31DmHylYqcL







674: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/18(月) 11:31:03.23 ID:jSbIpEe90
祖父戦時中、徴兵されて佐世保を守っていた。
朝6時半起床から夜12時就寝まで、とにかく自分の時間が持てず、
人数分の設備がなかった為に朝の顔洗いや歯磨きも競争で、要領の悪い祖父はできず困り、
他人よりこっそり早く起きて顔を洗って、また戻って時間が来るまで布団をかぶって待つことで解決していた。
が、ある日とうとう一人の上官に見つかり、ギロリと睨まれ、脅されて肝が冷えたらしい。
当時の上官の命令は絶対で、罰を恐れていたが、不思議と特にお咎めなく終わった。

そうしているうちに、戦況は刻々と悪くなり、沖縄決戦にも佐世保から派兵されることになり、
誰が行くかはどうやって選ばれるのか知らないが、当人達には運次第、
名簿に載っている人が必ず船に乗り、沖縄に行くことになっていた。
祖父は運良く免れた後、実は自分もその名簿に載っていたことを上官から聞く。
気に入ってくれていた上官が誰かは言わなかったらしいが、他の人とこっそり書き換えたらしかった。
母が言うには、もう日本が負けるとわかっていた上官は、祖父は朴訥として生真面目だった為に、
戦後の復興者として日本に必要な人材だと感じて残したのではないかと。
私には戦時中の仕事の話しか話したことがなかったが、母には昔話したことがあるらしい。
もう亡くなってしまったが、祖父がもし沖縄に行っていたら、確実に死んで自分が生まれなかったことを考えると、
それだけでも真面目だった祖父に感謝しなければいけないなあと思う。
あと、祖父は長崎のキノコ雲を佐世保港から見たということだけど、本当に見たんだろうか。
地図で確認したら、遠くてちょっと謎。

677: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/21(木) 16:34:34.78 ID:OerET9k60
>>674
天草の東海岸からもキノコ雲が見えた(俺の婆さん談)らしいから、
お前さんのお祖父さんが佐世保から見たというのもあながち嘘じゃないと思う。
地図で確認すると佐世保の方がちょっと近め。

678: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/23(土) 00:29:35.62 ID:20ITVVEq0
>>677
天草から見えたのなら、佐世保でも見えそうですね。
映像でしか見たこと無いから全く規模が想像できなかったんですが・・・やっぱり想像できないですね。

675: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/20(水) 18:22:09.86 ID:59R9uX1t0
広島のきのこ雲は呉から見えたそうだ
広島型はウラン爆弾で長崎のより規模が小さい

長崎のプルトニウム爆弾の方が被害が小さかったのは曇りで視界が悪く爆心地が市街地から若干それたため

680: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/26(火) 02:31:28.57 ID:/VSMKe9R0
俺の祖父さん。職業軍人だった。俺がその話に興味持った頃にはボケてはいないが耳遠くてあんまり話聞けなかった。10年前に亡くなった。確か90歳くらい。
親父も昔聞き出したりしたらしいけど、あんまり戦争中のことは語りたがらなかったらしい。嫌な目にもあったんだろうと。
海軍軍人で上海にもいたとか、上海で買ったのかかっぱらったのか知らんが掛け軸があったとか。
軍刀を買うために祖父の親父、つまり曾祖父さんにねだって買ってもらったとか。
ばあちゃんにも聞いたけど、老人だから話がその都度違ってて、少尉だったり、軍曹だったり階級もなんだかいい加減。

赤城に乗ってて(なんか眉唾くさい巡洋艦だとかの話もあった)、怪我して下船してる時にミッドウェーが起こったとか、
その後は茨城か千葉かで軍関係の学校だかの教官やって終戦迎えたとか。
数年前にばあちゃん家行ったら勲章とか賞状?みたいなの見せてもらったから、
ここの人はいろいろ詳しいと思うので何か推察できることがあればと。
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3988633.jpg.html
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3988640.jpg.html
※リンク切れ

祖父さんの軍歴とかってどうやって調べたらいいんだろうなあ。はっきりしたこと知りたいな。

688: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/02/28(木) 15:34:00.41 ID:bao7P3pt0
>>680
海軍軍人なら厚生労働省に電話で「祖父の軍歴を知りたい」と問い合わせればいい
情報の開示請求者が一族であれば可能、孫では駄目と言われたら親父かお袋どっちか実子の人に
開示請求してもらえ
軍歴が分かったら防衛省管轄の図書館?あたりで本を閲覧して作戦など詳しいことを詳しく調べればいい
爺様の恩給の書類とか残ってない?

