バッタもん日記

人生は短い。働いている暇はない。知識と駄洒落と下ネタこそ我が人生。

ドキッ! 死体だらけの平安京! ポロリもあるよ! ―命の重さの日本史―

はじめに

私はノーテンキな進歩主義者です。人類は少しずつ、一進一退を繰り返しながらも精神面で進歩し続けていると固く信じています。その根拠の一つは、街中で歩きたばこや立小便や痰吐きなどの下品な行為を見かけることが減った、というような日常の些細な感覚です。そして最大の根拠は、「命が大事にされるようになったこと」です。具体的に数値で見ると、日本における殺人事件は減り続けています。

参考:平成12年版 警察白書
   平成29年版 犯罪白書

日本人は長い年月を経て、命を大事にするようになりました。言い換えれば、昔の日本人は命を大事にしない蛮族であったということです。平然と殺し合いをしていました。歴史家の言葉を引用します。

光源氏が王朝時代の貴公子の理想像であることについて、これまでのところ、その優れた容姿や豊かな才能などが取り沙汰されるのが普通であった。だが、実のところは、理不尽な暴力事件を起こさないというただそれだけのことでも、光源氏は十分に理想的な貴公子と見なすことができるのである(繁田、2005)。


紛争解決の方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり(細川、2011)


また、日本人は子供も大事にするようになりました。今や親が子供を殴ったら逮捕されて実名で報道される時代です。昔の日本人は子供に無関心で冷淡でした。生活に困れば捨てたり売り飛ばしたりするのは当然の習慣でした(斉藤、2012;柴田、2013)。昭和初期の東北地方の大飢饉の際には、困窮した親が娘を売り飛ばすことが社会問題になりました(下重、2012)。命を大事にすることと子供を大事にすることは、密接に関係しています。

今回は日本人の「命」に対する認識の変遷を考えたいと思います。

1.平安京バーバリアン

(1)中世日本人の凶暴性と生命の軽視

中世の日本人は過酷な生活を強いられていました。災害や疫病、飢饉や戦争など、日々生き残るだけで精一杯でした。貧しい者、弱い者からどんどん死んでいきました(黒田、2006;清水、2008)。その結果、人の命が非常に軽くなりました。いつ死ぬかわからないのですから、命を大事にする意味がなかったのです(清水、2006)。人々は実にお気軽に殺し合いをしました。平安京の人々の行動を端的に表現すると、

  • すぐ怒る
  • すぐ刃物を振り回す
  • すぐ殺す
  • すぐ徒党を組む
  • すぐ個人間の喧嘩を組織間の抗争に発展させる

となります。
中世人は非常に気位が高く、気に入らないことがあると名誉を傷付けられたと感じ、命を賭けてでも名誉を回復すべきだと考えていました。特に、笑われることや馬鹿にされること、恥をかかされることを極端に嫌っていました。また、庶民は個人ではあまりに無力であったため、貴族や武家や寺社などの有力な組織に服属することで、自衛を図りました。ゆえに、個人の些細な揉め事が際限なく拡大してしまい、都を揺るがす大抗争に発展して朝廷や幕府が仲裁に乗り出すこともよくあったようです。当時は朝廷や幕府の統治機構が無力で、人々は生命や財産、名誉を自らの実力で守らねばなりませんでした。この概念を「自力救済」と呼びます(五味、2004)。
要するに中世の日本人はみんなヒャッハーだったわけです。平安京は常に死の危険がある都市でした(清水、2006)。もっとも、中世の世界史を見ると、十字軍とかモンゴル帝国とか、当時の地球には蛮族しかいなかったのではないかとも思いますが。仁、仁、仁義好かん。

(2)死体の遺棄

平安京では死後埋葬されるのは一部の貴族や富裕層のみで、庶民の死体は空き地や川原に捨てられました。疫病や飢饉で死者が大量に発生すると、平安京は死体だらけになりました(安田、2007)。さらに、貴族は死者による「穢れ」を恐れていました。この「穢れ」の概念は複雑で、家屋内で死者が出ると「穢れ」に感染してしまい、謹慎して出仕を停止せねばなりません。そのため、親族や使用人などが死にそうになると、屋敷を追い出されてしまい、野垂れ死にを強要されました。なお、死体が屋内にある限り穢れは周辺に伝播しないと考えられていたので、一人暮らしの人間が孤独死した場合、死体は放置されました(勝田、2003)。
このように平安京は死体があふれていたわけですが、この死体を空き地や川原に運ぶ役目を負っていたのは検非違使という役人でした。ゲームの平安京エイリアンでお馴染みですね。
捨てられた死体は犬やカラス、トビなどの動物により食い荒らされますので、平安京は動物だらけでした。ゾンビがくるりと輪を描いた。そのため、動物が死体を運ぶ途中でポロリと落としていくことがよくありました。天皇の住居の近くで死体が見付かったために貴族が頭を抱える、という事態もあったようです。興味深いことに、死体の部位(全身か頭か手足か)、鮮度(死にたてか腐敗しているか白骨か)などで穢れの重さが変わるため、貴族は邸内で死体が見付かると、専門の識者に穢れの重さを尋ねたそうです(勝田、2003)。
なお、貴族や皇族でも死後に埋葬されるのは成人のみで、子供の遺体は庶民と同様に空き地や河原に放置されたようです。

