バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

疑似科学と道徳 −下村文部「疑似科学」大臣の醜態より邪推する疑似科学信者の思考の傾向−

1.はじめに

先日の記事でも書きましたが、下村博文文部科学大臣が様々な疑似科学を信じていることが問題視されています。詳しくはこちらをご覧下さい。
この困った大臣の体たらくから、疑似科学信者の思考の傾向を探ってみたいというのが今回の記事です。

まず、明らかになっているだけでも、下村氏は次のようなトンデモ案件に関与しているとされています。

この中の「EM」「親学」「幸福の科学の映画」について、「道徳」という観点から考えてみます。
なぜ道徳に注目したかと言いますと、下村氏は道徳教育を重視しているように見受けられるからです。昨年12月27日に行った記者会見では、道徳教育の重要性を繰り返し強調しています。つまり、この人は道徳が大好きと言えます。精神的な規範を求めているようです。
また、以前述べたように、疑似科学を信じる人々には「善人である」という共通点があることが多いような気がします。あくまで主観的な印象に過ぎず、根拠としては薄弱ですが。善人というのは道徳を重視する人々なので、道徳に着目した次第です。

2.下村氏の肯定する事例の考察

(1)EM
EMは全国各地で道徳教育に用いられていることが明らかになっています。少々事例を挙げます。

事例1:茨城県教育委員会 道徳教育のページ【中学校の資料】

  • 本資料は、目の前に流れる川の汚れに驚き、少しでもその川がきれいになるようにと川の浄化活動に取り組む市村さんの生き方を記録したものである。心の迷いに打ち勝って、自分の夢と希望を実現していこうとするその姿は、読む者に大きな力を与えてくれる。
  • 常に理想を求め、その実現のために夢と希望をもち、自分の人生を切り拓いていこうとする態度を育てる。
  • 人間の生き方や道徳的価値について共感的にとらえることができる。
  • 生徒一人一人のもっている理想の実現に向け、自分の人生を切り拓くために何が必要なのかを考えさせることを主眼としたい。

事例2:朝日のEM批判記事検証:青森からの現地報告(DNDメールマガジン)

  • 学校としては、環境教育の一環としてやっていて、EMに効果があるかどうか云々よりは、子供たちの問題解決の力を養うというのが目的なんです。
  • 近隣に一生懸命やって下さっている善意の方々がいて、僕たちも何かしら環境保全の為にやらなければならないというところを子供たちに伝えたい。
  • EMの効果かどうか、検証したのか、とか、アホらしいことをいきなり質問するだろうか。大切なことは、この澄み切ったプールで子供たちが、安全にそして元気に水しぶきをあげられるかどうかだろう。
  • EMってどんなか知らねぇけど、生徒らがペットボトルに入ったEMをじゃぶじゃぶ川に流しているのを見てきた。あれはねぇ、環境浄化とかいうけどが、自分たちの川をきれいにしながら、きっと生徒ら自身の心をきれいにしているのだわ。卒業するころには、気持ちのやさしい立派な青年に成長しているものさ。

事例3:郡山市ふれあい科学館スペースパーク 水質浄化学習セット改訂版

  • EMを学校教育に取り入れ、生きる力を育む
  • 環境に対する関心を高め、水質保全へ向けた意識の高揚と責任ある態度を養う。

EMの関係者がいかに道徳に重きを置いているかがよくわかります。これはある意味当然で、EMは科学的根拠や効果を提示できないので、道徳を強調して教育効果を訴えるしか手がないわけですね。
EMの親玉である比嘉照夫(※)は、「地球を救う大変革」という誇大妄想にもほどがある書籍のシリーズを著しています。信者はEMを使うことが世界を救うことにつながる、さらには自分が世界を救う選ばれた人間の一人になるという道徳(もはや選民思想)を植え付けられてしまいます。自分は世界を救うために行動しているのだから無条件に正しいのです。批判は真実から目をそらす劣った連中や利権に縛られた工作員の仕業ですから無視すべきです。

(2)親学
親学推進協会のサイトによると、「親学は親としての学びであるとともに、親が人間として成長するための学び」だそうです。早い話が若い親に向けた道徳教育です。
昨年、大阪維新の会がこの「親学」に基づき、「発達障害は子育ての失敗が原因であり、発達障害を防ぐために伝統的な子育てを復活させる」という科学的にデタラメな条例案を市議会に提出したものの、批判が多かったために撤回した、という騒動がありました。発達障害は先天性の障害であり、子育ての方法が原因であるという事実は少なくとも今のところはありません。「親学」は、発達障害の原因を親に押し付けるような悪しき道徳です。まさにこれも、「道徳が科学を捻じ曲げた」事例だと言えます。