693: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/10(日) 04:18:26.80 ID:k6Y0jK1C0
明治生まれの亡くなった祖母は空襲より関東大震災のほうが怖かったって言ってた
まあ、場所にもよるだろうが

698: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/13(水) 12:37:29.86 ID:zi5C9JjS0
爺さん 日本郵船のボーイ
婆さん 婦人公論の記者
知り合ったきっかけは、婆さんが「浮かぶホテル氷川丸」という特集の取材でした。
お互いの第一印象は最悪で、爺さんはお客様が使う高価なグラスを勝手に触ったりマナーのなっていない食い方
をする下品な女。
婆さんはポマードを塗って口やかましいきざな男でした。

699: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/13(水) 13:09:00.30 ID:V0wBsBmz0
>>698
悪印象でもお互いにとってインパクトがある存在だったんだな。
日本郵船時代ってことは、現役で航海に出てたころなのかな?

700: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/13(水) 14:49:33.05 ID:zi5C9JjS0
>>698です。
爺さんはマルセイユやサンフランシスコに何度も行き、自分こそが欧米文化の伝道者のモボ。
婆さんは自分こそが最先端の流行を作り出す、モガとの自負を持っていました。
結局付き合ったきっかけは、婆さんがロスオリンピックの取材で客として爺さんのサービスを受けたことでした。
感銘を受けた婆さんが最初に告ったんだが、爺さんは「お客様に対して当たり前のことをしただけです。」
と固辞しました。
しかし帰路にも告白されて根負けしました。

702: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/14(木) 21:00:52.74 ID:rjr7p2AR0
いいはなしだなー

707: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/23(土) 15:33:29.98 ID:6Wt/0lNm0
子供の頃、俺を育ててくれた婆ちゃんは馬の話ばかりしていたなあ
馬は可愛い、とかそう言う話じゃなくて、どれだけ農家になくてはならないものなのかを
孫に向かってトウトウと話していた。
話を総合すると、軽トラック(米俵とか荷物を運ぶ)・肥料製造装置(冬の間に堆肥を作る)・
トラクター(鋤を引っ張って田を耕す)・現金収入源(子供を産むから)を兼ねる
優れものだったらしい。近くで馬市が年に一度開かれて、沢山の馬が近在から集まって、
色々な出店も出て、賑やかだったそうだ。子馬が良い根で売れると婆ちゃんの父親が喜んで、
婆ちゃんも嬉しかったとか、いい牝馬がいる家は毎年子馬が良い値段で売れるけど
ダメな牝馬の家は毎年安い値でしか売れないとか、婆ちゃんの兄は毎朝飼い葉のワラを
大きなワラ切りで二抱えも切ってから学校に行っていたとか、そう言う話。
馬を飼ってる農家は、今でも北海道や九州にはあるだろうけど、堆肥の話は、
今では全くないだろうな。冬の間に寝ワラをどんどん足して行って、春先には
ワラが2mぐらいの高さになるそうだ。馬は天井に付きそうになる。馬房は冬でも暖かい。
ワラと馬糞が馬に踏まれて撹拌され、最高の堆肥が出来て、これがないと米作りが
出来ないそうだ。
婆ちゃんは「子馬が売られて悲しい」みたいな話は一切しなかったし、高い値で売れると
うれしい、と言っていた。本当に動物が身近にいて生活している人の感覚なんだろうな。
「子馬が売られて悲しい」と言うのはペットを飼ってる人の感覚なのかも知れない。

