多かった中で フランコを支持していたダリは異色です。 どうどうとお金を儲けたいからと宣言してしまうところも。
ただ このダリの手紙 半分はカタランで書かれているのですが フランス語の訳がすごくひどいらしいです。 最初にスペイン語訳が出れば良かったのですが ピカソの物はほぼパリに残されているので 残念です。

(太字は原文のまま)
しかしこの、ダリの手紙を原語で読むのは難しそうです。
→『ピカソ』瀬木慎一/「ゲルニカ」=非人間的な暴挙への抗議 未来の小林多喜二

ピカソは第二次大戦中にも反戦活動をするレジスタンスや共産党に接触し、1944年8月にパリが解放されると「彼らがいちばん勇敢だった」と共産党への入党を公表する。
 51年には「朝鮮の虐殺」、52年には「戦争と平和」を描き、ヴェトナム戦争に対しては70年にアメリカ撤退を要求する声明を発表した。

→パブロ・ピカソ - Wikipedia

1944年、ピカソはみずからフランス共産党に入党し、死ぬまで共産党員であり続けた。しかし、その間には、友人のアラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、党内のスターリン主義とは合わなかった。

ちなみに、ピカソが描いたスターリンの絵は、以下のところから(なぜか日本語での検索はうまくいきませんでした)。
→stalin picasso - Google イメージ検索
 
話を「信川虐殺事件」に戻します。
→ニュースの眼/朝鮮戦争時の米軍の虐殺(朝鮮新報(日本語)・1999年10月18日)

AP通信が朝鮮戦争(1950年6月25日〜53年7月27日)当時の米軍による住民虐殺事件を報じて以来、南朝鮮では連日、真相究明を求める声の高まりと同時に、他の虐殺事件も続々と明らかになっている。13日現在、その数は12件に及んでいるが、さらに増えることは確実だ。
AP通信が9月30日に報じた老斤里虐殺事件というのは、朝鮮戦争が始まって間もない50年7月27日、忠清北道の老斤里という村で、米軍が住民らを避難させると偽って鉄橋の上に連れ出し300人以上を虐殺したというもの。
(中略)
しかし、崔教授の分析だけでは朝鮮半島北部における米軍の住民虐殺を説明できない。朝鮮社会科学院歴史研究所の資料によると、米軍は平壌など34の地域で17万2000余人の非戦闘員を虐殺している。
とくに50年12月7日、黄海南道信川郡で起きた婦女子虐殺事件は米軍の残忍性をそのまま物語っている。米軍は2つの火薬庫に母親と子どもを分けて閉じこめ、ガソリンをかけて火を付けた。そして400人の母親と102人の子どもを含む910人を虐殺した。
信川郡を占領した米軍司令官のヘリソンは「母親と子どもが一緒にいるのは、あまりにも幸福すぎるではないか。ただちに引き離して別々に閉じこめろ。そして母親は子どもを捜しながら死に、子どもは母親を捜しながら飢え死にするようにしろ」と叫んだという。

(太字は引用者=ぼく)
ますます興味深くなってきましたが、「100万になんなんとすると言われる民間人虐殺」という立命館大学・徐勝(ソ・スン)さんのソースはうまく見当たりませんでした。
「信川の虐殺」は民族同士のものではなく、米軍によるものだ、というのが(朝鮮民主主義人民共和国の?)公式の説としてはあるんですが、一方にはこのような本も。
→沖縄フィールドワーク〜軍事占領・キリスト教史〜地域文化研究: 小説『客人(ソンニム)』に見るキリスト教の狂気

黄海南道の信川郡では住民の四分の一にあたる三万五三八三人が米軍によって虐殺されたという。だが、近年、この『信川虐殺事件』は米軍によるものではなく、米・韓軍の反撃の報に接して蜂起した反共右翼によるものであるとの説が有力である。作家・黄晢暎は、この『信川虐殺事件』を素材とした作品(『客人』)を通じて、住民を悪魔として大量殺戮したプロテスタントたちの心の闇を描いている(同上、p78)。