コラム 「もうかりまっか?」「墓地墓地でんな」

上に述べたように、死体を運ぶ役目を負っているのは役人でしたが、広大な平安京で死体が見付かるたびに役人を呼んでいたのでは際限がありません。貴族は邸宅周辺で死体が見付かった場合、他者(主に「非人」とされた被差別者)に金品を渡して死体を運ばせることが普通でした。また、死者が身に付けている衣服や装飾品などは、死体を運んだ者が取得することが認められていました。そのため、非人の組織が「死体運び屋ギルド」のようになっており、抗争まで起こっていたようです(勝田、2003)。

(3)敗者への追い打ち

本能寺の変の直後の山崎の戦い(1582年)で豊臣秀吉に敗れた明智光秀が、逃走中に落ち武者狩りに遭って殺害されたことは有名です。中世では、戦いに敗れて逃げる武士が襲われ、所持品を奪われたり殺されたりすることがよくありました。また、政争に敗れて流罪に処されることは、事実上の死罪でもあったようです。目的地に到着する前に殺されることが多かったからです。
室町幕府第十五代にして最後の将軍、足利義昭は織田信長により京都を追放されました。その際に追い剥ぎに遭い、所持品を奪われたようです。同様に、第九代将軍候補であった足利義視も、応仁の乱において京都から敗走する際に、落ち武者狩りに遭って刀を奪われています。将軍家ですらこの惨状です。
さらに、大名が京都を追放された際には、屋敷の周辺の住人が殺到し、資産を略奪することが横行していたようです。当時の社会では、「幕府に逆らって失脚したのだから、法の埒外に置かれてありとあらゆる権利を失った。資産を奪われようが殺されようが止むを得ない」という通念があったようです(清水、2006)。失脚したら人権を失う社会は怖すぎます。
中世の人々は、敗者にかける情けなど持ち合わせていませんでした。

コラム 違う、僧じゃない

中世は過酷な時代でした。仏にすがりたくなるのは当然のことです。実際に、中世の日本人は信仰心が厚かったことがわかっています(五味、2004)。仏教には苦しむ衆生に寄り添う使命がありました。You are my 僧 僧 いつもすぐそばにある。
しかし、衆生がヒャッハーになっているような状況で、僧侶が品行方正の聖人君子でいられるかと言うと、無理な話です。僧侶も負けず劣らずヒャッハーで、すぐに刃物を振り回す有様でした(繁田、2008)。挙句に集団で武装して神輿を担いで都をのし歩き、朝廷を恫喝(強訴)する始末です(衣川、2010)。物騒な仏僧。寺院は広大な荘園を領有し、金融業や食品加工業(主に酒造)にも参入していたので経済力があり、誰の手にも負えませんでした。中世の人々は、平然と人を殺しながらも呪いや祟りを恐れるという非常に矛盾した精神の持ち主でした。そして僧侶は呪術的な力を持つと考えられていました。僧兵は暴力と呪術の二つの力を用いました。
永享4年(1432)に、金閣寺の僧侶と北野天満宮の僧侶が金閣寺で周辺の住人を巻き込んで殺し合いになりました。激高した金閣寺は北野天満宮を攻撃しようとしました。当時の室町幕府第六代将軍、足利義教が事態を把握し金閣寺をなだめたことで、紛争は終結しました(清水、2006)。ここで、足利義教が「万人恐怖」「悪将軍」とまで称された暴君であり、比叡山延暦寺を焼き討ちしたことを鑑みると、この騒動は登場人物が外道ばかりでむしろ微笑ましい逸話であると言えましょう。