708: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/03/29(金) 01:18:47.72 ID:L93Wzp160
旧制尾山台中学(現在の金沢の尾山台高校 馬鹿学校)を卒業した俺の爺さん。
国内でも帝国大卒の無職がいる中見つけた就職先は三越ソウル店外商部第2課。
しかし課長は韓国の女学校を卒業した美人だが怖い独身女で、なにも売れずに帰ると
「あなたの仕事は何ですか??お客様のご自宅や事務所に訪問して商品を売ることでしょ?
売れるまで帰ってくるな!!!」と怒鳴られたそうです。
またなにも売れずに、仕方なく行きつけの食堂で爪楊枝を頼みこんで売ったら、
「おめでとう。爪楊枝が売れたのね。みんな拍手www」と苛められたそうです。
しかし当時の社内規定では女性社員が結婚すると退職する規定があったそうで、
終業後、後輩の朝鮮人ダメ社員と飲みに行って
「お前、課長と結婚しろよ。いい女だぞ。」
「いえいえ。内鮮一体の時代ですので、先輩が課長と結婚してくださいよ。」
などと愚痴をこぼし合っていたそうです。

710: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/07(日) 17:48:30.90 ID:LMN3H3an0
昔はプールがなかったから、今でいうプールの授業は海でやってたらしい
水泳大会では数百メートル先の小島を往復
ビニールの浮輪はなかったけど、布で作った浮輪?を使っていて、
布だから直ぐにプシューと空気が抜けてたから不便だったとか

80代の祖母から聞いた話

711: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/12(金) 12:59:22.49 ID:Twj5jvcoO
昔は水泳なんて家庭で教育するもんだったしな。何でも学校に任せるから質が低くなる。

712: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/12(金) 22:22:08.65 ID:cb/fYwWH0
これは祖父母の話ではなく、自分の話だが
1970年ごろの地方の水泳教室の教官は、大抵が海軍上がりのおっさんでさ。
教え方がめちゃくちゃだった。
泳げない者は、幼稚園児でも容赦なく深い飛び込み用プールに放り込まれる。
まだ幼稚園児だから泳ぐどころか水に顔もつけられないのに、首根っこを
捕まれて、凄まじい力で水の中に沈められる。
もちろん子供は恐怖しかない。パニック状態になる。
幼稚園の夏休みに市の水泳教室に行ったお陰で、19までカナヅチだった。
大学生になって始めて「泳がなければいけない」という強迫観念から開放されて
泳げるようになった。水泳教室でトラウマ植え付けられて泳げなくなるって
もうありえない話だ。今なら訴訟沙汰かもしれん。
1970年ごろと言えば終戦から25年しか経ってないから、軍医上がりの医者とか
元陸軍伍長の教師とか普通にいたな。今の大人しい日本人とは別人種だった。
何の疑問も持たずに鉄のような意志を持って殴ったり怒鳴ってくるから、
抵抗なんてできなかったよ。

727: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/13(木) 01:31:37.16 ID:YDCxIshj0
>>712
1960年代に小中学生を過ごした者だが、当時は、軍隊帰りの教員は必ず居たな。
小学校に2人。運動会の練習となると、やたら張り切って軍隊顔負けの全体行進を
1ヶ月以上毎日練習させられた。

中学には、特攻隊の元訓練教官がいて、軍隊生活やシベリヤ抑留の話を面白おかしく話してくれた。
もう一人の美術の教師は、辛い思い出しかないようで、決して「天皇」と言わず、
「天ころ」「天コロ」と呪言のように言っていたのが印象的だった。

714: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/04/16(火) 01:44:59.26 ID:iQCENqofO
うちの爺さんは新しいもの好きでノートPC使って、iPodシャッフル使ったりする変わり者なんだけど、(もう90だぞ笑)
昔からそうだったらしく、ラジオやら自転車やらとにかく気に入ると、とことん使って身につけてたらしい。
軍隊生活でもその癖が治らず、銃をやたら触りまくったり、重砲?なんかも触りたがってはかなり周囲に迷惑かけてたみたいww
南方での戦地では、生き死により敵の装備が気になり、触らせてもらいに行ったがダメったらしい。
頭おかしくね?

