
今回は「仕事」について考える。
先週の月曜日(7月10日)、漫画家のくりた陸さんの訃報が Yahoo!ニュースに掲載された。
【訃報】「ゆめ色クッキング」など手がけた漫画家くりた陸さん死去 7月発売雑誌にはがん闘病漫画が掲載
漫画家のくりた陸さんが7月4日早朝に亡くなった。10日、くりた陸さんのTwitterアカウントが「長らく病気と闘ってきたくりた陸ですが、7月4日早朝に、息を引き取りました」と発表し、くりたさんと縁のある関係者や出版社も訃報を伝えている。
くりたさんは1982年に「少女フレンド」でデビュー。「ゆめ色クッキング」「くじらの親子」「オレの子ですか?」などの漫画を手がけてきた。
2003年には乳がんの宣告を受けた、くりたさん。2011年に発売された漫画誌「フォアミセス」(秋田書店)で、宣告された当時の心境を描いた自伝漫画「陽だまりの家」を執筆していた。
7月3日に発売された漫画誌「フォアミセス」8月号(秋田書店)にも、末期ガンで闘病中だったくりたさんが手がけた読み切り漫画「娘とともに…」が掲載された。
秋田書店「エレガンスイブ」編集部の公式アカウントによれば、くりたさんは「フォアミセス」8月号の巻頭カラーを描き上げた後に永眠したという。
なお9月15日には「娘とともに…」、「陽だまりの家」が併せて収録された「~乳がんに襲われ余命宣告を受けた少女漫画家の家族への手記~陽だまりの家」が発売される。
くりた陸さんが亡くなる6日前の6月28日。私は入院する彼女の病室にいた。
ベッドのテーブルには、ほとんど手を付けてない昼食、ペットの猫ちゃんの写真、少女漫画本が2冊、Macブック……。
話すのもやっとだったアノ状態で……、「フォアミセス」8月号の巻頭カラーを描き上げた後に永眠した」だなんて……。なんと言えばいいのだろう。ただ、最後まできちんと仕事できてホントに良かったと思う。
2年前に亡くなった川島なおみさんも、竹田圭吾さんも、みな最後まで「仕事」の場に身を置いていた。
彼女は20年来の友人でした
5月末に書いたコラムの中で(「がんに勝ったのに生活破綻、そんなのあり?!」)
「『自分はがんだから、仕事なんてしなくても良いんだ』なんてことを思った事は、一度もありません。余命宣告を受けたときも、退職させられたときも、1回もない。本当に1回もないんです」
と語る“がんサバイバー”の女性を紹介したとき、コメント欄には彼女の言葉の真意を汲み取れないコメントが散見されて……、批判覚悟で正直なことを書くと……がっかりしたのです。
仕事が日常に組み込まれていると、「仕事」というものがどんな意味を持つのかに鈍感になる。かくいう私も、仕事の境界線の内側にいる人間のひとりだ。
そこで今一度「仕事」について思いを巡らせてみようと思った次第だ。
話が前後してしまったが、そう、くりた陸さんは、私の20年来の大切な友人である。
趣味の「バレエ」で、同じ教室に通っていたのだ。
今から遡ること15年前。突然彼女からメールが届いた。
「乳がんが見つかったの。薫ちゃん、どうしよう」と。
彼女と仲よくはしてはいたが、お稽古で会うだけだったので、なぜ、彼女がそれほど近い関係ではない私に、相談してくれたのかわからなかった。
ただ、偶然にも私の母も乳がんをやっていたし(私が中2のとき)、当時私が進学していた大学院の研究室では、乳がん患者のQOLなどの調査もやっていたので、それなりの知識があり少なからず彼女のサポートはできたように思う。
見つかったときのステージは3。転移もしていた。
「5年前だったら、もう死んでいたよ」と医師から言われ、当時の技術でもかなり厳しい状況だったが、半年間抗がん剤治療で腫瘍を小さくし、摘出手術をすることになった。
その半年間は、口内炎や食欲不振に悩まされしんどい日々だったが、彼女はバレエを休まなかった。副作用で髪の毛が抜けても、ウィッグやバンダナを巻き、一緒に踊っていたのだ。
ただ、その一方で「覚悟」をしていたのだと思う。
あとから教えてくれたのだが、彼女は自分の漫画の原画をすべて処分していた。
「自分が死んだあとに残したくなかった。医者から、5年生存率は50%って言われたから、捨ててしまったの」
彼女はこう話していた。
「その日は必ず来る」との思いから、身辺整理を決意
半年の治療のあと手術に挑んだわけだが、リンパに転移していた腫瘍もすべて摘出に成功。術後は極めて良好で、驚異的な早さで回復した。