コラム 平安京スカトロパラダイスオーケストラ

日本人は昔から排泄物を肥料として利用しています。これは都市の衛生管理、物質循環による持続的農業、という観点からは、非常に優れたシステムです。ただし、都市の排泄物を農民が回収して農村に運ぶ制度が確立されたのは江戸時代ですので、中世までは都市にうんこがあふれていました。都人は気軽に路上で排泄していました。貴族は使用人に邸内のうんこを気軽に道路の側溝に遺棄させていました。輸送手段である牛や馬も路上で垂れ流していました。つまり、平安京は死体とうんこにまみれた都市だったのです(安田、2007)。
時代は下って、江戸時代の京都では街の各所に尿を回収する桶が設置されていました。「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者の十返舎一九は、京都で若い女性が桶に放尿する様子を見て驚いています(三俣、2010)。あなたに女の子の一番排泄なものをあげるわ。若い娘はだっぷん。
専門的な話になりますが、尿はその名の通り窒素化合物である尿素を含んでおり、窒素に関して化学肥料に近い性質を持ちます。尿にうんこを混ぜるとうんこ中の微生物の作用により尿素がアンモニアに変化し、空気中に逃げてしまいます。わかりやすく言うと、うんこを混ぜると尿の肥料としての価値が下がる、ということです。尿だけを回収するのは非常に合理的です。昔の人々の知恵には頭が下がります。

コラム 奥さん米屋です

中世の日本は極端な京都至上主義で、人・物・金の大半が京都に集まりました。そのため、食料の流通を担う米商人が大きな影響力を有していました。そして中世は飢饉が多発し、米価が慢性的に高くなっていました。そこで、米不足を煽ってさらに米価を高騰させるため、米商人が結託して京都に通じる道路を武力で封鎖するという酷い悪行があったそうです。当然ながら京都では飢饉が起こり、餓死者が多発することになります。しかし、米商人はそんなことは全く意に介しませんでした(清水、2008)。

コラム 一休さんの死ぬ死ぬ詐欺

室町時代の僧侶である一休宗純はアニメ作品で有名です。しかし史実の一休は、あんな好人物ではなかったようです。皮肉や風刺などの露悪的で人を食ったような言動を繰り返す一方で、記録に残るだけでも二度自殺未遂を行っています。気に入らないことがあると「死んでやる」と騒いで我がままを押し通していたようです(清水、2006)。一休は後小松天皇のご落胤と言われており、無下に扱うわけにはいかなかったのです。

コラム 貴族の暴力

現代の日本人の貴族に対する印象は、『「麿は嫌でおじゃる」とか言いそう』「怠惰で無力」「武士に負けた」くらいでしょうか。しかし、武家の棟梁である源氏と平氏はいずれも臣籍降下した皇族の末裔の貴族であり、武士の起源の一つは貴族です。武士と貴族は厳密に区別できる存在ではありませんでした。貴族の暴力性だって相当なものです。貴族による暴力事件は決して珍しいものではなく、殺人すらありました(繁田、2005;2007)。
例えば、清少納言の兄である清原致信は、利権を巡って関与した殺人の報復で殺されています。源氏の配下の武士が白昼堂々と邸宅を襲撃して殺害する、という凄惨な事件でした。また、清少納言の最初の夫である橘則光は、夜道で強盗に襲われた際に返り討ちで三人を斬殺したそうです。普段から刃物の扱いに慣れていて、他人を殺すことに抵抗がないからこそできることです。

2.戦国時代

(1)乱妨 怒りの略奪

中世は災害や飢饉が多発していましたので、食料は常に不足していました。食料が足りなければ他者から奪い取る、が戦国時代の常識でした。戦場での破壊や略奪を当時は「乱妨」や「濫妨」(読みはいずれも「らんぼう」)と呼んでいました(藤木、2005)。
戦国大名と直接の主従関係にある武士ならば、戦いで勲功を挙げることで恩賞をもらえたり出世できたり、という大きな動機がありますが、足軽などの末端の戦闘員にはそんな動機はありません。報酬の代わりが略奪でした。大名は末端の兵による戦場での略奪を黙認していましたので、略奪は事実上の野放しでした。
甲斐(山梨県)の戦国大名である武田信玄は戦の強さで有名ですが、戦場での悪辣ぶりも抜きん出ていました。武田家の歴史を伝える資料である「甲陽軍鑑」では、「うちの御屋形様は戦上手なので戦場での略奪が捗ってみんなリッチでハッピーでウェーイ」のような酷い記述があるほどです(藤木、2005)。盗人武田家しい。信玄の宿敵である越後(新潟県)の上杉謙信も同様であり、関東に出陣して北条氏と戦闘を行った際には北条領内の村々で過酷な略奪を行っています(黒田、2006)。
中国地方の有力な大名である毛利氏に伝わっていた戦術指南書である「永禄伝記」では、毛利元就のロクでもない戦法を解説しています(藤木、2005)。

  • 春には田植え前の稲の苗を荒らせ。畑の未熟な麦も荒らせ。
  • 夏には収穫前の麦を奪え。田植え後の水田を荒らせ。
  • 秋には田畑の収穫物を奪え。
  • 冬には倉庫の収穫物を奪え。家を焼け。農民を餓死・凍死させろ。