721: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/04(火) 12:03:32.73 ID:ob6/mFIZ0
仕事先のお婆さんに聞いた話
戦時中病院で看護婦しててそこに入院してきた軍人さんのお世話係になった
陸軍大佐で参謀で優しい人だったって
二三日に一回軍人さん達が大勢来て彼の指示を仰いだりなにやら話し合い
してたんだけど、悪いと思って彼女が病室から出ると「いてもいいよ」って
笑って言ってくれたって
陸軍病院の看護婦はいろいろ命令してきて怖いからこの病院に入れてもらった
ってことだったらしい

729: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/14(金) 13:16:30.80 ID:SyETrVqbO
昭和40年生まれの自分の体験

まだ幼い頃 繁華街には傷夷軍人がいた ムシロの上で義手や義足の老人が募金箱を置き 募金してくれた人に深々と頭を下げていたっけ…

小学校低学年くらいまで 記念撮影ってやたら時間がかかってた 単に撮影者の腕だろうか!?
創成期の写真は撮影にやたら時間がかかっていたというが…

街には普通にオート三輪が走っていて 線路はSLが走ってた

730: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/14(金) 22:11:29.00 ID:vWEnlXJi0
1919年生まれの祖母が元気だった頃の話。
祖母の通うミッション系の女学校では女同士の恋愛が盛んで、
「女」の取り合いで殴り合いの喧嘩もあったとの事…。
トイレでキスする事や授業中にラブレターを回す事は日常茶飯事だったらしい。

「制服の処女」というドイツ映画が大好きだったとよく聞かせれてたんだけど、
筋を調べたら、美少女が美貌の女教師からもらった下着に大興奮したりする映画だった…。

732: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/15(土) 08:40:00.29 ID:Btgp0/W80
大正2年生まれの爺さんによると
高校生の頃は毎晩酒飲んで暴れたり繁華街を裸で走り回ったりしていたらしい。
先生にも注意されないでそのまま帝大に進学したとの事。
先生に暴力を振っても1度では退学にならなかったらしい。

今の子は真面目だなあとよく言ってたw

737: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/16(日) 12:02:09.59 ID:+f9ouLcCO
大正10年生まれの祖父

山口の部隊から移動中、原爆が投下されて広島入り。
大きい河の水が赤く染まってたらしい。
それでも他に水がないので飯盒で掬ってその水を飲んだらしい。
戦前、戦時中の写真はしかめっ面ばかりなのに
戦後の写真は陽気な表情なのが印象的。

738: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2013/06/16(日) 23:18:03.52 ID:D+Bcc7Ja0
昭和6年生まれの祖父は、終戦の年に両親を亡くして幼い妹と二人きり…という
まんま「火垂るの墓」の境遇だったんだけど
当時既に働いていたからそれ程悲壮感がなかったらしい。
「清太みたいなお坊ちゃまだったら辛かっただろうな」と言ってた。

758: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:IB2xo/vk0
家の下士官だった祖父さんの話。昭和二十年八月にロシア軍が
侵攻してきた満州で砲兵聯隊所属だったんだが、後退中、
埋められた予備の銃弾を堀出して試し撃ちをしていたら将校から
「誰の許可でやっとるんじゃ!」と言われ、祖父さんブチ切れて、
「うるせぇ、弾がねぇからしょうがねぇだろ。文句有るならぶっ殺す」
と言って、銃を将校の身体に押し付けたら、将校が「すみません」
と言って謝ったとか。ホラ話とは思うけど、営巣に二回入ってます。

760: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:O6vo+qhe0
うちの爺さんは硫黄島の生き残り
兵隊当時の写真をいろいろ見せてくれたけどみんな戦死だと言う
最後に200人ぐらいの集合写真を見せてくれたが生き残りは赤丸で囲んでた
爺さん含めて3人しかいなかったよ

762: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:BsvMABTL0
最近は戦時中の話ばかりだね。
それはそれで興味深いけど
明治以前の話を聞いたご高齢の方はもういないのかな・・