その後、仕事も再開し、バレエの発表会にも出るなど、乳がんだったことを忘れてしまうほど元気になった。毎月の検査でも転移は見られず、10年が過ぎたのである。
乳がん患者にとっては「10年」は一区切りだ。
私の母もそうだったが、10年再発がなければ「もう大丈夫」と安堵する。
陸さんとも、「良かった。もう大丈夫なんだね」と喜んだのを昨日のことのように記憶している。
ところがそれから1年ほど経った頃に、足が痛いと、バレエを途中から見学。
そのときは「バレエ毎日やりすぎ~」と笑っていたのだが、痛みがまったく引かず、いろいろな病院で調べてもらった結果、転移が発覚。がん細胞は静かに彼女の体内に生息し続け、骨とリンパに遠隔転移していたのである。
医者からは
「もう治すのは無理です。延命を考えていきましょう」
と言われ、「もうこれ以上、涙が出ない」というくらい泣きまくり途方に暮れたものの、その後しばらくは(1年半くらい)、がんは暴れることなく、生活に支障がでることはなかった。
ただ「その日は必ず来る」との思いから、身辺整理を行うことを決意。“がんサバイバー”として描き続けた原画や生原稿のオークションを実施したのだ。
「前のときは捨ててしまったけど、もし、私の漫画が好きな人で、原画が欲しいという方がいるならそのほうがいいかな。その人のところにいてくれた方が、うれしいかな」
こう考えたという。
きっと最初の告知から、10年以上“超えて生きた”自分の証を、どこかに残したかったのだと思う。「私はちゃんと生きたんだよ」と。
ただ、オークションの相談にのってくれた漫画家の赤松健さんに、
「原稿は漫画家にとって大事な物なので、それを手放すということはそれ相応の理由が必要だと思う。病気のことを明かした上で(オークションを)やってみてはどうか」
とアドバイスされ、自分ががん患者で“その日が必ず来る”ことを、公表したのだ。
原画を手放したあとも、彼女は、やはり仕事を辞めなかった。
昨年秋に「会いたい」とメールをもらい、ランチをしたのだが、
「ものすごい時間がかかるようになってしまって。ボ~ッとしちゃって、全く仕事ができない日もあるんだけど、書いてるよ」
と言っていた。
まるで「仕事ができている」という事実を、噛み締めるように。思い通り進まない状況下でも、「ちゃんとできている」と自分自身を確かめるように、話していたのだ。
「会社に迷惑かけて悪い。会社に悪い」
年が明けてからは、転倒してしまったり、入退院を繰り返すこともあったけど、仕事だけは続けていた。
そして、5月。
「目が見えなくなった」と連絡があり、一時入院。
6月に入ってからは、
「ご飯が食べられない。変な咳も出る。身体もダルい。今度病院にいったら、『あとどれくらい生きられるかきいてくる!』」
なんてメールがきて。
小林麻央さんが亡くなり、無性に彼女のことが気になっていたら、まるでそれが通じたかのように、「今、入院してる」とのメール。それで28日に会いに行った次第だ。
その次の週の火曜日の朝、永眠したとの連絡をもらっていたのだが、冒頭の記事が出るまで、私は彼女が最後の最後まで漫画を書き続けていたことを知らなかった。
少なくとも最後に会ったときの彼女は、お嬢さんが秋に結婚するので「結婚式、行かなきゃ!」とか、同じ10月生まれなんで「誕生会一緒にやるよ!」とか声をかけても、「うん」というのがやっと。
左目も見えなくなっていたし、個室でトイレがあるのにベッドの横に簡易トイレが置かれていたので、歩くのもままならなくなっていたのだと思う。
あの状況で、彼女はどうやって漫画を仕上げたのか。
元気なときであれば、「責任感が強いね~」の一言かもしれないけど、そんな倫理的なものではなく、極めて感情的で。人間の本質の“ナニか”が彼女を突き動かしたようで、……圧倒されてしまうのです。
以前、「久米宏のがん戦争」(テレビ朝日)のプロデューサーが、こんな話をしてくれたことがある。
「30年ほど前に、肺がんになり苦しい治療をしている男性を、追いかけていたことがあってね。その人は『会社に迷惑かけて悪い。会社に悪い』ってずっと言っていたの。
あまりに会社に申し訳ないっていうから、なんだか気の毒になってしまって、逆に『夢はなんですか?』って聞いた。