戦国大名より山賊の頭目と表現したほうが正しそうですね。何が三本の矢だ。

(2)奴隷狩り

戦場となった村々で略奪の対象となったのは食料や家財、家畜などの資産だけではありませんでした。人間も略奪されました。人々は拘束され、奴隷として売り飛ばされたり身代金と引き換えに解放されたりしました。大規模な戦闘の際には奴隷商人が軍に追随し、奴隷市が開かれたほどです(藤木、2005;下重、2012)。

(3)農民が求めた戦争

戦国時代は災害や飢饉、疫病が多発していたため、農民は普通に農業を営むだけでは生活が成り立ちませんでした。ゆえに、戦争に生きる術を求めました。兵士になって戦場で死んでしまえば口減らしができます。食料や資産を略奪したり奴隷を売り飛ばしたりすれば収入になります。戦争が生き延びるための手段になってしまっていたのです(藤木、2005)。

(4)農民の紛争

上に述べたように、農民は戦国時代において、「武士に虐げられるだけの無力な被害者」というわけでは決してありませんでした。農民も武士に負けず劣らず凶暴でした。共有資源、共有地である水や山林(燃料・肥料)、草原(肥料・家畜の飼料)の利用権を巡って村同士の紛争が絶えませんでした。しかも、どの村もすぐに周辺の村々に支援を求めたため、村同士の紛争は地域間の紛争に容易に発展してしまいました(黒田、2006;清水、2008)。

コラム 訴訟より戦争

戦国大名にとって、配下の武将や領民が蛮族では統治もままなりません。そこで、領内で法制度を整備しようと試みる戦国大名が各地で現れました。いわゆる「分国法」で、甲斐の武田家の「甲州法度之次第」などが有名です。分国法をまとめると、「他人と揉めても殺すな。大名に訴えろ」となり、私闘の禁止と訴訟の提起が強調されていました。自力救済の否定です。しかし、武田家も含めて分国法を整備した大名は滅亡するか、あるいは分国法を忘却してしまうかのどちらかでした。法による支配は戦国の世にはなじみませんでした。
大名は遠征を繰り返すため、本拠地にいる期間は長くありません。訴訟は大名の権限なので、大名が不在では訴訟が滞り、長期化してしまいます。武将や領民にとって、訴訟とは金と時間がかかるだけで紛争解決の手段としては無意味でした。むしろ、戦争に参加して功績を挙げ、恩賞を受け取るほうが効率的でした。大名も法制度を整備するより対外戦争により領土を拡張する方が武将や領民を喜ばせられることを知っていました。

むしろ、この時代の勝者に必要なのは「天下布武」を掲げて、外へ繰り出すイノベーションだった。対外戦争は領国内の些末な訴訟問題すらも解消してしまう万能薬であり、戦争に勝利しつづけてさえいれば、そもそも彼らに法制度の整備など不要だったのである。(清水、2018)

戦国時代の日本は本当に修羅の国だったようです。金次第で何でもする強盗団とも傭兵団ともつかないような連中が跋扈していたようですし(藤木、2005)。

(5)秀吉の平和

豊臣秀吉は織田信長の支配体制を受け継ぎ、天下を統一しました。強大な軍事力により諸大名を服属させることで、戦争を全廃したのです(黒島、2018)。
しかし、「戦争がなければ生き残れない」という経済状況や、「戦場で殺戮や略奪を行いたい」という人々の衝動はそう簡単には解消できません。
そこで、まず秀吉は京都の聚楽第や伏見城、方広寺の大仏殿、大坂の大坂城など、大規模な建設事業を展開することで、働き口を増やしました。同様に、全国の大名により、城下町の建設や治水、鉱山開発などの土木事業が行われました(藤木、2005)。
さらに、朝鮮への侵略を行い、戦場で暴れたいという衝動を解放させました。日本兵は朝鮮の各地で凄惨な略奪を行ったことが記録に残されています。兵站(補給)を担った商人は実は奴隷商人や海賊でもあったのではないかと推測されています(藤木、2005)。
ところで、この朝鮮侵略の際に日本に連行された技術者の貢献により、日本の産業技術が大きく発展し、江戸時代の経済発展につながりました。何しろ、秀吉が直々に「技術者を拉致して献上せよ」と諸大名に命じているほどです(中野、2008)。特に、当時は大名の間で茶道が人気があったため、茶道具である陶磁器の需要が高まっており、多数の陶工が日本に連行されました。この時代に陶磁器の名産地が全国各地に生まれたのはこれが理由です(清水、2019)。
江戸時代に再開された朝鮮通信使の大きな目的の一つは拉致された朝鮮人の返還交渉でした(中野、2008)。現在、日韓関係が大きく悪化していますが、背景にはこういう凄惨な歴史があることは覚えておくべきでしょうね。
話は逸れますが、戦国時代を引き起こした張本人である足利幕府の第八代将軍、足利義政は銀閣寺や龍安寺などの建築事業を積極的に行い、東山文化を育てた一方で、幕府の財政を破綻させたとされています。しかし、これは単なる個人の道楽ではなく、貧民に職を与えるための公共事業でもあったのではないか、との評価もあるようです(藤木、2001)。