764: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:5AGvcbTp0
>>762
父方の祖母が木村次郎右衛門さんの後に世界最長寿になった大川ミサヲさんと同い年だったんだが
その俺の祖母の祖母(自分にとっては高祖母)の事は聞いたことがある
高祖母は確か天保生まれとかそのくらいだった
明治初期の事だと思うが俺の高祖父という人が商売で成功して遊郭で遊び呆けるようになって
高祖母は愛想を尽かして逃げてしまったらしい
しばらくしてどこかの後妻に入っていたのを曾祖母が見つけて
孫の顔を見せると言う事で俺の祖母が曾祖母に連れられて会いに行ったり
後妻に入った家の人がこちらに遊びに来たり色々交流してたなんて話を聞いたな

そういえば俺の曾祖父が幕末生まれだったようで俺の親父が小さい頃はまだ元気だったそうだが
まあ親父もまだ子供だったから色んな昔の話は聞けなかったようだね

763: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:0LZYwnqW0
じゃ、家の先祖の情けない話。
田舎大名の中老クラスだったのだが、廃藩後生活能力が無く、
倅は東京に出てしまい、出入りの商人に家重代の刀剣類などを質入れして
生活していたが、金が切れると、その商人宅に上り込んで勝手に質物を
取り返し、又金を借りる日々であった。

その被害に遭った商人の子孫は、現在骨董商をしている。

768: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:d8AyR2e8O
戦後だけど、カレーを初めて食べて本当に感動したと言ってた。
都会ならまだしも、田舎じゃそうそう食えるもんじゃなく、貴重な経験だったと。
タンドリーチキン食ってカレー味の鶏がいるのかと騒いで、骨で雑炊つくれってうるさい爺さんだった。

769: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:CCSEJzy50
昭和二年生まれの祖父は、戦争に行きたくないばかりに徴兵猶予があった
医学部へ行こうとしたが叶わず、結局薬学へ行った。戦後若い男が少ない時代
軍需工場で儲けた成金の家へ養子に来た。そこへ生まれたのが自分の母親だ
ところが昭和40年頃、母が高校から帰宅すると父親の姿が無く、家の誰に
尋ねても教えてくれず、祖母からは「二度と父のことは口にするな」と厳しく
言い渡されたらしい
結局大叔父が、事の次第を母に話したのは祖母の死後で、母は随分ショックを
受けたようで、幼かった自分にも、母の情緒不安定がひしひしと伝わってきた

若い頃から遊びが激しかった祖父が、赤線廃止後に梅毒に罹患し、それが祖母にも
感染していたのが原因だった。感染後数年が経ており、抗生物質での治療にも
限界があったようだ。祖母は母の将来を考え、梅毒持ちの夫を田舎に隔離し、家出を
装ったらしい。祖父は田舎で晴耕雨読に明け暮れ、村外へもめったに出なかったらしい
、祖母の死後は大叔父が経済的支援を続けたらしいが、祖父がいつ死んだか
墓が何処か、大叔父は最後まで話さなかったから、誰にも判らない
戸籍を調べたら失踪宣告(死亡)扱いになっていた

770: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:Q51Rkn6rO
昭和の始め、栃木の塩谷郡の地主だった祖父母の話。大不況で、東北から労働力として、少年が売られてきたそうだ。マジで人身売買!だがほとんどは逃げたってさ。今彼らはどうしてるんだろうとしみじみ思う。

778: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:jdr4lTiZ0
大叔母との他愛ない会話から・・・
戦前の関東の学生は、卒業旅行には関西旅行が定番だったらしい
三都 大阪・京都・奈良が主なコースだったと
神戸は?と尋ねたら、昭和40年代頃までは「神戸は怖い街」という
イメージがあって、旅行先にはなり得なかったと・・・

かつては日本女性を「香港へ売り飛ばす」などという品の無い冗談が
あったらしく、神戸がその「本拠地」などと冗談が重ねられていたらしい

神戸が観光の対象となってきたのは「大阪万博の頃」かららしい
各組織団体の努力が結実したものと思う

784: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:SwGWa+/f0
戦前の帝大医学部は、卒業するだけで医師として認められ、国家試験は
無かった
大叔父は国内の帝大医学部を卒業したが、その母方の従兄弟は台北帝大の
医学部を卒業した。しかし戦後日本の厚生省は「外地大学医学部出身者は
医師とは認めない」という政策を取った。それで戦後苦労した人は多く
大半は製薬会社や看護学校の教師になったらしいが、モグリの医者となった
人も多く、健康保険制度が充実した昭和30年代中盤までは「堕胎」や
「怪我を負った犯罪者」の治療を専門としていたらしい
中には「人助け」を目的にした人も居た。特に堕胎は「正式には認められない」
訳で、三業地には、そういった複数の医師が控えていたらしい