(3)幸福の科学の映画「ファイナル・ジャッジメント」
言うまでもなく、幸福の科学の映画は全てがプロパガンダ映画です。私自身は一度も観たことはありませんし、今後も観ることはないでしょう。ただし、様々な形で公開されている粗筋や感想を読む限りでは、これらの映画は信者へのメッセージ、つまりは信者が身に付けるべき道徳を伝える手段であると言えます。「エル・カンターレ様を崇拝しなさい」という強い道徳的メッセージを提示するわけですから、道徳好きの下村氏が評価するのもうなずけます。


3.その他の事例

ここで、疑似科学と道徳の相性がいいと言う他の事例を挙げます。

(1)水からの伝言
疑似科学と道徳の厄介な関係について考える上で、「水からの伝言」、いわゆる「水伝」の問題は避けて通れません。
「水伝」について軽く説明しておくと、「水にいい言葉を掛けると美しい結晶を形成する。一方、悪い言葉を掛けると醜い結晶を形成する。つまり、水は人間の言葉に反応して状態を変える。人間の体の大半は水でできているのだから、いい言葉を掛けることで、人間は肉体的、精神的に好影響を受ける。いい言葉を使うよう心掛けよう」という話です。科学的に検証する以前のヨタ話であり、鼻で笑って済ませるべきです。ところが、この話が道徳教育に用いられる事例が全国で起こり、社会問題になりました。疑似科学を教育に用いる時点でダメですし、言葉の善し悪しの基準を水というただの物質に求めるのもダメダメです。
ところが、信者は「例え言葉により水が変化することが事実ではなくても、いい言葉を使うことは大事だ」とお決まりの反論を繰り出します。ここでも道徳が優先されているわけです。だったら最初から「お水様」なんぞにお伺いを立てる必要もなかろうに。

(2)ゲーム脳
「ゲーム脳」とは、日本大学教授の森昭雄氏が唱えるインチキ理論です。さんざん批判されていながらも教育関係者に根強い支持を得ています。森氏は批判に対して反論せずに、「自分は日本の子供を救うために研究している」と誤魔化したとされています。道徳心から研究を行っているわけですね。TVゲームが嫌いな方々にとって、「TVゲームが脳の機能を低下させる」という理論は、例えデタラメであっても都合がいいのでしょう。動機は正しいのですから。「子供からTVゲームを取り上げたい」という道徳に科学的根拠(のようなもの)を与えてくれます。

(3)戸塚ヨットスクール
戸塚ヨットスクールとは、言わずと知れた体罰の代名詞のような自称教育機関です。ここの創設者である戸塚宏氏は、「青少年の問題行動は、脳幹の機能低下により引き起こされる」という「脳幹論」なる変てこな理論を唱えています。要約すると、子供に言うことを聞かせるためには殴ればいい、というだけの話です。自分のおかしな道徳を正当化するために疑似科学を持ち出していると言えます。

(4)奇跡のりんご
木村秋則という青森の胡散臭いリンゴ農家のジジイが、「世界で初めて無農薬・無肥料でのリンゴ栽培に成功した」と自称しています。はっきり言ってしまえば、「無農薬・無肥料」とは本人が言っているだけなので、少なくとも現段階では科学的な評価に値しません。弘前大学農学生命科学部の杉山修一教授が共同研究を行っていますが、その成果が学術論文という形で公表されたことはありません。疑似科学と断言していいと思います。このジジイの本を読むと、何のありがたみもないお説教が満載です。参考:すべては宇宙の采配(東邦出版)。タイトルが全てを物語っていますね。

(5)創造論
創造論とは簡単に言ってしまうと、「万物は唯一絶対の偉大なる神により創造された。地質学や進化学は間違っている」という主張です。キリスト教原理主義と深い関係にあります。ある意味世界最強最大の疑似科学です。アメリカでは信奉者が学校の科学教育への批判を繰り返しているため、社会問題となっております。キリスト教の道徳、聖書の教えに反するから許されないわけですね。日本では支持者はほとんどいませんが、こんな困った学者もいます。