コラム しまづけ

このコラムは、島津家の軍の外道な日常を淡々と描く物です。過度な期待はしないでください。
島津家の軍と言えば、関ヶ原の戦いなどでの勇猛果敢ぶりが知られています。しかし実際は、勇猛果敢などという言葉では表現できないほどの鬼畜の集団だったようです。
戦国時代末期、九州の覇権を巡って、大友氏と薩摩氏が激しく争っていました。薩摩軍が大友領の豊後(大分県)に侵攻した際、大規模な奴隷狩りを行いました。奴隷は肥後(熊本)に連行され、売却されたようです。この奴隷狩りの凄惨さは秀吉の知るところとなり、秀吉から島津家に対して「肥後から連行された奴隷を返還せよ」との命令が出されました(藤木、2001)。
また、島津軍は後の文禄・慶長の役においても、大規模な奴隷狩りを行い、多数の朝鮮人を日本に連行しています。そのため、当主の島津義弘は石田三成に略奪と奴隷狩りを停止するように警告されています(藤木、2005)。

コラム 秀吉の耳鼻狩り

秀吉は国内を平定すると、アジア各国への侵略を目指しました。最初の目標は朝鮮で、二度に渡り侵攻しました。日本兵による過酷な略奪は上に述べたとおりです。同時に、秀吉は自らが日本の支配者であることを日本中に知らしめようとしました。その一環として、京都の方広寺に、文禄5年(1596年)に発生した慶長伏見地震により倒壊した大仏の代わりに信濃の善光寺の如来像を移送させました。併せて、同寺の近隣に鼻塚を建設し、朝鮮の人々の霊を弔いました。こう書けば聞こえがいいのですが、実際の理念はとんでもないものでした(清水、2019)。

  • 自分が慈悲深い支配者であることを強調したい
  • 敵国である朝鮮人の死者を埋葬しよう
  • 朝鮮から首を運ぶのは重い上に腐敗するので難しい
  • 耳や鼻なら軽いし腐らない
  • 朝鮮で捕縛した人々の耳や鼻を削ぎ落として日本に送らせよう

「歴史を現代の価値観に基づき評価してはならない」とよく言われますが、これはあまりに酷すぎるのではないかと思います。秀吉の残虐性は当時でも際立っていたようです。敵対者を一族郎党含めて皆殺しにした、しかも残忍な方法で処刑した、という記録が多数あります。
なお、耳や鼻を削ぎ落とすことは日本の伝統的な刑罰であり、秀吉の蛮行もその一環でした。それでも当時の慣習より明らかに残忍な行為でしたが。この刑罰を最終的に廃止したのが徳川綱吉です。

コラム マーニラ マニラ マーニラ求人

戦国時代には主人を持たない傭兵が多数いました。彼らは金次第で日本中の戦場を渡り歩きました。上に述べた奴隷も日本中に売り飛ばされて行きました。戦国時代の後半になると、日本はアジア広域での貿易網に参入します。当時の日本はアジアにおける武器と傭兵と奴隷の大きな供給地となったようです。その結果、日本の傭兵、奴隷、商人、労働者など、様々な人々が生活の術を求めてアジア各地に移住しました。その一例がフィリピンの首都、マニラです。マニラで日本人は大きな集団となり、その凶暴性のために嫌われていました。同時期に秀吉がアジア諸国への恫喝を繰り返しており、朝鮮侵略とも相まって、フィリピンを支配していたスペインは日本人を強く警戒していました(藤木、2005)。

3.「徳川の平和」と「家」

(1)天下泰平による人口増加

徳川家康が天下を統一し、やっと日本に平和が訪れました。政治が安定して戦争がなくなったことで経済が発展し、人口が増えました。非常に大まかな推測ですが、17世紀初頭(江戸時代初頭)の人口は1,500万人前後で、100年後の18世紀初頭の人口は3,000万人以上にまで達したとされています。100年で人口が倍増というのは大変な増加率です(鬼頭、2007)。
また、この時期に幕府は大規模な農地開発と治水工事を行いました。さらに農業技術の発展により、農業生産力は飛躍的に増加しました。そのため、農民が長男以外の子供や、使用人に農地を分割して与え、独立させることが増えました。以前は結婚して家庭を持てるのは長男だけでしたが、長男以外の子供や使用人も結婚して独立し、家庭を構えることができるようになりました。これも人口増加の大きな要因です。この現象を歴史家は「小農の自立」と呼んでいます(渡辺、2015;沢井・谷本、2016)。
なお、この「小農の自立」は早い話が「農民の核家族化」であり、我々は核家族化を最近の現象ととらえがちですが、決して新しい現象ではありません。少子化も同様です。さらに、晩婚化や行政による児童手当も江戸時代後半に記録があります。

(2)名君犬公方?