それと大叔父の話では、戦前の「外科の手術」は、タイル張りの手術室で
「高足駄=高下駄履き」で行ったと。帽子・マスク・ゴム前掛けは当たり前だが、ズボンは
自前だったとかで、体操用の綿のズボンを古着屋で買い、それを使ったと
言っていた。盛夏の手術は、患者だけではなく医師にも辛く、窓を開放して
(???)ゴム前掛けの下は「褌一本」だった事もあったと・・・万が一に
備え(各種感染症予防?)性器には「突撃一番=コ〇ドーム」を被せた事も
あったと・・・思うに梅毒を想定した事なのだろうが、三船敏郎主演の「静かなる
決闘」は、まんざら創作ではないものと思う

美容整形外科・精神神経科のDr意外には、畏敬の念を禁じえない

785: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:SwGWa+/f0
医師だった大叔父は、家が決めた女性とは結婚せず、妹の同級生だった
深川・木場の娘さんを嫁にもらった。自分は祖父とは縁が薄く、大叔父夫婦には
可愛がられ、子供の頃は大叔母の実家へも遊びに連れて行ってもらった

夏祭りに行くと若い衆と銭湯に行く事があり、彼らの刺青が珍しく
隅々まで観察し、小学校の夏休みの研究課題にしようとさえした
(母に止められ、実現はしなかった)

何人か目立たないところに「小さな金魚」を彫っている人間がいた
不思議でならなかったが、成長してからやっと「煮ても焼いても食えない男」
という意味だと知らされた

昭和30年代初頭「マンボズボン」が流行った頃大叔母が「不思議だ
流行は繰り返すんだわ」と言った。後で聞けば大叔母が子供の頃、木場の
若い衆達は「股引=ももひき」を穿いていたが、足に張り付くように
仕立てさせたそうで、脱ぎ穿きにも苦労するほど窮屈なものだったらしい

特に「廓」へ行く際は床屋と銭湯へ行き、体の隅々まで洗い。切りたての
晒木綿の下帯を身につけ、店の法被・細身の股引・小さめの雪駄に小さめの
紺足袋で行くのが決まりのスタイルだったらしい。木場の若い衆は女郎衆に
大層モテたようで、廓の人達に渡す祝儀等は、女郎衆が挙って「身銭を切って」
くれたらしい

そんな人たちも、大半は兵士として戦場で亡くなったらしい。自分が逢った
「若い衆」達も、事故で亡くなったり女性に刺されたり、借金が重なり
蒸発したりと、誰一人残ってはいない

お盆に「迎える人も居ない・帰る家も無い」霊は、どうされるのだろうか・・・

788: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:bLudG6Kn0
大叔父は車好きで、子供の頃は自宅近くを走る車の車種を当てるのが
自慢だったらしい
戦前の東京で最も高額だったのは、天皇家の御料車ロールスロイスだった
そうだが、その次に高額だったのは、アルゼンチン大使館のイスパノ・スイザ
だったらしい。英仏独米何れでもなくアルゼンチンというのが意外だったが
何かの本で読んだが、1930年頃の大西洋航路の客船で最も良い部屋を使い
金庫室を借り切る程のビジューを持ち込んでいたのは、アルゼンチン人だったと
そうだ

789: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:VZ4nwNHQ0
今では想像しにくいが、アルゼンチンは第一次大戦で欧州への穀物輸出で
ボロ儲けして、1920年代は1人当たりGNPで世界トップグループだった
当時の金持国家

