ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

福島原発から考えるリスクの拡散と外部不経済

2011å¹´04月13æ—¥ | æ€è€ƒæ³•ãƒ»ç™ºæƒ³æ³•
福島原発事故のニュースや解説で使われている「リスク」という言葉に、何となくモヤモヤした気持ちがあって、それがうまく整理できているとは思えないのだけれど、ぼんやりと骨格が見えてきたので、ちょっと書いておこうと思う。

今回の福島原発事故に際して、直感的に原発はやっぱりダメだという人がいる一方で、現実を見たときにそれでも原発は必要なんだと考える人もいる。それはそれ。今日はそのことは問わない。

今日、書こうとしているのは「リスク」というものについてだ。

金融関係の人はもちろんだろうが、僕らSIerでもよく「リスクを分散する」という言い方をする。例えばあるシステムを構築する時に、このサーバがダウンするリスクがあるので冗長化しましょう、あるいはネットワークに障害が起こるリスクがあるので、バックアップ回線を用意しましょうといった具合に。

これは何かの「リスク」(ここでは障害)に対して、冗長化・分散化・代替手段を用意することで、障害が現実に発生してもシステムを維持する/サービスを提供し続けることを意味している。ここで注意しないといけないのは、「リスクを分散する」とはサービスを提供し続ける「可用性」を高めているのであって、「リスク(障害)」がなくなるわけではないということだ。

障害が発生するリスクが1%だとして、冗長化するということは、冗長化された部位が同時にダウンする確率を下げているに過ぎない。「n+1」重化されている場合であれば、同時にダウンする確率は0.01%となる。しかし実際には、1%の確率で障害が起きることには変わりない。

今回の原発の事故を通じて、「原子力発電所を特定のエリアに集中配置しているために「関東大停電」の危機にさらされた。今後は、原発を分散配置すべきだ」という意見が聞かれた。確かに「電力供給システム」の可用性をどのように維持するかという観点からはこうした意見は正しいのかもしれない。1ヵ所がダウンしても、他の拠点から供給され、計画停電は避けられるのだと。

しかし現実に「事故」の起きる可能性が変わらない。1機でも「事故」が起きればその影響は甚大だ。リスクが「分散」されたのではなく「拡散」されただけともいえるのだ。

もう1つ。

こうしたリスク分散、リスク対策には当然コストがかかる。1から10まで何でもかんでも対応するというわけにはいかない。企業からすると、リスクとそれがもたらす影響(損失や逸失利益など)を考慮した上で、どのリスクにどれだけの投資を行うか判断することになる。

このときのリスクがもたらす「影響」とは、しかし、一体どこまでを考慮すべきなのだろう。

ある企業の受発注システムがダウンしたとして、当然、その企業に損失は発生する。同時にその企業と取引のある企業も、代替品が見つからなければ、商売の機会を失うかもしれない。その企業だけが影響を受けるわけではなく、ビジネスの連鎖を通じて、最終的には消費者へも商品が届かないといったことだってあるだろう。

しかしこうした社会システム全体として発生するはずの被害や損失は、概念としては理解されるかもしれないが、投資判断の際には必ずしも考慮されない。資本主義というものが個人や法人の私的自由な追求の結果、均衡のとれた適正な状態に導かれるのだとしたら、彼らの考慮すべきものは彼ら自身の「損失」に他ならない。

では、企業が活動する上で対象外となっている「被害」や「損失」、社会システム全体に拡散された「負荷」というものは誰が考慮するのか。そうしたコストはどこに消えたのか。もちろん消えてしまったわけではない。経済活動の「外部」の問題として「無視」されているだけなのだ。これを「経済の外部性」の問題もしくは「外部不経済」の問題という。

ちょっとした事故であれば、例え自然が傷ついたとしてもいつの間にか元に戻っているかもしれない。しかし今回の原発事故では外部に転嫁されたコスト(損失)はあまりにも甚大だ。こうしたものを「千年に1度」の「想定外」のリスクだという言葉で片付けるわけにはいかないだろう。

「自由放任」という思想、私的自由の追求/自由な経済活動こそが効率的に調和された世界を実現するという思想は果たして、これからも許されるのだろうか。それとも新しいサスティナブルな世界を前提とした経済思想が生まれてくるのだろうか。

保険とリスク、ブラックスワン的社会が背負っているもの - ビールを飲みながら考えてみた…



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