徳川幕府第五代将軍綱吉(在位期間:1680-1709)は、「生類憐みの令」で有名です。かつては、『変てこな坊主に「前世で犬を殺したから子宝に恵まれないのだ。犬を保護しろ」とか何とか吹き込まれて極端な動物愛護に傾倒し、庶民を苦しめた暗君』だという評価が一般的でした。ところが最近では、極端に表現すると『戦国時代の悪風をいまだに払拭できず蛮族のままの日本人を啓蒙し、生命を尊重する慈愛の精神を定着させようとしたそれなりの名君』との評価が高まっているようです(清水、2019)。何しろ戦国時代がとっくに終わっている大坂冬の陣と夏の陣(1614-1615)でも、徳川軍の兵が大坂の町で大規模な略奪を行ったことが記録されています(藤木、2005)。蛮族を文明化するには時間がかかります。
生類憐みの令は多数の法令の総称ですが、動物だけでなく、乳児や病人、高齢者などの人間の弱者の保護も強調されています。特に重要な点は、捨て子の禁止および保護に関する項目が多いことです。当時の日本では、捨て子が横行していました(柴田、2013)。
綱吉は儒教と仏教の精神に基づき、「生きとし生ける者全てを大事にせよ」と言いたかったのだろうとされています(根崎、2006;福田、2010)。やり方は少々極端で偏執的でしたが。釣りを禁止なんてしたら庶民に嫌われてバカ殿呼ばわりされてしまうのは当然です。

(3)重くなった命

江戸時代前期には、農業技術の向上、農地面積の拡大、商品作物の導入などにより、農民の生活水準は大きく向上しました。飢饉も減りました。畳や綿の衣類が普及したのもこの時期です(永原、2004)。栄養や衛生など、出産と育児の環境が改善されたため、乳幼児死亡率が大きく下がりました。以前は「子供は死ぬのが当たり前」でした。さらに、天下泰平の世が実現したため戦争がなくなりました。人はそう簡単には死ななくなりました。遂に日本では命が重くなったのです。

コラム 暴れん棒将軍 家斉&家慶

徳川幕府第十一代将軍、家斉とその息子である第十二代将軍、家慶は日本史に燦然と輝く種馬野郎であったことが知られています。特に家斉は、オットセイの生殖器の粉末を服用していたため、「オットセイ将軍」との異名を取りました。記録に残っているだけでも、家斉は53人、家慶は27人の子供を設けたとされています。ただし、家斉の子供53人のうち、無事に育って成人した者は半分もいません。家慶の子供27人はさらに悲惨で、成人した者は四男で第十三代将軍の家定だけです(山本、2011)。日本で最高の出産・養育環境が与えられたであろう将軍の子供ですらこの惨状です。
この親子を主人公にした以下のようなエロバカ時代劇が制作されたら面白そうです。

  • 上様が江戸城を抜け出して徳田珍之助と名乗り江戸の町で大乱交スワップブラザーズ
  • 上様の決め台詞は「この陰嚢が目に入らぬか」と「余の竿を見忘れたか」
  • 上様はお手付きの女性の出産の際に自ら介助する(マツケン産婆)

コラム 女好きの大正天皇

平成が終わり、令和の時代を迎えましたが、現天皇の曽祖父である大正天皇に対する国民の関心は低いままです。せいぜい「病弱・無能」くらいの印象しかないと思います。いわゆる「遠眼鏡事件」はデマであろうとされていますが。
その大正天皇は、明治天皇と側室との間に三男として生まれました。三男なのに皇位を継いだということは、長男と次男が夭逝したということです。明治天皇は皇后との間に子供ができず、側室との間に15人の子供を得ましたが、そのうち無事に育ったのは5人だけです。特に男子は5人生まれて無事に育ったのは大正天皇だけです。
このように、天皇は皇后との間に男子が生まれなかったり、生まれても夭折したりする恐れがあるため、側室を娶るのが慣習でした。早い話が天皇が女官に手を出すのは当たり前だったわけです。しかし、大正天皇は皇后との間に昭和天皇を含む4人の男子を得たため、側室を娶りませんでした。後に昭和天皇が正式に側室制度を廃止しました。しかし、大正天皇は一夫一妻制度が気に入らなかったようで、隙あらば華族の女性や女官に手を出そうとしたようです(原、2015)。
大正天皇の父である明治天皇も、そのまた父である孝明天皇の唯一の成人した男子でした。皇族の男系男子しか皇位継承件を認められない近代天皇制は最初から崖っぷちでした。
それにしても、江戸時代の将軍家と明治時代の天皇家はいずれも当時としては最高の出産・育児環境を提供できたはずなので、これほどまでの乳幼児死亡率の高さは非常に不可解です。どのような事情があったのでしょうか。