(太字は引用者=ぼく)
→『客人』(ソンニム)著者からのメッセージ

今回の『客人』も,韓国分断の端緒である朝鮮戦争(1950〜53年)をこれまでとまったく違った角度から描いています.南北の軍や米軍,あるいは中国軍の戦争であっただけでなく,それは同じ村人たち,隣人たちの殺し合いでもあったのです.信川の大虐殺については,当時ピカソが絵に描いて非難するくらい有名な事件でした.しかしそれはピョンヤン政府が公式に伝える,米軍による虐殺ではなかったのではないか,というのが,現地を取材し,アメリカで亡命者の牧師と語って彼が得た結論でした.
 いわば彼はタブーを破ったのです.北のマルクス主義者からも,南のクリスチャンからも,彼は批判を受けることになりました.

ということで、この本を紹介しておきます。
 
→『客人(ソンニム)』(黄翛暎・岩波書店)
※本当は「黄翛暎」は「ふぁん そぎょん」と読みます。
 
「信川」というのは「黄海南(ファンヘナム)道 信川(シンチョン)郡」のことで、現在は朝鮮民主主義人民共和国の領土のようです。「信川博物館」というものもあるらしいので、そこの紹介など。
→信川の虐殺

信川は平壌から南西へ約六十㎞、朝鮮戦争で米軍が住民を大量虐殺したところである。数百人もの女性に重石をつけ橋の上から落として溺死させ、母親たちと子どもたちを別々の建物に閉じ込め焼き殺すなど、信川だけで三万五千人、黄海南道全体では十二万人もの人を虐殺したのである。私たちはすぐに、同じ米軍によるベトナムのソンミ村事件や日本による平頂山事件などを思い起こした。しかし、その規模は格段に違うものであり、日本の南京大虐殺、ドイツのアウシュビッツなどに匹敵するものである。信川の虐殺は日本で余り知られていないのではないか。

(太字は引用者=ぼく)
→第6日(九月山・信川・正方山観光)

その後、我々は、信川博物館という博物館を見学するために、信川という町にやって来ました。博物館の前に来ると、大勢の労働者や学生が列を作って順番を待っていましたが、我々は、いつものように、待たずに博物館の中に入れてもらいました。
ガイドの説明によると、朝鮮戦争の際、米軍は、この信川で、52日間、罪のない愛国的人民を3万5千383名も虐殺したというのです。博物館内部には、その際の米兵による蛮行の数々が、真に迫る絵画を中心に展示されていました。
しかしながら、米兵が、ノコギリで頭を切ったとか、ハンマーで頭に釘を打ち付けたとか、複数の牛をそれぞれ違う方向に走らせて労働者を八つ裂きにしたとか、まるで、紀元前の中国における刑罰のような展示ばかりでした。

(太字は引用者=ぼく)
何か怪しげな「信川博物館」の展示。
↓のところでは、実際の展示物の画像をもっとたくさん見ることができます。
→21世紀の太陽・写真編(7)

朝鮮戦争悲劇の舞台、黄海南道信川(シンチョン)郡は、現在(私が見る限り)のどかな農村地帯です。
しかし、この土地では朝鮮戦争時に『国連軍に協力的でない』という理由で、多くの(三万人あまりとの記録がある)人々が国連軍(主力は米軍)に殺害されました。
信川には、その朝鮮戦争時の米軍(国連軍)の蛮行を告発し、あわせてこの1世紀あまりの“アメリカ帝国主義の朝鮮侵略の実態”を糾弾する信川博物館があります。
今回、のりまきはこの博物館内部の写真をいくつか撮って来ましたので、ここで紹介します。

すごいですね。
ピカソの絵と比べてみることも一興でしょうか。
しかしこのピカソの「朝鮮の虐殺」(Masacre en Corea)が描かれた1951年の時点で、ピカソ自身はこの事件および朝鮮戦争についてどの程度の情報を持っていたのか、またピカソ自身はハングルが読めたのかは皆目不明だし、ハングルもスペイン語もフランス語もさっぱりなぼくにはこれ以上の言及は難しいので、この話は一応終わりにしておきます。