
櫻井翔君から年賀状が来ていた。
びっくりしたかって?
いや、全然。だって付き合い無いし。
「おお、あの嵐の櫻井クンはオレのファンだったのか」
とか、そういうふうに思うほど世間知らずなオダジマでもない。
だから、元日の朝、件の賀状を瞥見した瞬間、年末からずっとやっていた「年賀状は贈り物だと思う」という、あのCMのダメ押しだということはすぐにわかった。
なるほどDM配布業者のビッグボスはやっぱりDMを撒くんだな、と。
返事は書かなかった。受け取り拒否のハンコを押して返送しようかとも思ったのだが、やめておいた。オトナだからね。
とは申すものの、実のところ私はそもそも年賀状を書かない男だったりする。出さないだけではなくて。返事も書かない。さよう。当方にわざわざ賀状を送ってくださったありがたい方々に対しても、あろうことか、返事を差し上げていないのである。
おどろくべき態度だと思う。オトナの処世ではない。チョイ悪でさえない。クソガキのやりざま、ですよね。年賀状が贈り物だとすると、返事をしないのは、ケンカを売っているに等しい。うむ。
一応、理屈はある。私は歳暮であるとかお中元であるとか、あるいはバレンタインだのホワイトデーだのといった「贈答」にかかわるあれこれがキライなのだ。なんというのか、人と人との間にある好悪や交際の歴史を、義理にからんだ名簿仕事にからめとろうとする底意がいやらしいと思うからだ。それに、「気持ち」と言いながら、ぬかりなく物品を介しているところが不潔でもある。贈答は小なりながらも贈収賄の端緒を孕んでいる。でなくても「おべっか」や「こびへつらい」や「プレゼンティング」や「マウンティング」みたいな要素で、ぐちゃぐちゃに汚れている。断言はしないが。
で、年賀状もそれら「贈答習慣」の一味であると判断して忌避している次第なのだが、それにしても、返事を書かないのはいかにもひどい。弁護不能だ。主義主張や思想信条は脇に措いて、返事ぐらいは書くのが人の道ですよね。うんわかった。来年は書く。せめて返事だけは。たぶん。
書いていた年もあるのだ。
でも、例年、返事を書きたいと思えるような賀状は、数通にすぎないのだよ。だって、印刷の大量生産モノを送ってきて、宛名さえもがワープロ仕事だから。せめて「今年もよろしく」ぐらいの添え書きがあればまだしも、多くの賀状には、それさえない。まあ、何年も賀状のやりとりを一方的に拒絶している人間にわざわざハガキを寄越すのが、うっかりカードを作った量販店や床屋に限られているという事情はあるにしても、だ。
で、そういうことを言い訳に、返事を書き渋っているうちに、いつしか松が明け、「いまさら書くのもかえって失礼だよな」ぐらいに思える繁忙期を迎える。そういうことになっている。で、賀状云々は忘却の彼方に捨て去られる始末となる。毎年同じだ。通例。ええ、困ったことです。
ついでに言っておくと、あの郵政公社のCMは、あれはちょっと神経に触った。
ポイントは、「贈り物だと思う」の「思う」だ。
「年賀状は贈り物です」と潔く断言していないところに、卑怯な感じがある。
おそらく、CM制作者は、「年賀状は贈り物です」と、まっすぐに言い切って、それが押しつけがましく響いてしまうことを恐れたのだと思う。で、「思う」という、個人の見解であるかのような語尾を付加した。これは、郵政公社の公式見解ではなくて、あくまでも櫻井クン個人のプライベートな思いですのでよろしくね(はあと)ぐらい。婉曲化。自信を欠いた表現者が陥る墓穴だ。構造としては、ニキビ治療のクリームや、発毛実感(←「発毛」それ自体でなく、「発毛実感」という一歩引いた感想をアピールすることで薬事法をスルーせんとしている)を喧伝する商品のCMフィルムが、画面の片隅に「※個人の感想です」というエクスキューズをあらかじめ表示している手法と似ていなくもない。って、ちょっと違うかな、これは。
でも、「救うのは地球だと思う」という、家電メーカーの広告キャッチとは似ている。通底する思想のようなものがある。
会議室に集まった面々は、自分たちの主張が偉そうである旨を自覚している。「救うのは地球です」と言い切ってしまったら、モロに上から目線のお説教になる、と彼らはそう考えている。だから、「思う」と、女優さんの個人的な人徳に依拠する文体を採用した。なんというのか、目のつけどころがフラットだよね。いかにも。
さて、婚活だ。
今回は、ずっと前から気になっていた「婚活」という言葉について考えてみたい。
最初に賀状の話を持ってきたのは、結婚という制度と年賀状という習慣に、似たところがあるように思ったからだ。いずれも、前近代をひきずっているという意味で。どういうふうに装ったところで。
結婚式に文金高島田みたいな古色蒼然とした衣装が出てくるのは、あれは偶然ではない。
現代に生きる人間として、普段、われわれは、合理精神に基づいた、モダンなマナーと考え方を採用している。迷信やたたりやトーテムポールや雨乞いの踊りみたいな古代由来のあれこれが、顔を出すことは、普通の生活の中では滅多に無い。
が、そうしたわたくしどもの合理精神は、結婚だとか葬式といった、「家」に連なる儀式に行き当たると、ほとんどまったく無効化してしまう。われわれの頭と美意識は、かような事態を迎えて、いきなり数十年から数百年逆戻りする。そういうことになっているのだ。
たとえば、婚約者の両親は、「幾久しく」だとかいった、紫式部の時代の日本語を使ってあいさつをする決まりになっている。マナーの本を読むと、そういうことが書いてあるからだ。花嫁の紅は唇より小さく描きましょうだとかなんとか。