(3)「家」の成立と「子宝」

中世において「家」という概念があるのは貴族や武士など、特権階級だけでした。その理由は、庶民は「死亡率が高く、子孫が死に絶えた」「土地と家業への帰属意識がなかった」からです。庶民には「家」を守るという考えがありませんでした。ここでは「家」とは、土地と家業を継続する家系を意味します。親は子供に無関心で、平気で捨てたり売り飛ばしたりしました。
江戸時代初期まで、過酷な年貢や労役(土木事業や戦闘の際の輸送への従事)に耐え切れず、農民が逃亡することは珍しくありませんでした。また飢饉や疫病により、後継者が全滅して家系が途絶えてしまうこともよくありました。しかし、生活水準の向上により死亡率が下がり、人口が増えたことで後継者に困ることはなくなりました。ようやく庶民の間でも「家」という概念が定着しました。「子々孫々、土地と家業を受け継ぐことが農民の使命である」ということが常識となりました(渡辺、2009;沢井・谷本、2016)。となれば、「家」を継ぐ子供が大事に育てられるようになるのは当然の流れです。日本人は子供を可愛がり、大事に育てるようになりました。寺子屋などの教育制度が整備されたのもその一環です。ここに、「子宝」という意識が確立されました(大藤、2003)。幕末期や明治初期に日本にやって来た欧米人は、日本人が子供を可愛がる光景を見て驚いています(柴田、2013)。

コラム 開いてます あなたの農村

現在の日本では、農村と言えば閉鎖的で排他的な場所であり、農民は土地から離れられない人々だと理解されています、しかし、戦国時代から江戸時代初期までは全国的に、農村は余所者ウェルカムな場所であり、農民は容易に農地を捨てました。なぜでしょうか。
戦国時代、農村は疲弊していました。相次ぐ戦乱や飢饉、疫病、災害、過酷な年貢に労役など。生活苦に陥った農民は、農地を、農村を捨てました。より安全で豊かな生活を求めて、逃亡したのです。どの農村も人口の減少と、それに伴う放置された農地の荒廃に苦しんでいましたので、移入者を受け入れないと村が存続できない恐れがありました。他の農村からの逃亡者は常に歓迎されていました。農地や家屋を提供したり、年貢や労役を軽減するなどの優遇措置が取られていたようです。
江戸時代中期になると、農民の生活水準が向上して逃亡する必要がなくなったため、農民は出生地に定住するようになりました。農村の人口も増えたため、余所者を受け入れる必要もなくなりました。この時期から農村は閉鎖的で排他的な場所になったようです(宮崎、2002;黒田、2006;渡辺、2015)。

コラム 間引き

飽食と少子化の時代に生きる我々は、「間引き」と聞くと「重い年貢と飢饉に苦しむ農民が悩み苦しんだ挙句に泣く泣く我が子を殺す」のような悲劇を想像しがちです。しかし、実際には江戸時代の日本人は冷徹に計算づくで間引きを行っていたようです(鬼頭、2000;太田、2007;浜野、2011)。
先に述べたように、江戸時代前半に日本人は子供を大事に育てるようになりました。言い換えると、育児にコスト(費用・労力)がかかるようになったのです。中世のように子供を産んだら最低限の衣食住だけ与えて放置、というわけにはいかなくなりました。さらに、江戸時代後半には農地開発がほぼ終了し、農地面積の拡大が見込めなくなりました。となると、長男以外の子供が農地を分割して独立することができなくなります。農地を継承できるのは長男だけです。子供が多いと収入は増えないのに支出だけは増えることになり、経済的に不利となりました。
また、子供に姉がいる場合、下の子供の生存率が向上したことが知られています(浜野、2011)。これは私の推測ですが、姉を家事や子守に従事させることで、育児環境が向上したのでしょう。つまり、「女子(家事・育児要員)+男子二人(跡取り&予備)」という家族構成が理想となります。まさに「一姫二太郎」ですね。
かくして、子供の数・男女の順・性比などを調整するために、家族計画の手段として間引きが行われました。つまり、間引きは「貧困ゆえの苦渋の子殺し」ではなく「生活水準を維持するための積極的な子殺し」でした。我々には理解できない慣習です。「子供を大事に育てるようになったから子供を殺すようになった」というのは大いなる矛盾ですね。江戸時代後半に人口増加が止まった理由として、間引きの影響は無視できません。しかし、間引きに関する記録は非常に少なく、人口の推移にどのような影響を与えたのかは不明です。間引きは死産として報告されますので、実数が把握できないためです。幕府や藩は人口停滞の原因の一つが間引きの横行であることを把握していましたが、間引きと死産を区別することはできませんので、禁止は不可能でした。