ブエノスアイレスに行くと、コロン劇場とか
20世紀初頭の穀物バブルの名残の豪華な建物が所に残っている。

スペインの旧植民地で、本国との繋がりが強い國だから、
やっぱりイスパノ・スイザだろうな

791: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:VXgH4qVX0
お盆に集まった親戚達から、様々な話をを聞いた
①昭和20年代末の、JAL近距離国際線機内で提供された機内食は
コールドミートが主で、チキン・ハム・サーモン・シュリンプ等に
パン類が付いていただけだった。当時スチュワーデスだった大叔母は
「バットが4つくらいあって、それぞれ何種類かの料理が載っていて
一々長方形の皿に、お箸で盛り付けて配膳していた。面倒だった
太平洋線はホットミールだったが、オーブンの性能が悪く、生暖かい
中途半端な食事だった」と言っている

②同じく大叔母曰く「戦前は写真の修正などは当たり前だった。特に肌や黒子を
修正するのは必須だった。ネガに一々細かな筆で修正を加えていたらしい
戦死した兄の写真などは、眼まで修正されて凛々しい顔に修正された。評判が
良い写真屋さんは、修正が上手い技師さんがいるお店だった」

③同じく大叔母曰く「昭和30年代中盤、大阪市内から伊丹空港への交通が不便で
阪急電車に乗らない身分の人たちは自家用車を使っていたが、結構時間が
かかるので、一時中之島から伊丹空港へヘリコプターの定期便がが飛んでいた
一日何便かあったように思う。所要時間は15分か20分程度だったと思う
乗った事は無いが、お客様が「揺れて怖い」と仰っていたのを覚えている
高額だったせいもあり、1年程度で運行停止した。ヘリポートは、確かビルの
屋上にあったはず」と言っている

④大叔父曰く「初めて車を買った昭和30年当時は、国産車の新車は工場渡し価格での
契約で、運送費が別に掛かった。時計・ラジオ・ヒーターが付いていればOKだった
スペアタイアや工具も別料金だったと思う」と言っている

792: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:Sv/EEF1o0
閑話休題
* 現在は大学卒業者を「学士」というが、戦前は「帝国大学卒業者」のみを
  学士と称した

* 昭和40年頃までは、見合い結婚に際しては「お互いの健康診断書」の
  交換が「普通の事」だったらしい。それに加え女性は「純潔証明書」という
  文書を用意するのが「最高の準備」だったらしい
  純潔証明書が準備できないという理由で、破談になるケースも多かった
  らしい。これは戦前性病が蔓延し、徴兵に際しては必ず検査をされ
  入隊後に罹患した場合は治療はうけられるものの「不名誉除隊」となるのが
  通常で、そうなると「まともな結婚」は望めなかったらしい
  それが戦後派「野放し」となり、本当に性病が蔓延し、上記のような風習が
  できたらしい

* 女性の着物は、今でも「帯の絞め位置」で年齢の見当がつくが、昭和の初め
  頃の未婚の女性は「胸の膨らみを抑える」位置で帯を結ぶのが基本だったらしい
  大叔母曰く「昔の着方だと、着物を着てから足袋を履く事ができた。今は
  帯が位置的に下だし、足袋を履いてからでないと着物は着られない」という

* 大叔父曰く、昭和10年頃昼間の銀座を歩くと「物凄く五月蝿かった」と
  理由は「歩く人間の下駄の音がゴーッと地響きのような騒音だった」らしい
  草履を履く人もいただろうから、そんな事もなかろう・・・と思っていたら
  兵庫県城崎温泉で、夕食後の外湯巡りに出かけたら、各旅館から出てくる
  宿泊客の下駄のカラコロという音が本当に五月蝿く、大路の話は本当だと
  認識した  

794: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:hmWFSHiA0
大叔父の話・・・
大阪万博の頃までは、遠方・長期間の旅行には「郵便局の通帳と印鑑」を
持参する事が多かったらしい。都市圏では、やっとクレジットカードを
使える飲食店等がチラホラ見え始めた頃だとかで、その発行も基準が
ハードな為、とても一般人が持てるものではなかったらしい上、県庁所在地を
出たら「ただの樹脂製カード」になってしまうという「無用の長物」だった
らしい
その「郵便通帳」は、全国津々浦々での出金が可能で、上記の通り「旅行には
必需品」だったらしいが・・・オンラインが普及していない時代、通帳の印字が
何よりの証拠と考えられ、印影が合致すれば余程の高額・口座解約でもなければ
郵便局は払い出しに応じたらしい(ルール上は、基幹局に問い合わせる必要が
あったらしいが、残高に見合った引き出し額と判断されれば、そのままスルー
だったらしい)