婚活は、そうした「結婚」に関するわれわれの古いマナーを打開する、新しい思想なのであろうか。
そこが今回のポイントだ。
雑誌で読んだのか、誰かから聞いたのか、出典を忘れてしまったのだが、こんな笑い話がある。以下、記憶をもとに再現してみる。
ある年の正月、退職した教師のもとに、かつての教え子だった女性から年賀状が届く。
ハガキには、彼女がめでたく就職して、この春から上京する旨が記されている。
おお、それは良かったと、続きを読むと、文面は「今年は東京で嫁ぎまくります!」という一文で締めくくってあったと、そういう話だ。
本当の話なのかどうかはわからない。
あまりにも出来すぎなのでね。
ん? 笑いどころがわからない。
よろしい。わかりました。麻生さんのために、特に解説をいたします。蛇足ですが。わかっている人は我慢して読むか、以下数行を読み飛ばしてください。
つまり、先生に賀状を送ってきた新入社員嬢は、「稼ぐ」と「嫁ぐ」を書き間違えたのである。
ポイントは、「嫁ぐ」と「稼ぐ」が字面として、とてもよく似ていること。ここが笑いのツボです。
フェミの人にとっても、ここは突っ込むべきポイントだと思う。というのも、「稼ぐ」にも「嫁ぐ」にも、同じように「家」という字が介在しているからだ。このことは、封建社会において、収入の拠り所が家にあったこと、ならびに、職業の帰趨が家に属していたこと、さらには、女性の生涯を決定する「結婚」の二文字が家という上位概念の付属品でしかなかったことを示唆している。要するに、家制度の支配下にある女性にとって、稼ぐことと嫁ぐことは、事実上不可分だったのであり、別の言い方をするなら、女性が一箇の独立した人間として(つまり「家」とは別の個人的な主体として)「稼ぐ」ための道は、事実上閉ざされていたということだ。
そんなふうに難しく考えないのだとしても、この笑い話には、独特の淋しい読後感がある。
なぜだろう。
おそらく、勇んで故郷を出て行ったその娘さんが迎えるはずになっている東京生活に、明るい展望が見えにくいからだ。
そう。意図通りに「稼ぎまくった」先の彼女の未来に、私たちは、「嫁ぎ損なう」姿を想像してしまう。
別の言い方をすると、「稼ぎまくる」といった種類の目標を抱いている女性に対して、われわれは、どこかしらいたましい何かを感じるのだな。
だって、「適当に腰掛け就職をして、職場でいい男をみつけよう」ぐらいに思っている娘の方がきっとお得な人生を歩むような気がするから。
マジで仕事に生きようと思っているA子さんは、もしかして、男をあてにしているB子さんよりブスなのかもしれない。
いや、事実としてブスじゃないんだとしても、世の男は、職場の飲み会で「家庭的」をアピールするみたいなタイプのB子さんの方に点が甘いんではなかろうか、などと、先生は余計な心配をしてしまうのである。教え子はいつまでたっても教え子だ。幸せになってほしい。
でなくても、彼女の「稼ぎまくる」拠点であるところの職業生活と、彼女が「嫁ぎまくる」(←うん、まくるのは良くないが)行き先である結婚生活は、並立して考えにくい。
どういうことなのかというと、嫁ぐことと稼ぐことは、はなっからまるで相互排除的な、まったく別の筋道の話なのであって、A子は稼げば稼ぐほど嫁ぐことから遠ざかり、一方嫁いだ組の同級生は、事実上の稼ぎを「家」の中に既に確保している、と、そうプロットが見えてくるのである。
ここで「婚活」という言葉が、俄然、説得力を帯びたカタチで浮上する。
お聞きなさいユミちゃん。結婚を考えない就職は世間知らずのやることよ。いいこと? 女のコにとって、就職っていうのは、より良い結婚相手とめぐりあうためのステージなのよ……ぐらいな、そういう思想が「婚活」の前提にはおそらく含まれている。
結婚と就職という水と油の概念に橋渡しをする、希望の言葉。婚活。
本当だろうか。
一方、この言葉を嫌っている人は意外なほど多い。
実を言うと、私も嫌いだ。
字面を見ただけでパブロフの犬みたいに、反射的に不快になる。
婚活の主張は単純だ。
就職に先だって「就活」(「就職活動」の略)という期間があるのなら、結婚にも「婚活」と呼ぶべき準備期間があってしかるべきなのではないか? と、簡単にいえばこれだけだ。つまり、卒業を控えた大学生が、就職のために活発な情報収集をし、自己アピール術を研究し、企業との接点を積極的に開拓しようとしているのであれば、適齢期の女性もまた、活発な情報収集に励み、女の魅力に磨きをかけ、男性との接点を拡大する活動を旨とすべきなのではなかろうか、と。
「婚活」という言葉の語義について言えば、ウェブをひとまわりすると、もう一歩踏み込んだ定義があったり、より具体的な箇条書きが述べられていたりする。が、そのあたりの細部はあえて省略する。
どうせ新語なのだし、ニュアンスも、使う人によって千差万別で、まだまだ揺れている段階にあるからだ。
いずれにしても、「婚活」の言わんとしているところは、われわれ男性の側から見ると、少しく不愉快だ。
なにより、こっちが「出会い」であると思っている関係を、「靴のフィッティング」(あるいは、「シンデレラ」の物語は、婚活の古典なのかもしれない)ぐらいな段階として描写しているわけだから。
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