おわりに

私はこんな記事を書いておきながら歴史学には至って無知ですが、最近の歴史の研究が大きく動いており、子供のころに学んだ定説が大きく変わりつつあることを実感します。徳川綱吉の評価はその格好の事例です。
戦国時代や江戸時代を扱った創作物では、「戦国時代:乱世だが自由で活気に満ちた時代」、「江戸時代:天下泰平だが不自由で活気のない時代」というような印象を植え付ける作品があります。織田信長の過大評価もこの辺に原因があるのかもしれません。しかし、平和に勝るものなど何もありません。中世までの日本人は本物の蛮族でしたが、江戸時代に入って急速に文明化されました。日本人の文明化を成し遂げた徳川家は偉大なる統治者であったと言えましょう。
日本人の精神性は時代とともに大きく変わりました。日本の中世は過酷な時代で日本人は蛮族でした。しかし、平安時代には豊かな王朝文化が花開きました。室町時代にも北山文化や東山文化が育ち、現在にまで至る日本文化の原型が成立しました。また、応仁の乱により京都が荒廃してしまったため、貴族や文化人が戦国大名の庇護を求めて全国各地に移住し、都の文化を地方に伝えました(呉座、2016)。蛮族でありながら豊かな文化を育んだご先祖様に敬意を表したいところです。

参考文献

特にお勧めしたい文献を赤字で示しています。

太田素子(2007)子宝と子返し 近世農村の家族生活と子育て:藤原書店
大藤修(2003)近世村人のライフサイクル:山川出版社
勝田至(2003)死者たちの中世:吉川弘文館
鬼頭宏(2000)人口から読む日本の歴史:講談社学術文庫
鬼頭宏(2007)図説 人口で見る日本史:PHP
鬼頭宏(2010)文明としての江戸システム:講談社学術文庫
衣川仁(2010)僧兵=祈りと暴力の力:講談社選書メチエ
黒嶋敏(2018)秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか 中世から近世へ:平凡社
黒田基樹(2006)百姓から見た戦国大名:ちくま新書
呉座勇一(2016)応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱:中公新書
五味文彦(2004)中世社会と現代:山川出版社
斉藤研一(2012)子どもの中世史:吉川弘文館
沢井実、谷本雅之(2016)日本経済史 近世から現代まで:有斐閣
繁田信一(2005)殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語:柏書房
繁田信一(2007)王朝貴族の悪だくみ 清少納言、危機一髪:柏書房
繁田信一(2008)庶民たちの平安京:角川選書
柴田純(2012)日本幼児史 子どもへのまなざし:吉川弘文館
清水克行(2006)喧嘩両成敗の誕生:講談社選書メチエ
清水克行(2008)大飢饉、室町社会を襲う!:吉川弘文館
清水克行(2018)戦国大名と分国法:岩波新書
清水克行(2019)耳鼻削ぎの日本史:文春学藝ライブラリー
下重清(2012)<身売り>の日本史 人身売買から年季奉公へ:吉川弘文館
中野等(2008)文禄・慶長の役:吉川弘文館
永原慶二(2004)苧麻・絹・木綿の社会史:吉川弘文館
根崎光男(2006)生類憐みの世界:同成社
浜野潔(2011)歴史人口学で読む江戸日本:吉川弘文館
原武史(2015)大正天皇:朝日文庫
福田千鶴(2010)徳川綱吉 犬を愛護した江戸幕府五代将軍:山川出版社
藤木久志(2001)飢餓と戦争の戦国を行く:朝日選書
藤木久志(2005)新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り:朝日選書
細川重男(2011)北条氏と鎌倉幕府 :講談社選書メチエ
三俣延子(2010)日本土壌肥料学会編 文化土壌学からみたリン:博友社
宮崎克則(2002)逃げる百姓、追う大名 江戸の農民獲得合戦:中公新書>
安田政彦(2007)平安京のニオイ:吉川弘文館
山本博文(2011)徳川将軍15代:小学館101新書
渡辺尚志(2009)百姓たちの江戸時代:ちくまプリマー新書
渡辺尚志(2015)百姓の力 江戸時代から見える日本:角川ソフィア文庫