そこで以下のような犯罪が大量に発生したとの事だ
*通帳の印字を、ボールペンで再現できるように訓練した人間が、偽名で
作った郵便局の通帳に、数回分の「入金」をボールペンで記載し、残高を
「数百万単位」に偽造した上で、田舎の郵便局で「その一部数十万から百万
程度」の払い出しを依頼する

払い出し依頼の記入用紙が「照合」されるまでには一週間程度はかかったようで
防犯カメラも無い時代、犯人のモンタージュも不完全なものになり、ほとんどは
逮捕されなかったらしい。その口座番号が「通達」で各郵便局に届くまでに
また数日必要で、届いた所で窓口で一々チエックはできなかったらしく、二度
三度と同じ口座番号が使われたらしい

あまりの詳しい話に大叔父が実行犯ではないか?と疑い問い質した所
幼馴染の家が開設していた特定局で「通達を見落とした出金」をしてしまい
その幼馴染が「自殺」してしまった事があったと・・・
どうも「賠償」が必要だったらしく、その債務と責任感に押し潰されたのでは
ないか?との事だ

ほんの50年程前の話らしい

795: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:hmWFSHiA0
大叔母の話
大叔母は「安物だけどお気に入り」を「グリコのおまけ」と表現する
昭和の初め木場の問屋に生まれた大叔母は、今でも「衣装道楽」で
先日も秘蔵の宮古上布を地味に着ていた

そんな大叔母の新婚時代、昭和30年頃の話だそうだが、新妻の嬉しさから
若奥様然とした衣装でデパートに出かけた時、エレベーターを降りて呉服売り場へ
行きかけた時、店員が驚いた顔で「奥様・・・帯が・・・」と素っ頓狂な声で
声をかけてきたと。大叔母は俯いて帯を見たら・・・

有るべき筈の「帯留」が無く、帯締めが2箇所切られ粘着テープのようなもので
止められていたらしい。想像するに「帯留」を押さえ両側を切り、それをテープで
止め、落ちる帯留を盗み去ったのではないかと思う

ところがその「帯留」は、大叔母が言う所の「グリコのおまけ」で、帯が大層気に入りの
昭和の初めの「本物の通風織」の帯とかで、戦後は技術が廃れた品物らしく
切られた補修に「江戸褄一枚分」かかったと言う
大叔母曰く「今でも悔しい。欲しいと言えばあげたのに!!!」と怖い顔をする
自分がつい「昔は、そんな名人級のスリが居たんだ・・・」と余計な事を言った為
貰える筈の物が貰えなくなってしまった。口は災いの元とは良く言ったものと
反省している

797: 名無しさん@お腹いっぱい。 ID:9rur1zQp0
高齢の皮膚科Drから聞いた話・・・
梅毒は皮膚科でも診察するが、江戸の昔は「瘡=かさ」と呼び
「瘡持ち=遊び人=瘡が怖くて遊べるか!!!」という状況だったらしい
梅毒はキスだけでも移る感染力が強い疾患だそうで、性交以外で罹患する
機会はそこそこあったらしい
「でも免疫があるのか、梅毒に罹患しない人間が居る」と
そうでなければ人類は「とうの昔に絶滅している」と言っていた

それと「淋病」を花柳界では「浜千鳥」と言ったと。それは「海見て鳴く
=膿見て泣く」の掛け言葉だそうだ

そのDrが初めて「バイリンギャル」という言葉を聞いたときには
「梅毒・淋病両方を罹患した女性」だと思ったと・・・

Drには是非長生きして欲しい


引用元: ・爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4







時には昔の話を
時には昔の話を
posted with amazlet at 15.11.27
宮崎 駿 加藤 登紀子
徳間書店
売り上げランキング: 424,598