そしたらさ、『元気になってもう一度、タイムカードを押したい』って。お子さんが2人いるから、僕はてっきり『家族とどこかに行きたい』とかそういうのかな、って思っていたら、目をキラキラさせて、『私の夢はタイムカードを押す事です!』と。
それでやっとタイムカードを押す事ができる日がきた。彼はものすごい喜んでね。
ホントよかったって、スタッフも泣いてしまったんだ。
男性にとっては、会社に行く、仕事をするってことが目標だったんだね。当時のがん治療は、とても苦しい、孤独なものだった。会社に出社して、タイムカードを押す。それが、自分と社会との接点、その証になっていたんだろうね」
……その半年後、男性は亡くなったそうだ。
HOPEと希望、似ているけれどニュアンスが異なる
HOPEという概念がある。
ホープは直訳すると希望だが、希望とは若干ニュアンスが異なる。
「希望がある」というと、「頑張れば必ず報われる」とか、「未来に良いことがある」といった具合に、ポジティブな未来が待ち受けているような期待感や可能性を示す使われ方をする場合が多い。
これに対してホープは、「逆境やストレスフルな状況にあっても、明るくたくましく生きていくことを可能にする内的な力」で、いわば「光」だ。
「HOPE」の原点はパンドラの神話に存在する。
ゼウスがパンドラの箱に詰めた「災い」と「希望」。箱に最後に残ったのが「HOPE」だった。パンドラが箱を開けてしまったおかげで、人は災いから逃れることはできない。一方、「HOPE」は、人が“そこにある”ことに気づき、箱を開けないとダメ。
では、人はいったいどういうとき、箱の中のHOPEに気付くのか――? それが長年、心理学者や哲学者、社会学者たちの疑問だった。
そして、長い年月をかけて議論され、研究が重ねられた結果、他者との関係性、大切な家族、友人、異性といった、自分を大切に思ってくれる人、自分自身が大切に思う人など、他者の存在とのかかわりの中で見いだされることがわかった。
私たちの研究室(東京大学大学院健康社会学教室)でも、一般の成人男女300人を対象に、ホープに関する調査を行ったことがあるが、そのときも「信頼できる人」がいることで、ホープが強まる傾向にあることが認められている。
さらに、その後の研究で、他者との関係を「広さ」で捉え、HOPEとの関連を検討したところ、「喜びや悲しみを共に出来る関係性が、家族だけではなく、医師・介護者などの医療関係者と、友人・知人などと外部に広がるほどHOPEが高い」ことがわかった。
と同時に、直接的な会話だけではなくとも、「メールなどパソコンなどを利用した“関わり”の重要性」も確かめられたのである。
「美談」と受け止める前に
生きるということと真剣に向き合うようになった時、仕事は生きる動機になる。
仕事は「社会との接点」であり、人には最後の最後まで社会の一員でいたい、社会で役割をもっていたいという欲求がプログラミングされている――。
陸さんのこと、この男性の夢、川島なおみさん、竹田圭吾さん、そして、小林麻央さん……、最後まで仕事の場に立ち続けた人たちに思いを巡らせると、こう思えてならない。
健康体でいると当たり前のように「社会との接点」が存在し、仕事がその大きな役目を担っている事を忘れがちだ。だが、「その日は必ず来る」ことを受け入れ、神経が研ぎすまされると、極めてシンプルかつ純粋に、「仕事」に魅かれるのだ。
有名人が亡くなると「最後まで仕事をしていた」とドラマ仕立てで報じるメディアは多い。
そして、私たちもそれを感動ドラマとして消費していく。
だが、もし彼ら彼女らが最後まで「仕事」をした意味を、もっともっと考えていけたなら、がんなどの病いと仕事の両立に苦悩する人たちをちょっとだけ勇気づけられ、「がん(他の病いでも)」とわかった途端、強制的に「仕事との縁」を切られることも多い今の日本社会を、「がんと両立できる社会」に近づけることができるのではないだろうか。
最後に、くりた陸さんは「ちょっと休んでいい?」と目を閉じ、私は彼女の寝息だけがかすかに聞こえる、とても静かな空間にいた。
このまま永遠に目をあけることがないくらい、静かで、とても静かで。
その場に「私」がいるのが、とても不思議で。「何かが閉じていく」感覚的な時間が過ぎていきました。
大切な時間を……、そして、考える機会を与えてくれて、ホントにありがとうございました。
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