
このたびの大相撲の不祥事について、私はあまり同情的な気持ちを持っていない。
というのも、角界には、朝青龍を排除するに当たって盛大にきれいごとを並べた人たちが居残っているからだ。
やれ国技だ文化だ伝統だと、彼らは、自分たちの関わっている興行について、歯の浮くような美辞麗句を言いつのっていた。曰く、相撲の美、横綱の品格、無言の掟、民族のDNA。武士の覚悟。ほのぼの麗句。
なるほど。よくわかった。
私は納得した。大相撲の世界が彼らの言うように、美しくも正しい文化的な結界であるのだとしたら、私の大好きな朝青龍は、その清廉な小宇宙にはなじまない異分子だったはずだからだ。ドルジは乱暴者だった。身勝手でもあった。ファンのひいき目で見ても教養溢れる紳士というわけにはいかなかった。ごくごくありきたりな二十代の粗野な青年であったに過ぎない。
だから、そのがさつで傲慢で粗暴なファン太郎を、角界は、追放した。それは仕方のないことだった。
私の朝青龍は、強くて愛嬌があって機転の利く真にアウトスタンディングな力士だった。人間的にも素晴らしく魅力的だった。が、「横綱の品格」のようなものを問われるなら、そういうむずかしいものは、やはり、備えていなかったからだ。
……仕方がない。
私はあきらめた。
私は朝青龍をあきらめ、ついでに相撲もあきらめた。そう。相撲界の人々、すなわち協会とNHKと評論家と横綱審議委員会と再発防止委員会の面々は、相撲の美を守るために朝青龍をあきらめたのかもしれないが、私の立場は違う。一相撲ファンである私が朝青龍をあきらめるためには、相撲も一緒にあきらめないとならない。そうするほかに選択肢がなかったのだ。
ドルジなき後の大相撲は、きっと正しく文化的で教育的な国技として広く善男善女に愛されることになるのであろう。よろしい。私はそんなものに用はない。
私が愛していた相撲は、時に荒くれた、半裸の男たちのぶつかり合いだ。
その太古の時代の猛々しさを残した素朴な格闘技には、朝青龍が不可欠だった。
そうだとも、あいつが居ないのならオレは見ない。
というわけで、今年にはいってから、私は相撲中継を見ていない。
ところが、その清く正しく文化的であるはずの品格ある大相撲の世界には、なぜなのかどうしてなのか、野球賭博に手を染める面々が多数含まれていたのだそうだ。
それも、ただの仲間内の手慰みではない。
暴力団にかかわりのある賭博だ。彼らは、そのハンデ師がハンデを切るところから始まる著しく反社会的なバクチに乗っかっていたといわれている。
話が違うじゃないか。大相撲は国技で文化で神事で伝統で美しい所作の極致だったはずではないのか? だからこそ文部科学省は日本大相撲協会を公益法人として認可し、様々な特権を付与してきたのではないのか?
……と、いつまでも白々しい話をするのはやめておく。
本当のことを言う。
大相撲の世界が暴力団とズブズブであることは、昔からのファンなら誰でも知っている。当然、私も知っていた。実際に国技館に行ってみればイヤでもわかることなのだ。いつ観に行っても、前の方の席には一目でそのスジの人間とわかる人たちが、公然とタムロしているからだ。非常にのびのびと。
わざわざ国技館で取材をするまでもない。あるいは相撲部屋見学をしなくても、力士が飲み歩く店をリサーチしなくても、たとえばネット上には、力士とそのスジの人が一緒に写っている写真が山ほどアップされている。お相撲さんたちはごく自然に羽織袴を着て、組関係者の結婚式や襲名披露みたいな席に同席している。それを見れば誰にだってわかるはずだ。つまり、普通の観察力とあたりまえな想像力を持っていれば、大相撲が暴力団ないしはその周辺者と同じカマのメシを食う関係にあることは、誰にだって、察知できるはずの事実だったのだ。地方巡業の勧進元の名前をひとつひとつしらみつぶしに当たってみるまでもなく。もう何十年も前から。
まして相撲記者やジャーナリストが知らなかったはずはない。
当然、彼らは知っていた。彼らは私などよりもずっと前から、ずっと深くそれらの事実を把握し、間近で眺め、日々経験しつつ、それでいながら、あえてなのかなぜなのか、黙っていたのだよ。けしからぬことに。
で、今回、警察経由で余儀なく事実が外に漏れてしまった後になって、はじめてメディアの人々はいまさらのように騒いでいる次第なのだ。
「この際膿を出し切らないといけない」
「襟を正さねばならない」
「正念場だ」
「いまこそ改革の時だ」
と、午前中の液晶画面を通じて、親方衆や相撲評論家や好角家の文化人が異口同音に事態を憂慮する旨のコメントを吐き出すのを眺めながら、私はさすがにちょっと呆れている。
どの口がそういうセリフを言うのですか、と。
だってそうだろ? 膿を出し切ったら、相撲が相撲でなくなるって、それだけの話じゃないか。
というよりも、相撲というのはそれ自体膿なんじゃないのか?
……いや、言い過ぎた。撤回する。相撲が膿なのではない。膿は広くて大きくて月が昇って日が沈むだけで、膿が相撲なのではない。相撲は相撲だ。
とはいえ、事態は膿を出す程度のことでは解決しない。
なぜなら、暴力団はオデキ程度のものではないからだ。ガンだぞ。あいつらは。
相撲を健全化するためには、公益法人の認可を取り消すのが一番手っ取り早い。
ついでにNHKが年六場所の取り組みをすべて放送している現在のレギュレーションも見直すと良いかもしれない。
というのも、腐敗の根は、大相撲が特権と利権の巣であるところにあるからだ。
でなくても、大相撲興行は公益法人にあるまじき巨額な利益をもたらしている。こういうものを組関係者が放っておくはずはない。のみならず、力士の肉体は威圧を業とする者にとってこれ以上ない看板になる。とすれば、テレビの電波を通じて全国に顔の売れた力士を任侠の人間が利用しない道理はないのである。
もちろん、一般の興行団体に組織変更してきちんと税金を払って、なおかつテレビ中継から外されたりしたら、大相撲は、かなり手ひどく衰退するはずだ。悪くすると消えてしまうかもしれない。でも、本当に生まれ変わりたいのなら、そこまでしないとダメだ。
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