4.個人的な事例

あまり参考にならないとは思いますが、私の個人的な体験を事例として挙げます。

事例1:腐った米のとぎ汁が放射能を防ぐと信じている方のブログで

  • 私「腐った米のとぎ汁が放射能を防ぎ、衛生的に安全であると証明して下さい」
  • 管理人「他人の信念を批判するのは幼稚で失礼です」

事例2:腐った米のとぎ汁が放射能を防ぐと信じている別の方のブログで

事例3:マクロビオティックを称賛する方のブログで

事例4:EMの効果を確認したと主張する方のブログで

いずれにおいても、相手は善悪の判断に関する物言い(反論と呼ぶに値しない)に終始しています。
想像するに、彼らにとって道徳は科学を上回る価値を有するのでしょう。科学が自分の思いだけでは変えられないので主観的価値を有さないのに対して、道徳は自分の思い次第でどのようにでも変えられるので、主観的な価値を有します。道徳とは結局のところ「世の中はかくあるべし」という個人の願望ですからね。科学的に間違っていても道徳的に正しければ全て許されます。道徳的に正しくない科学など何の価値もないのです。科学も道徳的に正しくなければなりません。


5.まとめ

善良な人は、往々にして自分以外の人間にも善良であることを求めます。その延長として、「この世の全ては善良でなければならない」との考えに至ります。かくして、全ての判断基準が「善良か否か」になります。「事実か否か」ではなく。善良である物は全て正しく、善良でない物は全て間違っているのです。例え事実でなくても、善良な動機があれば全て許されるのです。
善良な人は他人を疑ったり批判したりすることを嫌いますので、何でも信じる傾向があります。信じている内容が相互に矛盾していても信じます。同様に、自分が疑われたり批判されたりすることも嫌いますので、都合の悪いことは聞く耳を持たなくなります。上の事例でも書きましたが、他人の信念を批判することは「善良でない」行為だからです。

疑似科学の世界では、「例え○○に××という効果がなくても、△△に対する意識を高める切っ掛けになるから進めるべきだ」という物言いがよく出て来ます。上に挙げたEMや「水伝」の事例にもありますね。「○○」にはお好きな言葉を当てはめて下さい。「オオマサガスが永久機関でなくても、エネルギー問題に関心を持つのはいいことだ」とか「酵素を摂取しても消化管でアミノ酸にまで分解されて機能を失ってしまうから意味がなくても、食事や健康に気を付けるのはいいことだ」とか。恐ろしく汎用性の高い表現です。言い換えれば疑似科学信者の言動の画一性を示すものですが。

善良な人は、常に世の中がより良くなることを望んでいます。社会問題を切っ掛けにして疑似科学にのめり込む人も多いことかと思います。一昨年の福島原発事故による放射性物質の問題などはその典型です。あの事故を契機として、一体どれだけの善良な人々が疑似科学に捕まったのかを考えると、暗澹たる気分になります。社会問題を解決するのは科学にとっても簡単な話ではありません。簡単に解決できないからこそ問題となりますので。ところが、疑似科学は夢と道徳に溢れた画期的な解決法を提示してくれます。日々社会問題に頭を悩ませている善良な人々にとっては願ってもない手段でしょう。疑似科学を信じて実践すれば世界は救われるのです。救世主の一人になれるのです。かくして道徳と疑似科学は結び付くわけです。

安易に道徳を持ち出すのは疑似科学に限ったことではありません。オカルトの世界では、宇宙人がチャネラーを通じて語ってくれるありがたいお説教が、「みんな仲良くしよう」とか「宇宙意識に目覚めよう」みたいな下らない道徳だったりします。いわゆる「スピリチュアル」も早い話がただの道徳の寄せ集めですし。
歴史修正主義者も、ことあるごとに「誇り」や「愛国心」などの道徳を持ち出してイデオロギーを正当化しますね(参考:育鵬社ウェブサイト)。
分野が違えども、極端なことを言う連中はすぐ道徳を持ち出す、といったところでしょうか。

一応の結論めいたものを書いておくと、疑似科学提唱者は主張に巧みに道徳を盛り込みます。道徳好きの善良な人々は道徳面に魅かれて疑似科学を信じてしまうのではないか、ということです。

科学と道徳(イデオロギー)と政治権力が結び付くと、ろくなことになりません。ナチス政権下のドイツの科学者ã‚„スターリン政権下のルイセンコなど、おぞましい事例があります。
総理大臣の安倍晋三氏も、親学や「水伝」と大いに関わっているとされています。民主党政権下では代替医療が推進されるというまずい事態になったわけですが、自民党政権も疑似科学を推進しないように注視する必要がありそうです。


※現時点で「比嘉照夫」とGoogleで検索すると、何と公式サイトを押しのけて私のブログ記事が最初にヒットします。これは密かな自慢です。いつか苦情が来そうな気もしますが。